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そして今日も考える。

何がAIの価値を決めるのか

前回、AIの進化に伴って、言われたことだけをやっているサラリーマンはいなくなる、というエントリを書いた。もう少し言えば、抽象的な指示を具体的に落とし込む(今ではそれなりに優秀だと考えられている人)たちの仕事が奪われてしまう、という内容にしたつもりである。

 

もっとも今時点で世の中に存在するAIは、ここまでのレベルには遠く及ばない、と言っても良い。最近のAI化の流れに沿って、様々なAIソリューションが紹介されているが、ほとんどのものは”弱いAI”である。人間っぽい認知とか反応ができるだけで、基本的には作られたロジックの中で動作しているのだ。

 

一方で、中にはディープラーニングという技術を活用したものもある。IBMのWatsonやGoogleのAlpha Goなどがそれに該当する。このディープラーニングを本気でやろうとすると莫大なコンピュータリソース(サーバ1000台分とも言われる)が必要になるという課題は残っていたりするものの、これらの技術が実用化されれば、本当にサラリーマンにとっては脅威的な存在になると思っている。

 

さて。そういう将来が到来したとき。すなわち色んなところで強いAIが使われるようになったとき、AIが当たり前に普及したときを少し想像してみてほしい。

 

果たしてAIの価値は何によって決まるのだろうか。

 

今であればマシンラーニングなのか、ディープラーニングの技術を使っているのか、によってある程度の優劣をつけることができるのではないかと思う。

 

マシンラーニングは特徴量(どういう値に着目して情報を分類すれば良いのかの観点)を人が逐一定義してやる必要があるが、ディープラーニングであれば、膨大なデータから特徴量を自律的に見出すことができる、という違いがあるのだ。よって、マシンラーニングはより自律的に学習することができるため、強いAIだと言える。

 

ただし、ディープラーニングが当たり前になった時にどうなるのか。

 

過去で言えば、コンピュータの登場は今のAIの登場ぐらいにインパクトがあったはずである。コンピュータを導入することが業務に対して革命的であったはずだ。しかし、コンピュータという存在も今でははっきり言って差別化の要素にはなっていない。

 

システムの世界ではメインフレームがクライアントサーバモデルに置き換えられた頃から、すなわち大衆に普及した頃から、システム自体が優位性を示せるものではなくなっていったのだ。

 

今システムを作っている我々にできることといえば、どれだけお客様の課題を引き出せるか、いかに早く作るのか、いかに品質を高めるのか、これらに尽きる。ただ、システムを作ることに価値がない、ということは単にシステムを導入することに価値がないのと同義である。

 

同じように、AIにおいてもディープラーニングが当たり前になった時、ただ単にAIを使っていることが必ずしも他に比べて優位である、ということにはならないはずである。ディープラーニング技術の中にも色んなアルゴリズムがあったり、その中での局所的な優位性はあるのかもしれないが、間違いなく使う側の意見としてはどれを使ってもそこまで変わらないレベルへと均質化されていくと私は踏んでいる。

 

一つ、AIの価値を決める要素としては、「テストデータ」の数と質が答えにはなると思う。ディープラーニングでは、膨大なデータを投入することによってAIが色んな知識を学習するが、これは人間でいうところの教育に非常に似ている。正しいことを沢山教えこめば、正しい人間に育つし、間違ったことを正しいと教えこめば、間違った人間になってしまう。AIのテストデータもおそらくは同じで、いかにして適切なテストデータを食わせられるかがAIの質を左右するたった一つにして最大の要因なのである。

 

人間の場合であれば、生まれ持った遺伝子によって学び方や学び取る事柄が異なってくるかもしれないが、AIであれば、遺伝子を担うアルゴリズムが同じなので、テストデータが全て、ということになるのだ。

 

では、正しいデータとは何なのか。この少々哲学性を帯びた質問に答えられる人はいるだろうか。一概には答えられない。

 

じゃあ人間で考えてみる。正しい知識とか正しい教訓とは何なのか。正しい知識は教科書に書いてあること、どっかのオフィシャルな機関が発信している情報などだろうか。正しい教訓とは何だろう。松下幸之助が言っていることなら正しいのだろうか。あるいは、みんなが言っていれば正しいのだろうか。

 

実は「正しい」というのは単に「正しいと信じている」だけにすぎない。正しい知識もをたどれば、人間が定義したことにつながるので正しさは存在する、と言えるかもしれないが、絶対的に正しい教訓はない。例えば、「善は急げ」と「急がば回れ」は相反する意味だが、どちらも正しい教訓として現在まで語り継がれている。どっちを信じるか、どういう場面で使うのが適切かを経験の中で決めているだけだ。

 

経験の中で決める、とはすなわち、それを活用した結果、「うまくいったのかいかなかったか」という結果をインプットにして再学習している、ということだ。つまり正解の定義に終わりはない。人間は常にこういった自分が今信じている教訓に沿って行動し、うまくいかなければ、その教訓を見直して生きていく。そして、永遠に完全な正しさの体現者にはなりえない。

 

AIもきっと同じである。もちろん、成人ぐらいの知識や一般教養を身につけるのは、大量のデータがあれば、数日もいらないだろう。しかし、その先の完全性を身につけることは永遠にできないと私は思う。テストデータを常に収集し、そのFBサイクルを回し続けることで人間よりも反省を生かし、エラーパターンをより正確に分類できるようになるためのテストデータ供給の仕組みが大事になってくるんではなかろうか。