∑考=人

そして今日も考える。

「家だと集中できない」人達の気持ち

私は昔から集中力について他人から褒められることが多かったです。自分としてはそれほど自覚はなかったのですが、まぁ他人との比較で見えてくるものもあります。

 

当時、大学受験に熱が入っていた頃、友人たちの言動に理解しがたいものがありました。それは「家だと集中できないから予備校に行って勉強する」というものでした。これについて私はずっとその行動の合理性が理解できないでいました(ホントに)。

 

当時の私の価値観で言えば、予備校に行くのは「塾講師の質の高い授業を聞くため」というのが最も重要な目的だと思っていましたし、家でもできるような自習をするためにわざわざ電車で通わなければならない予備校に行くなんて時間の無駄だと思っていたのです。でも結局のところ、一般論としては、家以外の環境で勉強した方が効率が上がる傾向にあるようです。

 

彼らはこう言います。家だと誘惑が多いから、集中できない。予備校には勉強するための環境しかないから勉強せざるを得ない、と。無論その通りなのかもしれません。でも予備校には1番の誘惑があると私は思っていました。それは友人、対話相手です。人と話をするほど生産性を下げる誘惑が潜んでいることに私は危険を感じずにはいられませんでした。受験に落ちた人は、おしゃべりに精を出しすぎたんじゃないかとか思ったりもしました。

 

そんなわけで、私はたまたま人と比べて集中力が高いのだろうと踏んでいたのですが、どうもそうでもないようです。というのも、修士論文を書いているとき、私はほとんど集中できなかったんですね。冗談抜きにして、家にいた時間の半分以上は現実逃避がてら携帯の将棋ゲームばっかりやっていました。将棋は思考力を鍛えるから勉強に他ならない、などと自分に言い聞かせて笑。

 

私が家で集中できなかった理由は、まさに前述の通りで、家だと色んな誘惑があるから、です。家ほど自由な空間はありません。そのため、生産効率が下がってしまいます。しかも、それは研究室に行って人とおしゃべりをする以上の低下です。

 

じゃあなぜ当時は家で集中できたのか。答えは簡単です。私の実家にはほとんど自由が存在しなかったからです。私の実家には、自分の部屋というものがありません。そもそも自分が存在が許される(?)スペースも勉強机一個分ぐらいのスペースしかありません(私がリビングにいると白い目で見られる)し、ゲームもできなければ、テレビは常に兄と母に独占されていてほとんど見ることができない。家の食べ物を勝手に食べると泥棒と罵られる、といった状況。

 

実に悲しい家庭ですが(笑)、自由でないがゆえに、何かに集中するにはもってこいの環境だったのです。別段私の集中力が優れていたわけではなく、たまたま環境が整っていたいたんだ、ということに一人暮らしをして気づきました。家だと集中できない人たちはさぞかし、家が解放的だったんでしょうね。そう考えれば、集中するために外部環境を利用する、という選択は極めて合理的です。ようやく彼らの気持ちがわかりました。