∑考=人

そして今日も考える。

1次情報なんて要らない

今日は東京まで物件の内覧に行ってきました。5件ほど回りましたが、中々面白かったです。日帰りということもあり疲れました。でも最終的には割と良い物件が選べたので良かったと思います。

 

ちなみに京都に引っ越してきたときは、1件しか見学しませんでした。今住んでいる家です。元々は見学すらせずに決めるつもりですが、友人たちからあまりに反対されたので、やもなく、といった感じです。確かに、2次情報だけで判断するのは愚か者だとも言われます。

 

ただ、どんな場合にも2次情報より1次情報が優れている、という考え方には私は賛同できませんでした。そのため、2次情報だけで選択した1件だけを確認のために見学しただけで、即決しました。しかし、2次情報で優位性のあるものが、1次情報でも優位性を保てるかどうか、については、前回の見学では調べていなかったんですね。そんな心残りを払拭するためにも、今回は2次情報での判断と、1次情報の判断が合致するかどうかの確認も含めて少し多めに物件を見学した次第です。

 

全体を見た感想としてすごく狭いと感じました。覚悟はしていたんですけどね。まず大前提として、京都と東京では同じ「一畳」でも大きさが違うんです。事前調査では、おおよそ、京都の6畳分が東京の7畳分だそうです。しかもやっかいなことに今住んでいる家が8.7畳と比較的広い。東京用に換算すると、8.7×7/6=10.15畳で、今と同じ広さということになります。結局最終的に選んだ物件が1番広かったのですが、それでも7.9畳なので、今と比べるとかなり狭くなっているんです。これは実際に見に行かなければわからないことです。

 

つまり、数値はわかっても、その数値に対して自分がどういった感情を持ちうるのか、ということについては1次情報が必要であることがわかります。築年数が新しくても、綺麗と感じるかは別問題ですし、写真から伝わってくるイメージからは伝わらない雰囲気のようなものがあったのも事実です。その物件の詳細な立地条件なんかも、やはり1次情報からでないと伝わってこないでしょう。

 

しかし、結論から言うと、私が2次情報だけ事前に決めていた物件ランキングと、1次情報を見た上で決めた物件ランキングは一致しました。この結果からは、1次情報は不要だった、ということになります。そんなことは言いつつも、見学自体は色んな発見があって面白いものでした。目の前に高速道路が走っていたとか、実は鍵がカードキーだったとか、網膜認証でしかマンション内に入れないものまでありました。今日見に行った全ての物件がオートロックを完備していたことにも正直驚きました。でも、これらは娯楽みたいなものです。選択基準には一切関与しません。

 

実は何もかもに対して1次情報が必要なわけではないんですね。ではどういった場合に1次情報が不要なのか。それを明確に分けるのはズバリ「判断」か「選択」かの違いです。

 

選択するかしないかも含めて判断する場合、必ず1次情報が必要になると私は思います。前述のとおり、数値に対して自分がどういった感情を持ちうるか、自分の感覚としての最低基準をその数値が満たしているかどうかについてはやはり現物を見て確認する必要があるからです。

 

しかし、選択することが前提である場合、必ずしも1次情報は必要ではありません。例えば、物件選びの場合、「住まない」という選択は(少なくとも私にとっては)ありえない選択肢でした。なので、全ての選択肢が望まないものであっても、一番マシなものを選ばなければならないし、それが最も良い選択となるのです。

 

この場合、数値に対してどういった感情を持つかを考えることは無意味に等しくなります。例えば、7畳が思っていたより狭かったことがわかったとしても、6畳よりは広いという事実は覆ることがありません。なので広い家に住みたいと考えていれば、実物を確認しようが確認しまいが、7畳の方が広いことは明らかなので、7畳の物件を選ぶのが合理的になるのです。

 

特に、私の場合は、広さと駅からの距離が最も重要な選択基準なので数値に落とし込むことが簡単だったのもあるでしょう。「なんとなくいい感じの物件がいい」といった抽象的な選択軸しか持たないのなら、1次情報を確認するべきです。ですが、具体的な数値に落とし込める軸があるなら2次情報だけでも十分に合理的な選択はできます。時間を有効に活用したいなら、安易に1次情報信者にならず、本当に必要なのかどうか、検討してみてもいいんじゃないですか。

 

自己矛盾してますが、物件見学はそれだけで面白いので、選択のためとは思わず、一種の経験として推奨したいと思います。