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そして今日も考える。

本当の働き方改革とは

私の担当でも、「働き方改革」という言葉がよく使われるようになった。電通の事件がってから労働時間を減らしましょう、そのために生産性を高めましょう、という動きが色んな会社で起こっているようで、プレミアムフライデー制度なんてものまで導入され、これはこれで別の経済効果を生み出そうとしてたり。

 

働き方改革というと、真っ先に挙がるアイデアが、テレワーク、リモートワーク、である。例えば、出張の時間を仕事に使えればその分生産的になれるし、自宅での勤務が可能であれば、満員電車のストレスにさらされることもなくなる。その分が良い労働につながる、という考え方が背景にはある。

 

私はもちろん、テレワーク制度には賛成である。家で仕事ができる方が望ましい。プライベートと仕事の境目がなくなることを懸念する人は多いけど、別にプライベートとか仕事とかは私にとってはあんまりどうでもいい。一人の方が変な割り込みがないし、自分の好きなように仕事を進められると思う。

 

ただ、テレワークを導入すれば、組織として生産性があがるのか、というと答えはノーだ。テレワークが効果的なのは、成果が明確で、個人での作業が大半をしめるスキームで動いている仕事、例えば、バックオフィス業務などに限る。

 

 

逆に打ち合わせで物事が決まるサラリーマン、成果が曖昧なサラリーマンには向いていない。だって、人が集まらないと仕事にならないから。だから、テレワークしてもいいですよ、と言われても、最前線で働いている人たちはテレワークによる生産性の向上はあまり望めない。

 

サラリーマンの本質的な問題点は、働く場所如何ではない。非同期に進められる仕事が少ないことが問題なのだ。つまり、打ち合わせを前提とした意思決定の方法論、打ち合わせの中で進捗報告、情報共有が間違っているのだ。

 

テレワークを導入の効果を得るためには、まずこういった非同期の仕事をいかにして無くすかを考えなければならない。制度を導入する、という施策は簡単なためハードルは低いが、他社の成功事例の真似事をしたぐらいでは、はっきり言ってほとんど意味はない。少なくとも、改革とは呼べない。

 

本当に働き方改革を目指すなら、文字通り働き方を変えなければならない。端的に言えば、今やっている仕事の質を落とすしかない。質を落とせば自ずと量は減る。ただ、残念なことに、大きい組織ほど、品質を下げるという選択ができない。

 

また、仕組のプロセスが完成されている組織において、品質は何らかの形で定量化されているケースが多い。例えば、提案用の企画書であれば、先輩・上司・部長と多くの確認プロセスを踏んだものの方が品質が高いと考えられるし、ソフトウェアであれば、より沢山の試験をして、バグの少ないものが品質が高いと考えられる。

 

でも、こんなのは実際のところ、仮説に過ぎない。最初の企画書の方がお客さんから見ればわかりやすかったかもしれないし、試験で全くバグの出なかったソフトウェアを実際に動かしてみたら、肝心の機能で大量にバグがでることだってある。組織が謳っている品質なんてものは自己満足的なものなのだ。

 

だから、沢山の仕事量が高品質を支えている、という幻想をまず捨てるべき。

 

生産性を向上させるのに最も効果的なのは、無駄な作業を減らすことだ。しかし、品質を過大評価しすぎると、すごく微小な価値しかない仕事さえ無くすができない。すると、仕事を減らすことはできなくなる。なぜなら、仕事として定義されている以上、何らかの役には立っている、あるいはいつか役に立つ可能性があるからだ。

 

生活をしていく上での家事も同じだ。毎日掃除するのが大変なら、掃除する場所を限定化したり、掃除の頻度を下げたりすればいい。別にちょっとぐらい汚れてたって何の問題もない。

 

洗濯も同じだ。乾燥機付きの洗濯機を買うより何より、洗濯の頻度を下げる方がよっぽど効果がある。なんなら、冬に同じ服を3日着たってそれほど汚れないだろうし、傍目には不潔にはうつらない。衛生的に問題があるけど、それが原因で体を壊すことなどまずないだろう。人間の体はそんなに柔ではない。必要以上に100%を目指さないことだ。つまり、必要最低限の品質があればいいのである。

 

品質を落とす覚悟を決めること。それが本当の働き改革である。