∑考=人

そして今日も考える。

自分の定義は自分の中に持とう

小学校を卒業して、中学校に入るとき。中学校を卒業して、高校に入るとき。アルバイトを始めるとき。新しい環境に放り込まれると、自分自身が何者なのかわからなくなることがある。私以外にもそういう人はいるのではないだろうか。

 

私が一番最初に、自分自身が何者であるかわからなくなってしまったのは、高校から大学へと入るタイミングだった。気の知れた友人、気の知れた恋人、気の知れた場所。新しい環境と引き換えに、それまで当たり前に持っていた様々なものを失ったからだ。

 

冷静に考えてみれば、自分は自分でしかないことに変わりはない。しかし、時に自分という存在は、自分以外の者との相対的な位置づけによって決まってくる。ある集団に長く所属していると、その集団における役割のようなものが出来上がる。〇〇キャラという言葉があるように、集団における個人には別々のキャラクターが決定されるのだ。

 

一度キャラクターが決定されると、そのキャラクターこそが自分という錯覚に陥ることがある。例えば、ある集団においてお笑いキャラにされた人は、面白いことが自分自身を定義するものだと認識するようになる。もちろん、ある集団の中でキャラが確立されていくことそれ自体は望ましいことである。

 

しかし、このキャラこそが自分自身を定義するものだというのは非常にミクロな捉え方である。そして、これこそが自分の中で自分を定義できていない状態だ。お笑いキャラにされるのは、たまたまその集団において相対的に見て面白い人間だった、ということに過ぎない。つまり環境が変われば、その定義は簡単に揺らいでしまう。それは他者との相対的な関係によって自分という人間が決定されることを意味する。

 

同期たちを見ていて感じるのは、キャラに縛られている人が多い、ということだ。しかも目指しているところが似通っている。皆飲み会大好きキャラを気取るし、面白い話をしないといけないと思っているし、ノリがいいキャラを貫こうとする。果たしてそこに本当の自分はあるのか。何も見えてこないし、詰まらない。

 

キャラ設定に縛られると、果てしない。ゴールが存在しないからだ。例えば、ノリが良いキャラを貫こうとすれば、果てしなく自分の時間を奪われることになる。そして、一度でも断ろうものなら、期待値を上げた分だけ「あいつはノリが悪い」と突き放されることになる。自分自身を消耗していく未来しかない。

 

集団の中でのキャラ作りは大切である。ただ、安易にキャラを設定してしまうと、自らを破滅させてしまうことにもなる(アホキャラ、ノリキャラ、不真面目キャラ)。そして、簡単に目指しやすいキャラは、皆が目指すので、実は個性を無くしている。皆が偏差値60を目指すと、結果的に偏差値50になっているのだ。

 

実はありのままの自分を出していれば、キャラというのは勝手に定義されていく。いろんな集団に属していれば、その集団ごとに違ったキャラ設定が付けられるのが常だ。私の経験上、自分が「こう思われたい」と考えるキャラよりも、他人が「実際に思っている」キャラの方が自然体でいることができる。もちろん、無理にキャラに縛られる必要もない。

 

一番良いのは、キャラで自分自身を定義しないことである。人は色んなキャラ(資質)を併せ持つ生き物だ。それはたぶん数百種類以上ぐらいあるのだと思う。しかし、集団の中で定義されるものは、その中の1つか2つに過ぎない。そんなもので、自分の定義が決まるなんてバカバカしくないだろうか。自分の定義を自分の中に持ってさえいれば、1つか2つのキャラが無くなったところで、自然体でいることに何の恐怖もないはずである。時には自分を定義する資質について、絶対評価で考えてみることをおすすめする。