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そして今日も考える。

エリート達の末路

仕事がこの上なく憂鬱だ。サラリーマンになってもう5年ほどたつけれど、全くもって充実とは程遠い生活をしているように思う。少なくとも最近は、日々の仕事に”楽しさ”なんてものを感じることはなくなってきている。

 

サラリーマンになって一体何が身についたのだろう。楽しさを置き去りに仕事を進めていく力、憂鬱さを押し殺して淡々と仕事を進めていく力、端的に言えば忍耐力は学生の頃に比べて身についた気がする。サラリーマンの90%ぐらいがこういった変なスキルを身につけているんじゃないか、とふと思ったりする。大学生の頃の僕ならば鬱病になって現実逃避していたことだろう。

 

にしても、私たちはエリートではなかったのだろうか。そして、エリートはそうでない人たちに比べて幸せになれるはずではなかったのか。たまにそんな疑問が頭を過ぎる。

 

確証を持っているわけではないけれど、同窓会などで昔の友人にあったら、たぶん彼らの方が私よりも幸せな人生を送っている気がする。彼らの生活に収入や安定は少ないのかもしれないけれど、毎日が充実しているように見える。

 

つまり、エリートになれば幸せになれる、というのは幻想だったのだ。別に私はエリートになりたいなんて願望を持っていたわけではないけれど、結果的にはレールの端っこぐらいで何とか振り落とされずに残ってしまった人間だ。だから、我慢を重ねてきたわけではないけれど、「エリートになるために費やした時間」というのは一般的に見ればは多い方である。

 

逆に、もっとエリートの実情に幻滅した人たちはたくさんいると思う。私の会社にいる人間の多くも、人生のどこかのタイミングで幻滅したのだろうか、なんてことを想像いたりする。彼らのほとんどはきっといつかのタイミングで天才だったに違いないのだけれど、会社の中にいるといたって平凡なのだ。

 

もちろん、一般的に見て優秀ではあるだろう。でもその優秀さというのはほとんどのケースで「人にうまく動かされる能力」のことだ。人を動かす立場にいる人は私も含めてたくさんいると思うし、そういった人を「リーダー」などと読んだりするけれど、本質的にはさらに上の人たちに上手く動かされる能力を私たちは鍛えているし、そういう能力が評価される。

 

これはそもそも本能的な欲求と相反するものだ。人間は誰しも自分で物事をコントロールしたいという欲求を持っている。(物事をコントロールできる人とできない人を比べると、物事をコントロールできない人の方が早死にするなんて実験結果だってあるくらいに。)

 

エリートになるのはもっと色んなことを自分でコントロールできるようになるためだったのではないか。人生で選択可能なオプションを増やすことで人生そのものをコントロールするためではなかったのか。

 

結果、何もコントロールできない人生。こんな末路でいいのだろうか。