∑考=人

そして今日も考える。

船に乗って進んでいたいだけの乗組員たち

私が現在従事しているプロジェクトは担当内では実に二桁年ぶりの大規模開発になる、らしい。規模がどうであれ、私にとってはほとんどが新しいことのため、特に関係はないと思っていたが、それは私の勘違いであった。久しぶりの大規模開発となると、誰も正解らしきものを理解していないのである。

 

私の先輩たちは大抵、プロジェクト開発の経験を積んできている。その点において私は劣っていると言わざるを得ないだろう。プロジェクト開発の経験があるということはプロジェクト開発の進め方を多かれ少なかれ知っているからだ。

 

ただし、最近になってどうも彼らも過去のやり方を知っているだけではないか、という懸念を抱き始めた。そして、過去の開発ではたまたま上手くいっていたという可能性、今回の開発に適しているかどうかということについて十分考慮できていないのではないか、とも。

 

私は鶴亀算でしか二次方程式を解くことができないのに対し、先輩たちは解の公式を使って二次方程式を解くことができる。しかし、今回解かなければならないのは三次方程式であり、誰もカルダノの公式は知らない、といった状況である。

 

おそらく、みんな薄々は感じていると思う。今のやり方では上手くいかないのでは、と。でも、上手くいくと思っているフリをしているのか、あるいは上手くいかなくても自分には関係ないと思っているか、そのどちらかだ。

 

皆がそういったスタンスになってしまう原因はやはり正解の本質を理解していないことにある。

 

おそらく多くのビジネスマンなら「建設的批判」という言葉を耳にしたことがあるだろう。会議の場では頭ごなしに相手の意見を否定するのではなく、代替案を述べるべきだという思想が日本社会には存在する。

 

あるべき論を言えばその通りである。ただし、これを全うしようとすれば、本当に難しい課題に対しての参考にすべき否定的意見さえ排除してしまいかねない。代替案はないが、今のやり方は確実に間違っているということを皆に認識させることでチームの問題意識が変わる可能性もあるだろうに。(実際には代替案の検討まで任せられる可能性が高いが。)

 

結局のところ、「建設的批判」とはチームの推進にとって否定的な意見を排除しやすくための魔法の言葉に成り下がっているのである。例え間違った方向に進んでいようとも、進行を阻害されること自体が喜ばれないのである。

 

ほとんどの人は目的地に到達したいのではなく、船に乗っていたいだけなのかもしれない。