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そして今日も考える。

オリジナルな課題設定

長い間勉学に励んできた人は程度の差はあれ、課題達成能力は高い。たくさん勉強してきた人は色んな考え方を知っているし、色んな学び方を知っているし、どんな方法が自分に合っているか、というところまではたいてい知っているものだからだ。

 

高学歴だから課題をやり遂げられる力がある、というよりは、課題をやり遂げる力があったから高学歴になった、といった方が因果関係としては正しい。高学歴の人達は、目標さえ決まれば、実現できるかどうかはわからないにしろ、ベストな取り組みをすることはできる。

 

しかし、課題設定能力についてはどうだろうか。自分で課題を設定できる人がどれくらいいるだろうか。いや、もちろん、自主的に課題を設定したことくらいはある、という人がほとんどだろう。別に誰から強制されるわけでもなく、ただ自分の向上のために課題を設定する人は高学歴には多い。

 

でも、その課題はいったいどんなものだったのか考えてみて欲しい。資格の取得?バイトリーダーになること?成績で秀を複数個取ること?サークルの部長になること?世界を一週回ること?株式会社○○から内定を勝ち取ること?だいたいこんな感じの課題ではないだろうか。

 

自主的にこういったことを実行できる人は、そうでない人に比べれば、確かに課題設定能力はあるのかもしれない。でも、これは課題設定ではない。そこらへんに転がっている課題を見つけてきただけである。課題選択、あるいは課題収集能力である。私自身の人生を振り返ってみても、自分で設定した課題はこの範疇に収まる。何とも汎用的で、自分用にカスタマイズされた課題ではない。

 

正直言うと、この能力があれば、優秀な社員になることは可能だと思う。しばしば、高学歴でも自分で考えられない人はダメだという意見も耳にするが、それは課題選択すらできない人に対する苦言であろう。

 

確かに、社会人は学生時代に与えられた課題ほど明確ではないのかもしれない。しかし、「売上20%UP」とか「新規案件を5件受注」など、それなりに具体性を伴った課題は与えられるはずだ。それもそのはずで、社員に求められるのは、1を100にする能力である。一人で1を10に出来る人や、1を100にするために多くの人を動かす力を持っていれば評価されると思う。要するに、0から課題を設定する能力は社員には必須の力ではない。

 

だとしても、やはり課題を設定する力というのは、全ての人間に必要だと私は思う。なぜかというと、自分が本当にやりたいことを具現化できないからである。

 

周囲から与えられる課題は常に「頂上こそが最も良い」という思考に基づく。学生のうちは顕著だ。ひたすら1番になることを求められる。勉学ではより良い得点を取ることが皆に対して求められるし、スポーツでも可能ならば全ての対戦相手の勝つことを求められる。

 

社会も基本的には同じ原理だろう。世界で一位を目指すと明確には言わずとも、売上○○%を目指すといった目標は、少なくともトップに向かうという目的があって、そこに向かうための一歩としての目標である。

 

社会に転がっている課題は少し異なるが、それでも一般的に成功を匂わせるイメージのあるものに集中している気がする。独立、起業、ノマド外資系、自営業、コンサル、など。資格の取得も、ないよりはある方がいいという思想に基づく。そこには、自分で見出したと言えるほどのオリジナリティはない。

 

別にオリジナリティがないといけないというわけではない。そんな漠然としたものを課題に設定することが悪いというわけでもない。ただそこには、課題を達成したとしても、結局何も満たされないのではないか、という懸念が存在する。いつまでも課題は具体化し続けないといけないのであろう。

 

目の前に山があったら頂上を目指すというのは普遍的なの人の発想だ。そうではなく、目の前に山があったら、そこで迷わず、ゴミを拾ったり、綺麗な花を探したりできる人こそ、自分にとって正しい課題設定ができている人ではないだろうか。