∑考=人

そして今日も考える。

普通に大企業に入る幸せ

昨今でこそ、「大企業に入れば幸せ」という時代は終わったと言われるようになりました。しかし、一億総中流時代と呼ばれた頃も果たして大企業に入ることが幸せだったのか、という点について僕はいつも疑問に思います。

 

僕は一応日本の中ではそれなりに大きい会社に勤めることになりました。でも、だからといってそれが凄く幸せとか、そういった感情はあんまりないですよね。純粋に就職が決まったことに対する瞬間的な喜びはありました。でも、それが大きい企業であることによって増幅されたのか、というと正直そんなことはありませんし、特に長続きもしませんでした。

 

大学とかもそうです。幸せだな、嬉しいな、と感じるのは結局合否判定の瞬間ぐらいなものでした。もちろん、その一瞬にはとても価値はあると思っています。でも、本気で目指していた目標が叶ったとしても、その先の人生がずっと幸せなんてありえませんし、一ヶ月も持続すれば良い方でしょう。

 

もしかすると、こういう僕を「なんて贅沢なヤツだ」と感じる人は少なくないのかもしれません。特に、本気で大企業に行きたかったのに行けなかった人たちなどからすれば、腸が煮えくり返るような現実でしょう。もちろん、そういう人たちに対して幸せなフリをすることはできますが、別にそれは真実の気持ちではないことは確かです。

 

隣の芝生は青いし、隣の花は赤い。逆に言えば、自分の芝生は赤いし、隣の花は青い。自分のところにある幸せには気づきにくいものです。だから、これさえ手に入れば幸せという考え方を抱くべきではないし、そうやって手に入った幸せは、一過性なものにすぎません。普通に大企業に入ることは幸せなことだと頭では理解していても、本音を言えば「?」ってなります。

 

例えば、電話がない時代の人とか、戦争があった頃の人とか、あるいはそれ以上前の不便な時代に生まれた人たちに対して、僕たちはついつい可愛そうだなと思っちゃうじゃないですか。でも、実際のところ、今の僕達が感じてる幸せと昔の人たちが感じていた幸せに大差ないのかなと僕は思ってます。今も昔も不幸な人は一定量いるわけだし。

 

確かに、昔の人が今の僕達の生活を見れば、なんて幸せな世界なんだ、と思うのは間違いないでしょう。しかし、実際にこの世界に普通に暮らしている僕達からすれば、豊かな生活があるだけで毎日が凄く幸せ、という風に感じることができるのかというと、無理ですよね。結局、そういうことなんだと思います。

 

豊かな世界には豊かな世界なりの問題があって、良いことばかりではないからです。そして、それは他人の価値観で測りうるものではありません。今は就職氷河期やら消費税増税などの国民の頭を悩ませる問題がたくさんあります。戦争時代の人からすれば、命が保証されているだけいいじゃないかと感じるのかもしれませんが、どっちが大きな苦しみを感じているのかは測り得ないのです。

 

考えてみると、幸せという概念を創りだしたこと自体がそもそもの失敗だったんじゃないかという気もします。

 

例えば、僕が考えるお金持ちの定義ってのはお金のことを何も気にしなくていい人なんです。例えば、ブランド店に行って気に入った服があったとして値札など気にせず購入できる人はもうすでにお金持ちです。これが欲しい、これがしたい、と思ったときにお金のことを全く気にしなくてもいい状態を私はずっと目指しています。

 

おんなじ理屈で言えば、自分が今幸せか不幸かなんて気にしなくてもいい状態がたぶん一番幸せなんだと思います。そういう意味では、幸せか不幸かを考えるキッカケとなった「幸せ」という概念がなければ、みんながそんな尺度に苦しむことなく、毎日をただ生きることに勤しむことができたのではないかと思うのですが、どうでしょう。

 

何の話かわからなくなったのでこの辺で終わります。