∑考=人

そして今日も考える。

趣味は何ですか?

 最近、「趣味」について考えさせられる機会が多い。もちろん、趣味がない、と言えばそれもまた違うのだろうけど、私が趣味に対して持っている感覚と他の人が趣味に対して抱いている感覚は色々と異なる点が多い。

 

私がいつも違和感を感じているのは、日本においては趣味とは自分のステータスを表すものになっている節がある、ということだ。それが顕著なのは、就職活動だ。履歴書の趣味の欄に何を書くか、どんな表現を使うかで相手に与えるイメージは変わってくるのだ。本来、自分が楽しいと感じることをするのが趣味であるはずなのに、その趣味にも貴賎が付けられてしまっている。

 

特に、私にとって理解し難いのは、共通の趣味で盛り上がる、という現象だ。例えば、映画鑑賞が趣味だったとして、会話相手も映画鑑賞が趣味だったとして成り立つ会話はだいたいこんな感じだろう。

 

「あの映画見ましたか?」

「あー見ました。」

「あのシーンは感動でしたね。」

「あれは私も泣きました。」

 

これが趣味で盛り上がるということなのだろう。もちろん、感性が一致すれば親近感は湧くことに間違いはないが、この会話自体が面白いとかそういうことはあまり感じない。そもそも映画を見ている最中が面白いのであって、それをネタに会話をするというのはただのおまけ、副産物に過ぎないはずだからだ。

 

ただ、趣味の話はお天気話と同じくらい、コミュニケーションの入りには使える。むしろそれが一般化しすぎて、趣味がないと困ってしまうぐらいだ。私も趣味の話が出ると、あまり人に胸を張って言えるほど取り組んでいるものはないので本当に困る。

 

そんな背景もあり、実際にはウケが良い趣味を自分への付加価値として実装している人が多い。例えば、ヨガが趣味という女性は、ヨガそのものが好きなのではなく、ヨガをやっている自分が好きなのだという。また、飛行機のマニアは、電車マニアだと一般的過ぎるという理由で少しジャンルをずらしているという。そして、実際のところ何が楽しいのかはよくわからないのだそうだ。「つまらなさを噛みしめる」という理解し難い表現が使用されていた。

 

要するに、めちゃくちゃ好きではないけれど、なんとなーく好きだし、自己研鑚がてら(セルフブランディングの一種として)やっている、というスタンスの人が多い、ということであろう。これは正直なところ、私にとって結構な衝撃であった。そんな大して好きでもないこと、しかも義務でもないこと、さらにお金がかかることをよく続けることができるものだ。

 

逆に、私は趣味というものに対して完璧を求めすぎているのかもしれない。それはどんな時でも自分を満たしてくれるものでなければならないし、無理なく続けられるものでなくてはならないし、そして、人からの印象を上げるためにやるものでもない。そう考えていた。それでは趣味も見つかるまい。どんな人の趣味にも一定の成長要素が含まれているのだ。

 

一方で、趣味をそういった自己研鑚の類としてリフレーミングすると、別のジレンマが発生する。趣味に努力の側面が含まれてしまう以上、目的が必ず必要になるからだ。そして、目的が出来た以上、それを何としてでも達成したくなってしまう自分がいる。

 

しかし、私はどうせ達成できない目標は立てない。例えば、私がバスケットボールを自己研鑚という意味で趣味にするとすれば、それはやはり上手くなることを目標にするだろう。しかしながら、今上手くなることを目指した所で、自分が納得行く程度に上手くなることはできない。少なくとも他人と比較して目立てるほどの能力を身につけることはできないだろう。

 

そうなってくると、そもそも目的をもつことすらままならない。だから、バスケットボールはお遊びとしてやりましょうとなる。でもお遊びなら継続的にやりたいとは思わない。そして、お遊びで手に入る充実感は私にとって物足りない、となってしまう。ついでに言えばチームでやるため、自分の思い通りにならない、ということも挙げられる。

 

また、趣味において目的を持つのであればそれはもはや仕事と同等だ。少なくとも私はそういう思考で考える。目的のある趣味にこそ人生で最も時間をかけるべきだ。でも、そういう生き方をしている人って本当に少数なのかもしれないな。かく言う私も今の仕事が凄く楽しいかと問われれば、日に日にクエスチョンマークが頭に浮かぶようになっている。

 

趣味は何ですか? (角川文庫)

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