加速するバーチャルの流れ
コロナによって、非接触というキーワードに注目が集まったこともあり、「遠隔」で実施するとか、さらに一歩進んで「バーチャル」で実現する、みたいな需要がすごく高まっていますね。
例えば、小売の世界では遠隔で商品を陳列するソリューションが導入されたり。
他にも、エンタメ領域だと、ライブをバーチャルに再現する取り組みなども。
今はまだ一部だけれども、この先きっと時間をかけて、色んなことがバーチャルにできるようになるんだろうなーと思っています。テクノロジー的にはVR関連技術と5G通信導入の貢献が大きいです。
私はなんやかんやもうすぐ、フルテレワークになってから半年が経過しようとしていますが、テレワークというのもある意味一つの遠隔の形だし、さらに進化してバーチャル会議が当たり前という風に長期的には向かっていくのかなと考えていたりします。
一方で、たまにこんなことも考えるんですね。このまま定年まで今のようなテレワークスタイルで全ての仕事が完結するとするとどうなんだろうか?って。果たしてそれで「生きた」と言えるのだろうか?と。
私は今の生活には結構満足しているつもりではあったんですが、こうやって大局的、長期的に今の捉えた時に、なんとなく「仕事人生を全うした」というためにはこの生活には何かが足りない気がしたんですね。
それは”なんとなく”としか言えないんですが。たぶん他にも同じように考えている人はいるんじゃないかなぁと。で、その”なんとなく”と言っている何かが、きっとリアルならではの価値なのでは?と。そこにリアルの価値が隠されているのでは?と思ったわけです。
リアルの価値とは?
まず、バーチャルではまだまだ五感は圧倒的に再現できていないです。もちろん、業務的に必須である、視覚、聴覚、触覚などは徐々に再現できるようになってはいますが、いまでも情報の解像度としてはリアルにはほど遠いでしょう。
例えば、VRなどの場合は、没入感や臨場感という言葉を使ったりしますが、五感から得られる情報の解像度が低いと、リアリティを感じられなくなってしまうというわけですね。
一方で、それらが全て満たされた時、つまりは五感を完全にバーチャルに再現できるようになったとして、リアルの価値はバーチャルにとって替わられてしまうのでしょうか?それははないでしょう。なぜなら、リアルかバーチャルかを決めるのは「人間の認識」だからです。
つまり、リアルの価値とは文字通り「リアルであること」なんですよね。
むしろ、人間がバーチャルに対応していかねばならない
例えば、VRゴーグルをつけて会議をする時代になって、仮想空間上で本人そっくりのアバター同士で議論できるようになったとして、そこのやり取りや触れ合いは現実ではない、と認識してしまう人は必ずいるでしょう。すると、対極にあるリアルは区別されます。
これは、本物の人間そっくりの動きをするロボットがいるとして、それを人間だと認識できるのか否か、という問いにもどこか似ています。果たしてロボットと人間を同じように扱うことができるでしょうか。ロボットに心の存在や人権を認めることができるでしょうか。一般的な認識として同等に扱うのは難しいでしょう。
ただし、一方でロボットに生き物らしさを見出す人もいます。最近だと、LOVOTなどが話題になっていますが、もっと前にもAIBOなどロボットをまるで生き物のように可愛がる人もいました。
つまり、人間側の認識を変えることで、バーチャルな世界にリアルを見出すことは可能ということです。まとめると、バーチャルをよりリアルに近づけ、人間がバーチャルの中にリアルを見出していく、この2点が大切だということです。
ソードアートオンラインというアニメで、こんな会話があるんですね。
キリト「今日はアインクラッドで最高の季節で更に最高の気象設定だ、こんな日に迷宮に潜ってちゃ勿体ない」
アスナ「あなたわかっているの?こうして一日無駄にしたら現実での私たちの時間が失われていくのよ?」
キリト「でも今俺たちが生きているのはこのアインクラッドだ、日差しも風もこんなにきもちいい」
アインクラッドというのが仮想現実、仮想空間のことですが、主人公であるキリトは、今生きている仮想現実こそが現実だー、と言ってるわけです。これが考え方ってこと。
世の中は必ず便利な方に向かっていく
”不便益”という言葉があります。不便だからこそのありがたみ、という意味です。例えば、近年の注目領域に「自動運転」という技術があります。これはドライブという、不便だからこそ感じることのできた楽しさを奪う技術という見方もできますね。
不便益を前提に世の中をみると、便利さの追求は必ずしも良い面ばかりではないことに気づくと思います。大抵の場合は、何かを犠牲にしているものです。Googleで検索すればなんでも答えが手に入ることを嘆く人もいます。最近のテレワークみたいなコミュニケーションの取り方に納得できない人もたくさんいるでしょう。
私もそういう見方をすることがあります。もっとマクロな視点で俯瞰した時に、「東京の暮らしはいつからこんなに無機質で生活感がなくなったのだろうか?」とか思ったりします。みんなパソコンの前でカタカタカタカタやって一日の大半を終える。帰ったら一人で食事、風呂入って、寝る。これは人間らしい生活なのだろうか?と思うこともああるわけですよ。
あるいは、もっと昔に遡れば貨幣制度なんかは非常に便利な技術ですけど、そういうのがない頃は、物々交換における近所との繋がりとかあったかいコミュニケーションとかがあったんだろうなーとも思うわけです。
今後も新しい技術革新に対して、不便益の価値を理由に抵抗を示す人たちは現れるでしょう。ただし、不便益の価値を理由に便利さを手放すようになったら間違いなく老化した証拠。「昔は良かった」というのは老人だけです。
でも、世の中は必ず便利な方向に向かうんです。それは歴史が証明しています。だからいかに対応すべきかを考える方が利口です。
また、ビジネスという超合理社会において便利な基盤はデファクトスタンダードになっていくのは避けられないですが、プライベートにおいて不便益を享受することは可能です。例えば、DIYがあんなに流行っているのはまさに不便益に共感している人が多いからに他ならないです。
コロナ鬱に負けるな
正直に言うと、私もこのまま今の生活が続くことに不安がないわけではないし、コロナ鬱の可能性もあります(というか常に鬱説もあったり笑)。新たな社会様式への適用を試されていると思って頑張りましょう。