∑考=人

そして今日も考える。

異常者から見た世界

人間というのは社会の中で強制されていく生き物だ。ある組織の中に身を置くためには、その組織の価値観、考え方に自分を合わせていく必要がある。世間の常識からあまりにかけ離れた考え方・行動は納得されることはなく、相手の価値観で納得のいく理由が求められる。そういう権利があるものとされている。

 

普通は異常よりも偉いものとみなされる。例えば、30歳半ばまで恋愛経験がないとか、30歳半ばなのにアルバイトで生活しているとか。かと思えば、医学部の学生なら仕方ないとか、留年はダメだけど、浪人なら仕方ないとか。とは言え、3浪以上になるとやっぱりそれはやばい、みたいな。

 

世の中には「普通」という基準がどんな行動や考え方にもぼんやりと設定されていて、それに反するものは徹底的に理由を求められ、他人に干渉され、見下され、否定される。

 

私は結構昔から、他人(特に親)に自分の自由を侵害されないように生きてきた。勉強ができる人間であることをキープしていたのも、いい高校やいい大学にいるだけで、色んなノイズを減らすをことができるからだ。人は自分の能力に満たないと判断している人に対しては、偉そうにアドバイスをしたりと干渉してくるが、自分の理解を超えるものについてはほとんど介入してこないのである。

 

もちろん、全く干渉しないわけではない。人より優秀であるということも、普通に比べて異常であることと変わりはなく、その理由に土足で踏み込んでくる人は沢山いる。そして、皆が勝手に納得のいく理由を求め、納得できない理由は歓迎されない。

 

ただ、人に比べて無能だと判断されると、理由を聞かれた上で、こうした方がいい、こうするべきだと、聞いてもいない普通の価値観を押し付けられることになる。普通の人たちはこれを善意でやっているつもりなのだろうけど、相手からしたら迷惑でしかない。意図的にそういう異常な状態を選んでいる人だっているのだ。

 

でも、社会と繋がるためには普通でなければならないのである。ことのほか、民主主義のこの国では多数決が正しいからだ。

 

独創的なアイデアやカリスマ性が求められているというのは、机上の空論で、そんなものは日本では求められていない。真っ先に排除されるのがオチだ。リーダー不在を問題視しつつ、実はリーダーという異常な存在を忌み嫌っているのが日本人なのだ。 

 

最近のグローバル化の流れで多様な価値観がキーワードになっているが、多様な価値観だって、日本人の考える「普通」の価値観から大きくはみ出さない価値観でなければ多様性は認められない。外れすぎた人は全員から扱いづらい人のレッテルを貼られ、遠ざけられるのだ。 

 

本当に普通の人は、上記のような感覚を抱くことはないのかもしれないけれど、ミクロな場面では、自分が異常者側、ということもきっとあると思う。そんな異常者側から見たこの世のリアルがこの作品には表現されている。

 

コンビニ人間

コンビニ人間