∑考=人

そして今日も考える。

会社の評価って何を基準に決めてるのか

ボーナスの直前になると、その四半期の評価が下される。そしてその評価に応じて、ボーナスの額が多少なりとも変わってくるのだ。私は別に会社からの評価とか興味ないけど、一番上と一番下では10万ぐらいの差が出ているので、あんまり軽視もできない。

 

とは言え、どうすれば評価に繋がるのかも正直よく分からない。

 

結果が全てだ、と私は思ってるけど、ほとんどの仕事って”みんな”でやるものですよね。システム開発の現場でも、結果である成果物をたった一人で作るということはありえない。実際に作るのは一人だったとしても別の誰かがチェックしたりと様々な人が関わって一つの結果が出る。

 

複数人で結果を出しちゃうと、個人がいかに凄いか、なんてわかりっこないよね。いや、もちろんこれは日々の細やかな仕事ぶりを見なければわからないって意味で。個々の仕事のレベルが高かったとしても、チームとして結果が出すときにレベルが落ちてしまえば個人の評価なんて埋もれてしまう。逆にチームとして出した結果が良かったとしても、その中で本当は誰が凄かったなんてことはわからない。

 

すると、チームの中で誰が一番貢献したのか?については結局わかりやすいところで評価される。「あ、こいつはよく発言してるな」とか「細かいところに気を回せるな」とか、「なんか業務改善に取り組んでるな」とか。もしかしたら「飲み会によく参加してるな」とか。でもそれって努力であって結果ではない。だからそれで評価が高くなるのはどうなんだろう。個人的にはそう思う。

 

ある意味、営業とかは結果が数値で表せるのでわかりやすい。逆に努力のプロセスとかを評価されにくいので、潰しが効かない厳しい面もあったりするんだろう。ただ、個人として、何件受注、何円分受注とかがわかる。でも営業畑ではない私からするとぶっちゃけ、営業力以外にも、会社のブランドとか商品力もかなり貢献しているはずなので、一概に受注件数が多い人が凄いってわけでもないと思うけど。それでも、開発よりは真っ当に自分の能力に見合った評価が下される気がする。

 

とまぁ、ちょっと会社の評価に対するグチみたいな感じになってしまったけど、私、今回一番上の評価をもらっちゃったんですね。書いてて、すげー嫌味だなと思いつつ…笑。でも、あんまり素直に喜べないんですよ。

 

ここで書いた通り、正直何を評価されてるのかよくわからないので。ポジティブな人なら「見てる人は見てるんだ!」とか思うかもですが、私のこと本当によく見てたらこんなに高い評価がつくはずない、と考えちゃいますね。

 

少しポジティブに考えるとすれば、絶対評価相対評価の違いなのかもしれませんな。例えば、このチームの中では突出してきているから高評価。ただし、他の標準的なレベルのチームの中だったとしたら平凡むしろマイナス。うーん、なんかそんな気がして仕方ない。だとすると、今ここにいる意味ってほとんどなくなってるよなー。と思う今日この頃。

学生と社会人のグループディスカッションの大きな壁

またまた就活の時期ですね。なんか就活の時期が毎年変わってるような。うちの会社も絶賛面接中ですね。課長が面接官にお呼ばれしているらしいです。いろんなところから面接官を引っ張ってきてるんでしょうが、人を見る目あるのかね。

 

まぁそんなことは良いとして、最近は選考の中にグループディスカッションを取り入れている会社も増えてきていると思います。結局、仕事ってチームでやるものがほとんどだし、集団の中での自己主張ができないとダメ、という印象でしょうか。

 

我々の会社も推薦入学という裏口ルート以外で入った大多数の人は必ずグループディスカッションの壁を超えています。つまり、比較的グループディスカッションが上手い人間が採用されている、と言えるでしょう。まぁ私は裏口ルートですが。

 

ただ、そんな私から見ても、本当にグループディスカッション上手いなと思う人は数えるほどで、割合で言うと10人に1人くらいですね。これはどう考えてもおかしい。そう思うんですけど、どうですかね。うちの会議(グルディス)はすごいですよ、と誇り持って言える会社ってありますか。

 

ほとんどないんじゃないでしょうか。面接に行ってきた課長は、私たち社会人よりも学生のグループディスカッションの方が上手かった、と半ば冗談混じりで言っていました。だから今年の学生は優秀だとも。

 

でも課長の認識は誤っています。私が思ったのは、今年の学生が優秀なのではなく、学生の時に優秀だった人が会社に入ってから優秀ではなくなっているのでは、ということです。ことのほかグループディスカッションについてはそうだと確信しました。あるいは、会社におけるグループディスカッションの方が難易度が高い、とも言えるかもしれません。

 

実は就活時のグループディスカッションって割と進めやすいんです。理由は三つあります

①ディスカッションに参加するメンバ全員にモチベーションがある。

②導出した結論自体の良し悪しは判断基準に含まれない。

③知らない人かつ今後も顔を合わせない人同士で実施する。

 

順番に見ていきましょう。まず、①は当然で、会社に入りたいから選考に進んでいるわけであり、選考に受かるためには積極的な姿勢で臨まざるをえません。なので、全員が発言をしよう、ファシリテーションをしよう、といきり立っているわけです。

 

しかし、会社は違います。そもそも意欲的に発言をしようとする人も少ないですし、そういう人が会議を構成していると、他の人まで発言しにくくなります。そんな状況の中で柁をとったり、意見を述べるのは心理的ハードルが上がります。

 

次に②です。よく、巷の面接本にも書かれている通り、グループディスカッション選考で見られるのは、画期的な答えや実現可能性の高い答えを導き出せるかではなく、グループディスカッションの中でどのように立ち振る舞うか、です。

 

でも、これも社会では違います。ぶっちゃけどんな結論にたどり着いたかが全てです。間違った結果になってしまったグループディスカッションはやはり間違いなのです。つまり結論に対しては慎重になります。

 

慎重になるということは、意見の対立が起こりやすいということです。学生のグループディスカッションとは違って、「いい時間だからそろそろ結論を出した方が良いな」と全員が同時に考えることはまずありません。(もちろん、だからと言って闇雲に延長するのも愚の骨頂なので、本来は別の場で改めて議論します。)よって、うまく意見がまとまらなかったりもします。

 

最後は③です。これが最も大きな原因だと私は考えています。

 

ちょっと視点を変えて、一番ディスカッションをしやすい間柄が何かを考えてみましょう。私なら、気の知れた友人、特に知的レベルが同程度の人が良いと思います。気の知れた友人であれば、相手がこういう時にどういう反応をしてくれるとか、こういう話題を振ればいいとか、そういうことがわかるから議論を進めやすいからです。

 

ただ、人によっては、友人とはディスカッションをしたくない、という人もいるかもしれません。あまりに本音でぶつかりすぎると、下手したら今後の人間関係に影響を及ぼすこともあるからです。

 

逆に考えると、今後の人間関係が必要のない間柄ならどうでしょう。何を発言して、何を思われても、今後に何の悪影響もない。何の遠慮もなく本音で話すことができます。「こいつ何仕切ってんだ?」とか「こいつバカなこと言ってんなー」とか思われても何の問題もなければその分心理的なハードルは下がると思いませんか。

 

そして、会社の人間関係というのが一番厄介です。なぜなら、相手のことも本質的にはよくわかっていない人たちであり、かつ今度もしばらくは一緒に仕事をしていかなければならないからです。一番議論をしにくい間柄なのです。

 

かつ、日本の場合は年功序列というシステムに支配されています。年次が上とか役職が上の人の意見が正しいという暗黙の了解があって、そこに対して争う文化がないのです。つまり、これも就活とは違って、対等な、フラットな関係でものが言いにくいのです。

 

結構グループディスカッションに自信を持って会社に入ってくる学生はいますが、会社に入ってみると、正直自分とあまり大差ないなと思うようになりました。グループディスカッションごっこが上手いことを誇りに思うのは少し馬鹿げているし、グループディスカッションごっこで評価されないからと言って凹む必要もないのかな、と思います。

過去の自分に戻りたい理由考えたことある?

「子供の頃は良かった」とか「学生時代に戻りたい」とか、社会の人は口々に言います。私の周りでも、あの時に戻りたいなーと半ば本気で言ってる人も結構います。(どこまで本気なのかはわかりませんが。)ちなみに私の統計では、高学歴の人間ほどそのような発言をする人が多いし、女性ほどのそのような発言をする人が多いです。

 

なお、私は大学生の頃ならまだしも、社会人になってから昔に戻りたいと思ったことは一度もありません。別に今がめちゃくちゃ楽しいわけでもない、むしろそんなに楽しくはないですけど、学生時代ってそんなに楽しかったっけ?って感じです。少なくとも天秤にかけた時に、やっぱ今の方がいいなって思います。

 

理由はたった二つです。今の生活の方が過去の生活よりも圧倒的に自由だから。そして、今の自分の方が過去の自分よりも圧倒的に賢いからです。後者については公言こそしませんが、そう確信しています。

 

むしろ、私が気になっているのは、皆が口々に言う「過去に戻りたい」理由は何なのかということなんですね。そりゃあ学生の頃が楽しかったからなのでしょうが、じゃあ学生の頃はなぜ楽しかったのか。たぶん、ここまで考えたことのある人の数はガクッと下がるんじゃないかと思います。

 

すでに述べたように私は過去に戻りたくはない側の人間なので、実際のところはわかりませんよ。ただ、一般的な理由でなんとなく思いつくのは、利害で繋がった人間関係、労働の義務感などでしょうか。

 

でも私が考えているのはちょっと違います。おそらく、社会人になった人の多くが、学生の頃の自分が全盛期だったと考えているからです。私が過去の自分に戻りたくない理由と同じです。

 

高学歴エリートは、学生時代においては勝ち組なのです。正確にはその時点では勝ち負けなんてないのですが、少なくとも将来的に勝ち組になるだろうというポテンシャルがあるわけですね。夢や希望を持てるだけの自信がある。偏差値というメトリクスだけで社会からそう評価されるんです。進学校や難関大に入ってそこそこの成績であれば、それだけで自分に自信を持つには十分なのです。

 

さらに、自信があるので人と対等に話をしたり、本音をぶつけることができるので、結果的に有効な関係を築きやすいというオプション付きです。また、努力が成果に繋がりやすいことしか評価されないので、自信を保ちやすい環境も整っています。そのため、多少苦痛を伴うような勉強とかもそれなりに楽しくやり切れるというわけです。

 

しかし、いざ日本社会に出てみると、学生時代の頃とは全く異なる世界が待ち受けています。まず、正解がわからないし、正解らしきものが分かったとしてもそこにたどり着くための方法論も無数にある。自分が正解だと思っても、組織からの評価が良いとは限らない。客観的な評価基準がない、あるいは無数に存在している、といった状況です。

 

そんな中で自分の能力、凄さがわからなくなってくると、自分に自信を持てなくなってきますよね。また、今までは努力すれば成果に繋がると思っていたのに、努力の仕方がわからない、とか。こんな風に、「どうすればいいかわからない」状態になると、結構しんどい。もしかして自分てダメなやつかも、とも思うでしょう。

 

こうなると、人生のハリが無くなる。人生にハリがないとつまらない。逆に人生にハリがあった学生の頃が恋しくなる。過去の自分に戻りたいと思う。だいたいそういうプロセスなんじゃないでしょうか。ただの仮説ではありますが、当たらずとも遠からず、な気がするんですが。

 

逆に非高学歴な人の場合が過去に戻りたい、とか言わない理由は、今を結構楽しんでるんですよ。この職場つまらないと思ったらさっさと転職してます。そもそも勉強つまらないからやらない、って人が今非高学歴になっているので、当然そういう行動選択をするでしょう。彼らは私から見ると、かなり苦労していますが、それでも人生楽しそうです。

 

これが事実だとすると結構面白いですよね。高学歴の人って将来のこと考えて、子供の時から遊ぶ時間を犠牲にして勉強してきたのに、いざその”将来”になってみると、「子供の頃の方が良かった」とか言っちゃってる一方で、将来のことを全く考えずに子供の頃勉強をしてこなかった人が、いざその”将来”になってみると、意外と楽しんでるっていう(笑)。いや、高学歴側としては全然笑えないけど。

 

で、高学歴の人間は子供の頃考えてた”将来”が既に到来しているのに、今なお”将来”の心配してるっていう。結果、現状を変えようとはしないんですね。人のこと言えないですけど。結局、学校で習った価値観に未だ縛られてるんでしょうね。

 

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悩みどころと逃げどころ(小学館新書)

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ダウンロード型人間ではなくインストール型人間を目指せ

ダウンロードとインストール。どちらもIT系の用語の中ではかなり一般的に使われるようになった言葉である。ただ、ダウンロードとインストールの違いってご存知だろうか。どちらもネットからデータを持ってくるようなニュアンスの意味で用いられると思うが、おそらく、多くの人は同じような意味だと思って意識的に使い分けてはいないのではないだろうか。

 

まず、ダウンロードについて考えてみよう。ダウンロードという言葉をどんな時に使うかというと、「ituneで音楽をダウンロードする」とか「Youtubeから動画をダウンロードする」のような時に使うことが多い。参考までに、Downloadの日本語訳は、「上位の端末から下位の端末へデータを転送する」という意味である。つまり、音楽や動画をダウンロードする、という表現は正しい。

 

他にも「スマホでアプリをダウンロードする」といった使い方をする人もいるかもしれない。これもあながち間違ってもいないのだが、スマホの場合は、インストールまでがセットで実施されている。実際、AndroidのPlayストアでは”ダウンロード”ではなく、”インストール”という表現がボタンなどにも用いられている。

 

一方、PC用のアプリケーションの中にはダウンロードするタイプのものもある。ただ、PC用のアプリケーションをダウンロードした場合でも、ほとんどの場合は加えてインストールを実施しなければならない。その理由はインストールが何なのかを知ることで理解できる。

 

まず、そもそもInstallの日本語訳はどういう意味なのかを調べてみると、結構いろんな意味があって、「任命する」、「落ち着かせる」、「取り付ける」などが代表的である。ソフトウェアなどをインストールする、という意味に近いのはおそらく「取り付ける」ではないかと思う。IT用語的には、「ソフトウェアを使える状態にすること」をインストールという。

 

要するに、アプリを使うためには、ダウンロードもインストールも必要なのである。インストールが具体的に何をやっているかというと様々ではあるが、概ねレジストリの値を書き換えたり、環境変数の値を設定したり、フォルダを作成したり、フォルダ内の適切な場所にプログラムを配置したり、とそんなことをしているはずだ。逆に言えば、ただダウンロードしただけではアプリケーションは動かないのである。

 

IT用語をIT用語で説明するとイマイチわかりにくい、という人は料理にでもたとえてみると良い。ダウンロードというのは食材の調達である。インストールとは調理だ。ダウンロードしてインストールするから、すぐに食べられる状態になる。この、”すぐに食べられる状態”というのが、いつでもアプリを起動できる状態と同じようなものである。

 

また別の例としては、受験とか仕事でも同じことが言える。すごくたくさん勉強しているのに、イマイチ成績が上がらない人とか、沢山仕事量をこなしているんだけどイマイチ成果がでない人はいわゆる”ダウンロード”しかできていないダウンロード型人間が多い。

 

せっかく手に入れた知識がバラバラのままだからいざ活用しようとしてもできないのである。そうではなく、学んだことはインストールする必要がある。整理して、体系化して、活用できる状態にする。これができるインストール型人間を目指そう。

SIerにおける可監査性って本当にクソみたい

システム開発では、納期内にシステムを完成させることはもちろん、顧客の要求を満たす品質を実現することも非常に重要である。ただ、品質という言葉は非常に曖昧であるため、本当に良い品質を実現できているかを定性的に判断するのは難しい。そんな背景もあり、現場ではしばしば品質基準というものが定められ、定量的に品質の良さを保証することが多い。

 

少し具体的に説明すると、このくらいの規模のシステムを作ったら、このくらいの試験項目を実施すれば良いだろう(=試験密度)、あるいはこのくらいのバグが検出されるだろう(=バグ密度)、というものを試験の前に定めておき、実際に試験実施中もしくは完了時点で、その基準値の許容範囲内に収まっていれば高い品質が満たされている、という考え方である。

 

ただし、実際にはいくら沢山試験をしたからといって、全く見当はずれな試験ばかり実施していれば品質は保証できないし、いくら沢山バグを見つけたからといって、十分に網羅性の高い試験を実施できたことを必ずしも意味しない。つまりは、品質基準を満たしているから品質が良い、とは言い切れないのだ。

 

さらに言えば、この品質基準というものの信憑性も非常に怪しい。品質基準となる数値をどうやって決めるのか?を何度か研修で学んだことがあるが、ほとんどの場合が「過去の類似プロジェクトの数値を参考に決める」というものだった。

 

つまり、過去に類似のプロジェクトが存在しないような新規開発の場合はそもそも定めることが不可能、というわけである。また、多くの場合、プロジェクト完了時に大した反省も行われないため、過去のプロジェクトで定めていた品質基準が妥当であったかどうかの考察はなされていない。間違った品質基準をひたすら使いまわしているのではないか?という疑問が残る。

 

こんなわけで、品質基準に頼りすぎるのは危険な行為であるわけだが、システム開発において(特に業務要件の)品質を担保することは非常に難しいため、こういった手法を取らざるを得ない部分がある。現場レベルでも、なんとなく類似の試験項目を追加してもあんまり効果的ではないだろうな、という予想は抱きつつも、上に言われるがまま、強化試験という名の無意味な試験をしてしまうこともある。

 

なぜこんなことになってしまうのか。私がSIerに入って感じたのは、システム開発の試験が、品質を保証することよりも、可監査性を満たすところに重きを置いてしまっているからだ。

 

要するに、実際にシステムの品質が良いこと以上に、システムの品質が良いと皆に思ってもらえることを重視しているのである。成果よりも努力を重視する日本にはありがちな考え方の典型例だ。

 

とは言え確かに、可監査性というものも重要である。

 

「バグのないシステムを完成させました!あとは使って下さい!」と言われても、お客さんは納得できないし、障害発生などのリスクを考えると、商用環境に導入できないはずだ。

 

それよりは、「これだけの試験を実施しました。これだけのバグを検出できました。従来の品質基準値がこのぐらいだったので、今回は前回以上の十分な品質が確保できています。なので、安心して使って下さい。」と言われた方がはるかに説得力があり、誰が聞いても納得しやすい。 

 

ただ、そこに重きを置き過ぎて、実態が伴わなくなってしまっているのはどうなのだろうか。顧客への説明責任も大切だが、根本のシステムの品質を上げるために時間を使ってはどうだろう。

投資なくしてアイデア無し

少し大きめの会社では、新しい取り組み、まぁかっこ良く言えばイノベーションが生まれにくい。ほとんどの部署では現場レベルから新しいアイデアが上がったりすることはほとんどなく、一部の部署においてポツポツと新規事業が始められるぐらいだ。

 

末端社員からすれば、もっと力のある上位層が新しい話を持って来いよ、と思っているし、逆に上位層はと言えば、もっと現場レベルで新しいアイデアが生まれればなぁ、そんな風に思っている。どちらも他人に期待しているので、硬直状態なのである。

 

ただ唯一言えるのは、組織の方針として選択と集中ができていないことが最も問題だということだ。

 

そもそも新しいことを始めるのは非常に時間を要する作業であるということだ。特にビジネスとして新しいことを始めるのであれば、費用対効果などを綿密に検討しなればらないし、アイデアを洗練するために、多方面への情報収集ならびに検討が必要になる。大きいことをしようとすればするほど指数関数的に必要な稼働は膨れ上がるだろう。

 

つまり、通常の業務をこなしながら、その上で新しいアイデアを考えて事業化していくなんてことは普通の労働時間の範囲内で安々とできることではない。

 

とは言え、個人レベルでの改善くらいならできないことはない。現に私も全く通常業務とは関係のないツールを自主的に作ったりしている。ただこれを組織レベルでやろうと言い出す人はいない。

 

なぜか。皆新しい取り組みに対して協力的ではないからだ。そして、新しい取り組みに対して非協力的である理由は、時間が圧倒的に足りないから、あるいは組織として、新しい取り組みに対する業務的優先度が低いからである。この先どうなるかわからない取り組みよりも既に確定している案件を完遂する方を優先する方が当然とも言える。

 

そのため、下手にみんなでやりましょう、とか言っても、「あなたが言い出したんでしょ?」みたいなスタンスで協力しない人が沢山いることがなんとなくわかる(というか実際そうである)ので、誰も言い出しっぺにはならないのだ。よくうちの会社でも「言ったもん負け」という言葉が使われるが、言い得て妙である。

 

では、どうすれば良いか。

 

まず組織としては、社員に投資する、という考え方を持たなければならない。冒頭でも述べたように、上の考え方は、社員が通常を業務はきっちりこなしつつ、新しいことも考えてほしい、である。これは右を見ながら左を見ろと言っているようなものであることに気づくべきだ。すなわち選択ができていない。

 

費用対効果を考えて投資するかどうかを検討するのはビジネスアイデアが生まれてからだと思っている人もいるかもしれないが、ビジネスアイデアを育てるためにも投資は必要である。例えば、Googleが採用している20%ルールというのがまさに投資的発想である。

 

人件費を費用としか考えていないから、プロジェクトの予算以上に人をアサインする、という発想ができないのだろう。つまりそれはノーリスクハイリターンを狙っているようなものだ。そんな上手い話があるわけがないことをずっと安定した会社で働いてきた人にはわからないのだろう。

 

次に個人としてどうするか。新しいことを考えてやってみるしかない。でもそんなことをする時間はない。なら、今の業務の何をどうやったら削れるかを考えてやってみればいい。ここを自動化できないか、とか、ここを他人でもできるようにできないか、とか。

 

業務効率化くらいのアイデアなら割とすぐ考えつくはずだ。あとは、それを仕事の中で実現してみる。多少の負荷がかかるのは否めないが、これも個人レベルでは投資的発想だ。時間はかかるがお金はかからない(むしろ働いたことになる)ので、全然ノーリスクである。それに、自分が楽するために頑張るのは結構モチベーションが上がると思う。(私の場合、本業よりも面白いと感じる時が多い。)

 

まぁ新しいことを考えるには、働かないことが重要ってことです。

レビューってそんなんでいいんですか

システム開発の世界では、設計書などの品質を高める場合に”レビュー”が行われる。なか形式ばった名前が付けられていたり、種類もウォークスルーレビューとかインスペックションとか目的に応じた形態はあるけれど、やることとしては作成者とは別の誰かに確認してもらうことに過ぎない。たぶん、どんな仕事であれ、自分が何かを作成したら、上司や先輩などに確認してもらうのが一般的であろう。

 

で、このレビューという仕事だが、私が思うに最も危険な仕事である。というのも、レビューとは本来成果物の品質を向上・改善したり、欠陥があれば是正するための仕事だが、標準的な業務として組み込まれていることによって、本来の目的や意味を失い、形骸化してしまっていることが多いからだ。

 

通常、設計書のレビューなどを行う時は、レビュー時に何を確認するのか?を明確にしなければならない。特に、複数の人がレビューを実施する場合は、人によって言うことが全然違う、という状態を避けるため、なるべく具体的にレビューを実施する前に認識を合わせておく必要がある。そして、どういった観点で確認するのか?をまとめたチェックリストのようなものを作成するのが開発標準とされている。

 

とは言え、実際の現場はというと、こういったレビュー時チェックリストというものが明確に定められていないケースが多い。多くの人が、「確か先輩はこういう指摘をしていたよな…」というのを経験と共に蓄積し、自分の中にチェック観点を蓄えることでレビューをしているのではないかと思う。なので、当然、能力や経験によるチェックの厳格さに差が表れたりしてしまう。

 

さらに、いくら経験豊富だからと言って完璧なレビューを実施できるわけでもない。そもそもシステムの設計の正しさを担保するには様々な観点(機能性、保守性、移植性)から正当性を判断しなければならないし、プログラムロジックの矛盾にも気づけなければならないからだ。

 

本質的にはレビュー完了は開発の次工程へのGoサインが降りたことを意味するので、もしレビューで欠陥を見抜けなかった場合は、試験工程になって重大なバグとなって顕在化するリスクが高い。バグは見つけるのが遅いほど、プロジェクトの進捗にもたらすインパクトもデカくなるので、レビューでどれだけ欠陥を指摘できるか、というのは極めて重要なのである。

 

レビューがいかに重要か。これについては共通理解があると私は信じているのだが、だからと言ってそこに多くの稼働を割くことがプロジェクトとして考慮されているかというと、これまた考慮されていないケースの方が多い。だからこそ、レビューの準備が不完全なまま、なんちゃってレビューを実施することになるのである。

 

そもそも、ある成果物を作る場合には必ず、作成フェーズとRv(レビュー)フェーズに別れる。報告書の作成なんかでも同じだろう。まず、担当者が報告書を作成し(作成フェーズ)、その報告書の内容が問題ないかを上司なり先輩なりに確認してもらう(Rvフェーズ)。

 

ここで注意しなければならないのは、担当者が作成したらそれで完成、ではないことだ。個人の成果物は組織として見た時には50点くらいの品質しかない。だからできれば複数の人に確認してもらって、70点、80点と高めていき、最終的に組織として100点に近い成果物が完成するのである。

 

ただ、残念なことにこのような意識を持っている人は非常に少ない。レビュアー(成果物をチェックする人)は作成者がちゃんと作ってくれているはずだと思い込み、レビューイ(成果物をチェックされる人、作成者)は間違っていたらレビュアーが指摘してくれるはずだと信じる。

 

このため、最終的にバグとして顕在化した場合にもどこに責任の所在があるのかがわかりづらく、しばしば誰も反省しない、ということになる。実際にはどちらも悪く、各々が反省しなければならないのだけれど。

 

また、レビューという行為は作成に比べるとチョロまかすことが比較的容易な仕事である点も危険度を上げる要因になっている。

 

例えば、設計書を30ページ執筆しなければならない場合、品質の是非に関わらず一定以上の作業量が発生する。もちろん、高い品質の成果物を作るためには多くの時間がかかるだろうが、品質を下げたとしても、30ページ分という目に見える形として残さなければならないので、それなりに作業時間が必要となる。

 

これに対し、完成した設計書が正しいかをチェックする仕事は、作業品質を落とすことで、作業時間を調整しやすい。極端な話、一切チェックせずとも「問題ありませんでした」と一言言えば、とりあえず作業完了扱いにすることができてしまうのだ。時間調整が利きやすいため、ファクトベースで綿密な計画が立てられることもなければ、執筆作業のバッファとして使われることも少なくない。

 

そして、そういう開発の進め方しかしてこなかった人達で構成されていると、変えるのが非常に難しい。あまり良くないやり方でそれなりの成功をしている(ように見える)ので、改善しようという気にならないのだ。でも、冷静に過去の開発を俯瞰すれば、レビューのやり方に起因して試験工程で想定外の業務が大量に発生していることを踏まえると、これはやり方として明らかに間違っていると言えるのではないだろうか。

移動コストの削減が科学の課題

新幹線代って高くないですかね。私は長期休暇中には大抵東京から大阪に帰るわけですが、だいたい往復で3万円ぐらいします。もちろん、夜行バスとかを使えば時間はかかるものの往復で1万円程度に抑えることができたり、LCCでも2万程度と予算を抑えることもできますが、やはりそこには超えられない5桁の壁があります。当然、移動先が海外とかになればもっと金額は上がります。

 

新幹線は、確かに神話と呼ばれるほどの安全性があり、多少高額でも妥当という意見もあるかとは思います。ただ私が思うのは、移動に関するコストってあんまり昔から変わっていない、むしろ増えているのでは?ということです。近年では、移動コストの削減を真正面から実現したのはLCCぐらいでしょう。

 

インターネットの世界では、年々簡単に早く遠くへアクセスできるようになっている一方で、相対的に見ると、現実世界での移動はほとんど改善されていないように見えています。あるいは、IT技術の進歩によって”移動”が必ずしも必要ではなくなってきている、と言えるのかもしれません。

 

例えば、数々のオンラインショップの登場により、買い物に行くための移動は必ずしも必要ではなくなりましたね。他にも、テレビ会議の高性能化によって、遠隔地の人とも共通の画面を見ながら議論を進めることができるようになっています。完全普及はまだまだですが、技術的には可能であるので、会議のために遠隔地へ移動する必要性は確実に薄まっています。

 

でも、移動する人達の数は全く減らないですよね。長期休暇期間の帰省ラッシュは毎年半端じゃありません。仕事上では移動コスト削減が促進されていますが、結局のところ、プライベートな場では移動する必要性が変わらず残っているということです。

 

考えてみれば当然で、実家にテレビ会議を導入したら、家族の顔が見れて話もできるから帰省しなくなるか、と問われれば、そんなわけないっしょ、という話になります。友達と遊びたいとか、故郷をこの目で見たいとか、同じ場を共有したいとか、そういうことは残念ながら今のテレビ会議レベルの技術では難しいでしょう。

 

だから、移動しなくても良い世界の実現が今後の科学の課題なのかな、と個人的には思っています。パッと思いつくのはソードアート・オンライン的な仮想世界の構築でしょうね。言語情報や視覚情報の共有や発信は既に実現されていますが、それだけではやはり、”リアル”との差分が大きすぎます。

 

逆に言うと、フルダイブ環境(?)の構築が可能となれば、そこはもう現実世界そのものなんですよね。結局、私たちが”現実”と呼んでいるこの世界も、体を通じた感覚で情報を認識しているだけですから。そんなことは到底実現不可能な気がしますけど、VR領域の研究とか、Gear VRみたいなウェアラブルが登場してくると、いずれはそうなっていくのかも、という気もします。

 

仮想世界が出来れば、いわゆる”ワープ”が可能になるので、移動する必要性は皆無になりますね。それどころか、リアルでは不可能と言われている”タイムリープ”的なこともできそうです。倫理的に良いか悪いかはわからないけれども。

 

中2病っぽいエントリになりましたが、これにて。

人狼と会議に共通するファシリテーション

結構前に「人狼」というゲームが流行ったことがある。市民チームの中に人狼が2人紛れ込んでおり、市民は人狼が誰かを当てることができれば勝ち、人狼は市民全員を殺すことができれば勝ち、というものだ。その中に占い師や騎士など、特殊能力を持つ人がいることでゲームの展開は面白く、難しいものになる。

 

で、人狼のような騙し合いのゲームと聞くと、多くの人が心理戦のゲームだと考える。いかに自分の心理を悟られず、相手の心理を読み取るか。心理戦が上手い人がこのゲームにおいては強者になる、そう考えるのだ。確かに、個人の戦いであれば成り立つ考え方だろう。

 

しかし、ことのほか人狼というゲームにおいて、勝敗を決めるのは心理ではない。たとえ、自分1人だけが誰が人狼かがわかっても(あるいは自分が人狼なら誰が占い師かがわかっても)、その主張を通すことができなければ、自分の思い通りにゲームを進めることはできない。

 

本質的に、人狼ゲームで鍵を握るのはファシリテーションスキルである。誰が人狼なのかを自らが突き止めようとする、のではなく人狼をあぶり出すための施策を場に対して提案する、そんなイメージである。さすがMC慣れしているだけあって、テレビではロンブーの淳とかが非常に巧みである。

 

このあたりはまさに社会人の会議の縮図である。ファシリテーターが自分の意見を主張しすぎると、複数の批判意見が自分へと向けられることになり、議論が進まない。人狼ゲームの場合、そもそも主張の裏側に怪しさを読み取られてしまい、追放されるというパターンも多い。自分の思い通りに進められないのだから、当然良い結果にはならない。

 

むしろ、多くの人に意見を出させる、みんなが判断できない状況に陥ったら、判断材料を増やすための別の切り口や進め方を提案する。こういったニュートラルな立場に身を潜めておくと、すんなり自分の発言や提案が参加者に受け入れられやすくなる。人狼ゲームの場合では、無意識のうちに市民だと思われやすくなる。

 

もちろん、言うは易し行うは難しであるが、集団での合意形成にあたっては必ずしも自分が最強のプレーヤーである必要はないのである。

パチンコホールの未来を考える

地元に帰ってくると、必ずといっていいほどパチンコ屋に足を運ぶのだが、パチンコホールほどIT化が進んでいないと思う場所も少ない。数年前と大きく変わった点を感じることがない。

 

もちろん、周辺機器やパチンコ台は進化を遂げていることはなんとなくわかるけれど、結局従来の延長戦上の進化でしかないように思う。そうやってミニマムな進化を続けてなんとかお客さんを食い止めているのだろう。

 

とは言え、パチンコ業界の市場規模はやはり減少傾向にある。近々、MAXタイプのパチンコ台にも規制が入るため、更に集客力が落ちることも懸念される。法律でビジネスを規制される中、パチンコを生き残らせる方法はあるのか。それを今回はテーマにしたい。

 

これは私の予想だけれども、ほとんどのパチンコ屋さんは、「いかにお客さんに来てもらうか」を考えている。昔のようにお客さんが沢山入るようになれば、後は釘の調整でなんとでもやっていけるからだ。

 

そのために接客力を向上させたり、低玉貸台を充実させたり、綺麗な空気、分煙にも対応、あるいは漫画コーナーの設置という変化を遂げた。少なくとも、こういった努力のお陰で、元々はパチンコ屋に来なかったよな層の人たちも来るようになったとは思う。お客さんの満足度も確実に上がっている。

 

でも、市場規模は上がらない。業界全体で起こっているのは、小さい店舗が続々と閉鎖し、大きい店舗を持つチェーン店のみが何とか生き残っている状態だ。ヘビーユーザが少なくなったことにより、客単価が低下してしまったのだから無理もない。

 

確かに、接客の向上や漫画コーナーの設置などは客単価の向上を目論んでいる節もあるが、大きな効果があるのかは誰にもわかっていないはずだ。そして何より、客単価が上がってしまうと法律により規制される、という構造が出来上がってしまっているので、客単価を上げることを目指してはいけないのである。イタチごっこの繰返しが続くだけである。

 

そもそも、パチンコというギャンブルの市場規模が30兆という過去の時代の方がどうかしていた、と考えるべきである。つまり今になって漸く適正な市場規模に落ち着きつつあるのだと。であれば、売上を回復させる、というのはナンセンスであり、今本当に考えなければならないのはコストカットなのだ。今の売上でも経営を成り立たせるための方法を考えなければならない。

 

今のIT動向的には、もっぱら攻めのIT投資(新たなサービスを生み出すためのIT)であるが、パチンコホールに至っては削れるとこだらけに見えるので、守りのITを導入するべきである。

 

過去に守りのIT投資が功を奏した例として、各台計数機システムがある。出玉の計数機が各パチンコ台に設置されているため、従業員の人件費を大幅にカットできる。初めに導入する際は、出玉感が減ることに躊躇する声もあったが、蓋を開けてみれば今はほとんどの店舗で当たり前のように導入されている。差し詰め、演出効果増幅よりも人件費削減の方が経営的には正解だったのだ。

 

では、次のIT投資は何が考えられるかというと、事実上のパチンコ台の撤廃である。そもそも、パチンコ屋において圧倒的にコストがかかっているのは新台入替と呼ばれるイベントである。ずっと同じ台を置いているとお客さんに飽きられてしまうので、台を定期的に入れ替えるのである。

 

しかし、パチンコ台というのはめちゃくちゃ高い。1台40万円ぐらいという話を聞いたことがある。それを何十台単位で購入し、多いところでは週に1回ぐらいの頻度で行われるのだから、かなり売上を圧迫していると思われる。

 

ただ、パチンコホールにとって、新台入替はおそらく最も集客効果のあるイベントなので、この習慣を断ち切るのは非常に難しい決断である。とは言え、新台入替をどうすればもっと安くすることができるのか、を本気で考える時期にもう既に差し掛かっている。

 

そこで登場するのが、配信型のパチンコである。要するに、パチンコ台はただのハードウェアとして、パチンコのソフトウェアのみをデータ配信することで入れ替えるのだ。新台入替の経費は圧倒的に割安になるだろう。

 

今のパチンコ台は、パチンコの機種ごとに少しずつ釘の配置や役物が異なるものを一々製作しているから割高なのである。だったら、機器としての枠組みは全部統一して、ソフトだけで区別するようにした方が良い。

 

そんなことすれば、個別での釘の並びや役物がなくなって、パチンコを打たなくなる人が現れるのでは?と懸念する人がかならずいると思うが、そんなものは新台入替にかかるコストの前では全く意味を成さない程度の懸念である。

 

そもそも、スマホでも実機同様に遊べるアプリがあり、会員数を続々と伸ばしている現状を踏まえれば、釘や役物が本質的なパチンコの価値ではないことに簡単に気づく。わざわざパチンコ屋に来る人はあくまでギャンブルをすることを本質的には求めているのだ。それ以外の要素を排除したところで、各台計数機同様ほとんど悪影響はないどころか、プラスの効果の方がデカい。

 

このご時世に、機種ごとにデザインされたパチンコ機器自体に価値がある、というのは残念ながら願望でしかない。あくまでハードウェアに拘った任天堂が、スマホのアプリに惨敗だったのも、過去の延長戦上で考えてしまったからである。

 

パチンコホールが数十年後も残っているとしたら、パチンコホールはデータ配信型で、あるいは、自分が座った席で、好きな機種を選んで打てるようになっているのではないだろうか。

 

考える上で参考にした本↓ 

「0から1」の発想術

「0から1」の発想術

 

 

LINEで勤怠連絡はなぜいけないのか、あるいはメールで勤怠連絡をしない理由

 現代の「LINEで勤怠連絡するなんて非常識だ!」という発言は、「戦争に反対するなんて非国民だ!」とかゆわれていた時代の発言ときわめて共通しています。ってか、「非常識」という言葉を簡単に使う人間は、たいてい「非常識」と判断している理由を説明することもできないっしょ。

 

まず、勤怠連絡の手段についての是非を論じる前にそもそもなぜ勤怠連絡を会社にする必要があるのか、を定義する必要がありますね。まぁ単純に考えると、友達と会う約束をしていて、それが守れない時に連絡するのと同じような気がします。

 

要するに、相手に迷惑がかかるから、でしょ?と。でも、こう考えた方は勤怠連絡が何たるかを全く理解していません。ビジネスの現場での勤怠連絡は、相手に迷惑がかかるからごめんなさい、ではなく、本来自分が提供するはずだった労働力を提供できなくなったので、別の人間を使って代替して下さいよ、というメッセージを然るべき役割の人に伝えることが目的です。

 

そういう意味では、私のようにプロジェクト型の勤務の場合、例えば2日でこの成果物を作れ、みたいな業務を受け方をするので、1日で成果物を作ってさえいれば、次の日に無断で欠勤しても何の問題もありません。ただ、勤務形態としては毎日7.5時間働く、という契約があるので、突発的に仕事が降ってくる場合も考慮して、今抱えているタスクがなかったとしても勤怠連絡はするべきでしょう。

 

と、ここまで来て、では勤怠連絡はどのように行うべきか、という話に入ることが出来ます。前述のとおり、勤怠連絡は基本的には仕事の采配を決める人や一緒に打ち合わせなどをする予定だった人に伝えれば十分です。そして、自分が遅れる、休むことを伝えればそれで十分です。

 

休む理由も必須だろ、とツッコミを頂きそうですが、ビジネス的には休む理由なんて必要ありません。なぜなら休む理由が何であれ、労働力が使えないという点では変わりないので、組織としての対策の仕方には全く影響がないからです。ただし、急に休む場合などは相手の納得感のためにも、休む理由について言及しておいた方が良いでしょう。

 

ここまでを踏まえ、勤怠連絡の手段は何が最も良いのか。選択肢は電話、メール、LINEに絞って考えてみます。

 

初めに電話。電話は現代のマナーと言う意味ではおそらく最も良さそうだと考えられている連絡手段です。ズル休みの防止に繋がる可能性もありますし、直接声でメッセージを届けられるので誠意が伝わります。

 

ただ、今の時代電話というのは結構不便です。電話をした時に誰かが会社にいる必要がありますし、電車の中などで電話が使えない場合もあります。そして、電話のメッセージは1人にしか届けることができないので、例えば、100人の部署だったとしたら電話を受けた人が100人に伝えなければなりません。電話を受けた人に大迷惑がかかるためマナーとしても実はそれほど完璧ではないし、非常に非効率です。

 

そこで、登場したのがメールです。おそらく、メールが生まれた頃もメールで勤怠連絡をするなんて非常識だ!みたいな意見もあったと察しますが、今ではメールでの勤怠連絡は割と一般的になっているのではないかと思います。私の会社でも基本的には勤怠連絡はメールで担当のグループアドレスに一斉送信するだけです。

 

これだけでも電話に比べれば非常に効率的ですよね。でも、メールでの連絡だとメールのビジネスマナーを文面に散りばめる必要があります。「お忙しい中ご迷惑をお掛け致しますが〜」みたいな。これもLINEとかが当たり前のゆとり世代からすると、結構面倒に感じるものなんですよね。

 

だから、メールではなくLINEで連絡するんです。「先輩、今日はちょっとしんどいんで休みます」ってちょっと送ればいいので楽じゃないですか。本当にしんどい時なら尚更です。でも、これ社会から見るとNGとされます。その言い分が「LINEで勤怠連絡をするなんて非常識」というものです。これを見たゆとり世代はきっと個人メールで勤怠連絡しちゃいますよ。上の世代はそれで満足なんでしょうか。

 

メールもLINEもメッセージを一方通行に伝えるツールです。つまり、本質的には同じなので、メールはOKだけどLINEはNGというのは完全に論理破綻しています。メールとLINEの何が違うのかをちゃんと補足する必要があります。

 

一つの大きな違いは社用メールか個人メールか、です。おそらく、LINEではなくても個人メールで送られてきたら非常識だと感じる人が多いんじゃないでしょうか。電話の場合と同じく、個人メールを受けた人が再度情報を発信しなければならないからです。

 

そして、もう一つが言葉遣いです。友達とやりとりするようなカジュアルな文面で連絡することは社会では不適切だとされています。それはメールもLINEも同じはずです。なので、たとえLINEだとしても丁寧な言葉遣いであれば、問題ないのではいでしょうか。

 

例えば、部署全員のLINEグループを作成して、そこに丁寧な言葉遣いで連絡するようにすれば、今のメールでの一斉送信と何も変わりません。ここまで条件を揃えても、メールはいいけどLINEはダメだと考えている人がいれば、それは時代の変化に適応できない愚かな人間です。

 

一方で、LINEでのマナーが形式化されれば、若者はLINEを使わなくなるでしょう。結局、若者にとって会社のメールとLINEとの大きな違いは、マナーが求められるか求められないか、ですから。だって、LINEのビジネスマナーはビジネス本に書いてないし〜って感じでしょうね。

 

でもゆとり世代にゆっときたいのは、マナーの9割に意味はないけれどマナーの無い社会が訪れることはないってことです。だから楽にマナーを守る方法を見つけましょうということ。

 

例えば、勤怠連絡とか大抵の人が他の人の文面をコピペして作ってますよね。過去に他人が送ったメール探して、コピーして、自分の名前と日付だけ変えて。それの何がマナーやねんって皆思ってますけど、それでも皆がマナーを守るという異常な世界が社会というところです。

 

私なんかは書き換える作業すら面倒くさいので、実行した翌日休む旨を伝えるメールを自動で作成するvbsファイルを自作しました。(チョー簡単にできます。)ダブルクリックするだけで終わりです。LINEで連絡するよりも楽です。こうやって社会の仕組み似あわせて個人で楽する方法を考えるのも大切です。ご参考までに。

競争のない世界は”夕陽的”ではない

競争。それは自然界の中では当たり前の行為であり、社会の中でも当たり前に繰り広げられているものだ。勝つものだけが生き残り、負けたものは死ぬ。世界の原理原則である。

 

しかし、この原理原則を不合理だと考えたのは人間である。例えば、究極の競争である「戦争」という行為は自然の摂理には即しているが、私たち人間からは忌み嫌われた残虐な行為だと考えられている。多くの犠牲者を生み出してしまうからだ。

 

戦争の悲惨さを理解している我々日本人にとっては、争いごとはよくないことだという考えがどこかに必ずある。そういった思想がかつてのゆとり教育の産出にも起因しているのだと思う。ゆとり教育真っ只中、運動会の徒競走をみんなで手を繋いでゴール、というのが話題になったのも、競争を避ける文化の象徴である。順位をつけることは敗者を生み出すこと、すなわち良くないこと、と考えられていた。

 

 

果たして競争することは悪いことなのだろうか。あるいは、競争しないことによるデメリットはないのか。そういった視点で、競争にまつわる様々な考察がまとめられているのがこの一冊である。あとで気づいたが、「もしドラ」の著者岩崎さんの本だ。

競争考 ―人はなぜ競争するのか―

競争考 ―人はなぜ競争するのか―

 

競争することの価値、人が勝負を避ける理由、その対策としての競争心の取り戻し方に始まり、ゆとり世代ブラック企業が生まれた理由などについてもかなり深掘りして語られた一冊である。久しぶりに滅茶苦茶面白い本であった。

 

全体を通して、一番始めのサブタイトルが「競争はプレゼンテーションである」というのが言い得て妙で、非常に印象に残っている。ということでここでは冒頭部分だけ少し紹介しよう。

近頃つくづく思うのは、世の中には「すごい」というのが見えやすいものと、見えにくいものがあるということ。そして、「すごい」というのが見えにくいものには、「すごい」と見えるような工夫が必要だということ。その工夫ープレゼンテーションこそが、何よりだいじだということ。

 

私も社会人になってから、このプレゼンテーションというものの壁にぶち当たっている。 いわゆる、聴衆の前で発表する「プレゼン」ではなく、日々の些細なアピールだと思ってもらえればいい。

 

私はアピールするのが好きではない。そういった実力以上のアピールばかりしている人間にも全く魅力を感じないし、それより、実は凄い人間の方がカッコイイと思う。あるいは、そういう人間でありたいと思う。

 

しかし、岩崎さんは20年かかって、世の中はそうはなっていないことに気づいたと述べている。これはたぶん本当のことだ。私も薄々感じているが、優秀な人間よりも優秀そうな人の方が評価される。

 

そして、このプレゼンとしての効用が非常に高い手段、それが競争だという。競争に勝つことこそが最大のプレゼンなのである。競争に勝つ、ということがシンプルに相対的な価値を示す結果だからだ。

 

私はこの当たり前の文章にひどく関心してしまった。というのも、私が大学時代になってからめっきり友達ができなくなってしまった(笑)一番の要因は、大学には競争と呼べる場が全くなかったからである。あるいはそういった場に参加することもなかった。

 

今の会社にも、明確に優劣をつけるような取り組みはない。〇〇さんはここが優秀、〇〇さんはここが優秀、結局みんな優秀、で終わる。自分の無能さを周囲から突きつけられることはない。そして、競争を望む人も少ないように思う。

 

 

ゆとり世代を中心に、優劣をつける、ではなく、それぞれの個性を大事にする風潮が高まった結果、競争心を持つ人間は少なくなった。でも最近思うのは、ナンバーワンよりオンリーワンを大切にした結果、皆が無個性になっている、ということだ。そもそも個性を知ろう、と思う人間に出会うことが非常に少ない。と同時に、私も誰かに関心を抱かれることはほとんどなくなったと思う。

 

だからこそ、アサーティブな人間ほど評価される、という事態になっているのだ。社会においては絶対的な価値(あいつは凄い)よりも相対的な価値(あいつはこいつよりも凄い)の方が圧倒的に価値が高い。ノンアサーティブな人間がアピールするには勝負の場に出て勝つしかないのだろう。逆に言えば、ノンアサーティブな人間のためには競争という場が必要なのである。岩崎さんの言葉で言えば、競争のない世界は、”夕陽的”ではないのだ。

奨学金制度のあるべき姿を考える前に

奨学金制度の現状

現代、日本国民の2人に1人は社会人になった時点で、300万円の奨学金の返済を抱えているらしいです。奨学金と言えば聞こえはいいですが、これ、ただの借金です。私も200万ぐらい奨学金借りてたので、毎月2万弱返済しています。そして、これ、あと10年以上続きます。社会人に取っての2万なんて余裕だろ、とか思ってましたが、結構辛いです。私の周りには月4万とか返済している人もいて、かなりキツそうです。

 

私の場合は第一種なので無利子ということもあり、返済こそ苦しいですが、生活が成り立たないほどではありません。ただ、社会に出てから奨学金の返済が立ち行かなく人も17万人ぐらい存在するようです。だいたい奨学金を借りている人の10%弱が返済困難状態、という感じでしょうか。結構深刻ですね。

 

そもそも、今の奨学金制度は、大学を卒業すれば、良い会社に就職でき、良い収入を得られる、そのお金で返却する、というサイクルが回ることを前提に作られています。これは年金制度にも少し似ています。

 

しかし、今やその前提は完全に破綻しています。大学を卒業しても、働き口が見つからない。ありつけたとしても、ブラック企業で心身ともに障害をきたしてしまう、ということが普通にありえるご時世です。だからこそ、奨学金制度の弊害が目立つようになってきているのです。前提条件が破綻し、問題化している点も年金制度と同じです。

■給付型奨学金にの効果と問題

この問題に対し、安倍さんは給付型奨学金制度の導入を宣言しましたが、どうでしょうね。これって本当に解決策として有効なのでしょうか。

 

確かにこのまま奨学金問題が深刻になっていくと、「大学へ行く」という選択は完全にギャンブル化します。今だって、闇カジノで400万突っ込んで、1000万になると思ったのに、そうならず、闇金の返済だけが残った、そんな状態の人が既に17万人いるわけですから。良識ある人ほど、あー大学には行かないでおこう、となってしまうわけです。つまり、勉強に対してネガティブになり、日本社会は無能になっていくわけです。

 

また、家が裕福な人だけがローリスクで大学へ行けるようになります。すると、格差の再生産(金持ちはより金持ちに、貧乏はより貧乏に)が起こります。人間、自分が生まれる環境は選べないので、腹立たしい限りです。

 

ならば、家の経済状況に関わらず、勉強したい人は心置きなく勉強できるような国作りの一環として、給付型奨学金というのは魅力的です。少なくとも勉強する人を増やせば優秀な人の輩出数も増えることは確実でしょう。

 

ですが、そんな財源どこにあるんだっけ?って話です。端的に言えば、国民にしわ寄せが来ます。税金などの形で私たちの財布から出て行ってしまうわけですね。こうなってくると少し考えなければならない別の現実問題が浮かび上がってきます。本当に意欲的な若者が学べる環境ができる一方で、ただただ遊ぶために大学へ行く人間が増えるというリスクです。

■日本の大学生は勉強しない

そもそも、今の大学生ってどのくらい勉強しているんですかね。もちろん、学生は貧乏ですから、アルバイトなどもしなければならない、といった時間的制約もありますけど、楽に単位が取れる講義を受けて、卒業資格だけを得るために大学に行ってる人の方が多いんじゃないでしょうか。私も日本の大学生は総じて勉強していないと思っています。意欲的に学ぶ人はせいぜい1〜2割、ほんの一部でしょう。

 

私もそうでしたけど、大学に行きたい、っていう人って別に特定のことを勉強するためではない人がほとんどですからね。まず大学に行きたいっていう気持ちがあって、大学生活の中でそれを合理化していく、みたいな。そんな感じです。

 

というのを踏まえて、国民はそんな大学生ならぬ遊学生に対して税金を払うことを快く思うのでしょうか。絶対思わないですね。この奨学金問題についても、「努力が足りなかったからだ」とか「自己責任だ」みたいに否定的な言い方をする人が多いのは、ちゃんと勉強していない大学生が多い(少なくともそういうイメージを持っている)ためです。

 

なので、私も払いたくないです。自分が学生の時だったら払って欲しかったですけど笑。こんなわけで、一部の勤勉な学生が被害を被ってしまっているわけです。

■大学なんていかなくていい

私はずっと思ってますけど、そもそも今のほとんどの大学にはあんな高額な学費を払うほどの価値はありません。教育の質についてももちろんそうですが、昔であれば価値のあった「大卒」ブランドも既に無力化しています。

 

今でも高卒と大卒ではその収入(生涯年収)に大きな格差ができるわけですが、昔は大卒の方が高卒に比べて希少性があったから、価値があったのです。それが大学の数が増えて、進学のハードルが下がり、今は大学進学率は50%超えです。皆が優秀になったわけではなく、本来であれば高卒のまま働きに出ていたはずの層がFラン大学へ進学するようになっただけです。「大卒」としての価値はほとんどありません。

 

そして、Fランの大卒に価値が無い今、Fラン大学は教育の質という形で価値を提供しなければならないのですが、多くの大学ではその価値を提供できているとは思えません。そんな環境に高い金を払って大学に行くのは結構馬鹿げています。一部の難関校では教育の質が高いところもありますし、「大卒」自体の価値もまだまだ残っているので、行く意味はありますが、そこに届かないのであれば、高卒で働いた方がマシでしょう。

■問題の本質は日本社会の評価スキーム

Fラン大学に行っても損だから高卒で働く、では残念ながら何の解決策にもなりませんよね。格差の再生産を防げません。あるいは、みんな大学に行く時代だからこそ、自分だけが大学に行かないことを不安視する人も多いでしょう。日本人は人と違うことをするのをめちゃめちゃ不安に思いますから。これでは結局問題は硬直化したままです。

 

問題の本質は日本社会のスキームにあるんですよ。そのスキームとは、分かりやすい指標で人の能力を図ろうとすることです。何回も言ってますけど、日本人って評価がヘタクソなんですよね。ほんとに。

 

評価が下手だからこそ、簡単に評価できる手法として単純な指標値を作ったんですよ。これはある意味賢いやり方もあります。物事は定量化すれば簡単に評価できますから。偏差値がまさにその典型例でしょう。「偏差値」という指標があるから、どんな人間でも誰が優秀か評価できる、というわけです。

 

でも、偏差値高い奴と一緒に仕事してみたら全然優秀じゃなかった、ってこともありますよね。あるいは、最近話題になったショーンKみたいに、仕事ぶりは良かったのに実は偏差値は詐称だった(低かった)なんてこともあります。要するに、偏差値=優秀者の指標値ではないってことです。あるいは、ほとんどの物事はそんな単純に定量化できないってことです。

 

自分も評価が上手いとは言えないので、想像でしか無いですけど、何かを評価する時って多角的であるべきだと思うんですよん。例えば、8つぐらいの異なる特性をピックアップして、それぞれのポイントでレーダーチャートを表現した時にできる八角形の面積が大きい人が優秀、みたいな。

 

ただし、ここで8つの異なる特性をピックアップする段階でミスってるのが日本人です。例えば、義務教育にも色んな科目があるので、レーダーチャートで各科目の成績を表現することもできるんですけど、無意味です。概ねどの科目も、単なる答えの暗記量を競うテストですからね。偏差値=暗記力と言っても過言ではないくらいです。

■公正な評価教育からの脱却

日本教育は、客観的に、平等な評価ができることに重きを置きすぎています。その結果、時代に合った質の高い教育を提供することよりも、公正に評価できる昔ながらの教育方法を採用し続けてしまっている、これが一番の問題点です。

 

もちろん、この国で多角的な評価をしようとすると、必ず大問題になります。それは不平等感です。当たり前でしょう。国民皆平等の精神に基づく我々は、人によって評価が違うことをひどく嫌うからです。東大の推薦入試が批判される背景にも同じ理由があったはずです。

 

しかし、現実社会には完全な客観は存在しません。偏差値のように客観っぽく見せることはできますし、それが好まれる社会であることもまた事実ですが、ほとんどのことは各々の主観でしかありません。強いて言えば、様々な主観の集まりが客観になるのです。そして、それを学生のうちに教えるためにも完全な公正評価から脱却する必要があります。

■給付型奨学金より教育の質向上・フリーター許容の文化

かなり話が脱線しましたが、教育が多面的な評価を本格採用するようになれば、自ずと社会も、多面的に学生を評価するようになります。あるいは、その時は高卒や大卒などの括りもなくなっているかもしれません。幸い、グローバルな時代の流れはダイバーシティ多様性です。

 

そういう社会が実現すれば、就職を悲観視してむやみやたらと大学に行かなくなるはずです。結果的に、年間100万もの価値がある教育を提供する大学だけが生徒を獲得できるようになるので、必然的に教育の質はあがります。

 

また、今の大学生活において一つ価値がある点として、自分の裁量で自由にやりたいことができることがあげられます。といっても、これは「大学」そのものの良い点ではなく「大学生活」の良い点です。むしろ、無駄に大学に通っているばかりに、学業以外の時間しか自由に使えない、ということでもあります。

 

これも大方、社会が「大学生」であることを過度に評価している弊害といえます。もし社会が学生以外の身分としてモラトリアム期間を過ごした若者をフラットに評価できるようになれば、躊躇なくフリーターとして無駄に学費を払うこともなく、4年ぐらい自由な生活を送った後に就職するという選択も可能になります。

 

こんな社会になれば、奨学金を貸与型にするか給付型にするか、なんてのは些細な違いでしょう。こんな社会になれば、ですが。

派遣を雇えば日本の生産性は上がる

日本人は行動の判断条件がノットイコールで考える人が非常に多い。例えば、「今日飲みに行く人ー!?」と聞かれたて、まず考えるのは、そこに行きたい理由(行きたいと思っていた居酒屋など)があるか、ではなく、そこに行けない理由(別の予定など)だろう。そして、断る理由がなければ行く。こういう思考プロセスの人が非常に多い。

 

恋人との付き合いとかもそうだ。一旦付き合い始めると、付き合う理由があるから付き合い続ける、ではなく、別れる理由はないから付き合っている、という人が多い。結婚生活とかも同じだろう。もちろん、実際はここまでシンプルな結論ではないが、総じてこのような傾向が強い。

 

これは労働スタイルについても同じことが言えて、明確な理由があって雇っているわけではないけど、特にパフォーマンスが悪いわけでもなく目立った失敗が無ければ、原則解雇されない。辞めさせる理由がなければ辞めさせないのである。だからこそ、赤字になった(辞めさせる理由ができた)途端に、大量のリストラ、自主退職を募るのだ。本来なら、赤字になったとしても価値のある人間なら雇っておくべきなのだ。

 

私はこのような日本人の思想が日本の生産性に悪影響を及ぼしている気がしてならない。日本の労働生産性はOECD34ヶ国中21位と、先進国の中では最低クラスである。労働生産性とは、付加価値÷従業員数で算出されるメトリクスであるが、時間あたりの生産性が低いことが全ての現況であることは日本社会にいる人間なら容易く想像できるだろう。

 

で、日本人の生産性が低いのはなぜかというと、それは派遣を雇わないからだ、というのが私の仮説である。

 

私の担当には派遣社員は一人もいないが、私たちが高い賃金をもらってやるほどの価値はない仕事は山程ある。ポットのお湯を入れる。掃除や片付けをする、PCの台数を数える、座席の移動の準備をする、印刷をする、会議室のセッティングをする、ワイヤーロックの鍵を解錠する、などなどの雑務だ。どこの会社でも同じような話はあるだろう。

 

実は私の担当でも過去に派遣社員の雇用が検討されたこともあるらしいが、結局派遣に頼んだ方が予算が高くつく、という結論で終わってしまった。確かに直接的には派遣を雇ったほうが当然費用は余分にかかるが、果たしてその波及効果まで考慮されていたのだろうか。

 

私たちみたいに、今この世にないものを売る会社は、始めに受注額が決まる。つまりまだ何も作っていない時に売上が決まるのである。ここまでが営業の仕事だ。そして、これを売ります、というのが決まった後、開発部隊がそれを作って納品する。そして、その時に報酬を手にする仕組みになっている。

 

すると、初めに売上が決まっているのだから、利益を確保するためには支出を減らすしかない、という構造になる。特に日本のように時間に縛られた労働形態では、正社員の給料もほぼ固定費であるため、あえて派遣を雇って支出を増やすよりは、正社員の労働時間の中で吸収した方が合理的に思えるのだ。

 

しかし、これは長い目で物事を見ていないし、開発部隊は利益に大して何の貢献もしていないという考えに基づいた判断である。例えば、派遣を雇うことになって、本業に集中できれば、より短期にシステムを作ることができるし、より品質の高いものを提供することができる。社員のモチベーションだってきっとあがるはずだ。

 

良いものを作れるようになれば、営業だってもっと積極的な提案ができたり、あるいは賃上げ交渉ができるかもしれない。あるいは顧客を通じて別の会社からの受注に繋がるかもしれない。こんな風に実は開発の成果が営業活動に繋がることだってある。

 

近年は、非正規社員が4割を超え、規制がかけられたりもしているが、派遣社員契約社員は数%しかいない。そもそも、非正規社員が増えることの何が問題なのかわからない。そもそも会社が変わること自体は別に不安定でもなんでもない。派遣社員でも安定した需要があれば、不安定ではなくなるのだから、もっと派遣や契約社員(特に雇用する側)を推奨したほうがいい。むしろ今の時代にはそういう働き方の方が合ってる。

 

まぁ、日本みたいに、「これだけの労働力がかかったからこの価格」という決め方をしている限り、本当の意味での生産性はいつまで立っても上がらないかもしれないけれど。

若者が選挙に行かない本当の理由、それぞれの問題

■若者が投票に行かない時代

若者の投票率が低い。かれこれ10年ぐらい言われている言葉だ。数値にして約3分の1。これが今の投票率である。でも、本当のところ、これは私が思っているよりもずっと高い数値だ。同世代を見ていても、10人に一人ぐらいしか行ってないのでは?と思う。ちなみに私も”ちゃんと”投票したことはない。

■一般的に語られる投票数低迷の原因

若者の投票数が少ない理由は、ネットを探せばいくらでも出てくるが、だいたい下記の3つに分類される。

  • 政治に関心がない
  • 投票しても何も変わらない
  • 忙しい

でも、これは浅はかな分析である。じゃあ若者が政治に興味を持つように呼びかけよう!とか、「あなたの一票が政界を変えます!」と訴えるとか、忙しい人のための期日前投票を用意したって何も変わらない。たとえ家でダラダラするとしてもその時間の方が大事なのだ。

■根本にある3つの理由

・政治に対する無知

全ての根本原因は若者が政治のことを何も知らないまま大人になることにある。政治のことを何も知らないから無関心なままだし、政治のことを何も知らないから投票に行くモチベーションがない。またサトリ世代とも呼ばれる私たちは、自分の投じる一票の価値の低さを十分過ぎるほど把握している。

・今の生活への満足感

政治についてわからないなら学ぶしか無いわけだが、とっくに義務教育は終わっているので自主的に学ぶしかない。ただ、「政治」という分野はかなり広範囲に渡るし、覚醒等が主張する正当性を評価するためには近年代の歴史や世界情勢のこともそれなりに理解する必要がある。要するにちゃんとやると結構大変なのだ。

 

そして何より、政治のことを何も知らないままでいることのヤバさをあまり感じていない。例えば、はるか昔の20代(今の60代とか70代の人)は昔から投票率が高い。結局、これは戦争など自分の命が国の選択に関わってくることをビビットにイメージできたからだろう。

 

日本以外の外国でも投票率が高いのは、投票に行かないと罰金が発生するなど、半ば義務的に強いられているところが多い、というのも「投票に行かないとヤバい」という心理が有効に働いている結果であり、日本の過去世代と同じだと思われる。

・意思決定能力の欠如

まず、理由を語る前に、投票の本質は意思決定であることを述べておきたい。投票に行ってる人が投票に行かない人をディスる場面があるが、意思決定としての投票をしていない人間は投票をしていないのと同じである。

 

例えば、「友人や親に勧められたから」とか「テレビで〇〇党優勢」だったから、とか「ネットで〇〇党が良いって書いてあったから」とかそんな理由で投票に言っている時点で終わりである。そもそも、優勢の党に改めて投票に行く意味はそれこそない。投票の意味は自分の意志を表明できるところにあるのだ。

 

でも、私たちネット世代は意思決定が非常に苦手である。なぜなら、ほとんどの問題の答えが簡単に手に入る時代に育ち、自分の頭で考える訓練を受けていないからだ。★の数とランキングでしか良し悪しを決められないから、結局自分の意志を票に宿すことができない。だから投票に行かないし、たとえいったとしても大きな意味を持たない。ある意味、今の若者にとっては、「みんな投票しない」から投票しないことが事実上の正解になっているのかもしれない。

■仕組みとしての問題
・政治を教育で教えない

今の日本教育で政治を習うのは中学校が最後である。理系ならその後は一生学ばなくても何の問題もない。また、中学校で教わる政治は単純に投票の仕組みとか議員数などルールや決まりの話ばかりで、今の政党の話や政策についての話は一切出てこない。そもそも近代社会のテーマを取り扱うことがほとんどない。

 

今の知識を得て未来を考えるためにあるのが教育であるはずが、過去の話をひたすら覚えさせて終わり、これが日本の教育の問題点である。政治に限らず日本の教育はもっとドラスティックに変えた方が良い。

・ネット普及・情報過多の弊害による"玉"の紛失

ネットの情報は玉石混交だが、石の情報に阻害されて玉に辿りつけない現象が起こっている。一昔前であれば、そもそも情報源が少なかったため、必要な情報も幾分入って着やすかったのだろうが、今はどうでもよい情報ばかりが散乱している。

・政策の分かりづらさ

今の時代は、Appleの製品を始め、”わかりやすさ”が凄く求められてる。直感的に操作できるとか、視覚的に分かる、とか。そういう意味で、各政党のマニュフェストは本当に分かりにくい。(全部みたわけではないが。)

 

HPにアクセスしても、どこを見れば政策が見れるのかわかりにくいし、政策のPDFを見つけた、と思ったら、ひたすら箇条書きでダラダラーっと書かれていたりする。しかもやたら多いし。それでは残念ながら政治に関心を持ってもらえないだろう。要点に絞ってパワポで作れよ。と思う。

■まとめ

政治家も国民ももう変わらないので、次世代の教育を変えるのがベスト。以上。