∑考=人

そして今日も考える。

「最後に何か言っておきたいことはありますか?」に対する回答

私の会社では、四半期に一回、上司と面談をする仕組みがあります。そこでは、自分がどんな目標を設定し、そのためにどんな業務に取り組み、そしてどんな気づきを得た恩か、ということをつらつらと説明します。そして、上司はアドバイスをしたり、今後のキャリア育成の参考にします。

 

と、まぁ上記のような名目ですが、ほぼ形骸化しており、中身はほとんどありません。多少意味があるとすれば、定期的に上司と部下のコミュニケーションの場をとれる、といった感じでしょう。例えば自分がどんな仕事をしたいのか、もっと言えば、別の部署に異動したい、なんて話ができる場でもあります。もちろん、できるのは意志を伝えるところまでです。

 

で、その面談が終わる前には必ず、「最後に何か言っておきたいことはありますか?」という質問をされるんですね。私は、いつも「特にありません」って答えるんですけど。だって言っときたいことなんてないし、いつでも言えるし。ただ、他の同僚はなんて答えてるんだろうか、だけ気になります。

 

ところで、この質問には聞き覚えがある人も結構いるんじゃないでしょうか。そうです、就活の面接の最後とかに面接官から投げかけられる質問ですね。当時から、あの試すような感じの質問は鼻につきましたね。笑

 

ただ今になってみると、「最後に何か言っておきたいことはありますか?」に対する回答って結局何が正しかったんだろうと疑問に思いますね。他の人はなんて答えてたんでしょうか。

 

ネットを漁ってみると、

・さらに自己PRをする

・無難に福利厚生の話を聞く

・何も言う必要はない

などがありました。

gakumado.mynavi.jp

 

正直上の三つはないなーと思います。さらに自己PRとか暑苦しすぎるっしょ。笑。あと無難に福利厚生の話、って全然無難じゃないし。笑。何も言わない、というのもまぁアピールチャンスを棒に振るうようなもんですから。まぁなくても採用の結果が大きく下がることはないと思いますがね。

 

上のリンクの中にも入っていましたが、ここでは「感謝の意」を述べておくのが最も無難だと思いますね。私も半分ぐらいはそうしてました。結局、日本人って誠実な人を評価しますからね。ただ、これはマイナスにこそならないですけど、大したプラスにはならないと思います。そんな人いっぱいいるでしょうし。

 

何より、ここで面接官が聞きたいのは、感謝の気持ちではないんですね。一般的には、その人が面接の中で見れなかった人柄などを引き出したい、らしいです。ぶっちゃけ、ただ形骸化しているだけだと思いますが。

 

だとすると、ここで述べた方が良いのは、面接の場では言えなかった、より本音レベルの話をするのが正解じゃないでしょうか。例えばですが、ぶっちゃけ御社ともう一つの会社で迷っています。御社は○○ですが、もう一方は〇〇なので・・・みたいな話をしてみるとか。まぁこれはやったことないですけど。

 

私が実際にやっていたのは、逆質問ですね。会社のことを聞くのではなく、面接官個人のことを聞く。一番単純なものだと、「あなたはなんでこの会社に入ったんですか?」と聞く。「今後の事業戦略はどうするつもりですか?」みたいな質問よりグッとリアルになりますよね。ちなみにこの質問をすると、知り合いの勧誘で、みたいな意見が圧倒的に多かったです。

 

参考までに。

大企業も結構不安定です

大企業に入れば一生安定。そんな時代は終わったのかもしれないですが、やっぱり大企業って安定してます。一つの事業が失敗しても、別の事業で成功してれば問題ないし、仮に全ての事業が数年連続で赤字になってもギリギリ社員を養っていくことができるだけの資本力があるんです。

 

ただ、その”安定”ってすごく局所的な部分、いわゆる給与面だけですよね。まぁ給与が毎月入ってくれば生活はできるし、実際、多くの人が使う”安定”っていう言葉も一生お金には困らないってことだと思うので、あんまり大したことじゃないかもしれませんが。

 

でも、その給与面以外で考えると、大企業って全然安定していないんですよね。

 

例えば、勤務地。私は一生この土地で生活したい、とか無理です。偶然育った土地で最後まで働ける人もいますが、勤務地を自分で決めることはできません。さらに、勤務地はどこでもいいけどずっと同じ場所に居続けたい、というのも無理です。これももちろん、偶然そうなる可能性はあります。が、マイホームを購入した途端、地方に転勤、トいうケースも普通にあります。

 

勤務地が選べないということは当然、人間関係も選べません。配属された場所にいる人たちと仕事をしなければならないし、時間が経って仲良くなっても、また別の人間関係の中に身を置かなければならない時も来るかもしれません。全ては上層部の采配という名の偶然によって決まります。

 

職種もそうです。入社時に職種が決まっている場合も最近では結構ありますが、少し月日が経てば、開発から営業に変わったり、はたまた研究職から人事部に異動させられる場合もある。「これも新たなチャレンジだ」とか何とかいいように説得されてか知らないですが、ほとんどの人が簡単に職種を変える。日本は就職じゃなくて就社ってよく言いますしね。つまり職種も選べません

 

あと私どものようなBtoBの会社だと、お客さんや業界も選べません。よく、就活の時に「弊社は幅広い業界のお客様を相手に取引をしています」みたいなことを自慢げに語る人事と、それを聞いて「あーこの会社いいな」と思う学生が必ず現れますが、お客さんの数が多ければ多いほど、自分が誰の担当になるかわからないということです。

 

色んなお客さんを相手に仕事ができます、というのは嘘っぱちです。もちろん、運良くそういうキャリアを描ける人もいます。が、そうでない人の方が沢山います。なので、自分がどうなるのかは不明です。

 

給与以外はこんなに不自由で不安定なんですね。大企業に入る人は安定志向とか言いますけど、大博打ですよ。20面体のサイコロ振って4,5以外の目が出たら数年間自分の思い通りに行かない人生を生きる、みたいな。

 

 

でも、それでもたぶん、大企業に入るほとんどの人にとってはそれなりに楽しいんですよね。だって彼らって大学入る時もそうだったでしょ。なんかみんなと同じようにちょっとバイトして、サークル入って、単位の取れそうな授業だけ選んで、テスト前に徹夜して乗り切る、みたいな生活をしてた人がほとんどじゃないですか。

 

私は最後まで大学はつまんねーと思って留年までしちゃったわけですが、ちゃんと単位をとって卒業した、少しだけ仲の良い友人に聞いたことがあるんですよ。大学楽しいか?って。そしたら、そんなに楽しくはないけど、まぁそれなりに楽しい、と言ってましたね。

 

下の記事を読んでそんな過去を思い出しました。

blog.tinect.jp

 

強烈な目的意識が無ければ、何をやってもそれなりに楽しいんです。だって、”思い”が無ければ”思い”通りに行かないことなんてないですからね。私もまぁ大学時代だけは特別でしたけど、ほとんどのことはそれなりに楽かったので同じ人種ですね。最近はまたつまらないですけど、何とかやってますし。

 

でも改めて考えてみると、やっぱり大企業も結構不安定だなーと思う次第です。

英語とプログラミングと、義務教育

ちょうど大学生から社会人になる境目に受験したTOEICを最後に、私は英語を勉強することを諦めた。いくらこんなことをやっても、英語ができるようにはならないと確信したからだ。

 

英語と少し似たものに、プログラミングがある。私は大学院に入ってから初めて情報系に転身し、最初の数ヶ月間は入門書に沿ってプログラミングの勉強をしていた。しかし、結局は長続きはしなかった。これについても、いくらこんなことをやっても、プログラミングができるようにはならないと確信したからだ。

 

この二つの共通点は、どちらもある目的を達成するためのツールでしかない、ということである。ある目的がはっきりしていないと、何をもって”できる”なのかがわからないため、いつまで経ってもできるようにはならないのだ。

 

とは言え、大体の目的は決まっている。英語ができるようになりたいのは、英語で自分の意見を伝えること、英語で人の意見を理解出来ることを目標にしている。とりわけ日本人は話せない人が多い。

 

プログラミングについても同様で、Webサイトなりシステムなり、ソフトウェアを作れるようになることを目標にしている。そして、何らかのソフトウェアを作るためには、プログラミングを学習する必要があると考える。

 

しかし、これらは本来学習で身につけるものではない。英語が上達する一番良い方法が何かというと、外人の恋人を作ることだという話を聞いたことはないだろうか。あるいは留学など、実際に海外に行ってみること。彼らは例外なく英語が上達する。

 

その理由としては、圧倒的に英語によるインプットとアウトプットの量が増加することも一つであるが、何よりも英語を学習する目的がはっきりするからである。ここからは私の仮説であるが、実際に海外で使っている英語は、私たちが受験勉強やTOEICなどで学習する内容よりも圧倒的に少ないと思う。だって、私たちが国語で勉強してきたような難しい言葉や言い回しって普段の生活では使わないでしょ。

 

プログラミングに関しても全く同じで、こういうアプリが作りたい、というイメージが鮮明な人の方が圧倒的にプログラミングは上達する。分厚い〇〇言語入門に乗っているうちの10%ぐらいで作れるから。ポインタを理解してなくても開発できるし、HTMLのタグを全て理解しなくてもWebサイトは作れる。もちろん、調べながら進めるので大変だけど、本当に今必要な知識のみに絞られるから理解が早いのだ。

 

そして、実践の中での学びが良いのは、基礎的な知の組み合わせ方を学べるところにもある。

 

私たちが英語の教科書で学べるのは、文法の基礎がほぼ全体を占める、プログラミングの教科書でも、構文の基礎がほぼ全体を占める。でも、実践の中で使うのは99%が応用問題である。つまり、”基礎をいかにして活用するか”が大事なのだ。if分だけで一般的なソフトウェアを作ることはできない。

 

しかしながら、私たちが学校などで学ぶのは、2つの基礎を組み合わせたレベルの応用問題が少しあるぐらいである。基礎パーツが100あれば、2つを組み合わせるだけとしても5000通ぐらいある計算になる。実際には3つ4つ組み合わせることもあるのだから、全く持って不十分なのだ。というよりも、体系的な学問として全てを学ぶことなどそもそも不可能、という意味である。

 

だから実践が有効となる。実践は決して網羅的ではないし、体系的に理解することは難しいかもしれないが、基礎的なパーツをいかにして組み合わすことで実践レベルで使えるかを学ぶことができるのだ。当然、実践レベルでの使い方を学ぶのだから、早く実践できるようになっていく。

 

まとめると、英語やプログラミングができるようになるためには、直接それらを学ぶのではなく、別の目的のために英語やプログラミングを利用することが近道なのである。この場合、目的はただの道しるべなので、モチベーションが上がるものなら何だっていい。逆説的に言うと、ここでの目的に特に意味はないのである。

 

さて、ここまでは英語とプログラミングの話に終始していたが、タイトルに入っている義務教育も全く同じ構図をしている。ただし、義務教育を学んでも義務教育は身につかない、ということではない。

 

私は日本の教育に疑問こそ持っているが、義務教育自体は良いことだと考えている。それは、他でもなく、勉強そのものを学ぶことには役立っているからである。英語の実践が海外での生活、プログラミングの実践がアプリ開発なら、勉強の実践は義務教育なのだ。義務教育そのものに意味はないが、義務教育を道しるべとすることで早く”勉強”を学ぶことができる。

 

真っ当に義務教育を受けてこなかった人は単に勉強しろと言われてもどうやって勉強すれば良いのかがわからないのである。今になって「勉強のやり方」なんて本を読むより、実際に勉強をやろうとしてみて、できないことを一つ一つ潰していく方が速い。

 

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なぜ国際教養大学はすごいのか (PHP新書)

なぜ国際教養大学はすごいのか (PHP新書)

 

 

バカな人は意思決定ができない、賢い人は決断ができない

現代の日本人は意思決定ができる人が少ないと言われる。結婚するべきか結婚しないべきか、今の会社を続けるべきか転職するべきか、新たな市場へ投資するべきか既存の顧客との関係を良好にしていくべきか、あるいは今日のお昼ご飯は和食にするのか洋食にするのか。

 

日本には優柔不断という便利な諺があるせいで、意思決定ができないのは全てそういった性格のせいにされてしまいがちだけれど、本当はそうじゃない。単純に頭が悪いからだ。

 

そもそも意思決定とは、ただ単に決めるのではなく、”どうするべき”か決めることである。それは複数の方法の中でどれが最も良いのかを決める、ということだ。ここに決断との違いがある。

 

そして、自分の理解を超えることについてはいくら考えたって”どうすべきか”なんてわからない。

 

例えば、例えば無人島で餓死寸前のあなたの目の前に、カラフルなキノコがあったとしよう。その場合、それを食べるべきか食べないべきかを決めることはできるだろうか。

 

もちろん、この問いに正解はないが、食べない方を選ぶ人が多いのではないだろうか。それはカラフルなキノコ=毒キノコというイメージや認識を持っているため、死のリスクが頭を過るからであろう。食べると死ぬ可能性が高いことを知っているから食べないという意思決定を下せるのだ。

 

あるいは毒キノコという存在は全く知らずに、とにかく食べ物を見つけたのだから食べるという人もいるかもしれない。でも、これもキノコが食べ物であることを知っているから食べるという意思決定を下せるのだ。これが石とか土なら食べたりはしない。

 

こんな風に、意思決定をするためには、その行動をとった場合にどんなメリット・デメリット(リスク)があるのかをよく理解している必要があるのだ。これが意思決定の基本である。

 

ただし、この場面で「いやいや、俺ならもっといい方法を選択する」という人もいるんじゃないだろうか。実際私がこんな場面に遭遇しても食べる食べないの2択からは選ばない。

 

例えば、その得体の知れないキノコを、近くの生物に食べさせてみて、死ぬか死なないかを観察する。死ぬのであれば、そのキノコが毒キノコである可能性がグッと高くなり、死ななければそのキノコは毒キノコではない可能性が高くなる。いろんな生き物に食べさせてもなお死ななければ、それだけ毒キノコではない可能性が高くなる。いわゆる毒味である。

 

これは直接的な知識を持っていなくとも、意思決定を下す”裏技”である。ただし、これも意思決定をするために必要な知識が何なのかを理解しており、その知識を得るために何をすれば良いかを知っていたから可能な方策である。

 

同じような意思決定の方法に”みんなの意見を聞く”というやり方がある。民主主義国家である日本の意思決定の主流はこっちだ。これも、自分では意思決定できない、すなわち意思決定をするために必要な知識を持ち合わせていない人でも意思決定ができる裏技的方法論の一つである。

 

ただし、これがベストな意思決定へと繋がるためには、「より多くの人が良いと考えるもの=より良い選択肢」であるという前提が満たされなければならない。でも実際はそうではないことが今の日本を見てるとわかる。

 

私は別に民主主義が間違った形だとは思っていない。でも、民主主義の前提として考えなければならないのは、「より多くの”良識ある”人が良いと考えるもの=より良い選択肢」であるということだ。ここでの”良識ある”とは、自分の頭で意思決定できると捉えてもらっていい。

 

少なくとも過半数以上の人が物事の本質を何も理解していないようでは、多数決で決めたっていい選択肢にならないのは当たり前である。ただし、良識ある人の多数決が必ずしも正解でもない、というところに複雑さがある。

 

また毒キノコの例で考えてみよう。私なら、まず別の生物に毒キノコを食べさせ、その結果をもとに意思決定を下すと述べた。その方が確実にそのキノコを食べるべきか食べないべきかを正しく判断できるからだ。

 

でも、これが一番良い方法だ、と考えるのは少し早い。なぜなら、これは本来の意思決定を先送りしているからだ。

 

例えば、ある生物Aに目の間のキノコを食べさせたとしよう。もちろん、すぐにその生物Aが死に絶えてしまえば毒キノコだと判断できるだろう。しかし、数分待っても死なないとして、即効性の毒なのか、数時間から数十時間経った後に体に回る毒なのかという別の判断を迫られることになる。

 

生物B、Cに同じキノコを食べさせた場合も同様だ。ここでももし、AとBは死ななかったけど、Cはすぐに死んでしまったとなった場合、結局そのキノコが毒キノコなのかどうかはわからないままである。もちろん、母体数を増やせば確率としては確からしいものになるが、絶対に安全とは言い切れないことになる。

 

そうこうして別の意思決定や判断に迷い、結局自分が餓死してしまう可能性もあるだろう。だとしたら、最初にキノコを見つけた時点で食べておいた方が良かったのかもしれない。特に今すぐ決めなければならない場合、闇雲に意思決定を先送りにする方がリスキーなのである。

 

バカな人は意思決定ができない、賢い人は決断に踏み切れないのだ。

SIerに就職する前に覚悟しておくべきこと

それは、「SIerの本質はIT業ではなく、サービス業である」こと。要するに、召使いってこと。

 

SIer、特に大手の会社の場合、システムを実際に作る工程は外注するのが常識になってます。その理由は、システムを作ること自体に大きな付加価値がないから。逆に上流工程に近いほど付加価値は高いと言われており、もう何年も前から外資系のSIerっぽい企業はコンサル領域にシフトしています。

 

10年前のアメリカを見れば今の日本に何が起こるかわかるとか言われてますけども、確かに同じような流れは日本のSIerにもとっくに押し寄せているんです。今のSIerが本当に重きを置いているのって、お客さんの要求をいかに満たすか、なんです。どちらかというとこれは非常にマーケッター的、ビジネス的な考え方ですね。

 

もちろん、お客さんの要求を満たすことを目的として最終的にはシステムを作るのが私たちの仕事なので、ITエンジニアとしての側面がないわけではありません。ある程度の技術的な知識も必要とされます。

 

ただ、そこを極めていくことは全く求められてません。「極めたいなら勝手に極めれば?でもうちの会社じゃ大して役に立たないよ?」って感じです。そして、私がずっと腑に落ちていないのは、”良い”システムを作ることにあまり関心がない人が多いことです。

 

ちょっと面倒な改善案を出したりすると、「実害がないならいいんじゃ・・・」とか「お客さんがいいって言ってるかいいんじゃ・・・」みたいな感じになります。この点がうちがエンジニアの会社ではない、と強く感じる理由でもあります。

 

断っておくと、悪いシステムを提供しているわけではありません。ただ”良い”システムとは大きくは二つの側面から考えることができて、ユーザー、すなわちお客さんから見て良いかどうかに加えて、開発者、すなわち私たちのようにシステムを作る人間にとって良いかどうかが最終的にはシステムの良し悪しを決める要素なんです。

 

当然、お客さんから見て良いと思われないシステムを提供すれば職務怠慢になってしまいます。そもそもお客さんがこんなことを実現したい、というWillをもとにシステムは作るものなので、極端な話着実にこなせば程度の差はあれ、お客さん視点から見て良いシステムはできます。(簡単にできるわけではないですよ。)

 

ただ、お客さんを優先するあまり、開発者視点の良さが全く伴っていない場合が少なくありません。開発者視点の良さが何なのかがピンとこない方もいると思うので、簡単な具体例を。

 

仮に、お客さんが「1+2の結果を出力するシステムが欲しい」といってきたとします。ここまで単純なシステムであっても、本来ならば、「何に利用するのでしょうか?」とか「出力結果はCSVファイルで良いでしょうか」みたいな問答を繰り返し、細かいところまで詰めていかなくてはならないのですが、今回は本当に結果を出力できれば何でも良いものとしましょう。

 

すると、おそらく下記が最もシンプルなプログラムになります。

 

int main(void) {

printf("3");

}

 

1+2の結果は必ず3なので、3を出力するだけでOKです。これはお客さんの要求を満たしているので、お客さんから見れば間違いなく”良い”システムです。

 

ただ、少し開発者視点での良さを考えると、例えばこう言う書き方になります。(C言語忘れてきたので間違っていればご容赦を。)

 

int main(int input1, int input2) {

  printf("%d"input1+input2);

}

 

ここでは1や2を変数として取り扱い、それを計算するロジックを記述しています。そして、変数の中に1や2を代入するための定義ファイルのようなものを別で作成する、といったイメージです。input1=1 input2=2として定義すればこちらもお客さんの要件を満たしています。

 

こういった作り方をすると、もちろん、工数は膨らんでしまいます。しかし、どんな嬉しいことがあるかというと、例えば、開発終了後に「次は3+4の結果を出すシステムを作ってくれ」とか言われた場合です。

 

前者の作り方ではまた一から同じだけのコードを書かなければならない(再利用できない)んですが、後者であれば、定義ファイルだけ新しいものを作ればいい、つまり次の開発がしやすいんです。

 

でも、この保守性はあんまり重要視されません。だって、今の開発を乗り切るのが最優先だから。それにお客さんから見えないところの品質が上がっても、受注額は変わらないからあんまりメリットはないし、むしろ保守性が高いと、工数が下がるので金銭的にはデメリットすらあるんです。

 

じゃあまぁ考えられる範囲でいいか、とか今回問題じゃなけりゃいいか、ってなるわけ。

 

同じような理由で新しい技術を導入したりすることも難しいですね。新規開発だとしても、それなりに実績のある…すなわち既に大衆化している技術しか採用されない傾向にありますね。やっぱり新しいことをするのはリスクがでかいから。

 

すると、まぁリスクとって凄いことやろうとするよりも、今までどおり堅実にやりましょう、となる。まぁここら辺は正直仕方がない。特定の顧客に依存しているのがSIerなので、一つの失敗が致命的になっちゃうからそうせざるを得ないんです。構造的に。

 

長くなってしまいましたが、まとめると、SIerにいると、開発者としてのスキルはほとんど上がらないんです。会社の中には技術を磨くキャリアパスも用意されているケースがほとんどですが、どんな仕事につけるかという偶然性に大きく左右されちゃいますし、「ITスペシャリスト」なんて肩書きが着いたとしても、我々がそうなる頃には本当の意味でスペシャルではないスペシャリストが量産されているだけでしょう。

 

「自主的に学ぶことで目指すことはできる」とか上の世代の人は言ってきますけど、自主的に学ぶための時間なんてものは与えられないですし、仕事が占める時間や検討の深さとは次元が異なるので、エセスペシャリスト止まりです。もしバリバリの技術志向の方がSIerに入るならそれなりの覚悟を持った方が良いでしょう。

国の借金のヤバさを自分の頭で考えてみる

突然だが、国の借金が現在どのくらいあるか知っているだろうか。私は正直2兆円ぐらいだと思っていた。しかしながらこれは無知丸出しの回答で、実際には昨年の時点で総額1000兆円を超えている。

www.nikkei.com

 

ただ、これを聞いてもあんまりピンとこない、すなわち自分にはあんまり関係ないのではと感じる人も多いのではないかと思う。実際、国がいくら借金を抱えていようと、私たちの生活には何ら問題はない。ただし、大きなリスクがあるということは理解しておいたほうがよいだろう。

 

そもそも、国の借金とはなんぞや?という話であるが、これは一般的に国債と呼ばれているものの総額であって、国民全員が抱えている負債額の合計値ではない。国債とは、国が何らかの政策を実施する上で、資金が足りない、あるいはお金が必要な時に、銀行などからお金を受け取る代わりとして発行する借用書のようなものである。

 

国債と引き換えに国は多額の資金を得ることができるのである。ただし、国債と言えども借金なので、金を貸してくれている金融機関には利息を払わなければならないし、元本の金額もいつかは返済しなければならない義務がある。逆に言うと、国債には投資的な側面もあり、個人投資家国債を購入することも多い。

 

もっと言えば、私たちも間接的には国債を借りていると言える。銀行へ預金したお金がそのまま国へ貸し付けられているからである。私たちから見れば銀行とはお金を預けておく場所でしかないが、銀行から見れば、私たちからお金を借りている状態なのだ。

 

以上をまとめると、国は、銀行とか個人から合計で1000兆円の借金をしている状態である、と言える。そして、それらを返済できる能力はないのである。仮に今国債を保持している全員が国債を換金しようとすると、国は財政破綻してしまうのだ。というぐらいにやばい状況なのである。

 

では、こんなやばい状況にもかかわらずあんまりやばくなさそうにできるのはなぜなのか、という点が引っかからないだろうか。その大きな理由の一つに国債発行の限度額が関係している。

 

例えば、私たちが個人として、プロ○スとかにお金を借りようとしても、いくらでも借りられるわけではない。その人の年収、すなわち返済能力に応じた上限額が定められているはずである。

 

この上限額の制約に伴って、複数の金融機関からお金を借りるのも困難である。最初に金融機関Aから100万借りる。金融機関Aの返済期限がきたら利息分含め金融機関Bから200万を借りる。金融機関Bの返済期限がきたら利息分含め金融機関Cから300万を・・・と続けていけば借金は増え続けるが、生活することはできる。この裏技を使えば一生働かずに暮らせるのではないか?と中学生ぐらいに思いつく人は私以外にもいるだろうが、上限額や審査の問題からこれはできない。

 

しかし、である。国債には上限額が存在しない。よって理論上はいくらでも借りられるのである。

 

また、複数の借入先からお金を借り続けるという上記の裏技も実行可能である。というよりも、ここ数年、数十年はこう言った裏技を使い続けているため、借金は増えているが、生活は特に困っていないように見えるのだ。

 

ただし、本当に際限がないわけでもない。日本国民全員が保持している個人資産総額を超えてしまった場合にはアウト、財政破綻である。ちなみに日本の個人総資産額は1700兆円だという。

 

他のリスクとしても、国民全員が一斉に預金を下ろすと財政に大打撃を与えることになる。実はすごくやばい状況である。そもそも、日本は毎年数十兆円の借金を増やし続けており、国を擬人的に捉えれば、借金の返済能力は皆無、審査なんて通るはずないぐらいにショボい。しかも利息もほとんど払わないという劣悪物件なのである。

 

しかしながら、何如せん国民の金融リテラシーが低すぎることや、過度な安定志向のお陰で、結果的に今時点では何ら問題にはなっていない。日本の借金のことをすごく問題視している人と、全く問題ではないと主張する人が二極化しているのもこのためである。

 

logmi.jp

 

麻生さんが言うように、国民の9割とかがおとなしく預金し続けていれば、すぐに財政破綻することはない。そこはギリシャとの圧倒的な違いだ。でも、国債の信頼度が高い理由は、さっき言ったように日本人がお金に対して無知で、安易に預金という選択をしがちなだけ。そういう意味では私たちは政府に騙されているのだ。そして、増税しても日本国の年収は毎年赤字、という事実を踏まえると個人としてどうするべきかは見えてくるだろう。

 

はっきり言って数十年後はみんなが預金し続けてくれても立ち行かなくなる時が来る。”今”はまだ崩壊間近ではないってだけで。そのことに気づいている人はそろそろ円を替えてるかもしれない・・・。

 

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ギャル男でもわかる政治の話

ギャル男でもわかる政治の話

 

 

会社の評価って何を基準に決めてるのか

ボーナスの直前になると、その四半期の評価が下される。そしてその評価に応じて、ボーナスの額が多少なりとも変わってくるのだ。私は別に会社からの評価とか興味ないけど、一番上と一番下では10万ぐらいの差が出ているので、あんまり軽視もできない。

 

とは言え、どうすれば評価に繋がるのかも正直よく分からない。

 

結果が全てだ、と私は思ってるけど、ほとんどの仕事って”みんな”でやるものですよね。システム開発の現場でも、結果である成果物をたった一人で作るということはありえない。実際に作るのは一人だったとしても別の誰かがチェックしたりと様々な人が関わって一つの結果が出る。

 

複数人で結果を出しちゃうと、個人がいかに凄いか、なんてわかりっこないよね。いや、もちろんこれは日々の細やかな仕事ぶりを見なければわからないって意味で。個々の仕事のレベルが高かったとしても、チームとして結果が出すときにレベルが落ちてしまえば個人の評価なんて埋もれてしまう。逆にチームとして出した結果が良かったとしても、その中で本当は誰が凄かったなんてことはわからない。

 

すると、チームの中で誰が一番貢献したのか?については結局わかりやすいところで評価される。「あ、こいつはよく発言してるな」とか「細かいところに気を回せるな」とか、「なんか業務改善に取り組んでるな」とか。もしかしたら「飲み会によく参加してるな」とか。でもそれって努力であって結果ではない。だからそれで評価が高くなるのはどうなんだろう。個人的にはそう思う。

 

ある意味、営業とかは結果が数値で表せるのでわかりやすい。逆に努力のプロセスとかを評価されにくいので、潰しが効かない厳しい面もあったりするんだろう。ただ、個人として、何件受注、何円分受注とかがわかる。でも営業畑ではない私からするとぶっちゃけ、営業力以外にも、会社のブランドとか商品力もかなり貢献しているはずなので、一概に受注件数が多い人が凄いってわけでもないと思うけど。それでも、開発よりは真っ当に自分の能力に見合った評価が下される気がする。

 

とまぁ、ちょっと会社の評価に対するグチみたいな感じになってしまったけど、私、今回一番上の評価をもらっちゃったんですね。書いてて、すげー嫌味だなと思いつつ…笑。でも、あんまり素直に喜べないんですよ。

 

ここで書いた通り、正直何を評価されてるのかよくわからないので。ポジティブな人なら「見てる人は見てるんだ!」とか思うかもですが、私のこと本当によく見てたらこんなに高い評価がつくはずない、と考えちゃいますね。

 

少しポジティブに考えるとすれば、絶対評価相対評価の違いなのかもしれませんな。例えば、このチームの中では突出してきているから高評価。ただし、他の標準的なレベルのチームの中だったとしたら平凡むしろマイナス。うーん、なんかそんな気がして仕方ない。だとすると、今ここにいる意味ってほとんどなくなってるよなー。と思う今日この頃。

学生と社会人のグループディスカッションの大きな壁

またまた就活の時期ですね。なんか就活の時期が毎年変わってるような。うちの会社も絶賛面接中ですね。課長が面接官にお呼ばれしているらしいです。いろんなところから面接官を引っ張ってきてるんでしょうが、人を見る目あるのかね。

 

まぁそんなことは良いとして、最近は選考の中にグループディスカッションを取り入れている会社も増えてきていると思います。結局、仕事ってチームでやるものがほとんどだし、集団の中での自己主張ができないとダメ、という印象でしょうか。

 

我々の会社も推薦入学という裏口ルート以外で入った大多数の人は必ずグループディスカッションの壁を超えています。つまり、比較的グループディスカッションが上手い人間が採用されている、と言えるでしょう。まぁ私は裏口ルートですが。

 

ただ、そんな私から見ても、本当にグループディスカッション上手いなと思う人は数えるほどで、割合で言うと10人に1人くらいですね。これはどう考えてもおかしい。そう思うんですけど、どうですかね。うちの会議(グルディス)はすごいですよ、と誇り持って言える会社ってありますか。

 

ほとんどないんじゃないでしょうか。面接に行ってきた課長は、私たち社会人よりも学生のグループディスカッションの方が上手かった、と半ば冗談混じりで言っていました。だから今年の学生は優秀だとも。

 

でも課長の認識は誤っています。私が思ったのは、今年の学生が優秀なのではなく、学生の時に優秀だった人が会社に入ってから優秀ではなくなっているのでは、ということです。ことのほかグループディスカッションについてはそうだと確信しました。あるいは、会社におけるグループディスカッションの方が難易度が高い、とも言えるかもしれません。

 

実は就活時のグループディスカッションって割と進めやすいんです。理由は三つあります

①ディスカッションに参加するメンバ全員にモチベーションがある。

②導出した結論自体の良し悪しは判断基準に含まれない。

③知らない人かつ今後も顔を合わせない人同士で実施する。

 

順番に見ていきましょう。まず、①は当然で、会社に入りたいから選考に進んでいるわけであり、選考に受かるためには積極的な姿勢で臨まざるをえません。なので、全員が発言をしよう、ファシリテーションをしよう、といきり立っているわけです。

 

しかし、会社は違います。そもそも意欲的に発言をしようとする人も少ないですし、そういう人が会議を構成していると、他の人まで発言しにくくなります。そんな状況の中で柁をとったり、意見を述べるのは心理的ハードルが上がります。

 

次に②です。よく、巷の面接本にも書かれている通り、グループディスカッション選考で見られるのは、画期的な答えや実現可能性の高い答えを導き出せるかではなく、グループディスカッションの中でどのように立ち振る舞うか、です。

 

でも、これも社会では違います。ぶっちゃけどんな結論にたどり着いたかが全てです。間違った結果になってしまったグループディスカッションはやはり間違いなのです。つまり結論に対しては慎重になります。

 

慎重になるということは、意見の対立が起こりやすいということです。学生のグループディスカッションとは違って、「いい時間だからそろそろ結論を出した方が良いな」と全員が同時に考えることはまずありません。(もちろん、だからと言って闇雲に延長するのも愚の骨頂なので、本来は別の場で改めて議論します。)よって、うまく意見がまとまらなかったりもします。

 

最後は③です。これが最も大きな原因だと私は考えています。

 

ちょっと視点を変えて、一番ディスカッションをしやすい間柄が何かを考えてみましょう。私なら、気の知れた友人、特に知的レベルが同程度の人が良いと思います。気の知れた友人であれば、相手がこういう時にどういう反応をしてくれるとか、こういう話題を振ればいいとか、そういうことがわかるから議論を進めやすいからです。

 

ただ、人によっては、友人とはディスカッションをしたくない、という人もいるかもしれません。あまりに本音でぶつかりすぎると、下手したら今後の人間関係に影響を及ぼすこともあるからです。

 

逆に考えると、今後の人間関係が必要のない間柄ならどうでしょう。何を発言して、何を思われても、今後に何の悪影響もない。何の遠慮もなく本音で話すことができます。「こいつ何仕切ってんだ?」とか「こいつバカなこと言ってんなー」とか思われても何の問題もなければその分心理的なハードルは下がると思いませんか。

 

そして、会社の人間関係というのが一番厄介です。なぜなら、相手のことも本質的にはよくわかっていない人たちであり、かつ今度もしばらくは一緒に仕事をしていかなければならないからです。一番議論をしにくい間柄なのです。

 

かつ、日本の場合は年功序列というシステムに支配されています。年次が上とか役職が上の人の意見が正しいという暗黙の了解があって、そこに対して争う文化がないのです。つまり、これも就活とは違って、対等な、フラットな関係でものが言いにくいのです。

 

結構グループディスカッションに自信を持って会社に入ってくる学生はいますが、会社に入ってみると、正直自分とあまり大差ないなと思うようになりました。グループディスカッションごっこが上手いことを誇りに思うのは少し馬鹿げているし、グループディスカッションごっこで評価されないからと言って凹む必要もないのかな、と思います。

過去の自分に戻りたい理由考えたことある?

「子供の頃は良かった」とか「学生時代に戻りたい」とか、社会の人は口々に言います。私の周りでも、あの時に戻りたいなーと半ば本気で言ってる人も結構います。(どこまで本気なのかはわかりませんが。)ちなみに私の統計では、高学歴の人間ほどそのような発言をする人が多いし、女性ほどのそのような発言をする人が多いです。

 

なお、私は大学生の頃ならまだしも、社会人になってから昔に戻りたいと思ったことは一度もありません。別に今がめちゃくちゃ楽しいわけでもない、むしろそんなに楽しくはないですけど、学生時代ってそんなに楽しかったっけ?って感じです。少なくとも天秤にかけた時に、やっぱ今の方がいいなって思います。

 

理由はたった二つです。今の生活の方が過去の生活よりも圧倒的に自由だから。そして、今の自分の方が過去の自分よりも圧倒的に賢いからです。後者については公言こそしませんが、そう確信しています。

 

むしろ、私が気になっているのは、皆が口々に言う「過去に戻りたい」理由は何なのかということなんですね。そりゃあ学生の頃が楽しかったからなのでしょうが、じゃあ学生の頃はなぜ楽しかったのか。たぶん、ここまで考えたことのある人の数はガクッと下がるんじゃないかと思います。

 

すでに述べたように私は過去に戻りたくはない側の人間なので、実際のところはわかりませんよ。ただ、一般的な理由でなんとなく思いつくのは、利害で繋がった人間関係、労働の義務感などでしょうか。

 

でも私が考えているのはちょっと違います。おそらく、社会人になった人の多くが、学生の頃の自分が全盛期だったと考えているからです。私が過去の自分に戻りたくない理由と同じです。

 

高学歴エリートは、学生時代においては勝ち組なのです。正確にはその時点では勝ち負けなんてないのですが、少なくとも将来的に勝ち組になるだろうというポテンシャルがあるわけですね。夢や希望を持てるだけの自信がある。偏差値というメトリクスだけで社会からそう評価されるんです。進学校や難関大に入ってそこそこの成績であれば、それだけで自分に自信を持つには十分なのです。

 

さらに、自信があるので人と対等に話をしたり、本音をぶつけることができるので、結果的に有効な関係を築きやすいというオプション付きです。また、努力が成果に繋がりやすいことしか評価されないので、自信を保ちやすい環境も整っています。そのため、多少苦痛を伴うような勉強とかもそれなりに楽しくやり切れるというわけです。

 

しかし、いざ日本社会に出てみると、学生時代の頃とは全く異なる世界が待ち受けています。まず、正解がわからないし、正解らしきものが分かったとしてもそこにたどり着くための方法論も無数にある。自分が正解だと思っても、組織からの評価が良いとは限らない。客観的な評価基準がない、あるいは無数に存在している、といった状況です。

 

そんな中で自分の能力、凄さがわからなくなってくると、自分に自信を持てなくなってきますよね。また、今までは努力すれば成果に繋がると思っていたのに、努力の仕方がわからない、とか。こんな風に、「どうすればいいかわからない」状態になると、結構しんどい。もしかして自分てダメなやつかも、とも思うでしょう。

 

こうなると、人生のハリが無くなる。人生にハリがないとつまらない。逆に人生にハリがあった学生の頃が恋しくなる。過去の自分に戻りたいと思う。だいたいそういうプロセスなんじゃないでしょうか。ただの仮説ではありますが、当たらずとも遠からず、な気がするんですが。

 

逆に非高学歴な人の場合が過去に戻りたい、とか言わない理由は、今を結構楽しんでるんですよ。この職場つまらないと思ったらさっさと転職してます。そもそも勉強つまらないからやらない、って人が今非高学歴になっているので、当然そういう行動選択をするでしょう。彼らは私から見ると、かなり苦労していますが、それでも人生楽しそうです。

 

これが事実だとすると結構面白いですよね。高学歴の人って将来のこと考えて、子供の時から遊ぶ時間を犠牲にして勉強してきたのに、いざその”将来”になってみると、「子供の頃の方が良かった」とか言っちゃってる一方で、将来のことを全く考えずに子供の頃勉強をしてこなかった人が、いざその”将来”になってみると、意外と楽しんでるっていう(笑)。いや、高学歴側としては全然笑えないけど。

 

で、高学歴の人間は子供の頃考えてた”将来”が既に到来しているのに、今なお”将来”の心配してるっていう。結果、現状を変えようとはしないんですね。人のこと言えないですけど。結局、学校で習った価値観に未だ縛られてるんでしょうね。

 

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ダウンロード型人間ではなくインストール型人間を目指せ

ダウンロードとインストール。どちらもIT系の用語の中ではかなり一般的に使われるようになった言葉である。ただ、ダウンロードとインストールの違いってご存知だろうか。どちらもネットからデータを持ってくるようなニュアンスの意味で用いられると思うが、おそらく、多くの人は同じような意味だと思って意識的に使い分けてはいないのではないだろうか。

 

まず、ダウンロードについて考えてみよう。ダウンロードという言葉をどんな時に使うかというと、「ituneで音楽をダウンロードする」とか「Youtubeから動画をダウンロードする」のような時に使うことが多い。参考までに、Downloadの日本語訳は、「上位の端末から下位の端末へデータを転送する」という意味である。つまり、音楽や動画をダウンロードする、という表現は正しい。

 

他にも「スマホでアプリをダウンロードする」といった使い方をする人もいるかもしれない。これもあながち間違ってもいないのだが、スマホの場合は、インストールまでがセットで実施されている。実際、AndroidのPlayストアでは”ダウンロード”ではなく、”インストール”という表現がボタンなどにも用いられている。

 

一方、PC用のアプリケーションの中にはダウンロードするタイプのものもある。ただ、PC用のアプリケーションをダウンロードした場合でも、ほとんどの場合は加えてインストールを実施しなければならない。その理由はインストールが何なのかを知ることで理解できる。

 

まず、そもそもInstallの日本語訳はどういう意味なのかを調べてみると、結構いろんな意味があって、「任命する」、「落ち着かせる」、「取り付ける」などが代表的である。ソフトウェアなどをインストールする、という意味に近いのはおそらく「取り付ける」ではないかと思う。IT用語的には、「ソフトウェアを使える状態にすること」をインストールという。

 

要するに、アプリを使うためには、ダウンロードもインストールも必要なのである。インストールが具体的に何をやっているかというと様々ではあるが、概ねレジストリの値を書き換えたり、環境変数の値を設定したり、フォルダを作成したり、フォルダ内の適切な場所にプログラムを配置したり、とそんなことをしているはずだ。逆に言えば、ただダウンロードしただけではアプリケーションは動かないのである。

 

IT用語をIT用語で説明するとイマイチわかりにくい、という人は料理にでもたとえてみると良い。ダウンロードというのは食材の調達である。インストールとは調理だ。ダウンロードしてインストールするから、すぐに食べられる状態になる。この、”すぐに食べられる状態”というのが、いつでもアプリを起動できる状態と同じようなものである。

 

また別の例としては、受験とか仕事でも同じことが言える。すごくたくさん勉強しているのに、イマイチ成績が上がらない人とか、沢山仕事量をこなしているんだけどイマイチ成果がでない人はいわゆる”ダウンロード”しかできていないダウンロード型人間が多い。

 

せっかく手に入れた知識がバラバラのままだからいざ活用しようとしてもできないのである。そうではなく、学んだことはインストールする必要がある。整理して、体系化して、活用できる状態にする。これができるインストール型人間を目指そう。

SIerにおける可監査性って本当にクソみたい

システム開発では、納期内にシステムを完成させることはもちろん、顧客の要求を満たす品質を実現することも非常に重要である。ただ、品質という言葉は非常に曖昧であるため、本当に良い品質を実現できているかを定性的に判断するのは難しい。そんな背景もあり、現場ではしばしば品質基準というものが定められ、定量的に品質の良さを保証することが多い。

 

少し具体的に説明すると、このくらいの規模のシステムを作ったら、このくらいの試験項目を実施すれば良いだろう(=試験密度)、あるいはこのくらいのバグが検出されるだろう(=バグ密度)、というものを試験の前に定めておき、実際に試験実施中もしくは完了時点で、その基準値の許容範囲内に収まっていれば高い品質が満たされている、という考え方である。

 

ただし、実際にはいくら沢山試験をしたからといって、全く見当はずれな試験ばかり実施していれば品質は保証できないし、いくら沢山バグを見つけたからといって、十分に網羅性の高い試験を実施できたことを必ずしも意味しない。つまりは、品質基準を満たしているから品質が良い、とは言い切れないのだ。

 

さらに言えば、この品質基準というものの信憑性も非常に怪しい。品質基準となる数値をどうやって決めるのか?を何度か研修で学んだことがあるが、ほとんどの場合が「過去の類似プロジェクトの数値を参考に決める」というものだった。

 

つまり、過去に類似のプロジェクトが存在しないような新規開発の場合はそもそも定めることが不可能、というわけである。また、多くの場合、プロジェクト完了時に大した反省も行われないため、過去のプロジェクトで定めていた品質基準が妥当であったかどうかの考察はなされていない。間違った品質基準をひたすら使いまわしているのではないか?という疑問が残る。

 

こんなわけで、品質基準に頼りすぎるのは危険な行為であるわけだが、システム開発において(特に業務要件の)品質を担保することは非常に難しいため、こういった手法を取らざるを得ない部分がある。現場レベルでも、なんとなく類似の試験項目を追加してもあんまり効果的ではないだろうな、という予想は抱きつつも、上に言われるがまま、強化試験という名の無意味な試験をしてしまうこともある。

 

なぜこんなことになってしまうのか。私がSIerに入って感じたのは、システム開発の試験が、品質を保証することよりも、可監査性を満たすところに重きを置いてしまっているからだ。

 

要するに、実際にシステムの品質が良いこと以上に、システムの品質が良いと皆に思ってもらえることを重視しているのである。成果よりも努力を重視する日本にはありがちな考え方の典型例だ。

 

とは言え確かに、可監査性というものも重要である。

 

「バグのないシステムを完成させました!あとは使って下さい!」と言われても、お客さんは納得できないし、障害発生などのリスクを考えると、商用環境に導入できないはずだ。

 

それよりは、「これだけの試験を実施しました。これだけのバグを検出できました。従来の品質基準値がこのぐらいだったので、今回は前回以上の十分な品質が確保できています。なので、安心して使って下さい。」と言われた方がはるかに説得力があり、誰が聞いても納得しやすい。 

 

ただ、そこに重きを置き過ぎて、実態が伴わなくなってしまっているのはどうなのだろうか。顧客への説明責任も大切だが、根本のシステムの品質を上げるために時間を使ってはどうだろう。

投資なくしてアイデア無し

少し大きめの会社では、新しい取り組み、まぁかっこ良く言えばイノベーションが生まれにくい。ほとんどの部署では現場レベルから新しいアイデアが上がったりすることはほとんどなく、一部の部署においてポツポツと新規事業が始められるぐらいだ。

 

末端社員からすれば、もっと力のある上位層が新しい話を持って来いよ、と思っているし、逆に上位層はと言えば、もっと現場レベルで新しいアイデアが生まれればなぁ、そんな風に思っている。どちらも他人に期待しているので、硬直状態なのである。

 

ただ唯一言えるのは、組織の方針として選択と集中ができていないことが最も問題だということだ。

 

そもそも新しいことを始めるのは非常に時間を要する作業であるということだ。特にビジネスとして新しいことを始めるのであれば、費用対効果などを綿密に検討しなればらないし、アイデアを洗練するために、多方面への情報収集ならびに検討が必要になる。大きいことをしようとすればするほど指数関数的に必要な稼働は膨れ上がるだろう。

 

つまり、通常の業務をこなしながら、その上で新しいアイデアを考えて事業化していくなんてことは普通の労働時間の範囲内で安々とできることではない。

 

とは言え、個人レベルでの改善くらいならできないことはない。現に私も全く通常業務とは関係のないツールを自主的に作ったりしている。ただこれを組織レベルでやろうと言い出す人はいない。

 

なぜか。皆新しい取り組みに対して協力的ではないからだ。そして、新しい取り組みに対して非協力的である理由は、時間が圧倒的に足りないから、あるいは組織として、新しい取り組みに対する業務的優先度が低いからである。この先どうなるかわからない取り組みよりも既に確定している案件を完遂する方を優先する方が当然とも言える。

 

そのため、下手にみんなでやりましょう、とか言っても、「あなたが言い出したんでしょ?」みたいなスタンスで協力しない人が沢山いることがなんとなくわかる(というか実際そうである)ので、誰も言い出しっぺにはならないのだ。よくうちの会社でも「言ったもん負け」という言葉が使われるが、言い得て妙である。

 

では、どうすれば良いか。

 

まず組織としては、社員に投資する、という考え方を持たなければならない。冒頭でも述べたように、上の考え方は、社員が通常を業務はきっちりこなしつつ、新しいことも考えてほしい、である。これは右を見ながら左を見ろと言っているようなものであることに気づくべきだ。すなわち選択ができていない。

 

費用対効果を考えて投資するかどうかを検討するのはビジネスアイデアが生まれてからだと思っている人もいるかもしれないが、ビジネスアイデアを育てるためにも投資は必要である。例えば、Googleが採用している20%ルールというのがまさに投資的発想である。

 

人件費を費用としか考えていないから、プロジェクトの予算以上に人をアサインする、という発想ができないのだろう。つまりそれはノーリスクハイリターンを狙っているようなものだ。そんな上手い話があるわけがないことをずっと安定した会社で働いてきた人にはわからないのだろう。

 

次に個人としてどうするか。新しいことを考えてやってみるしかない。でもそんなことをする時間はない。なら、今の業務の何をどうやったら削れるかを考えてやってみればいい。ここを自動化できないか、とか、ここを他人でもできるようにできないか、とか。

 

業務効率化くらいのアイデアなら割とすぐ考えつくはずだ。あとは、それを仕事の中で実現してみる。多少の負荷がかかるのは否めないが、これも個人レベルでは投資的発想だ。時間はかかるがお金はかからない(むしろ働いたことになる)ので、全然ノーリスクである。それに、自分が楽するために頑張るのは結構モチベーションが上がると思う。(私の場合、本業よりも面白いと感じる時が多い。)

 

まぁ新しいことを考えるには、働かないことが重要ってことです。

レビューってそんなんでいいんですか

システム開発の世界では、設計書などの品質を高める場合に”レビュー”が行われる。なか形式ばった名前が付けられていたり、種類もウォークスルーレビューとかインスペックションとか目的に応じた形態はあるけれど、やることとしては作成者とは別の誰かに確認してもらうことに過ぎない。たぶん、どんな仕事であれ、自分が何かを作成したら、上司や先輩などに確認してもらうのが一般的であろう。

 

で、このレビューという仕事だが、私が思うに最も危険な仕事である。というのも、レビューとは本来成果物の品質を向上・改善したり、欠陥があれば是正するための仕事だが、標準的な業務として組み込まれていることによって、本来の目的や意味を失い、形骸化してしまっていることが多いからだ。

 

通常、設計書のレビューなどを行う時は、レビュー時に何を確認するのか?を明確にしなければならない。特に、複数の人がレビューを実施する場合は、人によって言うことが全然違う、という状態を避けるため、なるべく具体的にレビューを実施する前に認識を合わせておく必要がある。そして、どういった観点で確認するのか?をまとめたチェックリストのようなものを作成するのが開発標準とされている。

 

とは言え、実際の現場はというと、こういったレビュー時チェックリストというものが明確に定められていないケースが多い。多くの人が、「確か先輩はこういう指摘をしていたよな…」というのを経験と共に蓄積し、自分の中にチェック観点を蓄えることでレビューをしているのではないかと思う。なので、当然、能力や経験によるチェックの厳格さに差が表れたりしてしまう。

 

さらに、いくら経験豊富だからと言って完璧なレビューを実施できるわけでもない。そもそもシステムの設計の正しさを担保するには様々な観点(機能性、保守性、移植性)から正当性を判断しなければならないし、プログラムロジックの矛盾にも気づけなければならないからだ。

 

本質的にはレビュー完了は開発の次工程へのGoサインが降りたことを意味するので、もしレビューで欠陥を見抜けなかった場合は、試験工程になって重大なバグとなって顕在化するリスクが高い。バグは見つけるのが遅いほど、プロジェクトの進捗にもたらすインパクトもデカくなるので、レビューでどれだけ欠陥を指摘できるか、というのは極めて重要なのである。

 

レビューがいかに重要か。これについては共通理解があると私は信じているのだが、だからと言ってそこに多くの稼働を割くことがプロジェクトとして考慮されているかというと、これまた考慮されていないケースの方が多い。だからこそ、レビューの準備が不完全なまま、なんちゃってレビューを実施することになるのである。

 

そもそも、ある成果物を作る場合には必ず、作成フェーズとRv(レビュー)フェーズに別れる。報告書の作成なんかでも同じだろう。まず、担当者が報告書を作成し(作成フェーズ)、その報告書の内容が問題ないかを上司なり先輩なりに確認してもらう(Rvフェーズ)。

 

ここで注意しなければならないのは、担当者が作成したらそれで完成、ではないことだ。個人の成果物は組織として見た時には50点くらいの品質しかない。だからできれば複数の人に確認してもらって、70点、80点と高めていき、最終的に組織として100点に近い成果物が完成するのである。

 

ただ、残念なことにこのような意識を持っている人は非常に少ない。レビュアー(成果物をチェックする人)は作成者がちゃんと作ってくれているはずだと思い込み、レビューイ(成果物をチェックされる人、作成者)は間違っていたらレビュアーが指摘してくれるはずだと信じる。

 

このため、最終的にバグとして顕在化した場合にもどこに責任の所在があるのかがわかりづらく、しばしば誰も反省しない、ということになる。実際にはどちらも悪く、各々が反省しなければならないのだけれど。

 

また、レビューという行為は作成に比べるとチョロまかすことが比較的容易な仕事である点も危険度を上げる要因になっている。

 

例えば、設計書を30ページ執筆しなければならない場合、品質の是非に関わらず一定以上の作業量が発生する。もちろん、高い品質の成果物を作るためには多くの時間がかかるだろうが、品質を下げたとしても、30ページ分という目に見える形として残さなければならないので、それなりに作業時間が必要となる。

 

これに対し、完成した設計書が正しいかをチェックする仕事は、作業品質を落とすことで、作業時間を調整しやすい。極端な話、一切チェックせずとも「問題ありませんでした」と一言言えば、とりあえず作業完了扱いにすることができてしまうのだ。時間調整が利きやすいため、ファクトベースで綿密な計画が立てられることもなければ、執筆作業のバッファとして使われることも少なくない。

 

そして、そういう開発の進め方しかしてこなかった人達で構成されていると、変えるのが非常に難しい。あまり良くないやり方でそれなりの成功をしている(ように見える)ので、改善しようという気にならないのだ。でも、冷静に過去の開発を俯瞰すれば、レビューのやり方に起因して試験工程で想定外の業務が大量に発生していることを踏まえると、これはやり方として明らかに間違っていると言えるのではないだろうか。

移動コストの削減が科学の課題

新幹線代って高くないですかね。私は長期休暇中には大抵東京から大阪に帰るわけですが、だいたい往復で3万円ぐらいします。もちろん、夜行バスとかを使えば時間はかかるものの往復で1万円程度に抑えることができたり、LCCでも2万程度と予算を抑えることもできますが、やはりそこには超えられない5桁の壁があります。当然、移動先が海外とかになればもっと金額は上がります。

 

新幹線は、確かに神話と呼ばれるほどの安全性があり、多少高額でも妥当という意見もあるかとは思います。ただ私が思うのは、移動に関するコストってあんまり昔から変わっていない、むしろ増えているのでは?ということです。近年では、移動コストの削減を真正面から実現したのはLCCぐらいでしょう。

 

インターネットの世界では、年々簡単に早く遠くへアクセスできるようになっている一方で、相対的に見ると、現実世界での移動はほとんど改善されていないように見えています。あるいは、IT技術の進歩によって”移動”が必ずしも必要ではなくなってきている、と言えるのかもしれません。

 

例えば、数々のオンラインショップの登場により、買い物に行くための移動は必ずしも必要ではなくなりましたね。他にも、テレビ会議の高性能化によって、遠隔地の人とも共通の画面を見ながら議論を進めることができるようになっています。完全普及はまだまだですが、技術的には可能であるので、会議のために遠隔地へ移動する必要性は確実に薄まっています。

 

でも、移動する人達の数は全く減らないですよね。長期休暇期間の帰省ラッシュは毎年半端じゃありません。仕事上では移動コスト削減が促進されていますが、結局のところ、プライベートな場では移動する必要性が変わらず残っているということです。

 

考えてみれば当然で、実家にテレビ会議を導入したら、家族の顔が見れて話もできるから帰省しなくなるか、と問われれば、そんなわけないっしょ、という話になります。友達と遊びたいとか、故郷をこの目で見たいとか、同じ場を共有したいとか、そういうことは残念ながら今のテレビ会議レベルの技術では難しいでしょう。

 

だから、移動しなくても良い世界の実現が今後の科学の課題なのかな、と個人的には思っています。パッと思いつくのはソードアート・オンライン的な仮想世界の構築でしょうね。言語情報や視覚情報の共有や発信は既に実現されていますが、それだけではやはり、”リアル”との差分が大きすぎます。

 

逆に言うと、フルダイブ環境(?)の構築が可能となれば、そこはもう現実世界そのものなんですよね。結局、私たちが”現実”と呼んでいるこの世界も、体を通じた感覚で情報を認識しているだけですから。そんなことは到底実現不可能な気がしますけど、VR領域の研究とか、Gear VRみたいなウェアラブルが登場してくると、いずれはそうなっていくのかも、という気もします。

 

仮想世界が出来れば、いわゆる”ワープ”が可能になるので、移動する必要性は皆無になりますね。それどころか、リアルでは不可能と言われている”タイムリープ”的なこともできそうです。倫理的に良いか悪いかはわからないけれども。

 

中2病っぽいエントリになりましたが、これにて。

人狼と会議に共通するファシリテーション

結構前に「人狼」というゲームが流行ったことがある。市民チームの中に人狼が2人紛れ込んでおり、市民は人狼が誰かを当てることができれば勝ち、人狼は市民全員を殺すことができれば勝ち、というものだ。その中に占い師や騎士など、特殊能力を持つ人がいることでゲームの展開は面白く、難しいものになる。

 

で、人狼のような騙し合いのゲームと聞くと、多くの人が心理戦のゲームだと考える。いかに自分の心理を悟られず、相手の心理を読み取るか。心理戦が上手い人がこのゲームにおいては強者になる、そう考えるのだ。確かに、個人の戦いであれば成り立つ考え方だろう。

 

しかし、ことのほか人狼というゲームにおいて、勝敗を決めるのは心理ではない。たとえ、自分1人だけが誰が人狼かがわかっても(あるいは自分が人狼なら誰が占い師かがわかっても)、その主張を通すことができなければ、自分の思い通りにゲームを進めることはできない。

 

本質的に、人狼ゲームで鍵を握るのはファシリテーションスキルである。誰が人狼なのかを自らが突き止めようとする、のではなく人狼をあぶり出すための施策を場に対して提案する、そんなイメージである。さすがMC慣れしているだけあって、テレビではロンブーの淳とかが非常に巧みである。

 

このあたりはまさに社会人の会議の縮図である。ファシリテーターが自分の意見を主張しすぎると、複数の批判意見が自分へと向けられることになり、議論が進まない。人狼ゲームの場合、そもそも主張の裏側に怪しさを読み取られてしまい、追放されるというパターンも多い。自分の思い通りに進められないのだから、当然良い結果にはならない。

 

むしろ、多くの人に意見を出させる、みんなが判断できない状況に陥ったら、判断材料を増やすための別の切り口や進め方を提案する。こういったニュートラルな立場に身を潜めておくと、すんなり自分の発言や提案が参加者に受け入れられやすくなる。人狼ゲームの場合では、無意識のうちに市民だと思われやすくなる。

 

もちろん、言うは易し行うは難しであるが、集団での合意形成にあたっては必ずしも自分が最強のプレーヤーである必要はないのである。