∑考=人

そして今日も考える。

今年の意気込み的な

あけましておめでとうございます。なんとなく思ったままに今年の意気込み的なものを書いてみる。

 

今の会社で働いてもうすぐ2年になる。ついでに言えば、さらに2年で30歳になる。大人になることがどういうことなのか未だに私はわからないまま、周りの友人たちも当然のように社会に出ていき、やがては結婚し、子供を授かっている。

 

私の目からすると、彼らはもう既に自分の人生はリタイアしており、ただひたすら生活をするために仕事をし、家庭を守るために仕事をしている。仕事の中での成長や遣り甲斐を見出す、というよりは、仕事は人生のための義務であり、余暇の趣味や旅行、友人との付き合いの中に小さな幸せを見出し生きている。

 

特別浮いた話があるわけでもないメンバで集まり、普段と大して変わらない何気ない話を交わすことの中に潜む小さな幸せ。そして、その喜びを分かち合い、そしてそんな時間を一定周期のもとでひたすら繰り返していく。人生とはそういうものなのかもしれない。

 

仕事をいかに面白くできるか、というのはある意味人生の一大テーマだと私は考えていた。なぜなら、人生において、仕事以上に時間を費やす行為など睡眠以外にはないからである。幸福の絶対量を増やす上で、仕事を面白くしようと考えるのは当然であろう。

 

とは言え、仕事をつまらなくさせる要素は山程ある。基本的に組織に縛られた上でしか行動はできないし、会社の方針に抗うことはできない。たとえ、自営業であっても、社長であっても、お客さんに縛られるという意味で完全な自由が手に入るわけでもあるまい。かと言って完全に自由にされても、その中でいきなり何かを成し遂げることもできないだろう。

 

そして、大小はあれど全ての行動に責任が伴う。どんな仕事もちゃんとやることが求められるのだ。やりたくないことをちゃんとやりきる、というのは実はとても難しいことだ。私はやりたくないことに対して一生懸命やった経験がないし、その結果について責任をもったこともない。

 

会社の管理職クラスの人に話を聞くとわかるが、ただひたすら目の前の課題を解決していくことで充実感を得るタイプ、いわゆる優等生タイプが多い。昔あなたの周りにもいなかっただろうか。勉強も頑張るし、スポーツも頑張る、文化祭や体育祭などの学校行事も全力で頑張る、みたいなタイプ。

 

彼らには明確にやりたいことなどはなく、どちらかと言えばかなり抽象的な欲求をもっているケースが多い。チームで仕事がしたい、とか、なんかお客さんと接する仕事がいいぐらいの抽象度。汎用性が高くて羨ましい。

 

私の知り合いが単刀直入に上司にこんな質問をしたことがあるそうだ。

 

「課長は何のために仕事しているんですか。」

 

その上司は、ちょっとユーモラスにこう答えたらしい。

 

「私は今バッティングセンターにいて、そこにはひたすらボールが飛んでくる。そして、そのボールをひたすら打ち返すことが楽しいからだ。」

 

つまりは、今会社という組織の中にいて、その中で仕事が降ってきたり、問題が起こったりした時に、その問題に対して全力で対処することが楽しい、ということである。

 

でも、今の私なら必ずこう考えてしまうだろう。

 

「私は何のためにバッティングセンターにいるのだろうか。バッティングは苦手だし、シューティングの方が得意だし面白いのに。バッティングが上手くなることに意味があるのだろうか。」

 

このような思考は一般的にニヒリズムと言われている。ただ、このような思考状態は実はあまり好ましい状況ではないのである。全てに対して無気力になってしまうし、何をやっても無駄に思えてしまうからである。ニーチェに言わせれば心が病んだ状態だそうだ。

 

そして、ニヒリズムへの対策は何かと言うと、今を生きる、今を楽しむことだそうだ。そこには今を全力で生きるという意味も含まれているんかもしれない。すなわちそれは、結局のところ、知り合いの上司みたいな思考回路で生きろ、ということなのだろう。

 

知り合いの上司は、目標を次に飛んで来る打球にセットし、それを繰り返すことで今を充実させているのである。(バカみたいではあるが笑)それがその先何に繋がるかとかは一切考えず、ただひたすら目先のことを考える。ニーチェ的にはそれが正しいのだろう。

 

私は数年前まで、今の今のことしか考えずに生きてきたし、それが原因で自らを悩ませる時期もあったけれど、今になってみれば、先のことばかり考えて頭を悩ませているように思う。

 

今年は、小さめの、特に意味もない目標を掲げて頑張ってみようかと思う。その先に見える景色もあるのかもしれない。