∑考=人

そして今日も考える。

成長にこだわらない

人間には成長願望のようなものがある気がします。それは普段どんなにやる気がなさそうに見える人にも少なからず存在すると思います。私もただ漠然と成長したいなと思うことがしばしばありました。

 

意識高い系の人は頻繁にこの言葉を使います。別に学生だけに限らず、社会人の中にも成長を掲げて毎日を頑張っている人は多数存在する印象を受けました。勉強することで成長できる。仕事をすることで成長できる。確かにそうでしょう。

 

能力に関して成長を測ることはそれほど難しくありません。例えば、テストの点が上がったとか、英語をこんなに喋れるようになったとかは、実感がわきます。明らかに善し悪しが明確だからです。例えば、子供が大人へと育つことも成長と言いますが、これもある意味、大人の方が子供に比べて能力値が高いという暗黙の了解があるからです。つまり、悪い(低い)状態から良い(高い)状態へと向かうことこそが成長と呼ばれます。

 

私がいつも引っかかる言葉があります。それは「人間的に成長した」という言葉です。就職活動を終えた学生が「この就職活動で~」みたいな発言をしているのを見かけます。私も昔は使っていたかもしれません。ただ今考えてみれば、これって馬鹿げているなと思います。

 

具体的に説明できるなら別にいいんですよ。経験を超える度に、「人間的に成長できた」しか言えない人は成長難民だと思います。成長した気になって、実は何にも変わっていない。

 

ただ、その気持ちもわかります。辛い経験を乗り越えると、何となく今までの自分にはなかった何かが備わったような気がします。いえ、実際に何かしらの能力は備わっているのでしょう。ただし、それをいつも「人間的に」で片付けていると、結局どんな能力が備わったのかわからない。そのため応用が効かず、次に生かせないのです。じゃあそれって成長って言えるのか?と疑問に思います。

 

「人間的に成長する」という言葉には能力よりもむしろ内面的な成長が示唆されています。人格が成長した、という意味です。ただ、これについては成長という言葉を使うこと自体が間違っています。なぜなら、究極的に人格に良いも悪いもないからです。

 

例えば、いつも自分勝手に振舞っていた人が、ある経験を超えて、周囲のために自己犠牲の精神を払えるようになったとしましょう。しかしながら、その人は、またある経験を超えて、いつもいつも自己犠牲の精神を払うと、自分が窮屈になるばかりか、逆に相手に迷惑を掛けてしまうことを知りました。そのため、少しは周りに構わず自分の意志も大切にするようになりました。

 

さて、この場合、本人にとっては二つの成長を経験したことになります。しかし、他者からの認識としてはどうでしょう。最初の変化では、成長した、と思われることの方が多いかもしれません。しかし、二つ目の変化においては、むしろ退化したのではないかと感じられてしまう可能性もあります。一般的には、自己犠牲を払ってきた人が自分勝手になった場合、「あの人は変わってしまった」などと言われるはずです。

 

人格においては絶対的な善悪の基準が存在しないため、自分にとっては成長のつもりでも他人にとっては退化しているように見られることもままなりません。なぜならば、人格の成長とは、自分にあった人格へと向かうことであり、その過程は反対方向にジグザグと反復を繰り返していくことだからです。プラス方向のベクトルだけが成長ではないので、成長という言葉で表すこと自体が間違っているのです。

 

喩えて言うならば、山の頂上へと向かう過程が能力の成長です。高いところに行くことにより、今まで見えなかった景色が見えるようになります。これに対し、人格の成長は高さを変えずに山の周りを水平に回り歩くようなものです。価値観が180°変わったなどという表現を想像すればわかりやすいと思います。立ち位置が変わるので、やはり見える景色は変わります。

 

成長の醍醐味はやはり、今までできなかったこと、見えなかったこと、感じ得なかったことが、全てできるようになることだと思います。ならば人格が成長に向かっているのにしろ、退化に向かっているにしろ、違う景色が見えるようになるので、成長の醍醐味は味わうことができるわけです。あまり成長という言葉にこだわらずに、変化することを大切に考えた方が生きていて面白いんじゃないでしょうか。