∑考=人

そして今日も考える。

広げるのではなくフォーカスする

私はずっと、自分のことを器用な人間だと思っていた。特にこれといった理由はないが、強いて言えば幼い頃にピアノを習っていたので手先が器用=器用みたいな連想だ。もちろん、他人から器用だと言われることも多いし、何をやってもすぐそれなりにできるようになる(と思う)。それに自分の中で、高学歴の人は要領のいい人であり、要領のいい人は器用な人だと思い込んでいた節もある。

 

ただ、器用という言葉の意味を考えた時に、自分の資質と照らしあわせてどうも違和感を感じるのも事実だ。過去の人生を振り返ってみても、私がちゃんと生きていたのは、何か一つのことに自分の全てを注いでいた時だろう。

 

いわゆる高学歴になったのも、別に要領良く勉強していたからではない。一般的には要領良く勉強する人が賢くなっていくのかもしれないが、私にはそういう文武両道みたいに二つのことを同時に進めることなんて到底できなかった、というのが正直なところである。留年をしたのも突き詰めれば不器用だったからなのかもしれない。

 

自分の時間というリソースを一点に注ぎ込まないと、何も成し得ないのだ。一度取り組んでいたものを少しの間手放してしまうと、もうそれに再び着手するのが面倒になってしまう。

 

何かを両立するとは、異種のタスクへの取り組みを周期的に切り替えるということであるから、もう永続的に何もする気が起きなくなってしまうのだ。だから二兎追うものは一兎も得ずの精神で、どちらか一つに取り組む。私はそんな方法論しか取ることのできない不器用な人間なのだ。

 

ただ、幸いなことに私は一つのことに集中すれば人並み以上の結果を出すことができることが多かったという話である。そして、たった一つの問題に対して突き詰めて考え試行錯誤し、アクションを起こすというのは性に合っているらしく、生きている心地がするのだ。

 

こういった今までの経験を踏まえるに、私が今悩んでいるのは、仕事以外の場で何か新しいことをしようと躍起になっていることが原因であり、キャパオーバーな部分についてまで上手くやろうとし過ぎているという可能性が高い。しかしながら、それは人生における刺激にはなっても、継続的に実行できるものではない。こういうのは生まれながらに決まっている資質なのかもしれない。

 

人生に行き詰まった時、ついつい人は視野を広げてみる、という方向で考えてしまいがちだけれど、視野を狭めることによって何かが解決することもあるのだ。たくさんの人が口々に大切だという目標というものも、実は自分の視野を狭めるためにある。

 

虚心坦懐を忘れず、今自分にとって本当に大切なもの以外を切り捨ててみる。これこそが今の私にとって必要なものかもしれない。