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そして今日も考える。

パワハラに立ち向かう方法

今忘年会に向けて着々と準備を進めている。否、実際にはようやく店の手配が済んだだけであり、いわゆる出し物も考えていない。ここで、私の同期はとても焦っているのだけれど、個人的には大失敗に終わっても何ら問題ないと思っている。

 

そもそも忘年会の幹事を新入社員の仕事と言って押し付けるのはパワハラではないのか。さも当たり前のように、さも義務であるかのように先輩たちからは押し付けられるのだけど、やるやらないはともかく、やるかやらないかの選択権すら与えないというのはどう考えてもパワハラだ。

 

こんなことを言うと、「これだからゆとり世代は」などと言われることは百も承知であるが、こっちからすれば「これだからバブル世代は」である。やりたいならお前らが自分でやれ。それが面倒臭いなら諦めろ。

 

海外がどうなのかは知らないが、こういう風潮はやはり日本人の皆平等の精神が現れていると感じる。会社人生を通して、皆がなるべく平等に苦難を受け、皆が平等に果実を得るという構図が出来上がっているのだ。既にそういう山を乗り越えた人にとっては山を乗り越えない選択をする人間がズルく映るのだろう。でも実際にはそういう選択を取らなかった自分が悪いのだ。

 

さて。色々と愚痴をこぼしてみたものの、最終的に忘年会の幹事をしないという選択を私が取ることはないだろう。非難轟々を浴びるよりは大人しく従う方が合理的だからだ。

 

仮に私がやらないとダダをこねたところで、私の同期が1人でやることになるだろう。それはすなわち、私の攻撃の矛先がふんぞり返っているおっさん達ではなく、同期1人に向いてしまう、ということを意味する。結局、郷に入れば郷に従え、の精神に落ち着く。私も日本人なのだ。そして、こういった思考を繰り返すうちにますます日本人になっていく。

 

飲み会の幹事ぐらいなら大したことではない。しかし、時には何か強い勢力に立ち向かわなければならない時もある。そんな時、日本人の性が染み付いているせいで、チャンスを逃してしまうかもしれない。こういった圧力に立ち向かうために必要なものは何だろうか。

 

それは3つある。勇気と実力と冷酷さである。私は幹事を断らない方が合理的だと先ほど述べた。しかし、今の私に勇気と実力と冷酷さが欠けているからであり、全ての人にとって長いものに巻かれるのが合理的というわけではない。

 

例えば、飲み会の幹事を断ることにより、非難轟々を浴びながら今後働いていくのが嫌だという思考に私は至ったわけであるが、これは差し詰め非難轟々を浴びながら今後働いていく状況が辛く苦しいものになるだろうという不安や恐怖が脳裏に存在するからだ。非難轟々を浴びながらでも働いていける、という勇気があればこの問題は片付く。

 

しかし、勇気だけでは不十分だ。実力が伴っていなければ、働いていくことはできない。人に好かれるというのは(特に日本社会においては)本当に重要で、それだけで与えられる仕事の質も環境も変わってくる。楽観主義というなの勇気で実力が伴っていないと、後々致命傷を受けることになる。逆に実力があれば、転職でも何でもできるし、環境を自ら作り出すことができる。

 

最後に冷酷さである。勇気も実力もあるのに、冷酷さが足りない人が日本人には多い。(それはとても良いことでもある。)私が飲み会の幹事をやらない場合、誰が一番困るかを考えた時に、一番に思いついたのは他でもない同期であった。それが可哀想で立ち向かうことのできない人は沢山いると思う。

 

例えば、イジメっ子軍団に1人で立ち向かった強者がいたとしよう。するとどうなるかというと、その強者の友人の弱者がイジメられたりするのだ。イジメっこにイジメをやめさせることはできないし、友人に迷惑はかかるしで、最悪の結果だ。正しいことをしたとしても巨大な悪を成敗することは難しいのだ。強者に抗うと身近な弱者が被害に遭うというのはもはや教訓と言っても良い。

 

勇気と実力を身につけ、行使すべき時に冷酷さを使う。これが唯一パワハラに立ち向かう方法だ。