∑考=人

そして今日も考える。

運送業者こそ宅配ボックスの設置を推進すべき

今の家でたった一つ気に食わないことがある。「宅配ボックスがないこと」だ。

 

私は基本的にオンラインでしか買い物をしないようにしている。もちろん、食べ物とかついで買いみたいなことはするけど、購買を目的としたショッピングははっきり言ってリアルの世界でやる必要はすでにない。

 

というわけで、必然的に宅配物を受け取る必要があるのだけれど、これが宅配ボックスがないとかなりきつい。常に家にいる時間を固定されるからだ。時間指定ができない場合は、平日の昼間に不在伝票が入れられて、こちらからまた依頼をしなければならないのもかなり億劫に感じる。

 

何より、この仕組み自体の不合理さに憤りを感じる。そもそも、「平日の昼間にいるはずがないのになぜその時間に届ける?」という感情と、その時間に届けた結果、宅配物を受け取る側が再配達の依頼をかける時間が必要になるのはもちろんのこと、実際に荷物を届けに来る配達員の稼働が無駄に思えて仕方がない。

 

こういった意見はネットでもよく散見されるし、サラリーマンにとってはごくごく自然な感想だとは思うけれど、にも関わらず、昼間の配達をやめて夜間帯に届ける、みたいな営業スタイルに変わらないにはきっと理由があるんだと思う。

 

例えば、昼間に家にいる人の割合が実は全国的にみれば、3割〜5割ぐらいを占めている、とか。相変わらず専業主婦はいるし、最近では非正規社員やフリーターも増えている。そうであれば、夜間帯配達にしたところで、サラリーマン以外の層が困るだけであって、結局全体としての無駄の量は変わらない。

 

ただ、夜間帯限定の配達サービスみたいなものが分化してきても良いのでは、とは思う。夜間帯だけにすれば他よりも配送料が抑えられるし、再配達のリスクも減る。ようするにターゲットとするセグメンテーションがデカ過ぎるから、無駄が発生する。コストが嵩む割にはサービスとしての価値がそんなに高くない印象になってしまう。

 

タクシー業界もそうだけど、人手不足が嘆かれている業界って、顧客のターゲット層が広すぎることによる無駄が圧倒的に多い。宅配サービスはネットで商品を買う人全てがターゲットだし、タクシーも「移動したい人全て」だ。だから、「仕事は大変」なのに「給料が安く」、「人手不足」という状態。たぶん、保育園とかも近い要素はあると思う。

 

ターゲットを絞る、というのは一つのやり方として、私は宅配ボックスの設置を期待したい。それこそ、運送業者が推進していくべきだ。

 

そもそも、宅配ボックスを誰が設置しているのか。宅配ボックス付きマンションとかを見ると、デベロッパーとかが設置しているのだろうか。

 

では、宅配ボックスは誰にとってメリットなのか。もちろん、そこに住む人だろう。そこに住む人がメリットを感じるからこそ物件デベロッパーが設置を決めるというのは非常に納得がいく。

 

また、スーパーの西友は「うけとロッカー」という宅配ボックスサービスを提供していたりする。たしか楽天など、オンラインチャネルの購入を促そうとする物流系企業が推進する動きがあるようだ。これも、住む人が受け取りやすいと、オンラインで購入しやすい、という点に着目したから登場したサービスだ。

 

上記は、住む人へのメリット中心の考え方だ。しかし、別に直接的にメリットがあるのは住む人だけではない、そう運送業者である。であれば、運送業者が自分たちの業務効率化を目的に宅配ボックスの設置を推めるのは実に合理的ではないだろうか。副次的に、住んでいる人にもメリットがある、という位置付け。まさにWin-Winである。

 

正直なところ、AIが置き換えようとしている仕事のほとんどは、コストや価値をかけている割には価値が発揮できていない領域である。そこに少し付加価値を加えることができていれば、真っ先にAI化しよう、とはならない。AI化することによるメリットが大きいというのは、裏を返せば、マネタイズの工夫が足りていないと言わざるをえない。

 

というわけで、ぜひ宅配ボックスの設置を推進してほしい。

「自分にとって大切だったもの」の変遷②

前回に引き続き。

 

ほとんどの人は、夢のキャンパスライフ、大学生活を夢見て大学受験を頑張っていたのかもしれないが、私はキャンパスライフに夢を描けないタイプの人間だった。特に大学に入って何かやりたい、というよりもただ漠然と勉強にハマった結果が大学に繋がっただけで。バスケットも高校の部活引退が潮時だと思っていたので、サークルに入る気もさらさらなかった。

 

そんな中、唯一私が大学に入ったらやりたいと思っていたことがあった。アルバイトである。経験としてアルバイトをしてみたい、というのはもちろんとして、大学に入って真っ先に私が手に入れたいと思ったものはそう、「お金」だったのだ。

 

当時の私にとって、お金は「親からの独立」を意味する象徴であったし、同時に「自由」の象徴でもあった。高校までの人生において、経済的に親から自立していないがためにひどく自分の行動が制限されていることが苦痛でならなかったからだ。そんなわけで、とにかく沢山稼げるバイトを、ということで、周囲の反対意見もあったが、パチンコ屋でのアルバイトを始めることにした。

 

 毎月10万以上の収入を得た私は少しの間、羽振りが良くなった。友達との飲み代を全部支払ったり、ちょっと高額な洋服を買うようになったり。原付の免許をとって、原付を買ったりもした。これまでお金がないが故にできなかったことが次々に実現できることに満足していた。

 

逆に大学には行かなくなった。高校の時から、授業とか講義の類は無意味だと考えていたので、たとえ単位のためとはいえ、つまらない授業を聞くために往復3時間もかけられなかった。勉強は参考書を買って家でやっていた。大学に私のほしいものはない、そう思っていた。

 

そうやって社会を断絶しているうちに、ふと自分の居場所がなくなっていることに気づいた。お金はあるけれど、別にお金を使って遊ぶ人もいなくなって、初めて「孤独」を強く感じた。人と繋がっていることの有り難みみたいなものが初めてわかった。

 

やることもないので、バイトを沢山するようになった。少なくとも無意味な時間を過ごすよりは少しでも稼ぐ方が有意義だと思ったからだ。ただ、私が本当にほしかったものは「居場所」だったのだと思う。たくさん働くようになるとバイトのメンバとも仲良くなって、少しずつ人生が良い方向に向かっていった。

 

この頃の私は今をひたすら生きていた。今楽しいことを優先し、将来のことは一切考えていなかった。ほとんど大学に行っていなかったこともあって、留年が決まった。留年したこと自体は別にショックでもなんでもなかったけれど、世の中、今頑張れば何とかなることだけでないことにようやく気づき、先のことを考えるきっかけになったのは事実だ。

 

少し将来を考え始めた頃、仲の良い先輩たちが辞めたり彼女の別れたりで、結局自分の居場所だと思っていたバイトも、永遠に続くわけではないことも悟った。じゃあこの先自分はどこに向かおうとしているのか。そういう目標みたいなものが必要だと思った。少なくとも今のままフラフラ生きていくのは限界だった。

 

とりあえず、私は最低限卒業することと、次どうするかの答えを探した。読書や人の話を聞くのが面白いと思い始めた。そんな中、情報系の資格をとったことをきっかけに、大学院へ行くことにしたのだ。 今よりも少しでも面白いところに行きたい、というのがすべてだった。

 

一人暮らしも始めた。今の人間関係というものをマクロに捉えることができるようになると、これまでの友人と離れることに抵抗は感じなかった。むしろ、家族からも自立している状態は自分に向いていると思った。

 

大学院生活は有意義に送ることができた。ゆるい研究室だったので、大きなテーマ以外は自分で自由に進めることができた。このころは純粋にITの面白さを感じる日々だった。一方で、早く働きたいと思うようにもなっていた。わからないけれど、社会人経験さえ積めば何か大きいことができるようになる、そんな気がしていたのだろう。

 

社会人になってから、私はただ早く仕事を覚えることだけを目標にしていた。今いる場所で成果を出し続ける以外に道はないし、その方が自分が楽になると信じていた。特に人脈とか評価を気にしていた、というよりは自分自身に対する納得感、自己評価のためにやっていた。

 

ただ、そういうのが1年、2年と続いていくと疑問を感じる瞬間が現れるようになる。「この仕事ってできるようになって意味あるんだっけ?」とか「何のためにこの仕事しているんだっけ?」とか。とりあえず成長したい人は会社に沢山いるけど、とりあえず成長した先に、待っているものは何もないことがわかるのだ。強いて言えば、管理職という「承認」と「謝罪」だけが仕事のポストぐらいだろう。

 

お金が欲しい人にしてみれば、それが出世が夢や希望なのかもしれないけれど、私は別にお金はそんなに求めていない。必要だしあればいいけど、別に給料が入ってもボーナスが入っても、残高が増えたな、と思うだけだ。それだけを希望に生きていくのには限界がある。

 

何かを求めてチームを1年スパンぐらいで変えているので、やることは結構変わっている気はするんだけれど、どうもしっくりこない。また新しいことに対する感動の持続力が低下している気もする。あるいはそれが会社に閉じた範囲で大きな変化がないからなのか。

 

そんな調子で今に至るわけで、今自分にとって大切なものというのがわからなくなっている。

「自分にとって大切だったもの」の変遷①

あなたにとって一番大切なものは何か。

 

子供、妻、恋人、あるいは家族や友達。そんな解答が多いのではないか。でも、正直に言うと、私はこういう解答をあんまり素直に受け入れることはできない。いや、もちろんこれらの類のものはとても大切だとは思っている。

 

しかし、例えば、こんな風に質問の仕方を変えてみる。

 

あなたが一番大切にしているものは何か。

 

こう問われた時に、果たして家族や友人、そういった類の人間関係を一番大切にしているわけではないような気がする。この意見には共感する人もいるんじゃないだろうか。死ぬ直前になって、「もっと家族を大切にするべきだった・・・」と嘆く人も多い。

 

ここで、ほとんどの人は、「大切なもの」と「大切にできない自分」のギャップを感じた時に、「大切にできない自分」が誤っているのだと考えるのだと思う。家族を大切にすべきなのに、仕事を優先してしまう自分がダメなんだ、と。

 

だが、私は逆の視点で考える。要するに、「大切なもの」が誤っているのだ。世間で一般的に語られている、家族、友人などの綺麗な言葉は誰が聞いても大切だと納得するような言葉であるが、こういう、「正解のない答えに対する満場一位の意見」ほど怪しいものはない。

 

そして、それらを盲信することで、「自分にとって本当に大切ななものが何なのか」を考えずに生きていく人がほとんどだろう。あるいは、考えてみたところで、既に正解らしき一般論へと回帰してしまうのがオチだ。だから、「考える」のではなく、「思い出す」アプローチを取ってみてはどうだろうか。

 

過去の行動や思考は価値観に基づくものである。これまでの人生をたどれば、共通した考え方やあるいは変遷のキッカケを見出すことができる。今考えて結論付けるよりも、よっぽど論理的な導出方法だろう。

 

例えば、私の場合。

 

小学校の時はただ強くなりたくて、筋トレとかをしてたのを覚えている。喧嘩に負けるのがいやだったし、身体能力が高ければ友達と遊ぶ時に自尊心を虐げられないと思ったからだ。(私たちの子供の頃はまだゲームよりも外で遊ぶことの方が多かった。)逆にいえば、友達のグループの中で自分の価値を認められたいとか、周りと同じようになりたい、そういう欲求が強かったのだろう。正直、勉強は得意だったが、勉強ができることの価値なんて一度も感じたことがなかった。

 

中学校ぐらいになってもこの考え方はあんまり変わらない。運動神経がよくなりたいと思ってバスケ部に入った。スポーツが全然できない自分が嫌だったのだ。これは今考えても人生の中でもっとも正しい決断だったと思う。バスケットボールができるお陰で、実にたくさんの友達と同等に仲良くすることができた。ちなみに私がスタメンになったきっかけはテストの点数だったので、テストの点だけは確実にとるようにしていた。

 

ただ一つ、スポーツができるようになっただけではモテない、ということもわかった。それ以降は、コンタクトにしたり、髪型を変えてみたり、ルックスなどにこだわるようになっていった。この時もやっぱり、勉強意外の要素に関しては、周りとの同質化を目的にしていたように思う。

 

このぐらいから、少し悪い方向に流れていった。真面目だと面白い奴ら、当時のイケてる奴らと仲良くできないと思ったのだ。そして、そういう生き方が当たり前になる頃に、自分の中に生まれた「ギャップ」がすごく良いものに感じた。

 

ギャップを大切にしたいからこそ、私は色んな悪いこと、危ないことに首を突っ込んでいったし、それでいて勉強は決して手を抜かなかった。自分の納得がいくアイデンティティが確立された気がして、人生が充実していた。自分には非がないと鷹をくくっていた頃でもある。

 

こんなイケイケドンドンの中二病のまま、高校入学を迎える。高校に入ってパラダイムシフトが起こった。今度は真面目でなければ仲良くなれないような風潮、真面目な方がかっこいい風潮。進学校なので、別に勉強で目立てるわけでもない。スポーツも同じだった。

 

そこに面食らったのは事実だが、自分の方が圧倒的に上な気がしていた。自分がこれまで生きてきた世界こそが世界だと思っていたからだ。だから、高校に入った時は打って変わって、そこに同調する気はさらさらなかった。「選民思想」といじられていたこともあったが、文字どおり、「おれはこいつらとは違う」とずっと思っていた節がある。まさに「尖っていた」という表現が適切だ。

 

高校に入ったぐらいからは「笑い」というものを意識し始めた。面白い友人と出会ったのがキッカケであるが、何より、中学の頃に比べて面白い奴が圧倒的に少ないと思ったからだ。そこで自分の価値を発揮しようと思ったのだろう。テストの点が悪いだけで笑いが取れることもあり、この頃から勉強は一切しなくなった。

 

バスケ部には入っていたが、あんまり上手くなろうとかそういう気持ちは薄れていった。私はそもそもバスケットがめちゃくちゃ好きだったわけではなく、運動神経が人並みになればいいと思っていただけなので、しんどい練習の中でさらに頑張るモチベーションはなかった。とは言え、どこにも所属していない状態は嫌だったので、最後まで続けた。

 

たぶん、受験が始まるまで私が大切にしていたのは、当時の彼女だけだと思う。生まれて初めてのちゃんとした恋愛で楽しかったのだろう。傍目にはそんな風に映らないようにしてたけど、高校時代の記憶の大多数を占めている気がする。

 

部活を引退して、すごく暇になった。周りはというと、予備校に通いだして受験モードになっていた。私はあんまり大学に行きたいと思っていなかったので、高校3年の夏休みはここだけの話、ウイニングイレブンというサッカーゲームをひたすらやっていた。けれど、結局虚しくなって、止むを得ず勉強を始めたのを覚えている。退屈に負けたのだ。

 

案の定、模試の点は非常に低かった。でも、自分は頭がいいと思ってたので、次は勉強して、良い点を取りたいと思った。母親とかクラスメイトとかを見返したかったのだ。そこから私は勉強しかしていない。問題をとくのも、自分が賢くなるのも、それを知って驚くクラスメイトを見るのも面白かったから結局受験直前までとまらなかった。

 

長くなったので第一弾は以上。

頭はいいのに仕事はできないというカラクリ

あなたの身の周りにもいないだろうか。優秀な大学を卒業しているのに、ビックリするほど仕事ができない人が。きっといるはずだ。でなければ、「頭が良いことと仕事ができることは違う」などという格言が使われることはない。ではいったい何がどう違って、なぜ違うのか。

 

少し違う話を。

 

麻雀というゲームがある。私はそれほど麻雀を過去にやっていたわけでもなく、めちゃくちゃ強いというわけではないが、自分が少し強くなった、と感じた瞬間があった。それは、最初の手配を見て、「最終的にこの形にする」という形が見えるようになってからだ。

 

麻雀が強い人からすれば当たり前かもしれない。ただ、初心者のうちは「役なんて覚えていなくたってリーチをかければ上がれる」ぐらいの知識を盾に戦うものではないだろうか。で、リーチをかける、すなわちテンパイするためにどうするかというと、とりあえず、最初は字牌か端牌を切ることになるだろう。

 

すると、タンヤオっぽい形に向かうのだけど、たまに字牌が対子になったりして、何の役もつかないような手になる。あるいは7, 9で9を切った後に8をツモってフリテンになるから8も7も切る、みたいな無駄を踏むこともある。そして、ようやくテンパイにたどり着いても、リーチのみ1000点、みたいな。闇雲にテンパイだけを目指しても点数はほとんど期待できない。(麻雀を勧めてくる人は、テンパイさえ覚えれば麻雀はできるというけれど、非常に不利な状態であることは断言しておく。)

 

もちろん、それ以外にもちょっとした牌効率や、振り込まない技術などの個々のスキルも影響はするが、この、「最終的にどこを目指すのか」を心得ている人とそうでない人の差はやはり大きい。例えば、ホンイツの形にすると決めたなら、不要な牌は残す必要はないから無駄打ちは減る。

 

端的にいえば、「戦略を持っているかいないか」がカギを握る。そして、これは仕事も全く同じだ。

 

学生時代に頭が良かったやつの半分ぐらいは、沢山勉強してきたタイプである。つまり、勉強量で勝負した人だ。実は勉強時間をいくらでも捻出できるような環境では、受験において戦略は不要である。特に頭の良い人間ほど戦略はいらない。なぜなら、受験の最終目的は全て100点をとることだからだ。そして全て100点を目指すための勉強時間があるなら、戦略がなくたって成し遂げてしまう人もいるだろう。

 

高校1年から塾に通って勉強するようなやつらは、「とにかく頭がよくなること」あるいは「定期試験で良い点をとること」を目標にしている。これは麻雀でいうところの、とりあえず、字牌・端牌を切るというのと全く同じ考え方だ。とはいえ、この手法でも結果的に受験に合格できる人はいるだろう。ただし、それは戦略的思考なく手に入れたものにすぎない。

 

「戦略とは何をやらないか」を考えることにある。そして、それは目的と期間(リソース)が決まっているからこそ、必要となるものだ。逆に、何の勉強もしてこなかった人が3ヶ月で東大に入るには必ず戦略が必要になる。

 

例えば、私は受験勉強は半年もしていないので、「やらない選択」を沢山している。漢字の勉強、参考書に出てくる英単語の暗記、二度問題なく正解できた問題は二度と解かない、など。全部勉強していたら成績など上がらない。

 

純粋な勉強量とスペックだけで勝負してきた人は残念ながら仕事には向かない。仕事上では、常にリソースは潤沢ではなく、全てを100点満点にはできないからだ。

女性の勝ちパターン

大企業に入って数年後に結婚。結婚後は産休取得後に社会復帰。でも時短勤務で子育てもあるから現場最前線ではなく、事務職として復帰する。なんていうか、これが女性キャリアの勝ちパターン、というか王道なのだろうなぁということが最近わかってきた。

 

最近は女性の社会進出が目覚ましいように語られているけれど、バリバリ仕事したいと考える女性の数がめちゃくちゃ増えているわけではないのが実態だったりする。(もちろん、結婚をしても働きたいと考える人の数自体は増えているのだろうけれど、それは冒頭にあげたようにゆるーく働き続けたい、要するに専業主婦は嫌、というぐらいなものなのだ。)

 

恐れずに物申すと、現場最前線でバリバリ働く方が当然ながら事務職よりも価値のある仕事だ。しかし、何の仕事をしていようが、同じ会社で働いているだけで、給料というのは均一になる。まぁそこまでなら別に構わない。しかし、例えば、役職がついた上で事務職にチェンジすると、給料は役職に対して払われることになるので、そちらの方が高い。現場で苦労しながらバリバリ働いている主任よりも、事務職というバックエンドで働いている課長補佐とか課長代理の方が多額の給料・ボーナスを貰えるのである。

 

つまり、それが女性のキャリアの本当の勝ちパターンなのである。それでいいんだろうか、と私はいつも思う。

保育園不足に「レンタル子供」という解決策

結構前に、保育園不足はこうやって解消すれば良いのでは?という私なりのアイデアを書いたことがあります。

 

n1dalap.hatenablog.com

 

何ともこれと親和性が高そうなのが、「レンタル子供」というサービスです。思想的にはシェアリングエコノミーに沿ったビジネスで、UberAirbnbの子供版だと思ってもらえれば良いんではないでしょうか。

 

実は先日、デジタルトランスフォーメーションが今後我々に及ぼす影響や今後生まれる可能性があるビジネスを考える、そんなテーマのワークショップがあったんだけれど、その中で誰かが、「レンタルお父さんみたいなサービスが生まれるといいんではないか?」みたいなアイデアを発表していたんですね。

 

当日の講師役の方からは、すでにレンタルペットなるサービスが存在することを聞き、そういえば、レンタルフレンドとかレンタル恋人とかあったなーという記憶と統合した結果、「もしかしてもう存在しているのでは??」と思って調べたら案の定すでに存在しました。そして、レンタル母親、レンタル父親に止まらず、レンタルチャイルドというサービスを見つけた、というわけです。

 

保育士は足りないけど、子供と遊びたい人は実はたくさんいる。だからそこをマッチングするサービスとしてレンタル子供はやっぱり一つの解決策になると思います。

 

もちろん、批判の声はあるだろう。「子供を使ってビジネスをするとは何事だ!」とか、「どこの馬の骨かもわからない人に子供を預けるなんてできない・・・」などなど。

 

確かにビジネスという響きはあんまりよくないかもしれませんが、事実として、従来の保育士モデルではマネタイズが難しいのです。なぜ保育士が足らないのか。給料が安いからです。ではなぜ給料が安いのかというと、その給料分の価値しかないからです。大変な仕事とは思いますが、現代の中では簡単な仕事に分類されてしまうはずです。そして簡単な仕事は我慢さえすれば誰でもできるので、価値は下がります。

 

我慢でお金がもらえる時代は終わりました。なので、理想論ではなく、現実的に考えると、今はもっともフィットするのがCtoCの仕組みというわけです。UberAirbnbも運転とか、家を貸すとか、言ってみれば誰でもできることだったので、そこにビジネスが生まれたというわけです。

 

 どこの誰かもわからない人に子供を預けるのは不安でしょう。ただ、一定数の実績が生まれれば、あとはうまく回っていくと私は思います。例えば、Uberとかは、サービスの利用者がサービスを提供した人を評価するだけではなく、サービス提供者が利用者を評価する仕組みがあるんですね。食べログで、店がお客さんに星をつけるイメージです。

 

こういう仕組みがあると、サービスを受ける側もお金を払っているとはいえ、いい加減な気持ちで実施することはできなくなります。子供を借りるとしてもちゃんと、子供の面倒を見て次も使えるようにしないと、という気持ちが芽生えるはずです。

 

そもそも、今一般的に子供を預かっている保育園、保育士というのも国家資格により保証されているだけなんですよね。警察官や教師が犯罪を起こす世の中で、世間の評判以上に信用できるものなんてあるでしょうか。そう考えれば、国家資格を持っている持っていないなんてことは今の時代にはナンセンスであることがわかるはずです。

 

別の観点では、子供の多様な価値観を育む観点でも良い面はあると思うんですよね。例えば、これからの時代に極度の人見知りとかだと、相当人生において損をする可能性が高いし、多角的な視点を持っていることも当たり前に求められる。だから、教育段階で、特定の人の思想の影響を受けすぎないためにも色んな人に触れておくと良いんではないかと。

「モヤモヤした何か」を形にすること

とりあえず、コンサル工程は一旦成果物しては完成させ、一段落がついた。結構、これまではあんまり使ってこなかったような頭の使い方に少し疲弊はしたものの、良い経験にはなったと思う。感想としては、苦しいが面白い。ただ、今回は実質タダでの仕事だったので、苦しさはマシな方だったと思う。あとは最終結果についての報告会を実施するのみ。説明してボコボコにされてきます。

 

つくづく思ったのは、モヤモヤしたものを形にすることが自分は好きなのだということだ。これまでの仕事はどちらかと言えば、既に仕事の形が決まっていて、作るものも決まっていて、あとは具体的な内容をどう埋めていくか、という作業に尽きていた。こういう作業も初めのうちはそれなりに思考の余地はあるのだれど、経験や知識が増えていくと、ある程度のパターンが見えてきて、単調になっていく。

 

けれど、今回は「何を作るのか」を決めるために考え抜き、モヤモヤとした何かをじゃあ具体的にはどう作るのかという視点で試行錯誤を重ねて進めていけるのは良かった。慣れない作業だから抵抗はあったけれど、やってみれば意外とできるもので、できてみるとこれが意外と面白い、という。

 

システムを作りたいとか、プログラミングが面白い、という私の根底にあるのは、たぶんこの「モヤモヤした何か」を形にすることへの関心だったのだろうと思う。今思い返しても、プログラミングが面白いと初めて思ったのは、大学院の時の研究でまさに自分が作ってきたものが可視化された瞬間だった。空想や構想、理論が感覚として認知できる状態になった瞬間が一番良い。そこに作品性が生まれる点が個人的にはポイントが高い。

 

別にプログラミングだけではない。「モヤモヤした何か」を形にするというのは、ブログも全く同じなのだ。だから、SE以外の仕事だったとしても、作るのがパワポであっても、モヤモヤしているからこそ面白いのだ、という発見はできた。何度やっても難しいんだけど。

 

一方で、既に大方フォーマットの決まっている何かを作るのは、簡単で楽だけれどやっぱり味気なくなってくる。抽象度が低い仕事というのは、自分の裁量を発揮しにくいから、結果的に面白くなくなってしまうのだろう。会社の中で「システム開発に飽きた」という境地にたどり着く人がいるのも最近はなんとなくうなづける。

 

個人的に一番思うのは、仕事の成果の中に”自分”を見出しにくい。これを私は「作品性のない仕事」と呼んでいる。要するに、システム開発に携わったとしても、「これって私が作ったと言えるのか?」という問いに疑問が残る。

 

幸か不幸か、今後はこういった枠組みの中のパーツを埋めていくような仕事は淘汰されていく。単調な仕事やある程度パターン化された仕事はAIなどに置き換えられていき、面白い、けれど難しい仕事が残るようになっていくはずである。モヤモヤした何かを形にする、という作品性のある仕事も今はまだ健在だ。

 

ただ、モヤモヤする何かを超具体的な形に落とし込む必要すら今後は無くなる、あるいは価値の低い仕事になっていく。システム開発で私たちがやっているのも、ある程度設計を具体化するところまでで、実際に動く形にまで仕上げている(プログラミングをしている)のは委託会社の人たちだ。そのうち、こういった作業は自動化が可能になるし、自動で対応できる抽象度も時代とともに必ず上がっていく。

 

となると残るのは、事象からモヤモヤした何かを発見することである。今は課題解決よりも課題発見の方が重要視されているのは、結局そこには人間の意志みたいなものがある程度必要で、AIにはできないだろうとされているからだ。

 

いつまで、作品性のある仕事ができるのか・・・。

シンクライアントスマホ

私の会社のPCは基本的にシンクライアント型である。シンクライアントPCとは、本体には必要最低限の機能しか持たせない思想で作られたPCの事で、例えばハードディスクなどの記憶媒体がついていないし、メモリもほとんど積んでいない。

 

じゃあどうやって使うかというと、リモートデスクトップで遠隔地にあるコンピュータのリソースを使う。だからシンクライアントPCではリモート接続ぐらいしか使わない。かつて、メインフレームがクライアントサーバモデルへと変わったように、個人が使う端末自体は最小構成にし、実際の環境自体は別のデータセンタ内で集約して管理する仕組みである。

 

で、こういうことはたぶん今ではいろんな会社で使われている仕組みだと思うけれど、これが個人用のPCに導入されるのも時間の問題だと思う。ノートPCをわざわざ持ち運んで仕事をすると、情報漏洩のリスクもあるけれど、これがシンクライアント型であれば、ハードを持たないからそんな心配がない。

 

仮に操作している端末が壊れたとしても、PC環境自体は別のクラウド上で管理されているわけで、あくまでそこにアクセスすることができる端末をまた用意すれば、何の変化もなく使い続けることができる。もちろん、どこでもネットワークがつながっている必要はあるけれど、もう今ネットーワークが存在しない場所なんて日本にはそんなにないだろう。

 

で、PCについてはすでにそういう流れにおそらくなっているんだけれど、今後はスマホとかタブレットにも同じような流れは必ずくる。

 

そもそも、スマホとPCのOSが違うことによる無駄が今は非常に多い気がする。PC用のアプリをスマホ用に作り変えるとか、タブレット表示に対応させる、とかそれはそれで、一つのビジネスチャンスなのだろうけれど、もう仮想環境一つで複数の端末からアクセスできるようなアーキテクチャができれば、そういった個別仕様に変更する必要はなくなるからだ。

 

もちろん、そうなった時には、PC、スマホタブレットは単なる大きさの違い、微妙なGUI操作の違いぐらいしか残らなくなるだろう。

社会的な何か

やりたい仕事は何なのか。社会人ならそんなことを考えたことが一度はあるだろう。就職のタイミングあるいはもっと前から考えている人もいるかもしれない。私は今も考えている。「今やっている仕事がやりたいことなのか?」と問われた時に、やっぱり今やっている仕事はなんか違うな、と思う。

 

「じゃあどんな仕事がしたい?」と聞かれ、それに対して即座に解答できるほどの正解は持ち合わせていない。ほとんどの人がそうであるはずだ。今の仕事は嫌だ、別の仕事がいい、と言って、別の担当へ異動した先輩を何人か私は知っている。異動した彼らのほとんどは今の仕事もそんなに面白くはない、らしい。(一方で、異動してよかったとも答えているので、ステージは上に上がってはいると思う。)

 

若者の多くにやりたい仕事がない、仕事に心から満足できない理由、というのを自分なりに考えてみた。たどり着いた答えは一つ。視野が狭いことである。

 

言うなれば、手段を目的化してしまっている。人と話すことが好きだから営業、英語を使いたいからグローバルで働きたい、プログラミングが好きだからIT企業、書くことが好きだからライター、お笑いが好きだからお笑い芸人。いや、もちろんそれは一つの切り口としては正しいし、必要だ。

 

でも、これらは自分軸で、自分中心の考え方だ。仕事をする上では必ず、社会軸での答え、というのが必要になる。ただ、社会軸を持ち合わせている人は驚くほど少ない。自分が就活をしていた時には全く持ち合わせていなかったし、一緒に面接をしている学生のほとんどもそうだったと記憶している。

 

例えば、私のようにシステムを作っている会社だと、かならず聞かれる質問の一つに、「どんな業界をターゲットにしたシステムを作りたいか?」という趣旨のものがある。もちろん、答えを準備しないわけには行かないので、就活用の解答というのは誰しもが準備している。ただその実、本当にその業界に対して何かしたいか、というとそうではない。むしろ、業界は何でもいい、という風に考えている人が多い。

 

特に私たちの世代に顕著だと思うのは、「世の中に何の影響も与えたくない」と考えている人が非常に多い。自分の生活のためにお金が必要なだけで、自分が出した成果が何かの役に立って、世の中を変える、なんてことは一切望んでいないのだ。だから自分の成長とか、目標の達成には関心があるけれど、誰に対して?とかどんな影響を?とかについては深く考えていない。私自身がそうだ。

 

でも、実は仕事の本質はそこにあって。というかそこにしかない。だからそこを考えない限り、やりたい仕事なんてものは見つかりっこないのだ。エントリーシートの添削とかもやっている、山田ズーニーさんというライターは、これを「実現したい世界観」と表現していた。これは言い得て妙、まさにどういう世界を実現したいのか、みたいな私たちの世代からすると、非常に鬱陶しい文言ではあるが、それが必要なのだ。プラス「マイテーマ」、要するに自分が達成したい具体的な何かがあると、良いらしい。

 

就活の時に、塾講師になった大学の友人がいた。彼は大学時代から塾講師のアルバイトをしており、就職のタイミングで別の企業にいくのではなく、塾講師を続けるという選択をしたのだ。たぶん、あんまり一般的な選択ではないように思う。

 

ただ、彼の選択の背景には、ただ教えることが好きとか向いている、だけではなく、もしかすると、まさに「実現したい世界観」みたいなものがあったのかなーなんて思うことがある。塾講師のアルバイトの中で見つけた、というべきか。実現したい世界観まではいかずとも、社会的な何かをアルバイトの中で見つけたはずである。

 

アルバイトは社会経験になる、とはよく言われるけれど、アルバイトの中で経験できる社会というのは限定的なものだと最近感じる。例えば、組織・チームとしてのうまく働く方法とか、最低限の礼儀とか、コミュニケーションとかは学べるが、社会との接点を感じる瞬間とか、自らが作り出した価値を提供することで誰かの役に立つ、みたいな経験はあんまりできないんじゃないだろうか。

 

少なくとも、私はそうだったと思う。パチンコのアルバイトは不特定多数のお客さんに対して接客をするものだったけど、価値の本質はパチンコ台ということもあり、自分の存在意義とかはないに等しい(店員に怒られそうだけれど)。もちろん、たまに起点をきかした対応が必要な場合はあるし、お客さんから感謝されることもあるのだけれど、自分が誰かの役にたった、という実感を感じることは正直あんまりなかった。つまり私はパチンコ店のアルバイト経験の中で「社会的な何か」を見つけることはできなかったのだ。

 

 学校とか教育の現場では社会とつながることはほとんどない。基本的にはただひたすら自分の能力を高めることに主眼が置かれているし、せいぜい、チームで頑張って何かを達成する経験、ぐらいなものだ。達成が誰かへの貢献、役立つという経験が圧倒的に足りない。だから、社会軸を持たずに社会に出る若者がたくさんいる。

 

やりたいことがないなら、社会的な何かを学ぶ、感じるところからスタートするべきだろう。

責任の価値が減少する時代

システム運用の分野でオペレータの価値が下がってきている、という話を前回した。これはもちろん、定型とか定常業務を遂行することの価値が下がってきているという話もあるんだけれど、本質的には責任の価値が減少してきている、ということだと思う。

 

本来、オペレータの価値というのは、正確に確実にやるべきことをやる点にある。なぜかというと、ミスをした場合の影響がデカいから。全ての作業に漏れがあってはならないし、ミスも許されない。だからこそ、絶対にミスをしないことに価値がある。

 

これまではなんというか、システムに対する懐疑心みたいなものを持っている人が多くて、人を完全に無くすことに対する躊躇があったのかもしれないけれど、実はシステムというのはすごく優秀で、人が作業をするよりも圧倒的に品質は良くなる、ということがわかってきたのが昨今なのだと思う。技術的に難しかったというよりも、時代がようやく技術の価値を感じ始めた、ということである。

 

これからAIに奪われていく仕事、というのもほとんどが基本的には、責任は伴うが単純な仕事、である。例えば、オペレータに似たような業務だと、コールセンターや窓口業務というのがそれにあたる。

 

これらの主な業務は質問内容を正確に聞き取って、それに対する回答を期限内に届ける、というものだ。単純作業ではあるが、いくつかパターンが存在すること、そして何よりフロント業務というところで、どうしても人を配置することが望ましかった。顧客対応には大きな責任が伴うのだ。

 

これまでは人が対応した方が良いという理由から、人件費の安い海外へアウトソーシングする企業も多かったと思うが、実際には要員の対応などがマイナスの影響を与えることもあり、それに対しての教育コストまでかかるのが普通だ。

 

だから、そう遠くない将来に必ずAIに切り替わることになる。まだ今ぐらいでは、いきなりAIを導入しても、うまく対応できない場合があるのではないか、という懸念があるかもしれないが、色んな企業の実績が積み重なっていけば、人よりもAI、という流れに必ずなる。既にコールセンターをAI化している企業は存在する。

 

自動運転車というのも全く同じだ。自動運転車に対する一番の懸念は事故が起きた時の責任が誰にあるのか、という点である。責任の所在はともかく、システム的に運転をした方がマクロ視点でみれば事故率は低いのが現実だろう。今は確実に事故なく荷物を届けることを価値として運送業車という仕事は存在しているが、人よりもミスが起こらないとなれば、確実に自動運転車に置き換えられる。

 

オペレータにしろ、コールセンターにしろ、運送業車にしろ、ミスがあった場合は必ず発注者側の責任になるのだから、AIの方がミスが少ないと判断された時点で、これらの仕事は不要になるのだ。

 

さらに時代が進めば、「管理」という仕事のほとんどがAIに置き換えられていくんじゃないかと個人的には思っている。正確には管理のできないマネージャーよりもAIの方がきっと良い管理をしてくれる、という話だ。進捗の実績を入れさせて遅れているか遅れていないのかを判断し、人の配置を検討する、ぐらいであれば、別に高度な思考力は必要としない。

 

マネージャーの給料が高いのは、管理することの責任が大きいからである。チームメンバの成果が仕事の成果であれば、それらがちゃんと機能するように管理することの責任は当然大きい。とは言え、管理という仕事全ての難易度がすごく高いかというと、そういうわけではない。最終的にコミュニケーションを使って部下を動かす権限としての力やポジションは残るのだろうけど、管理業務自体はほとんどが不要になるんじゃないだろうか。

システム運用費の下げ方

システム運用の現場にはたいてい、オペレータと呼ばれる人たちが存在する。オペレータとはまさに作業者のことで、端的に言えば、決まり切った手順を決まり切ったルールのもと実施する人たちだ。特に24/365で稼働しているシステムの場合、シフト制などで夜間帯まで仕事をしているケースが多い。

 

近年、この「決まり切ったことをただやる人」の価値は確実に減少してきている。真っ先にシステムやAIに置き換えられる存在である。事実、私の担当システムでも、既にオペレータは0名にしたが、それでもちゃんと回っている。

 

実はオペレータが無くならないことの原因は技術的なことにはあらず、人間の心理的な問題によるところが多い。システムで既に障害監視は自動化されているにもかかわらず、人がいないとなんか不安、とかマシン室の巡回してハードウェアをチェックするのには人の目が必要、など。

 

過剰なセキュリティ、過剰な確認作業。そもそもそれやる意味あんのか?みたいな仕事が足かせになっていることが多い。中でも一番難しいのは、「あなたたちはもう要りません」ということをこれまでのパートナーに告げることである。確かにシステム運用を専用に扱っている会社からすれば、オペレータを減らされるということは売上が減るということである。しかし、そう長くはもたない仕事をいつまでもやっていくことにクエスチョンマークを抱く必要はあるだろう。

 

さて。私どもは結局システムの運用費を下げるために、オペレータ要因をごっそりシステムに入れ替えたわけであるが、わずかに残ってしまう仕事についてはSEへ移管した。運用費は下がったが、維持費(SEの費用)は微増ということになる。もちろん、トータルで考えれば劇的にコストは落ちる。(オペレータというのは決して作業量が多いわけではなく、何かあった場合に検知するための待機時間がそのほとんどを占めているからだ。)

 

ただ、別のシステムではそれとは真逆の方針を立てているところもあったりする。つまり、SEがやっている仕事の一部をルール化・手順化することによって、オペレータでも実施可能な状態として引き継ぐことにより、維持費を下げる取り組みだ。先に述べたようにオペレータというのはほとんどが監視のための待機時間なので、オペレータができる形に作業化できれば、運用コストを効率的に使うことができる。

 

この取り組みは確かに面白いように思う。SEにしかできないことをオペレータでもできるようにする。その考え方は大切である。しかし、「オペレータにできるようにする」のと「システム化」するの乖離はそれほど大きくはない。だから、まず上記の取り組みステップを踏んだ上で、最終的にはオペレータの無人運用を目指していくべきである。そういったサイクルを回していくことが望ましい。

 

今は人がいないとできない仕事というのは限られている。つまりただの作業者は要らないのである。

自分への憤りを抱きやすい社会になったのかもしれない

働き方改革推進のきっかけとなったのは、私の記憶する限り、電通社員の自殺だ。東大卒の女性だったということ、大企業だったということ、それらの要素がより今の時代の働き方がこれで良いのか?という問いかけを社会に対して与えることになったのだろう。

 

なぜ自殺にまで至ってしまったのか、という原因分析の中で、長時間労働が常態化していることが判明したのだろう。確かに長時間労働というのは問題である。しかし、敢えていうならば、彼女が自殺したことの原因は少しそれとは違うのではないかと個人的には思っている。

 

別に同じくらい残業しているけれど、自分は問題ではない、と感じている人だって山ほどいるはずだ。昔はそのぐらい働くのが当たり前だった、という話を聞くのも日常茶飯事だ。つまり、反例などはいくらでもある。

 

また、働き過ぎやブラック企業が問題になると、他人から見ると、辞めれば良いのでは?という話にもなる。実際、逃げてもいいんだ、という趣旨の本を書店でもよく見かける。責任感が強い人が自殺しやすい、みたいな結論に落ち着きやすい。でも就活では責任感ある人求めるという矛盾もあったり。

 

私は、責任感というよりも、「自分への憤り」という言葉の方が正確なのではないかと思う。すなわち、長時間働くことによる疲弊、ではなく、長時間働いても結果を出せないという自己の拒絶が原因ではなかろうかと。

 

今の仕事は昔に比べるとずっと高度化・専門化している。定型的な仕事は逐次システムに置き換えられ、海外にアウトソースされ、より創造的な仕事の割合が増えているのだ。これはホワイトカラーの仕事に顕著である。

 

昔、経済成長時期であれば、たくさん働けば、努力量にある程度比例して成果が出やすかったのではないだろうか。結果的に評価もされたし、多くの人が年功序列で昇進できた。既存のものをベースに改善を重ねるスタイルが通用した時代だ。

 

しかい、昨今の正解のない仕事というのはなかなか努力が報われにくい。学校のお勉強的な教科書はないし、時と場合によって正解不正解も変化する。こういったことを理解するにはどうしても経験が必要になる。また、どれだけ頑張っても報われない、自分の進化を感じられない時期が必ずある。最悪の場合、いつまでたっても芽が開かない場合だってある。昔に比べればはるかに自分に対する憤りを感じやすいはずだ。

 

私も自分に対して憤ることはよくある。ただ、私の場合、「何事も努力をすればうまくいく」とは一切思っていない。また、社会に対する成果とかはどうでもいいと思っている。なので、頑張ってダメだったり、これ以上頑張りたくなくなってもう限界だと判断したら、別のことをやると思う。こんな風に考えていると、なぜかほとんどのことは耐えれてしまうのだが。

 

逆に「何事も努力をすればうまくいく」という考えがあると、努力してうまくいかないと心が折れてしまう。逃げてもいいと言われたって、逃げた先で努力をしてもうまくいかないことへの不安や恐怖がつきまとう。「社会貢献」を義務として考えてしまうと、逃げ出したって、自分が成果を出せるフィールドがないと思えば、社会への逃げ場はないも同然だと考えてしまう。

 

自分への憤りを抱きやすい社会ではあるけれど、そんな社会だからこそ、柔軟に気楽に考えて生きていけば少し楽になるんではないか。

何でもできる人

またチームが変わった。端的に言うと、もともとやっている事業が縮小の一途を辿り、これからの売上が見込めないため、部署の存続を懸けて、新規事業の柱を作るためのチームに入った。まだ社内での活動がメインではあるが、ちょっとした営業活動およびコンサルティングを実施し始めている。もちろん、最終的にはシステム開発として支援することで利益を得ることも目論んではいる。

 

こういった企画・提案などの上流工程はある種、花形のように感じる人もいるかとは思うが、やっていること自体は本当に泥臭い。人の話を聞いて、その結果について議論して、提案書を作って、それを修正して、説明する。正直何が面白いのか自分にはまだよくわからない。抽象度が高く、正解のない難しい仕事であるからこそのやりがいみたいなものは多少あるけれど、困惑する場面も多々ある。プログラム書いたりサーバイジってる方がよっぽど楽しいと思ってしまう。技術者の性なのかもしれない。

 

うちの会社は、皆総合職として入社しているので、実際のところ、技術系だの営業だという風に職種がはっきりと分離されているわけではない。日本の会社はほとんどがそうだろう。いつ異動になるかもわからなければ、異動した先でどんな仕事をすることになるのかもわからないのだ。なぜかはよくわからないけれど、色んな職種を経験することが最強、みたいな風潮がある。

 

もちろん、中には、「営業しかやりたくないです!」みたいな意思を通すことでそういった専門的なキャリアを築いていく人もいるみたいだけれど、私はそうできなかった。正直なところ、まだまだ今の段階では技術を伸ばしていく方向で仕事をしていきたいのだけれど、そもそも開発案件がなければ大した仕事はできないといった自担当の状況も察してしまうほどには大人になっている。

 

何よりも、ずっと私の頭の中にあるのは、今後確実に技術だけでは食っていけない時代になっていく懸念であった。極端な言い方をすると、専門的な技術力は不要になる、ということだ。どれだけ技術で食っていきたいと考えていたって、技術だけでは太刀打ちできない時代がすぐそこまで来ている。そんな中で闇雲に技術のスペシャリストで食っていく、なんてただの意志的目標にしかない。残念ではあるが。

 

どこの分野でも今求められているのは、ざっくり全部できる人、である。色んなことができるからこそできることがある人、というか。スーパージェネラリストなんて呼ばれ方をすることもあるし、ITの世界だとフルスタックエンジニアなどという存在が注目を集めているが、概念としては、ざっくり全部できる人のことを指しているのだ。課される使命の大きい時代になってしまったものだと思う。

 

だとしても、まずは専門性、だと考えてはいるが。まぁ若いうちから上流を経験しておくのも悪くないと思い、今は踏ん張ることにしている。

障害対応は苦しいけど楽しい

最近、自分達が維持しているシステムで障害が発生した。俗にITの世界ではインシデントというのだけれど、まぁお客さんがシステムを使えなくなってしまう、という状況のこと。

 

もちろん、インシデントにもレベルがあって、システム的な問題が発生しても業務には影響が出ていないことが見きれれば、ある程度は自分たちのペースで対応を進めていくことができる。しかし、緊急性の高いトラブル、既にある機能が使えなくなっているとか、性能が著しく劣化するとか、そういった問題の場合は力の限りをインシデント対応にそそぐことになる。

 

と、今回は後者のパターンであったため、連日夜遅くまで働くことになった。もともと予定していた仕事は進めなければならず、そこに対して緊急の仕事が入れば当然そうなる。また、普段踏襲している安全なプロセスを通さずにスピーディな対応を求められることも多く、プレッシャーもかかる。だから、インシデント対応は苦しい。

 

一方で、不謹慎な話ではあるが、維持をやっている中で障害発生は面白いイベントだったりする。維持の仕事は基本的には短いスパンで同じようなことをひたすらぐるぐる回していくことが多く、飽きてくる。だから、障害が発生すると、新鮮なのだろう。また、否が応でも知らないことを勉強して、理解して、解決せざるを得ないため、成長に繋がったりする面白さもある。ただ、本来維持業務はインシデントを発生させないためにやっていたりもするので、そこには矛盾があるのだが。

 

私が障害対応が良いと感じるのは、やっぱりスピード感を持って仕事ができる点である。普段であれば、一ヶ月とかかけて失敗を防ぐために実に無駄とも思える複数のプロセスを経由した上で本番環境へリリース、となるのだが、障害対応時は緊急だから、という理由だけで、色んなプロセスをすっ飛ばすことができる。

 

ただ、そんな中でもデカい失敗はできないし、明らかに無茶なスピード感を求められると、苦しい。そんな分岐点の中にちょうど良い働き方があるのかなぁと思う。

テレワーク推進に足りないのは働き方のフォーマット

昨日はテレワークデーということで、うちの会社でもテレワークデーのポスターおよびテレワークの推奨が告知されていた。これでめでたくテレワーク、と思いきや、いきなり会社のサーバに接続できない事態が発生。結局仕事をしだしたのは夕方になってからであった。

 

制度を作って改革を促す、というのは典型的な日本人の短絡的発想だと常々思う。6万人もの社会人が実際にテレワークを実施したらしいが、割合として多いとも言いがたく、差し詰め、既にテレワークという働き方が部分的に導入されていた企業が実施しただけでは?という印象である。

 

そもそも、テレワークが導入されない背景を無視したところで、テレワークの導入が進むはずもない。仕事の形態を変えるということは、仕事のやり方を見直す必要がある、ということである。その理解が足りていないから、テレワークを導入しない理由として、「テレワークに適した仕事がないから」が70%もの割合をしめているのだ。

 

mainichi.jp

 

ちなみに未だにIT化が進まない業務というのも実は全く同じ構造であることが多い。システム化されない理由として、「業務が複雑化してシステム化できないから」などと言われる。これでは当然システム化はできない。まず、業務をシンプルにそぎ落とすという最も根幹的かつ、困難な部分の検討をすっ飛ばして単純にシステム化しようとするからできないのだ。(これがアメリカなどであれば、システムに対して業務を合わせていくマインドが主流のため対応されたりするが日本だとそうもいかない。)

 

例えば、私が最近考えているのは、会社に電話は必要なのか、というものである。私はプライベートでも仕事上でも電話をかけられるのが実に嫌いである。全てメールで文字に起こしてくれれば記録にもなるし、時間を取られないし、非同期に仕事を進めることができる。電話に対応しなければならないのもリモートワークができない一つの原因なのでは?と思っている。

 

しかし、電話機無くしませんか?などといったところで到底受け入れられない考え方だろう。なぜなら会社には当たり前のように存在しているし、実際に毎日それらを使って連絡のやり取りが行われているからだ。新人研修で習うほどに社会人として基本的なスキルの一つにもなっている。今、不要かと問われれば、当然必要である。

 

ただし、電話はあくまで連絡するという目的を達成するための手段でしかない。つまり別の手段があれば代替は可能だろう。あるいはもっともいいやり方さえ考えることができれば、電話がある必要はない、という状態にできるはずである。

 

例えば、ソフトウェアのベンダなどは基本的な問合せは電話NGとしているケースも決して珍しくない。考えてみれば当然で、電話でやり取りをしても記録は残らないし、話も整理されないし、時間もかかる。多数のユーザーに対して問合せに対してそんなに時間を取られていては仕事にならないからだろう。

 

変わりに問合せ専用のWebポータルやメールでの問合せが受付できる。もちろん、例外的に電話応対をすることもあるのだろうが、こういった地盤の築き方を変えるだけで、仕事のやり方というのは変えられるのだ。問題なのは、今の地盤こそはいつになっても絶対的に正しいという大いなる勘違いにある。

 

「打ち合わせは対面でやるべきだ。」「いつでも連絡がつくように電話が必要。」「LINEで連絡を取るなんてマナーがなってない。」

 

これらは全て、自分が教わったことがいつまでも正しいと思い続けているめでたい中高年の勘違いでしかない。ちゃんと今の時代にできることとやるべきことを考えた上で、考え方・働き方をフォーマットしてみることだ。