「脱社畜の働き方」に引き続き。前作とほぼ同様の内容。
あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。
- 作者: 日野瑛太郎
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2014/01/10
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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前作から思っていたが、「もしかしてみんなやりがいとか要らないのか?」そんな疑問を感じた。私はやりがい推奨派だ。別に仕事でやりがいを得る必要はなくともやりがいはいると思っている。やりがいは生きがいだし、生きがいがなければ生きている意味はない。そう思っている。
でも、やりがいという言葉は実に抽象的だ。ある人にとってはやりがいではなくとも、別の誰かにとっては非常にやりがいがある、ということもある。例えば、毎日パチンコに通うだけの老人を見ていて、私はなんてやりがいのない生活を飽きずに続けられるな、と感じるが、当の本人たちからすると、毎日がやりがいに満ちているのかもしれない。
ゲームもそうだ。RPGゲームが大好きな人は、ボスを倒したときの達成感ややりがいがあるのだろう。別に、大きな責任感や社会貢献に繋がるかどうかがやりがいを感じる必須条件ではないのかもしれない。
私などは手軽に手に入るものを手に入れたところで大したやりがいは感じないのだが、そういうものにやりがいを見いだせる人もいる。あるいはそもそも毎日ただ生きるだけでやりがいを感じている人もいるのかもしれない。そう考えると、手軽なものに価値を見いだせない私は愚かなのかもしれない。
だとすれば、挑戦することの価値を説いたり、努力することの価値を説いたりすることは、そういった人達にとっては必ずしもプラスではない、ということになる。ボタンを押すだけでレベルが上がってやりがいを感じることができる人に、わざわざ努力に時間を費やさせるというのは、相手にとって迷惑ですらある。「そんな面倒くさいことしなくても楽しいよ、やりがいあるよ」と。
じゃあ、そういった人たちに対してどんなアクションを取るべきなのだろう。いや、もうすでに人生に満足しているのだから、何もすることはない、ということになる。いくら可哀想な存在に見えたとしても、それはこちらの傲慢な発想だとすれば、何も言うべきではないし、何も言えない。
私たちはずっと社会を豊かにしようと頑張っているわけだが、一体それって誰のためなんだろう。科学の進歩も社会貢献も本当に社会全体のためになっているんだろうか。