∑考=人

そして今日も考える。

納得と賛同を使い分けるとだいたいのことはうまくいく

他人を100%理解することは不可能だ。他人と自分の遺伝子、育った環境が異なれば価値観も異なる。だから当然、他人の意見に対して納得がいかない場面は多々あるだろう。

 

でも、他人の意見に納得できないのは、愚者としか言い様がない。他人の意見に納得できないのは100%自分の能力不足である。なぜなら、納得とは、他人の考えや行動を十分に理解することだからだ。事実として現れている言動を理解できないのは、自分の知力が足りないだけである。事実はいつも正しいのだ。

 

しかし、多くの場合、納得できない言動そのものに問題があるような言われ方をする。例えば、「戦争して何が悪いの?」と本気で考える人がいるとすれば、納得がいかないと感じる人の方が多いだろう。そして、その発言自体や、その発想自体が間違っている、という話になる。

 

だから、納得出来ないということになるわけだが、実際にはそのことについて「納得」がいかないわけではない。「賛同」できていないだけだ。日本社会では、納得=賛同の意味で使われていることが多い。別に正しい言葉遣いを推奨するつもりはない。皆がそのような意味合いで使っているのだから、「納得できない」というのは表現方法としてはデファクトスタンダードだ。

 

しかし、自分の中では、賛同であるのか、納得であるのかを明確に区別しておいた方が良い。というのも、相手の意見を聞いて賛同できないと、納得しようとしないからだ。人間には自分が聞きたくないことは聞き入れないようにするし、見たくないものは見ないようにする習性がある。そのため、賛同できないと感じたとたんに、納得する努力を怠ってしまうのだ。

 

だから、納得できない、というのは、実は、賛同できない → 賛同したくない → 納得しようとしない、というプロセスを経て現れた結果なのである。相手のハチャメチャな論理が悪いわけではなく、相手を理解できない自分が無能なのだ。理解した上で、自分はその意見に賛同できるのか?できないのか?という視点で考えるくせをつけると、むやみやたらに人の意見に腹を立てることはなくなる。

 

よって、納得できないを言い訳に他人の意見に耳を貸さないのは、ただのわがままとしか言い様がない。自分が賛同できることしかしないのは、自分勝手でわがままな人間だ。そう考えると、むしろ色んな物事に納得できない自分というのは恥じるべきことですらある。

 

納得した上で、「それはおかしい」とか「そんなの間違っている」と思うなら、その人とは少し距離を取る方が良い。納得しようとしても理解できない場合も同じだ。人間誰しも、(うまく言語化できないとしても)自分なりの意見を持っているものだし、それを簡単に捻じ曲げることができる人の方が絶対数で言えば少ない。自分の意見を伝えることにはそれなりに意義があるのかもしれないが、理解できない人に自分の論理を強要することにほとんど意味は無い。

 

価値観は違うけど、距離は取りたくない、ということもあると思う。そもそも、人間の本能として、自分にないものを持っているものには何かしらの魅力を感じる側面がある。よって、価値観が違う人をいかにノンストレスで認めることができるのか、というのは生きていく上で本質的に重要な問題である。

 

そういう場合は、分かり合えない部分を何とかしようと考えるよりも、分かり合える部分をいかに多く見つけるか、にフォーカスした方がいい。弱みを切り捨て、強みを伸ばす発想と同じだ。強くシンパシーを感じる部分があれば、全く共感できない部分があっても、その部分についてさえ互いに触れなければいいのではないか、と思う。

 

よく、人といい関係を築くためには、なんでもかんでもぶつかり合って全てにおいて妥協点を見つけることが推奨されるけど、そんなことをしても心の底から共感できる部分を無くしてしまうことだってある。お互いが同じ分だけ我慢して自分と相手の価値観を無理やり合わせるのではなく、お互い賛同できない相手の価値観に関してはスルーする、という付き合い方をあっていいはずだ。

 

もちろん、互いに納得していることは必須条件である。しかし、必ずしも賛同する必要はない。納得と賛同を使い分けることができれば、ほとんどの人間関係はうまくいく(人間関係に多大なストレスを感じることはなくなる)と思う。