∑考=人

そして今日も考える。

人のせいにしても長期的には何も改善されない

今日は免許の更新へ行ってきました。私は去年旅行に行ったとき、スピード違反を起こしてしまったので、一般区分です。色々と面倒な手続きを経て、講習を受けました。

 

免許更新の際に必ず私たちが受ける講習の目的は交通事故を無くすためです。具体的には、ドライバーの安全運転に対する意識付けを講習を通じて行うのですこれを違った観点で考えると、一人一人に対して意識付けを行えば交通事故は防げるという立場にいることがわかります。

 

警察(?)の人は13年連続で交通事故数は減っているとおっしゃっていました。事故死した人数に関しては一昨年は4411人で、昨年は4373人と確かに減って入るようです。38人分の命が救われた、と考えれば確かに素晴らしい進歩ですが、数値的に考えるのであれば、決して死者数が減ったとは言えない数です(約1%未満)。そして減少率も年々減ってきています。

 

私はこのデータを見て、一人一人が意識すれば交通事故は無くせる・・・という啓蒙活動によって減らせる交通事故の数は収束を迎えているのでは、と感じました。おそらく、「一人一人の意識」ではどうにもならない数値の壁というものが存在するのでしょうね。

 

なら、どうするのか、というとやっぱり仕組み自体を変えていくしかないと思います。それは車を変えるというのも一つの方法だろうし、交通ルールを変えるというのも一つなのかもしれません。あるいは歩行者の視点で事故を防ぐための仕組み、なんかが生まれてもいいかもしれません。

 

しかし、強制力の無いルールを作ったところで、必ず法を犯す人間は登場するんですね。これもその人間が悪いというよりは、もはや確立論的な話なんですよ。100人の人間にこのルールを守ってくれ、といったところで全員が守るなんてありえません。それはもう社会システムとしてそうなっています。だからこそ、そういうシステムを前提とした上で、事故を起こさない仕組みを考えていかないといけないでしょうね。

 

例えば、京都の亀山市で起こった無免許運転の事故がありましたよね。たぶん、あの事件についてほとんどの人が、無免許なのに運転をした奴が悪いと考えたんじゃないか、と思います。確かに幼く尊い命を奪った許しがたい行為です。

 

ですが、さらに考えるべきなのは、無免許の人でも運転できるような仕組みになっている車も悪いという視点です。この視点がないと、また時間が立ったときに、同じような人が現れ、同じ失敗が繰り返されます。長い目で同じ過ちを繰り返さないようにするにはシステム自体の問題点を考えていかなければ意味がありません

 

一つの具体例を挙げるのであれば、免許証を挿入しないと車が運転できないようにする、とかでしょうか。今の免許証にはICチップが搭載されていますし、たぶん簡単にできるんじゃないかと思います。免許が有効であるかどうかはシステムで一元的に管理すればいいし、盗まれた場合には、免許の効力を一時的にストップしてもらうなどいくらでもできるはずです。

 

良く言えば、日本人は性善説に基づいた考え方をする文化があるのでしょう。しかし、性善説を盲信するあまり、悪い人間を例外のように考えてしまう傾向があります。そして、全てをその人のせいにする。でも人のせいにしても、長期的には何にも改善されません。性悪性に基づく必要はありませんが、例外が含まれる前提で考えてみる、というのは長期的には重要なことでしょう。