今日は少しタブーっぽい話。すでに出生前の段階において、生まれてくる子供がダウン症か否かを診断できるようになっている。数年前からできており、今では99%の確率で障害の有無を判断できるらしい。まぁ一言で言えば、「産み分け」が可能な時代になったわけだ。
とある議論サイトにおいて、この「産み分け」が、良いことなのか悪いことなのか、という議論がなされている→ダウン症か99%わかる出生前診断に賛成?反対?。結果は、反対が12票に対して賛成が95票。実に一方的な結果となっている。
1番支持されている意見を以下に引用する。
親の不幸を未然に防ぐことができる。
本音でまみれたネット社会の非情さが如実に表れていると言えよう。非常にリアリスティックであり、理想論の欠片もない。私は現実的に考えるタイプの人間なので、この考え方自体に対して反発しようとは思わないものの、これを支持する人の多さには驚いてしまった。
確かにダウン症の人は私たちからは哀れな存在に見える。「ダウン症」という言葉自体がタブーワードにされているし、「可哀想」とか「頑張れ」って言うことも一種の差別として扱われる。それを差別と認識する行為自体がダウン症に対する差別に他ならないのだが、本音を隠すことで表層的な解決をはかろうとする風潮が社会全体を包んでいる。
ただし、障害者を普通の人間と同じように扱うには無理がある。大企業で障害者を数%雇用することが義務化されているのも、障害者が社会においては不必要な存在だと社会的に認識されていることを証明している。これは残酷な考え方でもなんでもなく、事実なのだ。人としての尊厳を認めたとしても、社会的な能力については確実にハンディキャップを背負うことになる。
かと言って、「障害者の子供を持つと親が不幸」とか「障害者に産まれた不幸」というのはただの偏見に過ぎない。貧乏人は不幸だから、貧乏人は子供を産むべきではない、というハチャメチャな論理と同じである。立場の異なる人間がどんなに想像力を働かせたところで、彼らの本当の感情などわかるはずがない。もしかすると、障害者の子供を持ったからこそ得られた幸せ、障害者に生まれたからこその幸せもあったのかもしれない。
しかし、である。それが事前にわかるとなれば、話は変わってくる。例えば、私たちが、生まれてくる家庭を選べるとして、貧乏な家庭か金持ちの家庭を選べるとすれば、おそらく99%以上の人が金持ちの家庭を選ぶはずだ。貧乏だって幸せになれるとは言いつつも、それでも金持ちの方がより幸せになれるという気持ちが必ずある。
障害についても同じである。例えば、私は凄く目が悪い。別に目が悪いせいで不幸だと今は全く思っていないが、それでも良い視力を持って生まれてこれたら良かったと今でも思っている。目が悪くて良かったと思うことは、現時点ではひとつも思いつかない。誰だって障害はない方がいいに決まっている。
引用した意見は本質的であるため一見冷たく残酷なものに思えるが、決してそんなことはない。親がダウン症の子供を育てる苦労、子供が味わう苦難を総合的に考えた結果、親が1年近く戦うことになる腹の苦痛よりも上回るというだけなのだ。実際そのように判断する人が8割近くいるという話もある。いくら議論が展開されようとも、産み分けOKの流れには逆らえないだろう。
これを倫理的に間違っている、と言えるのは、今のところ障害者、もしくは障害者の親がどれだけの真実を語れるかにかかっている。どれだけの人が本音で、障害者に生まれて良かったと言えるか。あるいは障害者の子を持って良かったと言えるか。勝手な憶測で侵害された倫理を勝手な憶測で守ることはできないのである。