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そして今日も考える。

入学式欠席事件について

とある教師が、自分の子供の入学式に行くために教え子の入学式を欠席した事件(?)が最近ニュースでよく取り上げられていました。物議を醸すのは、この事実について問題意識を持っている人がいるからで、まぁ特に教育関係の人からすれば、言語道断、教え子よりも自分の子供を優先するなど何事だ、と言いたくもなるでしょう。

 

しかし、自分の息子を優先するのは当然、という考え方をする人たちも中にはいました。教え子と自分の息子、どちらが大切なのかは明白ですもんね。さらに、ヤフーの意識調査によれば、息子の入学式を理由に学校を欠席する教師について、「問題だと思う」と答えた人よりも「問題だと思わない」と答えた人の方が若干ながら上回る結果となっています。

 

この結果に対する1つの見方として、時代の価値観の変化が原因、と考えることができます。ワークライフバランスという言葉が普及する中で、仕事もプライベートも充実させるという価値観が今の日本を包んでいます。今回の事例で言えば、教え子の入学式に出席すること(ワーク)よりも、自分の息子の入学式に出席すること(ライフ)を優先させたわけなので、今の考え方には即しています。

 

ただ、本当に見出すべきなのは、多くの人はこの問題について特に確固たる意見を持っていない、ということです。実は先ほどのアンケート結果にはもう一種類の選択肢「どちらでもない」というものが用意されているのですが、わずか7%ほどしかいません。でも本来、教師以外にとってこの問題は「どうでもいいこと」です。どちらであっても、教師以外の人間には無害なため、当事者意識を持ちにくいのです。

 

しかし、教師ではない人でも、「自分の息子の晴れ姿を見たい」という気持ちには共感できます。これに対して、教え子がどれほど大切であるか、教え子に対してどれだけの責任を負うべきなのか、については教師以外の人間には想像し難いものです。結局、どっちでもいいけど、少しでも共感できる方を選んだ結果、「問題ないと思う」という結果になるのです。

 

また、「問題があると思う」と答えた人たちの意見は、少なからず嫉妬心に由来するものだと思います。自分たちが泣く泣くプライベートを犠牲にしてきた中、教師としての責任を全うせずに、自分の息子の入学式に参加する人を見るのは腹立たしいことでしょう。自分が我慢してやっていることを平気でやる人を見れば誰だって腹が立ちます。

 

その意見から派生して出てきたのが、教師は聖職者である、といった仮定に基づくものです。要するに、教師は聖職者だから自分の身を犠牲にしてでも他者に尽くさねばならない、という主張です。警察官だから命を張って他人を助けに行かなければならない、という考え方と同じですね。はっきり言って理想論でしかなく、全く現実的なものの見方をできていません。(そもそも人間に聖職者が務まるはずがありません。)

 

では、どうするのが良いのでしょうか。入学式を無くしてしまえばいいのです。私は入学式ほど存在意義のない儀式を見たことがありませんし、そんな詰まらないことで社会が荒れてしまうようであれば、無くした方が良いと思います。

 

入学式が誰のために開かれているのか、というと学校のトップと保護者のためです。生徒のためではありません。生徒のためという名目があったとしても、生徒はそのメリットを全く享受できていないのが現状です。

 

生徒にしてみれば、入学式に参加することも、入学式に母親が来てくれることも、入学式に先生が出席してくれることさえもどうでもいいことです。入学式そのものが時間の無駄なのです。後になって振り返ろうとしても、無味乾燥な式典は記憶にさえ残っていませんでした。そんなわけで、私は大学院の入学式には参加していません。

 

本当に「生徒のため」を考えるなら、何が必要で何が不要なのか、考えた上で学校行事の在り方を変えていく必要があるのでしょう。