∑考=人

そして今日も考える。

両面性を持つ人たち

たまーにツイッターとかを見ると、未だにツイートをしている昔の友人たちがいることに驚いたりする。こんなの何のためにやってんねん、とかいつまでやっとんねん、みたいに思うこともあった。

 

でも、実は未だにツイッターを続けている人って、たぶん思考能力の高い人なんじゃないかなー、というのが私の仮説だったりする。正確に言うと、オフィシャルな場で生きる時の自分と、プライベートな場の自分が乖離している人たちが多いんじゃないかな、と感じたりする。

 

というのも、もはやほとんどのツイートには、返信もリツイートもついていないわけで。SNSと言えばコミュニケーションツールというイメージがあるけれど、ほとんどコミュニケーションは成立してないわけで。今、コミュニケーションツールなんてLINE使っとけばいいわけで。

 

ということから考えるに、彼らはおそらく、誰かにそのツイートを見てもらうことを期待しているわけでもなく、ただ自分の思考の軌跡を残しておく、という感覚に近いのだ。なぜ、そんなことをするのかというと、人間は本能的に自分が生きた証を何かしらの形で残したいと思っているからだ。

 

もちろん、自分が考えたことを残したいとか、そういう本能は全ての人に宿っていると私は思っているんだけど、自分の考え方や関心のポイントが社会とある程度一致している人はオフィシャルな場である程度発信できたり共感されたりする機会が多いので、そういう欲求が満たされる。よってわざわざ別に文字にして起こしておく必要がなくなる、というか。

 

で、社会とある程度一致できる人って、思考をあまり働かせなくてもできる浅い会話だったり、すごく一般的に受け入れられやすい話題で頭の中がいっぱいな人、とかあるいはすごく狭い世界の中で生きていて他に関心のない人、と私は思っている。彼らは知識はあるかもしれないけど、思考力はそんなにない。

 

逆に、思考力が一般に比べて高いと、自分の思考を吐き出す先がなくなってしまう時がある。だから、人にぶつけるのではなく、データとしてプラットフォーム上に残す、と言う行動を継続する人は思考力が高い、というのが私の論理。

 

闇雲にツイートする人たちをディスの視点で見ていたけれど、実は私がブログを書いているのと本質的にはほとんど変わらない。

 

では、私がツイッターで自己発信をするではなく、ブログを書くのはなぜなのか、というとやっぱり匿名性みたいなところ。例えば、フェイスブックとかにひたすら自分の考を投稿する人とかもいるんだけれど、あーいう人は昔の自分っぽくて好きになれないというか笑。「あいつ何かイタイよな」みたいに思われながら生きるのはまだしんどいと考えているんで。

 

あとは、別の側面の自分をオフィシャルにぶつけた時に、実は自分の共感者が友人の中にいて、より良い人間関係みたいなものを構築できる可能性は確かにあるんだけれど、そういう「ブログ」の私だけで共感されるのはそれはそれで困ったりもする。例えばだけど、一緒にパチンコ行ったりできないだろうし。

 

私は常に両面性を持つことは結構意識していて。つまる話がブログに書いている私が私を構成する100%の私ではないわけで。語弊はあるかもしれないけど、二重人格みたいなもの。関西弁でバカな事を考えたりしょーもないことをする私はこのブログにはほとんど登場することはないし、思考力を働かせて標準語で考えたり書くことは、仕事の時とブログ書く時ぐらい。どっちが本当の自分なのか、という論議にあんまり意味はない。

 

要は、人間誰しも色んな面を持って生きているってことで、その乖離が大きい人ほど、ネットに発信するんじゃないかなーという話。