∑考=人

そして今日も考える。

ハイエナビジネス

 SIerの業績は何によって決まるのか。それは良質なシステムを作ることではない。画期的なサービスを生み出すことでもない。良い顧客を持つことである。良い顧客とは、彼らの事業性が高く収益が安定しており、かつITに対して積極的に投資をしてくれる顧客のことである。大規模な案件を受注できれば後はマージンを差っ引いた賃金で外注、委託するだけだ。

 

もちろん、設計やマネジメントを確実に遂行する必要はある。ただ、良い設計や良いマネジメントをすることが本質ではない。あくまで顧客の財布である。もし顧客毎で部署が分けられていれば、配属の時点である程度業績の評価は決まってしまう、ということである。やっていることは商社と同じなのかもしれない。

 

なぜこのような構図になってしまうのか。

 

1つは、今のSIerのほとんどが成果報酬型でない、すなわち、システム開発にかかる工数(労働力)でシステムの金額が定められていることにある。

 

つまり、出来上がったシステムに全く価値がなかったとしても、私たちはシステムを開発しました、という事実に対して報酬が支払われるシステムになっている。その代わりに開発後も一定期間は瑕疵担保責任を負うことにはなるが、それでもSIerにとっては非常に有り難い仕組みである。

 

もう一つは、出来上がったシステムが顧客の売上向上にどれだけ貢献したのかが十分にトレースされていない、ということである。システム開発が成果報酬にならない理由でもある。

 

とは言え、これはなかなか困難なことだと察する。例えば、店舗でしか商品を販売していない店が、オンラインショッピングサイトを構築した結果、売上が倍(元々の売上が一日あたり100万円だったのが、200万円)になったとしよう。

 

この場合、システムがもたらした価値は一日あたり100万円なので、そのうちの30%を報酬にするとすれば30万円である。ただその効果はいつまで続くかはわからない。数年後には効果がさらに増えるかもしれないし、半減してしまうかもしれない。

 

あるいは、たまたまサイト構築の時期に売上が上がった別の要因があったのかもしれない。オンラインで購入する人が増えた半面、リアルで購入する人は減っているのかもしれない。もちろん、O2Oという言葉があるようにどちらも増えているのかもしれない。こうなってくると、明確にシステムがもたらした価値を数値化するのは不可能である。

 

こんな背景もあり、なんとなく、業績は上がったし、次も投資しよう、ぐらいにしか考えていない企業は結構多いんじゃないだろうか。費用対効果を測るのが難しいために、単なる「効果」だけを見て投資している企業も多いと思う。「そもそも会社の体制の中に「システム部門」が存在しているために意味はなくてもシステムを作ろうとしている会社も結構あるんじゃないだろうか。」

 

結果的に、今業績の良い会社は事業性が低くても多額なIT投資をしてくれるし、逆に業績の悪い会社は事業性が高くてもあまりIT投資をしない。将来的な事業性は二の次なのだ。

 

我々はそういうお客さんのハイエナをして稼いでいる気がする。

カードシステムは統合した方がいい

私はポイントカードというシステムがあまり好きではない。シンプルでないからだ。財布が煩雑化するのが最も解せない。

 

元々、ポイントカードというのはマーケティング分野においてはかなり活気的な仕組みではあったのだろう。例えば、100円毎に1ポイントつく店があって、1ポイントが次回は1円になるとすれば、次もまたその店で買い物をすれば1円お得(還元率1%)ということになる。

 

数学的には、常に商品を1%引きの価格で販売していることと同じである。しかし、人間の心理として1円程度の金額であれば大したメリットは感じられないが、チリも積もればで普段から高額な買い物をしていればその分ポイントはまとまった額になるため、またその店で商品を購入する意欲が増す、という仕組みである。

 

また貯金と同じで、何かを買うために貯めるのではなく、ただただポイントを貯めることに満足する人達は一定数存在するため、ポイント5倍デーなどがあるとたちまち消費が促進される効果もあるのだ。

 

まぁ実際のところは、ポイントが5倍ついてお得感を感じているのかもしれないが、はっきり言って必要ないものを買わされていることが多い。明らかに損をしているのだ。セール品を買うことが得でないのと同様、ポイント5倍デーに買い物をするのが得とは限らないのである。

 

ちなみに話が逸れるが、ほとんどの場合高額の商品を購入する際にポイントを使うのではなく、安い商品を購入する際にポイントを利用する方が経済的にはお得である。なぜなら、高額な買い物をする時がもっともポイントが多く付与される一方で、ポイントを使って購入した場合にはポイントが付かないケースが多いからだ。

 

沢山ポイントを貯めてから高額な商品を購入するときにまとめて使うのを好む人が多いようだが、それははっきり言って無駄で、なるべく最小単位のポイントが溜まったらすぐに使うのが効率的なのである。私はZOZOTOWNなどで購入するときは毎回少額のポイントを使っている。

 

つらつらと述べてきたがポイントカードシステムがあった方が企業的にはプラスになるだろう。ただし、それは他の店、競合他社がポイントカードシステムを導入していない場合に限るのではないだろうか。

 

例えばコンビニなどでもローソンではPONTA、ファミマではTポイントカードなど、それぞれ別のポイントカードが存在している。なら、別にどちらのコンビニで買うかの決定打にはならないだろう。アパレルメーカーについても同様である。

 

また、せいぜい還元率は5%~10%の間に留まる。それ以上インセンティブを与えても、収益が上振れしない、と察する。そんなことのために財布を煩雑化させるのが私は嫌いなので、日常的に使う必要最低限のカードしか保持していないし、購入時にカードを作ることはあってもすぐに破棄する。

 

これは一枚のカードでは実現できないのだろうか。最近は、先ほど述べたようなPONTAやTカードもコンビニ以外でもポイントが使えることをウリにしたものが登場してきてはいるが、十分に統合はされていない。またまだ市場のパイを奪い合う戦略の延長線上にある。

 

全てのコンビニあるいはその他のショップで使えるポイントカードを1枚にすることはできないのだろうか。最悪ポイントシステム自体は店舗毎に別管理、でも良いと思う。要するにポイントシステムの統合プラットフォームのようなものがあれば、媒体は1つでいいんじゃないかと思うのである。

 

別の例として、化粧品メーカーのカードがある。化粧品メーカーでは化粧品を購入する際に、その人が今までどんな化粧品を使ってきたのか(使用履歴)、などの情報を保持するためのカードを発行している。

 

この化粧品メーカーのカードであるが、全く同じブランドであるにも関わらず、店舗毎にカードを作らなければならないのだ。男性には全く馴染みのない話だろうが、彼女の財布を覗いてみると同じ体裁のカードが数枚入っていることに気付くと思う。

 

これはポイントカード以上に訳が分からない。同じブランドであれば、店舗毎に客を奪い合う必要があるのだろうか。また、使用する化粧品も同一ブランドなので容易に識別可能に思えるのだが、現状そうはなっていないケースがほとんどなのである。化粧品メーカーは女性が主流だからITに疎いのだろうか、と勝手に思っている。(個別に管理されている理由を知っている人がいたら本当に教えてほしい。)

 

結論、今のカードシステムのほとんどは統合した方がわかりやすいってことです。

仕事へ行きたくない理由

大型の夏休みを頂き、地元に帰って旅行に行ってきた。明日からはこれまで通り仕事が始まる。

 

一般的に、休みの前日というのは凄く心が躍るものである。週末だけを楽しみに生きている人間もいることだろう。一方で、仕事が始まる前日というのは、憂鬱この上ないものだ。

 

ただ、私はあんまりこのような心理に納得はいっていない。仕事に行きたくないと思ってしまう理由は何なのだろう。

 

仕事は自分の意志とは無関係にやらなければならないものだからだろうか。仕事は辛く、面白くないものだからだろうか。

 

多くの人は仕事はつまらないもの、一方で休みは楽しいものだと思っている。休みは自分の自由に過ごすことができるから、なのだろう。ただ、私はあんまり休みの日が最高だ、と思ったことはない。仕事がやらなければならないものだというのなら、休みの日だってやらなければならないことは沢山ある。

 

それは、家事と呼ばれる仕事だ。男社会では「主婦」は職業として認識されないことも多いが、これは立派な職業だと私は思っている。人間が生きるためには、掃除、洗濯、料理、買い物、ありとあらゆるタスクで埋め尽くされているのだ。それは休日だって同じである。

 

仕事がつまらないもので構成されているから仕事へ行きたくないのなら、休みだって同じではないだろうか、と私は頭では思っている。なぜそういうものの辛さは表面化して語られないのだろうか。人が休みを語る時にはそういうタスクを抜いたほんの一部の時間のみを対象としているように思う。

 

私は長期休暇を取るときに、色んな地元の友人に会ったり、出かけたり、楽しい時間を過ごしてはいるが、新幹線に乗って移動する時間や、家族と同じ空間で過ごす時間など苦痛を伴う部分は結構ある。だから帰省するのが億劫になることも多い。(結局いつも帰るのだけれど。)

 

仕事がルーティン化されていて、つまらないものだと語る人は多いけれど、結局のところ、プライベートというものも年単位ではすっかりルーティン化されているように思う。もう社会人になってからの長期休暇の過ごし方どころか、季節ごとの楽しみ方も毎年同じだと言って差し支えない。仕事と休日のどこに差分があるのだろう。ようは単なる世間的なイメージに過ぎないのではないだろうか?なんて最近では思う。

 

究極的な違いはやはり人間関係しか残っていない。気の知れた友人と過ごすのが休日。僅かな繋がりだけでできている会社。確かにこの差は大きいだろう。もし会社が自分と仲の良い人間関係だけで成り立っているのなら仕事は楽しいのかもしれない。経験として、アルバイトの時はそういう感覚があったのも確かである。

 

あるいは、小学校とか中学校の時もそうだったに違いない。夏休みは楽しみではあったけれども、夏休みがもうすぐ終わることに対する楽しみもあったのではないだろうか。少なくとも私は、これでみんなに会えるな、という微かな期待があったように思う。

 

翻って、今はそんな期待がない。だからこそ、仕事へ行きたくないという感情に到達するのだ。会いたい人が沢山いればそこへ行きたいと思うのは真理である。

知らない人と交流するのはそんなに良いことなのか

今日は事業部全体の飲み会があった。一応補足しておくと、事業部とは複数の部署から構成される少し大きめの事業単位である。総勢100名程度が参加した。

 

この手の飲み会が私は非常に苦手である。一年目を境に基本的には参加しないスタンスだが、3回に1回ぐらいの頻度で参加するように心がけている。一応、可能性への投資、と自分に言い聞かせている。

 

私の課長はこの手の飲み会に参加することを結構推奨している。できるだけ偉い人と話して顔と名前くらいは覚えてもらうように、とよく言うものだ。でも、偉い人が飲み会を通して私を認知してくれることはないと思う。飲み会の場で記憶に残るほどインパクトのあることはしないし、別に偉いさんだって若手の顔を覚えよう、なんて気があるわけではないのだ。私も別に偉い人に気に入られよう、なんて全く思わない。

 

あと、こういう飲み会になると、「なるべく知らない人と交流しよう」みたいなスローガンが投げかけられることが多い。ただ、蓋を開けてみると、みんな同じ部署の人と固まってワイワイやるのである。こういうあたりはもう日本人の特性なのだろうなと思う。逆に、私はこういう機会こそ、同じ部署だけどそんなに話したことのない人と話すようにしている。海外に行く前にまず国内に行った方がいくべきでは、という考え方なのだ。

 

今は多様性が求められる時代ということもあり、自分の知らないことを教えてくれる人と語り合うのは”良いこと”として推奨される傾向があるけれども、結局飲み会の場で、互いの価値観などをぶつけ合うところまでは発展しない。アメリカ人みたいに「私はこの問題についてこう思ってるけど、君はどう?」みたいな発言をされても皆困ってしまう。

 

本当に異なる文化を学ぶのであれば、何か共通の、価値ある目標を掲げ取り組むみたいなことをしなければ、何の意味もない。少なくとも、この「知らない人と会話する」飲み会を今まで何度か参加してきたし、それなりに話してきたけど、結局その場限りの人間関係で終わり、またその会話から何も学ぶことはない、というのが私の中での結論である。

 

だから、もうそんなに知らない人との交流を重要視する必要はないんじゃないかなと思う。どうでもいい人のどうでもいい側面を知って何になるのか。もちろん、それを面白いと思える人はどんどん参加すればいい。でもそういう催しを崇拝なものとか価値あるものとして位置づけるのは頂けない。何も学ぶものがないのであれば、せめて気の知れた人と話している方がよっぽど良い。

質問とは投資である

学生の頃に出題される問題とは違って、社会人の仕事には正解がない、とよく言われる。これは半分真実であって、半分は嘘だ。仕事の中には正解がないものと正解があるものがある。仕事の中にも必ず”事実”と”解釈”、”過去”と”未来”があるのだ。もちろん、最終的に完成する仕事レベルの単位ではもはや正解はないのかもしれない。しかし、仕事を形にするまでに集める情報とかそんな類のものについては常に正しい答えがある。

 

答えのない問いに答えるためには確実なもの、すなわち事実をよりどころにするのが最も良い。大抵のイノベーションとかも、不特定多数の事実をかき集め、そこから帰納的に導き出される抽象的な推論を出し、何をすればよいのかという仮説を立てるところから始まる。つまり、事実がわからなければお話しにならない。

 

というわけで、事実を知っていることはとても大切である。今の時代であれば、単なる情報収集はググれば済むと思うかもしれないが、会社内に閉じたような情報だと自分で調べるのはかなり骨が折れる作業であり、非常に非効率だ。できる限りは避けたい。

 

そうなると、最も良いのは、知っていそうな人に聞く、ということである。これが一番楽である。私は基本的にわからないことがあっても自分で何とかしたいタイプであるが、さすがに既知の答えを探すことに大量の時間をかけるのはやはり非効率なので、最近は人に聞くようにしている。

 

ただ私が他人に聞くのは、答えのある問題に対する回答のみである。つまり質問だ。やり方がわからなくてどうすればいいですか、という相談はほとんどしなくなった。数学でもそうだが、物事のやり方とかには正解がないことが多く、自分で考えた方が良いと結論づけているからである。

 

しかしながら、答えを聞いているにも関わらず、答えに至るまでの方法論を教えてくれる人が少なくない。これは相手が優秀で、ありがたい話なのだけれど、いやいやその方法は自分知ってますとか、あなたが回答してくれなければもともとそうするつもりでした、みたいに思うことが少なくない。

 

相手は当然親切で答えてくれているのかもしれないが、私からすれば、質問をした時間が無駄になっただけ、ということになる。私はすぐに答えを手に入れるために質問をしたのだから。さらに言えば、実際のところ、「あの人は質問に答えられなかった」と思われないように無理やり苦し紛れの回答をしてしまうケースの方が圧倒的に多いと思う。

 

ただまぁ私は最低限の概要を自分で調べたら、詳しい人に聞くようにしている。そして、どんな回答が来てもありがたく受け入れる。それは質問とは一種の投資、ギャンブルだと考えているからだ。

 

例えば、パチンコ台Aに1000円入れれば、それがなくなってしまうかもしれないし、10000円になるかもしれない。どうせ1000円入れても無駄でしょ、と思えば決して10000円になることはない。

 

質問も全く同じだ。ただし、質問の場合リターンはお金ではなく時間として帰ってくる。Aさんに聞けば長々と知っている情報を教えられたのち、自分で1時間調べなければならないかもしれないが、3秒で即答してくれるかもしれない。どうせ、答えは知らないんでしょ、と思えば決して3秒でわかることはない。

 

ただし、質問の良いところはギャンブルとは違って、質問をすればするほど精度を上げることができることだ。Aさんにこの質問がわかるかどうかの見極めがつくようになってくれば必要最小限だけ頼ればいい。そもそも、他人なんてほとんど当てにはならないというのが私の見解だけれども。

説教おじさんとゆとり世代

つい最近、後輩の女子に結構ガチな感じで不満を言われました笑。なんていうか、こんなにストレートに文句を言われるのは久しぶりだったので、唖然としてしまいましたね。たぶん先輩たちもいい気味だと思っていたことでしょう。文句の内容としてはよく昔の彼女とかにも言われてた「偉そう」とかそういう類の話ですね。合ってます。残念ながらそういう性格は治りませんけど、と思いながら一応謝っておきました。

 

一言でいうと、私に説教おじさんっぽいところがある、のが気に入らないんだろうな、と解釈しました。確かに、こうやってブログとかで自分の考え方を披露したりするのも、これが正しいと自分なりに思っているものを全体に発信する意味合いもあるわけです。ただ、知人が見れるところにそういうことを書くと、鬱陶しいやつになってしまうからこういう形で書いているだけであって。

 

というわけで、リアルの場ではあんまり説教とかは言わないようにしてはいるんですけど、気にかけている人に対しては質問に対して単なる回答を添えるだけではなく、「もっとこうしたらいいのに」と思ってアドバイス的なことをしてしまう時があるんですよ。

 

でも、そんなことは求めていない、というのが後輩女子の気持ちだそうです。これが本物のゆとり世代か、とか思いましたけど、女性なら普通にありがちな考え方でしょうね。女性って不満とか悩みがあってもそれを解決しようとは思わないじゃないすか。これは男性の、というか私の理解を凌駕しますね。

 

結局、女性にとっては悩みとか不満はアクセサリーみたいなもんで、常に身に着けていたいものなんでしょう。今回の件で私が反省しないといけないのは、後輩である前に女性であることを軽視していたことですね。

 

とは言え女性に限らず、ゆとり世代はおっさん達の飲み会に行きたがらないという話もよく聞きます。これも理由としてはおっさんの説教なんて聞きたくねーよ、ということらしいです。

 

昔の人たちって、そういう飲み会での説教が役に立つときもある、とか言うじゃないですか。まずは飲み会に参加してから判断しろ、みたいな。でも若者からすると、別にそんなん求めてないですー、ってなる。結局折り合いはつきません。

 

これって、もうおじさんとゆとり世代の価値観の違いが如実に表れてますよね。そもそもおっさん達の頃は、仕事で出世して高い車をもって良い家に住みたい、みたいな夢を持っている人が多かったわけですよ。つまり外発的モチベーションとは言え、仕事に対する向上心があった。

 

でも、今のゆとり世代は、結構今の生活(主にプライベート)に満足している人が多いんです。仕事を最低限の労力でこなし、プライベートを充実させる。プライベートを充実させるために今大したスキルは必要ないですし、表面的な友達であれば簡単に増やせる時代です。だから特に今より良くなろうという気持ちがない。今のままでいいと思っている。よっておっさんのアドバイスは響かないんです。おじさんはそこらへんを理解した方がいいのでしょう。ちなみに、私は純粋に仕事できるようになりたいのでおっさんの説教は割と好きですけど。

 

対するゆとり世代の志向も結構危ういですよね。彼らが言う「今のまま」とは、自らはほとんど価値を生み出さず、別の人が生み出した価値に便乗して生活している状態だからです。例えば、給料額だって、本来自分で稼いだ分じゃないんじゃないですか。一般的な会社では、給料の3倍額の利益を出して初めて本来の給与額を貰うに値すると言われますよね。

 

つまり、給料の3倍額を稼ぎ続ける力があって初めて今の生活を維持することができるってことです。「今のまま」というのは自分が他人に助けてもらってる状態なのです。「今のまま」を続けることができるのは、会社にいる他の人が凄く稼いでいるからであって、その資本を投資という名目で、若者に分配してくれているだけなのです。そんな「今のまま」が一生続くと思いますか。

 

たぶん、続けられないだろう、ということは理解していると思います。だからこそ、今の若者は不満はないけど不安はあるという人が半数を超えるそうです。でも、将来どうなるかわからないし、今やりたいように生きよう、ということなんでしょうね。でも、まぁ私は向上心はあった方がいいなと思います。じゃないと、結局彼らが困っちゃいますしね。

 

 

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会社からの評価なんてどうでもいい、と思っている人に

最近の人はどうも、出世欲というものがあんまりないらしい。その結果、会社からの評価もほとんど気にしない、という人が多い。特に成果主義ではなく固定給をもらっている会社だとなおさらだろう。出世のための絶対条件は会社から評価されることであるのは今も昔も変わらないが、出世に興味がないなら高い評価をもらう必要もない。当然と言えば当然だ。

 

私もどちらかと言えば、会社からの評価なんてどうでもいいと思っている。ただし、必要以上に媚びへつらったりしない、というだけだ。無理に飲み会に参加したり、人間性だけを売りにしない、ということだ。他にもあんまり直接的な業務に関係ない仕事に対して全力は尽くさない、ということだ。

 

評価されなくてもいいが、スキルアップはしたいと思っている。それはスキルアップをした方ができることが増えるからだ。わからなくて困ったりすることも減るし、いいアイデアが浮かんだりもする。何より、何もわからずにやっているよりもわかってやっている方が楽しい。これはこの世の真理だ。

 

なので、別に評価もされたくないし成長もしたくないと思っている人はこの記事を読んでも参考にはならない。そのまま窓際族として生きていけることを祈っている。逆に、自分が成長することと、会社から評価されることは別ものだと思っている人にはぜひ伝えておきたい。

 

会社に評価されるといいことはある。評価されても高い報酬をもらえるないかもしれないが、評価が高いほど自由になれる。これは私が今まで見てきたどんな組織でも同じだった。

 

まず、自分の仕事を一々監視されなくなる。新人の頃は事前にわかりにくい説明をだらだらされて、実際にやってみてわからないことがあったら適宜問題がないか確認して、実際に仕事が完了したら確認してもらう、みたいなプロセスを踏まなければならない。

 

しかし、評価がついてくると、「あいつならほっといても大丈夫だろう」と思ってもらえる。すると、仕事の進め方、それに割く稼働もろもろを自分の裁量で決められる。モノによっては一々成果物もチェックされない。これは非常に楽である。

 

発言や質問のハードルも下がる。例えば、誰からも評価されていない時に、簡単な質問をすると、「そんなことも理解できないのか」などと思われそうな不安に駆られる人も多いだろう。しかし、周りの評価がついていれば、「むしろ自分の説明が悪かったのか」と相手に思ってもらえる可能性が高くなる。結果的に自分の意見を組織に反映させやすくなる。

 

他にも、意思決定の前の相談を受ける機会が増える。新人の頃は意思決定の場にすら呼んでもらえない、決まったことすら明確には教えてもらえない、なんてこともザラにあったが、内容共有に加えこちらの意見を求められるようになる。これも自分の意見を組織に反映させやすくなる。どれも会社の中での自由度に繋がっていく。報酬なんかはオプションに過ぎない。

 

こうやって考えてみると、悔しいが評価されることは結構大切である、と言える。とは言え、会社からの評価に興味を一切持てない人もいるだろう。でも、そんな人でも会社から評価される方法がある。それは、自分の一番近くで仕事をしている人、かつあなたが評価している人に評価してもらうことだ。

 

一番近くというのは、席が隣、とかではない。あなたと同じくらいの年次であなたと似たような仕事をしている人である。

 

自分より遠い人、例えば課長とか部長になると、はっきり言ってあなたの仕事ぶりを見せることはできない。どんなに良い仕事をしていたとしても伝わらないのである。だから、課長や部長に好かれている若手というのは決まって、仕事ができるよりも人間性とかノリの良さが決め手になっている。(もちろん、そういう生き方もある。)

 

ただ、あなたの近くにいる人はどうか。その人が優秀であればあるほど、昔の自分と比べた時に今のあなた(のスピードや品質)がどうなのか、あるいは今の自分に比べて今のあなたがどうなのか、もっと純粋に一緒に仕事をして助かっているのかどうか、がわかる。立場が近いと仕事の粒度も近いので、正確に評価することができる。

 

もちろん、それをしくじり続けると、評価はされない。ただし、それは成果が伴っていないために評価されていないだけである。下されるべくして下される悪評だ。頑張って成長していくしかない。

 

もう一つの条件が、あなたが評価している人物であるということだ。第一にこれがないと、その人物に評価してもらおうというモチベーションが持続しない。その人を助けようという気持ちが生まれない。(あまりに評価が低く、逆に助けてあげないと・・・となるパターンはあるにはあるが。。。)

 

そして、あなたの目利きにもかかっているが、こちらが凄いと感じる人は大抵会社から高い評価を得ている。すると、どうなるか。

 

あなたは”会社から評価されている人”に評価されている人、ということになる。これは間接的に会社から評価されていることに他ならない。どういうルートで情報が流れているのかは定かではないが、特定の一人に高く評価されているだけでも、会社全体の認識というのは時間とともに大きく変わっていくらしい。

 

セオリーとしては、色んな人に対してアピールをしていくべきなのかもしれない。実際、私も課長から「(私の)アピールが足りないことにより、周りが(私の)能力を理解するまでの時間が無駄になっている」というコメントをもらったこともある。

 

でも、そういうのが苦手な人は、特定の人からの評価のみに着目するやり方もアリなんじゃないだろうか。少なくとも私は今までそうやってきたし、これからもそうやって生きていくと思う。

ポケモンGOが流行るってどうかしてるぜ

ポケモンGOの人気がすごいっすね。任天堂やるやんけ!って感じです。個人的にはあんまり魅力を感じないですけどね。もちろん、VRがどんな感じなのかっていう興味があります。VR技術によって、より自分が主人公になりきることが可能になった点が良いのかもしれませんね。ただゲーム自体の仕組みとしてはパズドラとかと変わらない印象です。

 

というかスマホが普及がしてからというものやっぱりゲーム業界の勢いはすごいものがあります。私は一週間ぐらいで飽きてしまったパズドラとかも、まだユーザDL数は意外にも伸びてるんですね。

 

一番の理由はターゲットとなる顧客層が圧倒的に多いことでしょう。昔の大人なら、「大人がゲームやってるとか恥ずかしい」みたいな感情を持ってたと思うんですけどね。だから9割以上の子供がゲームをやっていたとしても、市場としてはまだ未熟だった。

 

しかし、今ではいい年したおっさんがゲームやってるとか当たり前ですね。これはもちろんスマホが爆発的に普及したからで、昔で言えば一人が一台以上ゲームボーイ持ってる状況になってるんです。なおかつ、ソフトが無料で手に入る状況であれば、ユーザが増えるのは当然といえば当然です。

 

とは言え、みんな本当によく飽きないよね。相当暇なんだろうね。私も色んなスマホアプリやりますけど、ほとんど一週間ぐらいで飽きて、しばらくしたらまた別のアプリを探す、みたいなことをやってます。お前も立派なユーザじゃねえか、って話ですが。笑

 

まぁすでにネット上ではポケモンGOに飽きた、みたいな記事が登場してきてます。やぱりゲーム性自体はシンプルかつ王道っぽいので。ただ、個人的にはたぶんまだまだユーザ数は伸びていくと思います。もちろん、別の影響(スマホ歩き等による事故発生とか)で伸び悩む可能性はほんの少しだけあるかもしれませんね。

 

やっぱり私は昔のゲームみたいに全面クリアができるものがいいと思う。ゴールが明確でないと続けられない。今の課金型のゲームは割の良いビジネスなのかもしれないけど、そういうユーザがいることをゲーム業界の人は理解してほしいなぁと思う。

広告を消すのにお金がかかる時代のサービス

スマホの無料ゲームアプリなんかをやっていると、必ず広告が表示される。それは常に画面上のどこかに表示されていたり、ある場面でボタンを押した瞬間に広告用の画面に切り替わったり、中にはいきなり動画がスタートするものもある。

 

特に小規模の会社や個人が制作しているものだと、それが鬱陶しい人のためにと、ちゃっかり”広告無し版”が数百円ぐらいで用意されていることが多い。未だにゲームアプリ業界がこういうビジネスのやり方をしているところを見ると、あんまり業界の未来としては明るくないように思う。参入障壁の低さから市場規模が上がっているように見えてるだけなんじゃないだろうか。

 

ともかく、昔であれば、広告などによって自分の知らない情報が手に入ることはありがたいことでもあったはずだ。しかしながら最近では、情報がないということはほとんどなく、適切な情報を見つけることが難しいほどに情報が世界に溢れている。

 

そんな世の中では、むしろ余計な情報をいかにそぎ落とすことができるか、に価値が置かれるようになったということだ。アマゾンのおすすめ商品も、見方を変えれば”おすすめでない”商品をそぎ落とした結果だと言える。

 

実際、私も余計な情報をそぎ落としたいと思うことがある。一番の例は郵便ポストに無造作に入れられるチラシだ。一週間も放置しておくと、パンパンになってしまっている。いつも全部まとめて捨ててしまいたい衝動に駆られるが、中には大切な書類も含まれているので、捨てるわけにはいけない。結局、全てのチラシに目を通して一つ一つ選別していくしかない。これは人生において3番目くらいに無価値な時間だと本気で思う。

 

これは、ちょっとしたビジネスチャンスだと私は思っている。少なくとも、ポストにチラシが入れられて迷惑だと感じている人はたくさんいるはずだ。しかし実際には、個人が「チラシお断り」の貼り紙をするぐらいの対策しか施されていないのが現状である。

 

また、ITの世界では迷惑メールのフィルタリング機能など、十分ではないにせよ当たり前に実装されている。一方で、物理世界の郵便ポストでは何の制御も行われていない。これは奇妙だと思わないだろうか。

 

もちろん、今の技術では難しいのかもしれない。今の家に付いているごく普通の郵便受けでそんな制御ができるはずもない。そもそも、郵便ポストが自動で必要な書類だけを選別するためのスキーム自体が存在しない。

 

しかし、ここにITの要素が加えれば、やってできないことはないと思う。例えば今の技術レベルでも、郵便ポストの投入口にスキャナを搭載すれば、文字列あるいは画像を認識するまでは実現可能だ。

 

郵便ポスト自体が住所に紐づくIPアドレスを持ち、その住所に紐づく家主のメールアドレスを記憶しておけば、スキャンした瞬間に画像を添付して通知を送ることもできる。あるいはWebインタフェースで郵便ポストに直接アクセスして、今そのポストに入っている書類一覧を画像として確認できる、でも良い。「あー今あるものは全部要らないから一気に捨てよ」みたいなことは可能だ。

 

もっと技術レベルを上げて、例えばAIが組み込まれれば、文字列や画像の中から家主にとって重要度の高いものと低いものに選別し、重要度の低いものについては処分することもできるようになる可能性だってある。外から家電を操作できるスマートハウスよりも個人的にはいいと思う。

 

まぁそもそも、昭和の価値観で生きてる企業が広告での営業活動をやめてくれれば済むんだが。

品質水準とは何ぞや

今日は仕事をほっぽり出して、品質管理の研修に行ってきましたので、簡単にその内容でもまとめておきます。やっぱりソフトウェアなんてちゃんと動いてナンボのもんですからね。品質をいかに担保して、担保するために何をすべきなのか、というのは一つの学問になっているくらいです。

 

さて、そもそもソフトウェアにおける品質とは何なのか。品質というと、電化製品みたいな目に見えるモノに対して言いますよね。普段の生活の中で私たちは「日本の製品は品質が良い」みたいな言葉を安直に使っていますが、それって一体どういう時に使われるんでしょうか。

 

携帯電話を例にとって考えてみますかね。単純に形が整っていることについて品質が良いという人もいれば、カメラが綺麗な(解像度が高い)ことに対して品質が良いと考える人もいるでしょう。逆にiPhoneなんかだと、落とすとすぐ画面にヒビが入ってしまうことに対して品質が悪いと考える人もいると思います。こうやって列挙してみると、幅広い意味合いで使われている言葉です。

 

ソフトウェアの場合は、(お客さんの)要求事項を満たしていることが品質が良いと定義されています。おそらく、一般的な製品についても同等のことが言えるのでしょう。ISO9000という国際規格で定められています。

 

つまり、iPhoneの画面がすぐ割れること=品質が悪いということではなく、iPhoneという製品に求められる要求事項として、「高度1mから落としても操作に支障をきたす障害が発生しないこと」というものが含まれていなければ、別に品質上問題はない、ということになるのです。

 

ソフトウェアの場合では、例えば、中に記述されているソースコードが凄く読みにくかったり、無駄なソースが含まれていたら品質が悪そうな印象を受けますが、そのソフトウェアが提供するサービスがお客さんに求められた要求を満たしているとすれば品質の良いソフトウェアとなります。(厳密にはユーザ目線の品質と開発者目線の品質があるのですが、ユーザ目線の品質が良ければOK的な風潮があります。)

 

要するに”品質”という言葉は、あるべき姿(=要求事項)が定義された上でしか、意味を持たない言葉になっています。

 

さて。この品質ですが、どうやって実現していくのかが大切になってきます。入念に作れば良いという単純な話ではないんですね。ソフトにしてもハードにしても大体が実際に使ってみないとどうなっているかわかりません。設計なんて所詮想定でしかないですから。

 

なので、現場では実際に作ったものを動かしてみて検証します。いわゆる試験ですね。どんな仕事でもそうでしょう。

 

ソフトウェアの試験というのは実は結構大変です。ぶっちゃけシステムを作る以上に労力を必要とします。しばしば、見積額がとんでもない額になってしまうのも、試験工程にかかる工数が多分に含まれているからです。

 

また、システム開発において基本的に完璧な試験というのはできません。特に仕様ベースのブラックボックス試験などにおいては、規模が大きくなりがちで、全て条件の組み合わせパターンを試験することは不可能である場合がほとんどです。

 

なので、代表的なものだけを選ぶ、という方法に走らざるを得ないのですが、闇雲に代表的なものを抽出していくと、結局試験項目の数は膨大になってしまいます。そういうわけで、どんなプロジェクトにも”品質水準”という基準値が設けられています。

 

品質水準はザックリ言えば、「このぐらいの試験やっとけばええんちゃう?」「こんぐらいバグが出ればええんちゃう?」という値です。具体的には、ソースコードのStep数と、過去の類似プロジェクトの実績値から算出されます。

 

この品質水準値は、品質の妥当性を判断するため、すなわち品質管理のために用います。仮に、試験を100個やって、バグが10個ぐらい出ればいい、と予め決められていたとしましょう。

 

例えば、期間が足りず試験が50個しかできなかったら品質はちょっと悪いかもしれないな、と予想することができます。あるいは、試験を100個やったらバグが50個出た、となっても品質は悪いかもしれないと類推することができます。

 

では、100個試験をやってもバグが1つも出なかったらどうでしょう。この場合なら品質は凄く良い、と考えられそうなものですが、実は全く逆です。そもそも実施した試験の網羅性や観点が十分ではないと判断されることが多いです。

 

もちろん、実際に品質が良い場合もありますが、一般的には事前に設けられた品質水準値±数%の範囲内に収まっていないと何か問題があると判断します。ただ、品質水準値に収まっていても、品質が悪い場合もあります。。。

 

さらに言えば、品質水準値そのものがプロジェクト特性の違いなどによって妥当ではない場合もあります。みんなが口を揃えて、「あくまで目安だから」と言います。。。

 

なら、品質水準値とかいらなくね?

 

私はいつもそんなことを思っています。まぁこれは可監査性のための評価軸としてのみ有効です。

 

簡単な定量評価に頼らず、バグはしっかり定性的に分析しましょう。

 

n1dalap.hatenablog.com

チームの中で主体的に動く人と、受動的に動いているだけの人の違い

主体的に行動する人が求められるようになって久しい。企業は今でも主体的に動ける人を求めている。その理由はそもそも今日本にあるほとんどの企業で主体的に動ける人が少ないからだ。人は足りないものを求める。

 

主体的に動ける人、というと一人で何でもやってしまう人をイメージする人もいるかもしれないが、それではただ勝手に行動するだけの人間になってしまう。チームの中で主体的に動くとはそういうことではない。時には人に頼り、人に任せることができなければならないのだ。

 

ただ、他の人に頼ったり任せたりする人の一体どこに主体性があるのか、と感じる人もいるのではないだろうか。結局自分では何もしない上司なんてどこにでもいそうなものだ。

 

あるいは、入って間もない新入社員だって先輩や上司に頼りつつ自分の仕事をしているのだから、主体性があるのでは、と感じる人もいるだろう。確かに、新入社員でも主体的に仕事を進められる人もいるかもしれない。

 

こんな風に主体的を求められる社会のわりには、主体的であることが一体どういうことなのか、についてちゃんと教えてくれる人はいない。でも、この正解は実は辞書に載っている。

 

主体性とは「自分の意志・判断に基づいて行動するさま」のことである。

 

組織の中で主体的であるためには、大前提として組織のゴールを理解している必要がある。ただ組織のゴールというのは得てして抽象的であり、新入社員であっても即座に理解できる。問題なのはその先の、組織のゴールから具体化されて出来上がった、中小規模かつ複数の目的を理解しているかどうかである。あるいはもっと小さな個人レベルの業務の目的、そしてそれらの階層構造を理解しているかどうかが鍵だ。

 

新入社員のうちに、今の自分の作業が組織としてのゴールのためにどう役立つのかを理解することはほぼ不可能である。たとえ理解できたとしても、その仕事が本当にやる価値があるのかどうかを判断することはできない

 

あるいは「具体的な仕事」という形で作業を与えてもらえなければ自分が何をすれば良いのかも判断できない。単純に経験がないからだ。よって新入社員が主体的に行動できる、ということはない。自主的に行動はできても、ただ受動的に動くしかないのだ。

 

逆に、中堅クラスの社員にもなるとやはり主体性には磨きがかかってくる。この主体性を支えているのは、目的や課題に対する自分なりの答えを持っていること、そして自分で答えを考え出すための知識と経験である。

 

抽象的な目的が与えられた時に、その目的を達成するために必要となる複数のタスクを理解していれば、主体的に物事を進めていくことができる。目的を理解した上で、それを達成するためのタスクを誰かにやってもらったり、達成するために必要な情報を教えてもらったから主体的でないというわけではないのだ。

 

一方で、他人から提供された成果物や情報の妥当性を自分で判断しない人は主体的とは言えない。部下に仕事を丸投げして品質のチェックもしないような上司は全く主体的ではない、ただの受動的なアドバイザーでしかない。

 

このように、チームの中での主体性とは、一人でやるか他人に頼るかの違いではなく、目的の階層構造を理解しているかどうかで決まる。

 

実は他にも目の前の人が主体的か受動的かを判断する簡単な方法がある。それは、その人がオープンクエスチョンを使うかクローズドクエスチョンを使うか、である。言わずもがなオープンクエスチョンなら主体性は低く、クローズドクエスチョンなら主体性が高い人だ。

 

例えば、新入社員の質問の9割は「どうやったらいいですか?」と「何をやったらいいですか?」である。まさに主体性の欠片も感じられない。一方で、主体的な人は「仕様の質問なんだけど、状態Aの時にB電文がとんできたらどうなるんだっけ?」みたいな具体的な質問をされる。その答えさえ教えてくれれば後は自分で進められることをわかっているからだ。

 

面白いことに、質問をされた時の対応も主体的な人と受動的な人ではわかれる。例えば、こちらが具体的な質問の答えだけを聞いているにも関わらず、「その質問の意図は何なの?」と聞いてきてその人なりの答えを出そうとするのが主体的な人の特徴だ。(こっちが主体的に進めたい時にこれをやられるとかなり面倒だが。。。)逆に質問の答えしか回答しない人は受動的な人である。

 

あなたは果たしてどちらのタイプだろうか。

投票率を上げることに意味はあるのか

今日は参議院選挙でしたね。みなさん投票は行きましたか?私は行ってきましたよ。多分人生で3回目ぐらいです笑。投票所が徒歩2分ぐらいのところにあったので、サクッと。まぁ今回から18歳に選挙権が引き下げられたこともあり、まぁなんとなく行っておこうかな、ぐらいのモチベーションで。

 

とは言え、自分が投票しにいくことで、多少政治にも関心を持てるようになれば良いな、ぐらいには考えています。最近は結構政治絡みの本とか読みますし、政治の問題を考えるのって意外と面白いんですよね。答えのない問題を考える思考トレーニング的な位置付けで。なので、正直自分が投票した人が当選するかどうかとか、自分の意思が社会に反映されるかどうか、とかはほとんど興味ないです。

 

そもそも、自分の一票が社会を変えることなんてないですよね。政治団体が出している政治がらみの本とかを読んでいると、やっぱり「一人一人が投票をすることでしか世の中は変えられない!だから投票に行こう!」みたいな主張が多いですけど、あれって医者の不養生ですよね。自分一人が投票するだけでは世の中が変わらないと思っているからこそ、あーやって大勢に対して呼びかけているわけですから。で、そういう呼びかけを聞いて投票に行く人って単純にその人の意思に流されているだけ。

 

実際、今の選挙ってほとんどそうで、政策に民意が反映されているって感じではないですよね。投票している人も、政策とかはあんまり知らないけど、なんとなくあの人良さそうだから、とか戦争したくないから憲法改正反対、みたいにすごく薄っぺらいところで自分の意思を固めてしまっている気がします。

 

と、そんな状況の中で投票率を上げることに一体どれだけの意味があるのか、というところを今回は考えていきたいと思います。若者の投票率が低く、老人の投票率が多いため、結果的に老人に有利な政策ばかりになっていくシルバー民主主義状態は今に始まった話ではないですが、かといって今若者たちが投票に行くことによって何かが変わるのでしょうか。

 

仮に今回の18歳選挙権引き下げに伴って、若者が一斉に投票に行ったとして、そこに若者の本当の意思は反映されない、というのが私の仮説です。なぜなら、若者は政治の仕組みも、政策の種類や優先度、それぞれのメリットデメリットなどを理解しきれないからです。私だってほとんど知りません。

 

こういった状況になっている原因は何か。全ては教育のせいです。学校で政治の仕組みをサラッと教えこそするが、日本が今どんな問題を抱えていて、それに対する対策として各党はどんな政策を掲げていて、それを実行することによってどんなデメリットが生じるのか、など踏み込んだ教育はしません。

 

これは日本教育が政治的中立という立場を取っているからです。教育の中に政治を取り入れてしまうと、教育者の意思が大きな影響を与えてしまうことを避けるためです。これは今回の18歳選挙権引き下げのデメリットとしても懸念されていましたね。

 

さらに言うと、日本では社会に出てからも政治の話をするのはタブーとされています。ビジネスマナーの本にも「雑談は天気の話から入り、政治の話など価値観の対立は避ける」よう推奨されています。というわけで、政治についての知見を深める場は一生与えられないのです。個人の意欲に任されています。

 

私が思うに、もう一世代前の頃は親が政治のことを子供に教える風潮があったのだと思います。だから一定の投票率は保たれている。しかし、政策がどうこうという話まではしてないでしょうね。単純に「投票には行きなさい」みたいな親からの言いつけをただひたすら守っているだけに思えます。

 

単純に「投票に行きましょう」じゃなくて、政治のことを教える仕組みがまず必要じゃないですか。で、それができる場所って、もう学校しかないんですよね。もちろん、バラエティ番組とかでうまく政治を取り入れてる番組とかも良いですけど、番組で扱える情報量には限りがありますからね。

 

政治的中立というのなら、中立の立場で、各政党について教育すれば良いではないでしょうかね

「言われたことしかできない人」を放置してはいけない

今、私は試験チームのサブリーダーをやっています。自分も試験をしながら、計画立てたり、協力会社さんたちの支援とか進捗管理とかを担っています。で、私自身はあんまり管理されてません。結構自由に仕事ができて快適です。

 

ただやはり、メンバのサポートが大変、というか不安に思うところが少なからずあります。というのも、言われたことしかしない、とか、書いていあることしかやらない、とかそういう人も結構いるからです。特に、システム開発の試験ではバグがあっても気付けなかったりするので、後々大問題になったりします。

 

もちろん、年次が浅い頃は、言われたことしかしないようにした方がベターです。が、割と年配の方でも指示がないと動けない、というタイプの人も今までに何度か遭遇しました。なので、こういう人たちと一緒に仕事を進める上でどうすれば良いのか、というはマネジメントをしていく人間としてはちょっとした課題でもあります。

 

まず、考えるべきは、「言われたことしかできない人」が「言われたことしかできない人」たる所以でしょう。

 

最も大きい理由は、目的を理解していないことです。チームでやる仕事には大きな目的があります。すべての仕事はその大目的を達成するためにあるのですが、個人の仕事レベルに細分化された時に、一体今自分が取り組む仕事にどんな意味があるのか、というのはなかなか把握しづらいものです。

 

もう一つは、失敗を恐れていることです。下手に言われていないことをやって怒られるよりも、言われたことをやっておけば怒られないだろう、という考え方です。俗に言う、責任逃れですね。こういうスタンスの人は本当に多いです。おれは言われたことをやっただけです。だから私は悪くないです、みたいな。

 

まぁ私たちのように色んな会社が集まって仕事をしていると、「言われたことしかできない人」を育てる、というよりは「言われたことしかできない人」でも実施可能な状態にしようとする方向にベクトルが働きます。

 

例えば、マニュアルに書かれてあることしかしないなら、対策としてはマニュアルの記述を改善しますし、抽象的な指示をして期待の成果物が得られなかった場合は、指示を具体的にします。ノウハウや仕組みをブラッシュアップしていくことで、属人化させないようにするんです。

 

私もずっとそうするべきだと思っていました。でも、仕組みには限界があります。優秀な人を見ていくうちに、結局人に頼らざるを得ないなと痛感しました。だから「言われたことしかできない人」を野放しにしたまま仕事を進めるとマズいんです。

 

じゃあどうするのかというと、一番いいのは決めてもらうことじゃないかな、と思います。「どうすれば良いですか?」という質問が来たら、「あなたはどうすれば良いと思いますか?」あるいは「どうしたいですか?」と逆に問うてみる。

 

この手の質問ってされる側はかなり面倒くさいですね。特に、自分の中での正解を持っていない状況でこの質問をされると面倒くさいです。でも、ここに対する回答ができないということは、自分だけでは意思決定が全くできない、ということなんです。

 

「言われたことしかしない人」は仕事の吸収が遅いです。なぜならば、自分で意思決定をしないからです。意思決定をする人は、意思決定をするために様々な情報や経験を自分の中に蓄積している必要があります。逆に言うと、意思決定しない人は仕事について何かを理解している必要がないのです。

 

今回は「言われたことしかできない人」をいかにそうじゃない人にしていくか、という切り口ですが、自分が「言われたことしかできない人」にならないためには、結局自分で意思決定をしてみる、あるいは意思決定できるようになることを目標にしておくことが大切です。私も上司に一々確認するのがアホらしいと常々思っていたので、自分で決められるようになりたいと思ってました。

 

例えば、上司からある仕事を任せられた時、「いつまでに完了させれば良いか」を確認するようにと新人研修とかでは習いますが、本当はそんなこと確認する必要はないんです。その仕事の後続タスクが何で、それがいつ開始するのかさえ分かっていれば、別に自分でいつまでに終わらせれば良いか、なんてことは判断可能なのです。

「最後に何か言っておきたいことはありますか?」に対する回答

私の会社では、四半期に一回、上司と面談をする仕組みがあります。そこでは、自分がどんな目標を設定し、そのためにどんな業務に取り組み、そしてどんな気づきを得た恩か、ということをつらつらと説明します。そして、上司はアドバイスをしたり、今後のキャリア育成の参考にします。

 

と、まぁ上記のような名目ですが、ほぼ形骸化しており、中身はほとんどありません。多少意味があるとすれば、定期的に上司と部下のコミュニケーションの場をとれる、といった感じでしょう。例えば自分がどんな仕事をしたいのか、もっと言えば、別の部署に異動したい、なんて話ができる場でもあります。もちろん、できるのは意志を伝えるところまでです。

 

で、その面談が終わる前には必ず、「最後に何か言っておきたいことはありますか?」という質問をされるんですね。私は、いつも「特にありません」って答えるんですけど。だって言っときたいことなんてないし、いつでも言えるし。ただ、他の同僚はなんて答えてるんだろうか、だけ気になります。

 

ところで、この質問には聞き覚えがある人も結構いるんじゃないでしょうか。そうです、就活の面接の最後とかに面接官から投げかけられる質問ですね。当時から、あの試すような感じの質問は鼻につきましたね。笑

 

ただ今になってみると、「最後に何か言っておきたいことはありますか?」に対する回答って結局何が正しかったんだろうと疑問に思いますね。他の人はなんて答えてたんでしょうか。

 

ネットを漁ってみると、

・さらに自己PRをする

・無難に福利厚生の話を聞く

・何も言う必要はない

などがありました。

gakumado.mynavi.jp

 

正直上の三つはないなーと思います。さらに自己PRとか暑苦しすぎるっしょ。笑。あと無難に福利厚生の話、って全然無難じゃないし。笑。何も言わない、というのもまぁアピールチャンスを棒に振るうようなもんですから。まぁなくても採用の結果が大きく下がることはないと思いますがね。

 

上のリンクの中にも入っていましたが、ここでは「感謝の意」を述べておくのが最も無難だと思いますね。私も半分ぐらいはそうしてました。結局、日本人って誠実な人を評価しますからね。ただ、これはマイナスにこそならないですけど、大したプラスにはならないと思います。そんな人いっぱいいるでしょうし。

 

何より、ここで面接官が聞きたいのは、感謝の気持ちではないんですね。一般的には、その人が面接の中で見れなかった人柄などを引き出したい、らしいです。ぶっちゃけ、ただ形骸化しているだけだと思いますが。

 

だとすると、ここで述べた方が良いのは、面接の場では言えなかった、より本音レベルの話をするのが正解じゃないでしょうか。例えばですが、ぶっちゃけ御社ともう一つの会社で迷っています。御社は○○ですが、もう一方は〇〇なので・・・みたいな話をしてみるとか。まぁこれはやったことないですけど。

 

私が実際にやっていたのは、逆質問ですね。会社のことを聞くのではなく、面接官個人のことを聞く。一番単純なものだと、「あなたはなんでこの会社に入ったんですか?」と聞く。「今後の事業戦略はどうするつもりですか?」みたいな質問よりグッとリアルになりますよね。ちなみにこの質問をすると、知り合いの勧誘で、みたいな意見が圧倒的に多かったです。

 

参考までに。

大企業も結構不安定です

大企業に入れば一生安定。そんな時代は終わったのかもしれないですが、やっぱり大企業って安定してます。一つの事業が失敗しても、別の事業で成功してれば問題ないし、仮に全ての事業が数年連続で赤字になってもギリギリ社員を養っていくことができるだけの資本力があるんです。

 

ただ、その”安定”ってすごく局所的な部分、いわゆる給与面だけですよね。まぁ給与が毎月入ってくれば生活はできるし、実際、多くの人が使う”安定”っていう言葉も一生お金には困らないってことだと思うので、あんまり大したことじゃないかもしれませんが。

 

でも、その給与面以外で考えると、大企業って全然安定していないんですよね。

 

例えば、勤務地。私は一生この土地で生活したい、とか無理です。偶然育った土地で最後まで働ける人もいますが、勤務地を自分で決めることはできません。さらに、勤務地はどこでもいいけどずっと同じ場所に居続けたい、というのも無理です。これももちろん、偶然そうなる可能性はあります。が、マイホームを購入した途端、地方に転勤、トいうケースも普通にあります。

 

勤務地が選べないということは当然、人間関係も選べません。配属された場所にいる人たちと仕事をしなければならないし、時間が経って仲良くなっても、また別の人間関係の中に身を置かなければならない時も来るかもしれません。全ては上層部の采配という名の偶然によって決まります。

 

職種もそうです。入社時に職種が決まっている場合も最近では結構ありますが、少し月日が経てば、開発から営業に変わったり、はたまた研究職から人事部に異動させられる場合もある。「これも新たなチャレンジだ」とか何とかいいように説得されてか知らないですが、ほとんどの人が簡単に職種を変える。日本は就職じゃなくて就社ってよく言いますしね。つまり職種も選べません

 

あと私どものようなBtoBの会社だと、お客さんや業界も選べません。よく、就活の時に「弊社は幅広い業界のお客様を相手に取引をしています」みたいなことを自慢げに語る人事と、それを聞いて「あーこの会社いいな」と思う学生が必ず現れますが、お客さんの数が多ければ多いほど、自分が誰の担当になるかわからないということです。

 

色んなお客さんを相手に仕事ができます、というのは嘘っぱちです。もちろん、運良くそういうキャリアを描ける人もいます。が、そうでない人の方が沢山います。なので、自分がどうなるのかは不明です。

 

給与以外はこんなに不自由で不安定なんですね。大企業に入る人は安定志向とか言いますけど、大博打ですよ。20面体のサイコロ振って4,5以外の目が出たら数年間自分の思い通りに行かない人生を生きる、みたいな。

 

 

でも、それでもたぶん、大企業に入るほとんどの人にとってはそれなりに楽しいんですよね。だって彼らって大学入る時もそうだったでしょ。なんかみんなと同じようにちょっとバイトして、サークル入って、単位の取れそうな授業だけ選んで、テスト前に徹夜して乗り切る、みたいな生活をしてた人がほとんどじゃないですか。

 

私は最後まで大学はつまんねーと思って留年までしちゃったわけですが、ちゃんと単位をとって卒業した、少しだけ仲の良い友人に聞いたことがあるんですよ。大学楽しいか?って。そしたら、そんなに楽しくはないけど、まぁそれなりに楽しい、と言ってましたね。

 

下の記事を読んでそんな過去を思い出しました。

blog.tinect.jp

 

強烈な目的意識が無ければ、何をやってもそれなりに楽しいんです。だって、”思い”が無ければ”思い”通りに行かないことなんてないですからね。私もまぁ大学時代だけは特別でしたけど、ほとんどのことはそれなりに楽かったので同じ人種ですね。最近はまたつまらないですけど、何とかやってますし。

 

でも改めて考えてみると、やっぱり大企業も結構不安定だなーと思う次第です。