∑考=人

そして今日も考える。

「俺がやる必要なくね?」と思ったら

サラリーマンをしていると、しばしば

 

「俺がやる必要なくね?」

 

と思う瞬間にぶち当たることがある。

 

もっともわかりやすい一例をあげるならば、資料の印刷、とか。これらは誰でもできる仕事の代表例で、特に新人の頃などは課長からぽっと依頼を受けることがあった。プリンタのドライバさえインストールしていれば誰でもできる仕事である。(が、偉い人はわざわざプリンタのドライバのインストールなんて面倒なことはやらないのである。)

 

で、まぁ資料印刷なんてのは本当に誰でもできる仕事、なわけだけれど、例えば、「会議向けの打ち合わせ資料を作る」ぐらいのレベルになったとしても以外と構造は変わらないんだよね。

 

例えば、新人と5年目社員のどっちが作るべきか?と言われれば、それは新人には少し難しいし、5年目社員が作るのが適切だろう、と言う話になる。でも、これがもし5年目社員と6年目社員のどっちが作るべきか?と言われれば、ぶっちゃけどっちでもいいのだ。どっちが作っても多少の差はあれど、大して業務遂行に支障をきたすことはない。

 

つまり、自分が6年目社員だったとしてこういう仕事をしなければならない時にはきっとこう思うことだろう。

 

「俺がやる必要なくね?」

 

自分がやる必要のない仕事をやるのは一見時間の無駄に思える。巷の自己啓発本では、自分の得意なことに集中し、自分がやる必要のない仕事は他の人に任せるべきだという主張もある。

 

ただし、この思考に取り憑かれて、自分がやる必要のない仕事を削ぎ落とす前に考えて欲しいことがある。

 

「俺がやるべき仕事とは何か?」

 

そこに対する答えを持っていない人間に限って、これって俺たちがやる必要あるの?俺がやる必要あるの?と目の前の仕事に文句を垂らす様が散見される。で、そういう人たちには仕事が回ってこなくなり、窓際に追放される。

 

あるいは、楽な仕事、面白そうな仕事こそが自分がやるべきという謎の解釈をして、お粗末なアウトプットを出す人。「やりたい」と「やるべき」を混同してはならないのだ。

 

極論を言ってしまうと、サラリーマンの中に、「自分がやるべき仕事」なんてものはない。幻想である。なぜなら、誰が仕事をしても回るようにできている仕組みの中で働いているのがサラリーマンだからだ。私たちにできるのは、せいぜい自分がやった方が他の人がやるよりも良いアウトプットにできる仕事だ。自分がいなくても仕事は回るが、自分がいた方が少しは良い結果を出せる。この考え方はサラリーマンの生命線だ。

 

敢えて言うならば、その仕事に自分が取り組む必要性を付け加えることが重要である。自分がやりたい仕事に大して、自分がやるべき理由を付加する。これが重要。