∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

論理的であればあるほど腑に落ちない

私の会社はシステムやプログラムを扱っていることもあり、論理的な人間が多い。これが問題です、と言えばなぜ問題なのかを問われるし、この方法はよくないと思います、と言えばなぜだめなのかを問われる。

 

もちろん、論理的に考えること自体は非常に重要であるし、特に数値化が可能な物事を決定する上では非常に武器となる。しかし、何でもかんでも論理的に考えれば結論を導けるというわけではない。むしろ個人的には、論理的思考能力によって解決できる問題の方が少ないんじゃないかと思っている。

 

最近は、仕事のことをそこそこ理解できるようになってきたので、自分が思うことを言うようになったし、もちろん上からも発言を求められていると思う。当然、ゼネコン型なので、自分が指示を出して協力会社のメンバに仕事をしてもらう必要がある場面も多くなってきた。それすなわち論理的に考える必要があるということだ。

 

ただ、私がいつも思うのは、この会社の人は相手を論破すれば納得が得られると勘違いしている人が多いことである。正確には相手を納得させるためのエネルギーや時間を使う方が勿体無いと感じた方が論破されたように見えているだけである。で、どちらが諦めるかというと立場が下のものなのである。ここらへんは縦社会である。

 

例えば、赤と緑はどっちが良い色でしょうか?という問いに論理的に答えることは不可能といえるだろう。もちろん、日本国民全員にアンケートをとって、ファクトベースで考えれば結論は出せるのであろうが、ロジックだけで解答を得ることは決してできない。これは当たり前で感覚の問題であり、価値観の問題であるからだ。結局論理と論理がぶつかっても最終的には価値観の違いが浮き彫りになるだけである。

 

もちろん、これがディベートなどであれば、結論を得ること自体が目的ではないから別にいいのだが、ビジネスの現場では結論を出さなければならない。そうなれば、当然偉い人の価値観に沿った結論になってしまうのである。なら議論するだけ無駄だから、偉い人が勝手に決めてくれ、と私はずっと思っている。アウトではないなら、どちらがよりベターなのかを何でもかんでも議論すべきではないだろう。

 

論理的な人間は、だいたい自己特有の仮定を相手に共感させることからスタートし、自分の主張を論理的に導く傾向がある。適当に聞いていると、あー確かに論理は通っているなー、と感じてしまうが、実際には仮定の段階で条件を絞り込んでいるだけのことが多い。そして、仮定の正しさを立証するための論理は上手く説明できなかったりする。逆に自分が導入した仮定とは違う前提の誤りを指摘するモードに入る。いわゆる弁が立つ人間はこういうことは自然にやってのけるので、注意した方がいい。

 

私はこういう人の話はいつも腑に落ちない。