∑考=人

そして今日も考える。

自動化の先にあるもの

合理化・自動化の先に新しい価値は生まれるのだろうか。

 

自動化や合理化は大抵がその効果を定量的に測ることができる。例えば、自動お掃除ロボットルンバを使えば、掃除にかかる時間が丸ごと削減できるので、当然人がやるよりも明らかに良い、という判断がつく。こんな風に何かが自動化されるというのは効果が単純で価値が明白ではある。

 

他にも、高性能化、というのも価値が明白だ。テレビで言えば、画素数は高い方がいいに決まっている。CPUなどの性能も同じである。他にも定量的に測れる価値は必ずどっちが良いのか判断がつく、という単純明快な特徴を持つ。

 

しかし、そこに対するコストは発生する。そして、定量的に良いと判断できるものは必ず費用も嵩む。すると費用と効果のバランスを考えなければならない。つまり、必ずしも良いものを皆が選ぶわけではない。

 

また、一定の高水準を満たすようになると、それ以上のコストをかけたくない、という心理が働く。SHARPの亀山モデルが失敗に終わり、韓国メーカーのテレビが売れたのはそのためだ。ある程度高水準になると、単純に数値が高いだけでは「価値」として認定されなくなる。

 

現代に求められているのは、「数値が向上すること」ではなく、「数値が向上したことによってどんなことが実現できるのか」を示すことだろう。例えば、CPUなどの技術は今もなお性能という数値的な改善が求められている分野だ。CPUの性能が上がることそれ自体にはおそらく価値はない。

 

しかしながら、AI、ディープラーニングなどの演算処理に今のコンピュータスペックでは不十分であるという課題があるから、CPUの性能向上には価値が認められるのだ。さらに言えばAI技術を使うことによって、世の中のこれまで解決できなかった課題が解決できると信じられているからこそ、なのである。

 

などと考えていると、自動化や合理化もその先に何かに繋がる価値があるのでは?と思ったり。あるいは、自動化や合理化を最終目的にしてはいけないのでは、という懸念。今では〇〇自動化、みたいなキーワードは、それ自体が一つの価値であるように語られているけれど、もうそんな時代ではないのでは、という懸念。

 

実際、自動化されたからこそ生まれた新しい価値、というのはあるはずで。例えば、自動車。自動車が生まれた頃の自動車の価値というのはきっと、「より速く移動できる」ことだったはず。でも、自動車の価値はそれだけではないはずで。

 

例えば、「宅配サービス」なんてのは自動車の仕組みなしには考えられなかっただろう。自動車があったから「物を速く届けられる」という価値が生まれた。そして、物が速く届けることができるからこそ成り立っているサービスやそれを提供する価値が必ずある。

 

では、システムオペレーションが自動化されると、どうなるか。システムオペレーションが自動化されたからこそ実現できる価値とは何か。

 

その答えが見つからない。