∑考=人

そして今日も考える。

面倒を取るか退屈を取るか

新しい物事を始める。新しい仕事を始める。新しい環境へ移る。新しい人間関係を構築する。これらは基本的に面倒であり、苦労を伴うことである。そして、人間というのは元来面倒くさいことが嫌いな生き物だ。だから、慣れ親しんだ習慣、慣れ親しんだ仕事、慣れ親しんだ人間関係の中でルーティンを送ることになる。

 

ただ、こういった生活には実は大きな欠点がある。人生がすごく退屈なものになってしまう、ということだ。

 

大人になって自分のことを理解し始めると、自分が何が好きで何が嫌いなのかがなんとなくわかるようになる。そうなると、自分の行動パターンを固定化しがちである。そして、自分に合った生活や習慣を続けていくことこそが幸せな人生だと考える。実に理にかなった考え方だと私も思う。

 

しかし、実際はそうではない、人間の気持ちや考えは絶えず変化していくからだ。例えば、私は漫才の動画を見るのが好きである。しかし、今では好きな漫才師のネタを見ても笑うことはない。一種の心地良さはあるけれど、初めて見た時のインパクトや面白みを今感じることは全くないと言ってもいい。慣れたが故に面白くなくなってきているのだ。

 

一人暮らし、というのもそうだ。実家暮らしが嫌で仕方がなかった大学生の私が初めて一人暮らしを始めた時はまさにそこが天国のように感じた。自分の好きなことを好きな時間にやることができる上、誰にも邪魔されない静かな空間がそこにはあったからだ。翻って、今はどうかというと、退屈でしかない。逆にそういった自由が自制心を妨げて、自分をより一層怠惰にしていることを心配するほどだ。

 

仕事というのもきっとそうだ。新人の頃は毎日が覚えることだらけで、大変ではあったが、正直なところ面白かった。設計や試験もそうだし、ツールを作ったりするのもそうだ。だから、そういうことが好きだと錯覚したこともあった。でも本質はそうではなく、できなかったことができるようになったのが面白かったのだ。

 

つくづく、人間とは飽きる生き物だと思う。

 

ただし、こういった生活を打破するのは結構少し難しい。というのも、慣れ親しんだ物事というのは退屈ではあるが、非常に楽だからだ。楽な人生を選ぶ人たちを今まで何度も見てきたし、楽であることを推奨してくる人も多い。かくいう私も若い頃に比べると、はるかに楽であることの重要性を感じるようにはなってきていると思う。

 

しかし、やはり限度というものはある。変化を嫌うのが人間であっても、退屈も同じくらい、もしくはそれ以上に嫌いなのが人間なのだ。私の友人にも仕事が嫌で仕方なく退職したのに、退職したら暇になったから復帰した、という人もいる。「自由からの逃走」で述べられているように、人は退屈に絶えられなくなると自由を放棄することさえあるのだ。

 

私はこの、「退屈」という感情はセンサーとしてすごく重要だと考えている。というのも、私が今までの人生で自分の環境を変える原動力になっていた大元の感情が退屈だからである。現実逃避っぽくて、あまり、聞こえのいい話ではないかもしれない。確かに、夢や希望を追いかけて一歩を踏み出す方がはるかにかっこいいだろう。しかし、どういう理屈で行動を変えたかよりも、実際に行動を変えたかどうかの方が人生に影響を与えることは多い。

 

一般的な話として、これからはますます、変化を強いられる時代になっていく。これまでの人生は学生として勉強した後、社会人になり終身雇用で一つの会社に尽くし、引退後の余暇を楽しみ人生を終える、というのが標準的なスタイルだった。

 

しかしながら、高齢化社会が進み、我々ぐらいの世代は平均寿命が100歳に差し掛かるとも言われている。当然日本を取り巻く年金不払のリスクはある(というかもらえない可能性が圧倒的に高い)ため、何歳まで労働生活を強いられるかもわからない。つまり、労働人としての人生が長くなることを意味する。

 

それに加え、近年はテクノロジーの変化がこれまでにないほど著しい。特に、AI、人工知能の出現は、これまでの雇用のあり方をがらっと変えるだろう。将来的に49%の仕事が人工知能に代替されるとも言われている。割合以上に危機意識を持つべきなのは、これまで高い専門性を発揮することで成立していた仕事(医者や弁護士など)が代替されうる、ということだ。

 

エンジニアも同じである。ただコーディングが得意です、なんてプログラマーはすぐに淘汰されるだろう。これまでのプログラムの歴史を考えてみてもわかる。扱いにくいアセンブラ言語はC言語にとって変わられ、よりわかりやすいスクリプト言語Java言語などに置き換えられた。さらに、いくつものフレームワークやライブラリが登場したことで高い専門性がある部分はラッピング、簡略化されていく流れが続いている。

 

インフラ系についても同様だ。クラウドコンピューティングの登場で、サーバを構築するスキルも、ネットワークを構築するスキルもかなり簡略化されてきている。要するに、専門性は必要だが、ある程度パターン化されているスキルや知識というのはどんどん簡略化されていくのが世の流れであったし、人工知能はそれらを完全に奪ってしまう可能性があるということだ。

 

よって、時間をかけて何らかの専門家になれば、人生安泰という時代は終わったと考えた方がいいだろう。昔であれば、学生時代に頑張っていい大学に入って、いい会社に入れば、その後は会社の中で学ぶだけで十分だった。しかし、今は大人になってからも新しいことを学び、新しい知識やスキルを身に付けなければならない、ということだ。今の会社でやっている仕事が将来的に必要とされる可能性も低いし、そもそも会社が残り続けるかさえわからない。

 

以上を考慮するのであれば、面倒を取ることを厭わないことが大切であることが論理的にはわかるだろう。しかし、冒頭で述べたように面倒事をなるべく避けたいのが人間だ。だからこそ、退屈と天秤にかけるべきである。これまでの時代は退屈を無難で手軽なコンテンツで暇つぶしをすれば、将来は保証されていた。しかし、今は違う。退屈に絶えられないと感じたら即刻で動くべきだ。

 

面倒を取るか退屈を取るか。私は常に自問している。