∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

木を見て森も見る

社会人になった今、義務教育で学んできたこと、受験勉強で身につけた知識が役に立っていると思える人はどのくらいいるだろうか。せいぜい小学生の頃に習った漢字や簡単な四則演算ぐらいだろう。

 

私も学生の頃はそれなりに多くのことを学んできたつもりだが、結局学んできたほとんどのことは忘れてしまっているし、この先の人生で必要になることも無いと思う。では、学生時代の勉強は無意味だったのかというと、それは全くもって違う。学生時代の勉強の価値は、全ての知識が無くなってもなお自分の中に残っている一見曖昧なものの集合なのである。

 

具体的な物は尖っていてインパクトがある。実践的で今すぐに活用することが出来る。一度歴史の知識を暗記していれば、テストですぐに良い点が取れる。ただ歴史の知識を丸暗記しているだけの人が理科のテストを受けることになったとしたら、同じように高得点を叩き出せるかは定かではない。具体的過ぎる知識は他の分野に応用することが難しいからである。

 

しかし具体的な事例を通して、一段抽象化したレベルの学びを得ることができていれば他の分野に応用することができる。例えば、歴史の知識を効率的に得る方法を学ぶことができていれば、理解のテストをすることになっても効率的に暗記をして高得点できる可能性は高くなる。

 

暗記問題だけではなく計算問題についても同じことが言えるし、さらに言えば、どういう勉強方法が適切なのかを調査したり判断する方法論レベルにまで抽象化すれば、スポーツなどの分野にも応用が可能だったりするのである。

 

一般的に高い偏差値を持った人が仕事場でも高い能力を発揮する傾向にあるのは、具体的な勉強を通して、抽象化された学びを得ることができている人が多いからなのである。ただし、中には具体的な事例にだけ特化している人もいる。そういう人は残念ながらその世界でしか生きていくことはできない。

 

もちろん、遅かれ早かれいつか人はそうなっていくものなのでそれ自体悪いことではないのかもしれない。ただ、残念なことに環境というものは絶えず変化するし、具体的なものほど簡単に陳腐化していくのである。そして、現在はそのスピードが凄まじい。要するに必要とされる具体的なスキルはどんどん変わっていくのである。

 

例えば、ここ10年ぐらいで携帯の主流はガラケーからスマホへと一気に変わった。つまり、ガラケー向けのアプリ開発のスキルは市場において求められなくなったということである。ガラケー向けのアプリ開発だけを専門にしていた人は淘汰されてしまったはずだ。一方で、ガラケーのアプリ開発を通して、アプリ開発というものを抽象化することができていた人は、スマホアプリ開発へとシフトチェンジすることができているだろう。

 

一発屋のお笑い芸人も同じようなものである。たまたま時代の潮流に自分たちのスタイルのギャクが乗った、だけの人が一発屋芸人になる。具体的なものほどすぐに飽きられてしまうため、流行は絶えず変化していくからである。

 

自分たちが売れた時に、自分たちのギャクのどんな部分が市場に受け入れられたのかを十分に抽象化できていたお笑い芸人は必ず、徐々に自分たちのスタイルを適切に変えている。一発屋芸人も変化する必要性は十分に理解しているため新ネタを披露するが、十分に抽象化できていないせいで、市場的にはほとんど同じようなものだと思われ、前の方が良かったと思われ、消えていく。一方、長年テレビで活躍している人は明らかに笑いのスタイルが当初と比べて変わっていることが一目で分かる。

 

確かに実践で使うためには十分に具体化する必要はあるし、具体化されているほど、脚光を浴びやすいのは事実である。しかし、それは裏にある抽象的な概念の理解が伴っていなければ継続的に活用し続けることは難しい。これはゼネラリストもスペシャリストも関係ない。常に自分が今やっていることを抽象的に捉える癖をつけよう。木を見て森も見るのが大切である。