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そして今日も考える。

合理的思考をたまにはやめてみる

大人になってからなのか、仕事を始めてからなのか。合理的に物事を選択することが増えたような気がする。論理的、打算的、理性的。つまりは左脳的な判断、決断。

 

合理的に考えるのは一般的には良いことだとされている。特にビジネスの現場等で結果を求められるケースに置いては効果的な思考法であると私自身も感じている。

 

主張の裏付けには根拠となる論理を示す。そして、論理を成立させるための前提となる事実を示す。複数の選択肢を比較する場合は、比較軸を複数用意し、評価ポイントを定量的に示した上で最適なものを選ぶ、など。

 

これらは、網羅的であり再現性がある。だから複数人で物事を進めたり、合意形成を必要とする組織に置いては有効なのだ。だが一方で、あまりにこの合理的思考法が万能のツールのようになってはいないだろうか?

 

別に、私は合理的な思考法を否定するつもりはない。けれども、合理的思考法がビジネス以外の領域、すなわち、人生全般に対して最適かと問われると必ずしもそうではない。

 

例えば、趣味を始める時にこのスポーツは競技人口が少ないから結果を残しやすいはずだ、と思って始めたりする人は少ないだろう。(いるにはいるだろうけど。)これなんかやってると楽しいな、とか見てて面白そうだな、かっこいいな、とか。そんなもんだろう。

 

では、例えば大学を選ぶ時、就職先を選ぶ時、結婚する時、転職でもいい。感情的に決めた人はいるだろうか。ほとんどの人が合理的に考えたのではないだろうか。でも、結論から言うと、どういう思考で選んだ方が正解、というものはないと思う。合理的に決めるのか感情的に決めるのかは右手を使うのか左手を使うのか、ぐらいでしかないんじゃないか。

 

例えば組織内の異動を考える時もそう。これは一見合理的に判断をするのが望ましいと考えられている。が、これも実際は仕事の問題ではなく人生の問題であると考えると必ずしも合理的に考えることが正解ではない。

 

一方で、社内の上司に移動の相談や選択について相談すれば、間違いなくその合理性について問われることになるだろう。そして、合理性がなければ、もっと合理的な選択肢を提示したり、酷い場合にはその個人の判断の誤りを正そうとさえする。この手の人間は合理性信者で、きっと女性から嫌われている。

 

もちろん念を押しておくと、社内の人間を説得する必要があるのであれば、その説得のために合理性は必要になる事は間違いない。でもそれは建前でいい。他社向けに合理的に説明する必要があっても、本心で合理的に人生を決断する必要はない。

 

でも、なぜ多くの人が合理的思考の信者になってしまうのか。理由は簡単。合理的思考をすると、大きな失敗をしなくなるからだ。人から否定されたり、傷付いたり、恥をかいたり、肩身の狭い思いをしなくて済むからだ。

 

反面、合理的思考は人生の振れ幅を小さくしてしまう。この数年感を振り返ってみると、本当に痛感する。私は社会に出るまでは本当に8割以上がノリで人生選択をしてきたからわかる。ノリで人生選択をしていた時の方が辛いこともあったし、時間やお金も大量に無駄にしてきたけど、ただ、楽しかった。

 

なので、少し合理的思考をたまにはやめてみようと思う。