∑考=人

そして今日も考える。

ちきりんの教育議論が中々面白い

ちきりんが教育についての意見を公開していました。→下から7割の人のための理科&算数教育 - Chikirinの日記 私なりに要点をまとめると、ちきりんの主張は、

  1. 小学校以上の高度な理系科目は人生で役に立たない
  2. 理系科目ができる人だけ教える内容をどんどん高度化するべき
  3. 理系科目ができない人には理論より実用的なことを教えるべき

1だから2,3だという主張です。この主張の本質は、「強みにフォーカスし、弱みを切り捨てるフェーズを早めるべきだ」というものです。現状、日本の教育では、高校2年生ぐらいまでは文系理系構わず全10科目以上を問答無用で学ばされます。

 

反対意見についてのエントリが人気なようなのでこちらも載せておきます。→ちきりん氏のお粗末な科学教育論 - バッタもん日記 こちらについても私なりに要約すると、

  1. 子供の頃の勉強はいつ役に立つかわからない(役に立つ可能性がある)
  2. 子供の適性はその時点では判断できない(大人になれば変わる可能性もある)
  3. 思考力の低下を招くので実用的なことを教えるべきではない

まとめると、「早いうちから子供の視野を狭めてはいけない」といったところでしょうか。ちなみに私が1番驚いたのは、アンチちきりんがこんなにたくさんいたのか!ということでした笑(コメント欄でかなりバッシングされてる)。まぁ当然ながらどちらの意見にも一理ありますよね。

 

私はこの二つのエントリを読んで、どうも論点が噛み合っていないなと感じました(たぶん、ちきりんは議論する気もないんでしょうが)。ちきりんが子供の時点で視野を狭めた方がいいと主張する背景には、可能性に縛られて最適な選択ができない人が多いという考察があるのだと思います。そして、人生が有限であることを踏まえて、無限の可能性を追い求めて何もできないくらいなら、可能性を狭めた方が個人個人にとって良い選択ができるのではないか、という思想が伺えます。

 

さらに、可能性を追求し、視野を広げる教育を受けても、下位7割の人は視野は広がっておらず、何の可能性も実現できていない、という認識があるのかもしれません。だからこそ、可能性という言葉に惑わされず、損切りを確定させてしまった方が最適な選択ができる個人は増えるのではないか、と考えたのでしょう。

 

バッタもん日記の筆者は、内容はしっかりしていると感じましたが、「可能性を狭めるからダメ」で終わってしまっているのが残念です。可能性を狭めることは必ずしも悪いことではありません。むしろ何かを成すためには必須事項です。可能性を捨てることによってのみ、別の可能性が開花する確率が上がります。

 

とは言え、可能性を狭めるフェースとして、早すぎるのではないか?というのはごもっともです。私は小学校のとき、国語という科目が大嫌いでした。でも今は日常的に本を読むし、文章を好んで書きます。でもそれが自分の性に合っていると気づけたのは大学時代になってからです。もし、子供の頃に国語を嫌々ながらも勉強させられていなかったら今の可能性は潰れてしまっていたかもしれません。

 

でも、ここで問題になるのは、私が上位3割の人だったからではないのか?という懸念です。私の場合、子供の頃に取り組んだ幅広いことは、何かしらの形で自分の頭に蓄積することができていたのだと思います。だから、大学時代になってその適正に気づいても、当時蓄積したものが役に立ったのです。

 

しかし、下位7割の人はどうなんでしょう。少なくとも、幅広い勉強に対して自主的に取り組める人と、強要されたから嫌々取り組める人では知識の吸収力が全く異なります。すると、上位3割の人は昔の知識を役立てることができる反面、下位7割の人は同じように幅広い勉強をしているにも関わらず、ほとんど役に立てることができていません。

 

でも、ちきりんの言う下位7割の人達はそのことにすら気づかないんです。個人的には下位7割ではなく、真ん中の4割ぐらいの人だと思ってます。というのも、下位3割ぐらいの人達は、かなり早い段階で勉強という義務を完全に放棄して別の道を見つけているからです。そして、将来的に彼らは、もっと勉強しておけば良かったと思うか、勉強しなくても特に問題なかったと思うかのどちらかです。彼らは自分の気持ちに素直になれているのでその後の人生を納得いくようにできると私は考えています。しかし、嫌々ながらも中途半端に勉強を頑張った人が1番の被害者です。彼らに関しては、自分の勉強が役に立ったと思わずにはいられない心理が働きます認知的不協和の解消です。

 

簡単な例を挙げましょう。あるクラスで試験が行われました。下位3割の人はテスト前の一週間、全く勉強しなかったので、ほとんどの人が30点以下の点数でした。その点数について彼ら自身がどう解釈するかというと、勉強してないのだからしょうがない、あるいはもっと勉強すれば良かった、と思います。

 

しかし、中位4割の人の中には、テスト前の一週間、一生懸命勉強したにも関わらず、中位に収まってしまう人が少なからず含まれます。そして、平均点を超えた人達は、一生懸命やったからこれだけの点数が取れた、と解釈します。もちろん、一生懸命やったのにダメだったと考える人もいるでしょう。ここで諦めた人は後々下位3割に入っていきます。ここで、次はもっと頑張ろうと考えた人がどうなるかというと大抵の場合、次も中位のままです

 

もちろん、希望がないわけではありません。最後まで諦めない人の1割ぐらいが上位3割に食い込むでしょう。しかし、最後まで諦めない人の残りの9割がどうなるかというとずっと中位のままです。そして、結局、自分は頑張ったからこれだけの点数が取れたという解釈に落ち着きます。というか、そういった自己肯定感がない限り頑張り続けるのは精神的につらいものです。

 

で、そのような人たちを見ると、上位3割の人たちは、中位4割の人を哀れに思います(失礼な話ですが)。なぜなら、上位3割の人はたった3日間の勉強で、当たり前のように90点以上の点数を取ります。これがおそらく才能とか適正といったものの壁です。中位の人たちは、上位に行く人ほどたくさん努力しているという解釈を拭えないようですが、実際に上位にいる人たちほど、たくさんの時間を要するわけではないのです。

 

だから、上位3割の人からすると、「自分の一週間の努力は役に立った」という人を見ると、「え、どこが?」と思ってしまうわけです。そして、「別の道で努力すればもっと役に立ったはずなのに」とも思います。しかし、中位4割の人はというと、ずっと諦めずに上位に食い込める1割になる方法を探しているんです。自分に適性がない分野にも関わらず、です。

 

個人として、その1割を目指すのは実にかっこいいと思いますし、尊敬もします。でも社会全体として、このような教育システムを推奨してしまうと、中位の9割の敗者が必ず生まれてしまうんですね。だったら、そんな小さな可能性に向かって全員に努力させようとするのは正しい教育のあり方なのだろうか、と思います。

 

でも、これは他者から見た憶測に過ぎません。上位の人(ちきりん)が中位の人を可哀想だと考えているように、中位の人にとっては上位の人(ちきりん)が可哀想だという解釈もできるのです。数学や理科の勉強は要らなかったと唱えるちきりんに対して、「学校以降に教わった数学や理科が全く役に立っていないのではなく、役にたてなくても済む人生しかおくれず、不利益を被っている」という意見がありました。これも他人から見た憶測です。

 

ちきりんはビジネスマインドの持ち主であり、結果主義者なので、努力することに意味があるとは思えないタイプでしょう(特に好きでもないことなら尚更)。そして、成果を出している自分に満足しているのだろうと思います。しかし、中位の人たちは、努力することがいかに辛くても、何の成果も出なくても、その努力に対して意義を感じているのかもしれません。あるいは、たとえ心理的な作用であっても、小さな成果を自分の中では大きな成果として捉えて満足している、という見方もできます。

 

ならば、上位3割から見ると、不利益を被っているように見えても、当の本人でる中位4割の人たちがそのことを全く問題視していない、ということになります。それは同時に、今の教育制度に問題がないという話にも繋がってしまいます。もちろん、本当に中位の人たちが心からそう思っているのなら、ですが、人間は虚言や強がりを駆使することで本音と建前を使い分ける生き物なので、それを確かめる術はありません。

 

結局のところ、人は皆平等の幻想を潰してでも成果を出せる人たちをたくさん輩出したい(成果を出すことこそが幸せ)、というのがちきりんの教育論の根本にある価値観であり、別に成果なんて出さなくても皆平等で平凡な日常を満足して送れればそれでいいじゃないか(平凡こそが幸せ)、というのがバッタもん日記の筆者の価値観の違いが如実に現れた議論だったのでしょう。そして、大多数が平凡を望んでいるから、社会の構造は何も変わらない、というだけの話です。長文疲れたのでこの辺で。