∑考=人

そして今日も考える。

AI時代に先生は要らない?

最近、落合陽一の動画をよく見てるんだけど、あの人ほんと頭いいと思う。久々に天才を感じた。年もほとんど変わらないのになんなんだこの差は、と思いつつ。

 

Youtubeで見た朝生の彼の議論は総じて面白かったんだけど、中でもAIがプラットフォーム化すると教育がいらなくなる、みたいな話が印象的で。

 

落合陽一氏曰く、これまでの人間は生まれたら勉強をして、知識を身につけて、社会に出て生産活動をして、死んでいくというのを各々でやっていて、しかも後世に残せるのは遺伝子だけなので、教育という観点ではめちゃくちゃ非効率だったという。

 

これがAIというプラットフォームができれば、そこに過去の人たちが学んできたことを全て蓄積していけるので、そこに繋ぐことで過去の偉人たちの知識にアクセス可能になるからめちゃくちゃ社会の成長スピードは上がるという理論。

 

でも、AIプラットフォーム上に知識が蓄積されても、そこに直接アクセスすることはできないんじゃないか?と普通の人はきっと思うんだけど、あの人はたぶん、攻殻機動隊みたいに、脳が直接AIにネットワークでアクセスする世界みたいなものを信じているんだろうね。

 

電脳化ははるか未来の話としても、教育の形はすでに変え始めないとマズい状況だと個人的には思っている。一方で、文部科学省が公開している学習要領をみると、我々が育った頃と大した変化はなかったりするのだが。みんなはどう思ってるのかね。

 

例えば、社会にコンピュータやスマホが普及した頃から、人が漢字を書ける必要はなくなった。すなわち、現代社会において、「読み」はともかく「書き」を学習する必要はないということ。

 

あと、数学も電卓が禁止とか馬鹿らしいことはやめて、証明のロジックを考える問題とか、解放を組み立てる思考に重点を置いた方が良い。たぶん、微分方程式とか行列式とかはすでに無料のアプリでも計算できるようになっているはず。つまり、人間ができる必要はないってこと。

 

プログラミングを必須教育にするのも一つだと思う。頭のいい人は大抵、構造的把握能力に長けているなと私は常々感じているのだけれど、それを鍛えるのに非常に良い訓練になるのがプログラミングなのだ。ただの翻訳としてのプログラミング、ではなく、ミッションを達成するためにどんなパーツが必要でどう組み立てていくのかを考える力、そういうのが必要。

 

と、言い出すとキリがないけれども、そのくらいに教育というのは止まったまま。大学の半分に価値がなくなっても、日本の難関大学が世界の中での地位を下げても、今でも昔ながらの受験戦争という名の茶番を繰り広げている。

 

これまでで、教育が変わったことといえば、ゆとり教育ぐらい。私の世代が受けてきたのがいわゆるゆとり教育なのだけれど、これは教育自体を変えた、というよりは教育量を減らしただけだったのが残念な点。コンセプトとしては、余った時間で個別で好きなことをやってほしかったのだろうけど、ほとんどの人は遊ぶ時間が増えただけで、学力も下がり総じて失敗として語られている。

 

ただ、私はこのゆとり教育の考え方について、方向性としては間違っていなかったんじゃないかと思っている。もし、今ほどネットワークインフラが整っていて、小学生が一般的にスマホを持ち、教育コンテンツがありふれている今の時代であれば、上手く機能する可能性は十分にある。

 

ゆとり教育で最大の問題だったのは、子供に完全な自由を与えてしまったことである。教育量を減らした分、自由にしていいよと言われれば9割の人は遊ぶに決まっている。だって、子供なんて別にやることないし。何らかのミッションを与えるべきだったのだ。

 

例えば、これまでの小学校で夏休みの宿題になる、”自由研究”に近い形の課題を常に与える。何か自分でテーマを決めて、それに対して調べたり学んだりして、成果を出す。学生ならレポートという形になってしまうのかもしれないけれど、そんな風に単なる自由ではなく裁量を与えるべきだったのだ。

 

ゆとり教育反論の理由として、オリンピック選手にはゆとり世代で活躍している人が沢山いる、という趣旨の意見をよく聞くことがあったが、あれはすでに自分のミッションを見つけていた人だったからそうなったのだ。なので、適切にミッションを与えることができていれば、必ずしもゆとり教育は悪、という結論には至らなかったのではないか、と私は思っているわけ。

 

要は、一律の教育は物凄く狭い領域に絞って、あとは各々が好きな分野で課題を見つけてそれを解決するための取り組みをしていく、という形がこれからの時代にはベスト。なんでかというと、一律で教育できる標準的な知識とか方法論は全てコンピュータなりAIに簡単に置き換えられてしまうから。一律教育で育った人がコンピュータやAIと戦うとか無理ゲー。

 

ただ、そういった未来型教育シフトへの大きな課題が二つある。

 

一つは今の先生では未来型教育ができない点だ。 言っちゃ悪いが、今の先生は、既に確立されたカリキュラムに沿って既に体系化された知識を教えるだけだ。もちろん、説明のやり方や、板書の取り方は個人で考えているのだろう。突発的な質問に答えられるようにもしておかなければならない。

 

でも、その部分に大きな苦労や難しさがあるとは思わない。私の友人にも先生になった人が沢山いるけれど、大抵、思春期の子供の扱いが難しいだとか、モンスターペアレントの対応が、とか、はっきり言って教育とは無関係とも思える話だ。教育の結果自体を問われない役所体質なところも原因なのかもしれないが、教育制度自体がある程度マニュアル化されたルーティンなものだから、と考えて良いだろう。

 

翻って、未来型教育はどうだ。本質的には、生徒と先生の主従関係がなくなる点が大きい。これまでは、先生が持っているものを生徒に与えるのが教育であったが、教育の多様化が進めば、当然、生徒が知っていることを先生が知らない、という状況が当たり前になる。

 

そんな中でも、生徒に対して学習の方向性付けを行っていくためには、まず、先生自身が問題解決能力を身につけていなければならないし、時には生徒から必要な情報を聞き出し学習し、かつ成長を適切にコントロールをしなければならなくなる。つまり、指導者ではなく、管理者とかアドバイザーに近い形になることを強いられるはず。教育の現場がビジネス化していくイメージ。

 

しかし、今の先生に果たしてそんな能力があるだろうか。もちろん、教育の現場も職員室の中は社会なので、それなりに対応はできるのかもしれないが、数十人の生徒をマネジメントするのは容易ではないはず。昨今は先生の数自体も少なくなっていることもあり、さらに先生を増やすというのも難しい。

 

結局、私が辿り着いてしまう結論は一つで、「先生制度をやめる」、というもの。なぜなら、「先生って要らなくない?」って私は子供の時に思っていたので。正確には、教育とか学習という観点では先生はもはや必要ないって話。私が子供の頃ですらそう思っていたので、今だと尚更そうなんじゃないかね。

 

そもそも「学力を上げる」という点においては既に、予備校や学習塾の方が完全に上なのであって。今の学校に意味があるとすれば、プラットフォームとしての役割だけ。お金を持っていない人でも一つのコミュニティに所属することができて、その中で人間関係を築くことができて、一緒に何かをすることができる、という点。実はこれこそが学校の本質。

 

で、そこに対して先生が関与すべき点は、いじめとか、子供が道徳的にあやまったことをしないように見守っておくだけで良い。つまり、学力の向上に寄与する必要はないのだ。