∑考=人

そして今日も考える。

没頭感

「モチベーション革命」という本の中で、人間の欲求は五つに分類されるという話があった。達成・快楽・意味合い・人間関係・没頭、この五つである。

 

著者曰く、昔の世代は、達成や快楽の欲求が強かったそうな。まだ社会的な課題が沢山あったこともそうだし、何かを達成する(仕事で成功する)と、快楽が満たされる(高い車に乗れる)、みたなロールモデル的スキームがあったからだ。

 

ただ、現代を生きる若者が違うらしい。確かに自分の周りにも、高い目標を達成したい、みたいな人間は少ない気もする。それよりは人間関係を重視したり、仕事に意味を求める人の方が多い気はする。相変わらず快楽を追求する人間はいるけれども、今の時代は結構安価に快楽を買うことができたりもする。

 

そんな中、私にとっては、「没頭感」というのは昔から非常に大切な要素で。没頭し始めるまでに結構エネルギーがいるのだけれど、没頭しているときが楽しい。没頭する対象が好きかどうかはたぶんあんまり関係なくて、「没頭するから好きになる」というホリエモンの言葉に割と共感している。

 

ただ、昔と少し違うのは、没頭状態に突入する前に、「意味合い」を求めてしまうことが増えた、ということだ。例えば、アプリ開発とかも始め出すと止まらないし、絶対に面白いことはわかっているけれど、そこに意味を求めてしまうと、没頭状態に入る前に「めんどくさいな」となってしまって、進まない。そういう意味では、「意味合い」というのも大事な要素になってきたのだろう。

 

とは言え、先日も10時間ぐらい買ったばかりのスーパーファミコンクラシックをやり込んだぐらいなので、別に「意味合い」なんてなくたって没頭はできる。長くは続かないけれど、始める障害を小さくできれば始めることはできるのだ。

 

一方で、「人間関係」については今はまだあんまり意識していない。というのも、人間関係が全くないと、困るし確実に不幸ではあるけれど、今ある人間関係が大切にできればそれでも幸せ、って意味では十分な気もしている。友達の数が多いとか少ないとかはあんまり生きる上で重要なパラメータではないな、とまだ思っている。ただ、まぁむやみに人を毛嫌いする必要もないかなーというぐらいで。

 

とまぁ、自分の特性を客観的に考えてみると、私があんまり仕事を楽しめない原因の一つはやっぱり「没頭感」の欠如なんだろうな、という気がする。

 

例えば、日本人が当たり前にやるマルチタスクで進める仕事のスタイル。別にスキルとしてできないことはないけれど、やっぱり好きにはなれない。

 

あとは凄く漠然とした仕事も本当は好きではない。まぁある意味具体化するためにどうすればいいんだっけ?と考えるまでは没頭できていいんだけど、それを実行に移す(大抵が誰かに聞く、資料を調べる、打ち合わせを開く、みたいな)仕事は非常に億劫である。

 

逆に、まとまった資料を作ったりするのは結構好きで。基本作成する資料は作品だと思っているので、プロダクト志向の私にとってはいかに無駄な資料であってもそれなりに面白い。表とか絵とか作るのが楽しい。ただまぁそれって手段であって目的ではないよね?みたいな葛藤は常にある。実際資料作りにハマって仕事をやった気になっている人間もいるので。

 

だから、「プログラムを作る」みたいなことまでできれば、ちゃんとそれ自体に「意味合い」もあって「没頭感」もあって、かつ「達成感」も得られる、と私は思っているけれど、全ての作業を一貫してやることって組織で仕事をするとないわけで。やっぱりこれはサラリーマンの限界かなーという感じ。結局どの部分を担っても「おれが作ったと言えるのか?」という感じがある。

 

そんな思いを抱えながら、とりあえず今はまだ見ぬ気づきを探してひたすらやったことのない仕事をやってみてる。