∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

自分への憤りを抱きやすい社会になったのかもしれない

働き方改革推進のきっかけとなったのは、私の記憶する限り、電通社員の自殺だ。東大卒の女性だったということ、大企業だったということ、それらの要素がより今の時代の働き方がこれで良いのか?という問いかけを社会に対して与えることになったのだろう。

 

なぜ自殺にまで至ってしまったのか、という原因分析の中で、長時間労働が常態化していることが判明したのだろう。確かに長時間労働というのは問題である。しかし、敢えていうならば、彼女が自殺したことの原因は少しそれとは違うのではないかと個人的には思っている。

 

別に同じくらい残業しているけれど、自分は問題ではない、と感じている人だって山ほどいるはずだ。昔はそのぐらい働くのが当たり前だった、という話を聞くのも日常茶飯事だ。つまり、反例などはいくらでもある。

 

また、働き過ぎやブラック企業が問題になると、他人から見ると、辞めれば良いのでは?という話にもなる。実際、逃げてもいいんだ、という趣旨の本を書店でもよく見かける。責任感が強い人が自殺しやすい、みたいな結論に落ち着きやすい。でも就活では責任感ある人求めるという矛盾もあったり。

 

私は、責任感というよりも、「自分への憤り」という言葉の方が正確なのではないかと思う。すなわち、長時間働くことによる疲弊、ではなく、長時間働いても結果を出せないという自己の拒絶が原因ではなかろうかと。

 

今の仕事は昔に比べるとずっと高度化・専門化している。定型的な仕事は逐次システムに置き換えられ、海外にアウトソースされ、より創造的な仕事の割合が増えているのだ。これはホワイトカラーの仕事に顕著である。

 

昔、経済成長時期であれば、たくさん働けば、努力量にある程度比例して成果が出やすかったのではないだろうか。結果的に評価もされたし、多くの人が年功序列で昇進できた。既存のものをベースに改善を重ねるスタイルが通用した時代だ。

 

しかい、昨今の正解のない仕事というのはなかなか努力が報われにくい。学校のお勉強的な教科書はないし、時と場合によって正解不正解も変化する。こういったことを理解するにはどうしても経験が必要になる。また、どれだけ頑張っても報われない、自分の進化を感じられない時期が必ずある。最悪の場合、いつまでたっても芽が開かない場合だってある。昔に比べればはるかに自分に対する憤りを感じやすいはずだ。

 

私も自分に対して憤ることはよくある。ただ、私の場合、「何事も努力をすればうまくいく」とは一切思っていない。また、社会に対する成果とかはどうでもいいと思っている。なので、頑張ってダメだったり、これ以上頑張りたくなくなってもう限界だと判断したら、別のことをやると思う。こんな風に考えていると、なぜかほとんどのことは耐えれてしまうのだが。

 

逆に「何事も努力をすればうまくいく」という考えがあると、努力してうまくいかないと心が折れてしまう。逃げてもいいと言われたって、逃げた先で努力をしてもうまくいかないことへの不安や恐怖がつきまとう。「社会貢献」を義務として考えてしまうと、逃げ出したって、自分が成果を出せるフィールドがないと思えば、社会への逃げ場はないも同然だと考えてしまう。

 

自分への憤りを抱きやすい社会ではあるけれど、そんな社会だからこそ、柔軟に気楽に考えて生きていけば少し楽になるんではないか。