∑考=人

そして今日も考える。

自分の幸せは誰かの犠牲の上に成り立っている?

自分が「幸せだな」って思うとき、別の誰かは「不幸だな」って思ってる。それが現実というものなのでしょう。そして、自分の幸せと他人の不幸に何かしらの因果関係が存在するとき、自分の幸せは誰かの犠牲の上に成り立っていると表現されます。

 

競争の世界は、自分の幸せが誰かの犠牲に成り立っていることを直感的に理解しやすいです。例えば、スポーツの試合で自分(のチーム)が勝利するということは、必然的に相手のチームが敗北する、すなわち犠牲になるということを意味します。相手が負けたから自分が勝った、という論理は基本的には正しく、相手の犠牲が直接的に自分の幸福に直結していることがわかります。

 

私も、永らく受験戦争で戦ってきた身なので、自分の幸せが誰かの犠牲の上に成り立っていると認識しています。私がある大学の受験に合格するということは、別の誰かが受験に失敗するということを意味します。もしかすると、その人はその失敗のせいで一年間浪人をしたのかもしれないし、大学の進学自体を諦めてしまったのかもしれない。その失敗経験が後々プラスに働く可能性があったとしても、その時点で犠牲になったというのは紛れも無い事実です。

 

このように、残念ながら自分の幸せは誰かの犠牲なしには成り立ちません。大事なのは、だからどうするべきなのか?という思考を働かせることです。個人として本当に考えるべきは、いかに犠牲を少なく自分の幸せを大きくするかです。

 

私は高校受験も大学受験も私立を受験しませんでした。正直なところ、その理由の1つには、自分のわずかな安心のためだけに誰かの人生を犠牲にしたくない、という思いがありました。就職活動も同じです。いわゆる「滑り止め」のためだけに人様の一年間を犠牲にするのは割に合わないし、そうするべきではない、と思うのです。

 

もちろん、これはただの偽善です。そもそも受験に失敗する人、競争に敗れる人は能力がないせいで失敗しただけのことだ、という解釈だってできます。また、滑り止めによる安心感の価値は人によってそれぞれであり、計り知れません。自分の安心感を放棄することは自分自身をぞんざいに扱うことにもなりえます。

 

しかし、結果的に自分が自信あるいは覚悟のような精神的な力を持つことによって、他者の犠牲を減らしていくことは可能なのです。事実、能力があるにも関わらず、不安からたくさんの企業を受ける人と、自分の能力を信じて少数の企業を受ける人では、他者に与える犠牲の量は異なります。

 

他人の犠牲を減らすためにはやはり自分を犠牲にする必要があります。しかし、それは物質的なものではなく、精神的なものに依存していることも多々あります。物質的な犠牲を無くすことは極めて難しいかもしれません。(例えば、動物の命をいただかないと人間は生きていけない)しかし、精神的な犠牲については、自分が強くなることで解消することが可能です。

 

自分が強くなれば、他者だけでなく自分自身の犠牲をも緩和することができます。例えば、親が子供を育てるためには大量のお金と時間が必要です。しかし、子供が幸せに育つために親が犠牲になっているかというと、ほとんどの親は犠牲だとは感じていません。なぜならば、物質的に犠牲になったもの以上に、精神的な幸福を得ることができているからです。そして、親の心が強くなければ、精神的にも犠牲を感じます。育児放棄などが起きるのはそのためです。

 

私は、自分の幸せは誰かの犠牲の上に成り立っているというのが通説になってほしくないと思います。そこで思考を停止してしまうと、自分の不幸を肯定化してしまう人や、幸せな人を悪者と解釈してしまう人たちが生まれてしまうからです。そして、そのような人たちは精神的な弱者です。残念ながら、精神的弱者の犠牲は他人を幸せにするどころか他人も不幸にしてしまいます。

 

まとめると、自分がすでに幸せな人は、少しでも誰かの犠牲を減らす余地がないか考えてみる。誰かに対して罪悪感を感じている暇があるなら自分の幸せを維持しつつ、他人の犠牲を減らす。他者への罪悪感から不幸を気取って幸せの総量を減らす方が社会的幸福の損失です。

 

逆に、自分が今不幸な人は、それが物質的なものによるのか精神的なものによるのか考えてみる。そして、それが精神的なものであるなら(大抵がそうでしょうが)、その不幸は誰の幸せの役にも立っていないので、不幸自慢に陥る前にさっさと改善策を探す。

 

自分の幸せが誰かの犠牲の上に成り立っているからこそできることもあるはずです。