∑考=人

そして今日も考える。

エンドレスな日常

人生最多の残業時間により給料も税金もとんでもない額になっていたわけであるが、だからといって私のテンションが上がったりすることはない。むしろ質の低い仕事による労働時間の逼迫を嘆きたい気持ちにしかならない。休日が休めることでギリギリのメンタルを保っているように思う。

 

しかしこう、毎日毎日、仕事が終わった後に、一人でご飯を食べて風呂に入って寝る、次の日は朝から仕事、なんてリズムで仕事をしていると本当に頭がおかしくなってしまいそうである。

 

いや、もちろん仕事が楽しいのであれば、それほど苦痛ではないのかもしれない。でも、どう考えても仕事を楽しんでいるわけではなさそうな人達が、こういう一定のリズムで仕事をし続けられることに対して私はずっと違和感を持っている。本当に彼らは何のために生きているのだろうか。

 

私も最近はこのひたすら回り続ける日々に恐怖を感じるようになってきた。今のこの忙しい状態が続いていくことが辛いのも一つの原因ではあるが、そもそも今までもそういう時期は何度と無くあった。

 

ただ、今までと決定的に異なっているのは、明確な終わりが存在しないことである。孤高生活が詰まらないといっても、3年間で終わることは初めからわかっているし、詰まらないアルバイトもいつまでもそこで働かないことが明確になっていた。

 

しかし、今は忙しい状況に終わりがあったとしても、あるいは私が別の会社に転職することになったとしても、今後数十年間今と同じようなサイクルで働いていくことを強要されるわけである。つまり今の状況には終わりが無いのだ。基本的には。

 

こういった状況への対処法がまさに、趣味を持つ、ということにつながってくるのだろう。仕事と趣味の決定的な違いは、自分で決められるか自分で決められないかである。ほとんどの会社員にとって、仕事というのは他人から与えられるものでしかない。

 

仕事は自分で作り出すもの、なんていったところで、それは他人から与えられた制約の中で自分が創意工夫を凝らす余地があるだけの話である。会社でバスケットボールはできないし、女子会だって開けない。

 

今の仕事は、システムないしはアプリケーションを開発する上での学びとなることを期待して選択した。派生してプロジェクトマネジメントを学べれば良いと思ったが、そもそも社会には教育という概念がない。

 

教育制度が整っていない場所で学ぶためには自分で試行錯誤して方法論を確率していく必要があるが、試行錯誤すら上の権力者たちに阻まれる、あるいは、試行錯誤の幅が従来の風習により決定されている。さらに言えば、自分というリソースを自由に活用できる時間が与えられければ、ただの雑用係で終わりだ。

 

今の状況を打破すれば、望む未来が手に入るならそれでもいい。しかしながら、今の状況を打破して上に上がっていったはずの人間達が、まったく魅力的に映らない。他の会社で通用するのか、なんて以前に、うちの会社でも「通用している」とは思えない。ただ、ちゃんと適正に人の能力を測れる人がいないため、結果的にすごい人とだめな人がいる。

 

最近は毎日自分の中にこみ上げる愚痴と戦っている。