∑考=人

そして今日も考える。

アイデンティティクライシス

しばらく会社という組織の中にいると、自分が何者でもないことに気づく。自分にしか出せないアイデアがあるわけでもなく、カリスマ的なリーダーシップがあるわけでもない。自分ができる仕事の大半は他の人だってできる。学生時代の私を私たらしめていたはずの優秀さを自分自身で特に感じることもない。

 

周りにいる人が凄くてみんな特殊、というのも違う。もちろんそういう人もいるけれど、別に、彼らが自分と比べて圧倒的に優秀だと思う事もなければ、特に目立つ側面があると感じるわけでもない。でも、自分の方が上だ、と思う事もやっぱりない。

 

自分が勝負できるフィールドがない。

 

私は誰かに勝てない競技が好きではない。バスケットボールに興味を失ったのも、努力だけでは超えられない壁を感じたからだし、そこに自分を投影することができなかったからだ。私にとってバスケットボールはやっていて楽しいという感情はもちろんあったが、私を私たらしめるものであってほしかった。たぶんそういうことなんだと思う。

 

私が大学院まで進学したのも、学業が自分にとって勝ちやすいフィールドだったから、なのだと思う。別に大して勉強したわけでもないし、それほど苦痛でもなかった。なのに結果は人の何倍も出る。私にとってはこれが普通だったが、それが一般的に見て特殊であることは理解していた。だからこそ、私のアイデンティティは学業の中に投影していた。

 

昔、一番になれないことを嘆くようなツイートをしたら、中学の同級生から「何でも一番がいいと思うなよ!」とツッコミをいただいたことがある。彼は当時の私から見ると、何の取り柄もない友人だった。そもそもほとんどの人は、勉強も部活も平均ぐらい、のはずだ。

 

彼のように昔から平凡だった人は自分という人間をどのように捉えているのか、私はずっと疑問だった。平凡である事が当たり前すぎて、平凡であることに大して何の疑問も感じていないのかもしれない。あるいは、すでにこのアイデンティティの崩壊を乗り越えた上での人生をずっと昔から歩んでいるのかもしれない。

 

自分の趣味を楽しめる人、というのはある意味すでに負けの人生を悟ったことのある人なのかもしれない、と最近は思う。私が今になってもこれといった趣味を持てないのは、結局のところ、のめり込んだ先の結果を求めてしまうからだ。

 

自分にすごく向いている分野があって、それをやればすぐに成果が出て、楽しいと感じられるはず。でも、ほとんどのことはすぐに結果は出ないし、他の人たちよりも抜きん出ることさえ難しい。そういうことを考え出すと今やっていることの楽しさも薄れてしまう。

 

でも、なんというか、もう自分は何者でもないし、何者になる必要もないのかもなーと考えると、少し気が楽になる。

 

やりたいことを自由に。