∑考=人

そして今日も考える。

コンテンツ力

画家、歌手、奏者、小説家など。手段は違えど、これらの職種は表現者にカテゴライズされる。こうしてブログを書いている私も表現者の端くれである。

 

 

 

表現者は二つが揃って初めて人に認められるものだ。一つは表現方法のスキルだ。例えば、絵が上手くないと画家にはなれないし、歌が上手くないと歌手にはなれない。表現方法としてのスキルがないと伝えることができないからだ。表現力というのも、一部は表現方法のスキルと捉えてもいいと思う。

 

 

 

二つ目は魂、情熱のような感性的なものである。コンテンツ力とでも言っておこう。歌スタなどの番組では、歌はめちゃくちゃ上手いのに、何か伝わってくるものがないといった理由で落とされる人がいる。表現力が足りないという良い方をされることが多いが、その作品にコンテンツとしての魅力がない、というわけだ。少なくともプロとして活動するならこの二つの力は外せないだろう。

 

 

 

そして、どちらがより大事かと言えば、コンテンツ力の方である。私が昔よく聞いていたインディーズバンドのボーカルの中には、まぁ下手ではないけど、ぐらいの歌唱力でも人気を集めているグループが多数存在した。コンテンツとしての魅力があれば、売れるのである。偏差値が75でも仕事ができない人よりも偏差値55で仕事ができる人の方がビジネスの場では圧倒的に評価されるのと同じである。

 

 

 

しかし、コンテンツ力とは一体どうやって身につければいいのだろうか。結論から言うと、コンテンツ力は実に曖昧な力であり、それ自体も定義が難しい。コンテンツ力を感性力と考えるなら、感性を磨くために良い作品に触れる、などの方法が挙げられるが、そもそも「良い作品」の定義って何なのか。

 

 

一つの良い作品の例として、ピカソの絵画がある。だが、私には到底理解できない。本来なら、絵が素晴らしいからピカソがこれほど有名になったはずなのだ。しかし、今や「ピカソ」が有名になりすぎたため、ピカソが書いた絵だから素晴らしいものである、という風に解釈の順序が逆転しているように思う。実はデタラメな絵に見えてデッサンの基礎に忠実である、といった説もあるが、デッサンの基本を踏襲していることと、作品自体が素晴らしいことには何の因果関係もない。何を表現したいのかもよくわからない。多くの人がそうじゃないかと思う。

 

 

 

絵画というものは感性のある人にしか理解できないものの代名詞だが、そもそもそんなごくわずかな人にしか伝わらないのなら、それは果たして崇高な感性と本当に言えるのだろうか。そんな一部の人にしか伝わらないものにコンテンツ力があると言えるのだろうか。一部の人にしか伝わらないからこそ価値があるという考え方には賛成だ。しかし、悪い良い方をすれば、ブスが可愛く見えるB専と同じである。

 

 

 

ブログで考えても同様のことが言える。良いブログの定義を考えた時に、アクセス数の高さで評価してしまうと、しょこたんなど芸能人のブログが当てはまることになる。先ほどと同じ論理で、人気のある芸能人のブログだから面白い、という価値観に基づいているはずだ。もはや、多くの読者は面白さを求めているわけではないのかもしれない。これが果たしてコンテンツ力と呼べるだろうか。

 

 

 

コンテンツ力を「作品として面白いものを作る力」と定義するなら、人気の作品を作る人が必ずしもコンテンツ力を備えているとは限らない。ただし、ただ単に「面白いものを作る力」と定義すれば、コンテンツ力を備えていることになる。作品自体に欠陥があっても自分自身の立場、特性、強みを含めて面白ければいいのだ。ただのアイドルよりも東大卒のアイドルの方が注目を浴びるのは自然の摂理である。

 

 

 

自身のプライドと密接に関わってくる問題ではあるが、自分が表現したい何かを誰かに伝えたいと考えるならば、こういった戦略も時には有効だ。