∑考=人

そして今日も考える。

人はいつエネルギーを失うのか

昔の自分はもっとエネルギーに満ち溢れていた、と感じる大人は多いのではないだろうか。私もいつのまにか気がつけばすっかり活力を失った生活をしている。もっと活動的にならなければ、と思う反面、活動的であることへの意味をイマイチ見つけられずにいる。

 

ここで言う活動的である、とは”楽しむための活動に日々エネルギーを使うこと”を指す。もちろん、平日はほとんど仕事をしているので活動的ではあるのだけれど、仕事以外の時間は全くもって活動的ではない、というのが今の私である。基本的に仕事以外の時間は休息に当てている。

 

それで十分ではないか、という気持ちはある。ただ、昔は果たしてどうだっただろうかと考えてみると、そもそも活動的でない時間などなかったはずなのだ。

 

中学校の頃は、平日は学校へ行き、学校が終われば部活動をする。そもそも学校が始まる前にも朝練がある。休日も部活動で半日は潰れるし、部活動が終われば友達の家でよく遊んでいた。つまり、本当の意味でオフな日などなく、毎日活動していたのだ。そんな会社であればブラックな生活を過ごしていたにも関わらず、休息がほしいなんて思ったことはほとんどないし、むしろ毎日楽しいくらいであった。

 

高校になっても、そんな生活リズムはほとんど変わらなかった。唯一違うことといえば、学校の授業の8割方は寝ていたことだろうか。それでも受験勉強を始めてからは毎日四六時中、それこそ休みなく勉強していた。この頃の私には「休み」という概念がなかったのだ。

 

たぶん少し考え方が変わったのが大学に入ってからだろう。大学は中高までとは違い、授業に出席するかしないかを選択できるようになった。つまりは「何もしない」という選択が社会的に許される状況になったわけだ。

 

もしかしたら「何もしない」ことの価値を初めて知ったのが大学に入ってからなのかもしれない。たぶんそれまでは「何もしていない自分」に対する何かしらの恐怖心を持っていたように思う。

 

例えば、中学や高校でも、部活動に入らない選択はできたはずだし、そもそも友達と遊ばない選択だってできたはずだ。無論、学校をサボるという選択だってできた。でも当時の私にはその選択肢を選ぶことはおそらく非常に怖いことで、無意識のうちに何もやらない選択を避けていた、というのが一番真実に近い気がする。

 

結果的に、何もやらないことが自分にとってどうで、自分の人生にどんな影響を与えるのかをそれまで全く知らないまま大学生になってしまった。そんな私が初めて「何もやらない」を選択した結果、すごく自由ですごく楽になったのを覚えている。全てから解放された清々しい気分だった。

 

しかし、何もしないことがプラスに働くのは一瞬のことで、実はデメリットも多い。一つは何もしない日々がしばらく続くと、退屈すぎて非常に苦痛であるということ。そして、何もしない期間が長くなると、社会に自分の居場所が無くなっていくことだ。孤独と退屈に耐えることは相当にしんどかった。

 

その教訓を学んだあとは、アホみたいにバイトをしてアホみたいに朝まで遊ぶ日々を過ごしていた。勉強とか知るか、大学とか知るか、みたいな。再び活動的な日々を過ごしていたわけだが、結局ノリだけで生きていた自分の留年が決まった時に、ふと我に返った瞬間があった。たぶんこの時に初めてノリだけで生きてきた結果が顕在化した現実と直面し、”自分の行動の意味”を考えざるを得なくなったのだ。

 

恥ずかしい話、それまで私は将来のことなんてこれっぽっちも考えたことはなかった。自分の将来のイメージなんて全く湧かなかったし、将来やりたいこともなかった。未来があることは理解していたけれど、当時の私にとっては輝いているわけでもなければ真っ暗なわけでもない、無色透明であった。だからそこへ向かう道筋も全く見えなかったし、今やっていることに意味があるとかないとかそんな基準さえ持てなかった。

 

そんなわけで「今の自分にとって楽しいこと」と「今の自分が周りからよく見られるためにやるべきこと」を優先してずっと生きてきたのである。後者が良い方へ影響したこともあって、なぜか人生としてはそれなりに上手くいってしまっていたのだけれど、本質的に私はフラフラとノリで生きていただけだったのだ。

 

なので、その後の私は少し打算的になる。バイトの付き合いに明け暮れたりもしなければ、大学をサボり過ぎること頑張り過ぎることもなく、淡々と卒業という目標を達成するために行動するようになった。自分の進路を考えた上で、必要なことだけをするようになった。

 

大学院の時ももちろん、楽しかったけれど、それ以前の楽しさとは別種のものだった。将来に対する光が見えるようになり、そこへ向かうぼんやりとした道筋が見え、光へ近づいて行く感覚を楽しむ、そんな感じであった。一方で、この頃から必要以上に活動的であろうとはしなくなっていたかもしれない。

 

社会人も始めのうちはよかった。とりあえず仕事を覚える、という目標があったからだ。仕事を覚えればまた一歩光に近づく、そんな幻想を抱いていた。少なくとも最初の数年はそう感じられていた。

 

ただ、それがしばらく続くと、自分の進んでいる道の先にあったはずの光に陰りが出てきていることに気づく瞬間がある。今の延長線上にあるのは明るい未来なのか?と。あるいは、全然光に向かって進めていないのではないか?と。こうなると一気に活動力は落ちる。

 

人はいつエネルギーを失うのか。

 

私の経験から要約すれば3つだ。

 

一つ目は、「何もしない選択肢」と出会ったとき。

二つ目は、未来が見えたとき。

三つ目は、未来の光を見失ったとき。

 

もし、今エネルギーを失っている人がいたら、どれに該当するか考えてみてはいかがだろうか。