∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

これからの教育を考えよう

・考える力について

ちょっと昨日のエントリに引き続き、今回は「考える力」をつける教育について勝手に自分が考えた意見を述べたいと思います。

 

まず、ちきりんの教育論においては、数学のできない人には台形の公式よりも実用的な科学知識を教えるべきだという主張がありました。ちきりんがそう考える理由は、台形の公式やルート2=・・・などは(少なくともちきりんにとっては)役に立たないからです。

 

これに対し、バッタもん日記における主張では、”「生活するために必要な科学知識」を習得する上での一番の近道は普通に理科を勉強することだ”と述べられています。さらに、”「台形の面積の計算方法を教えること」は「数学的思考法を育てること」の一環だ”との主張もありました。つまり、一見無駄に思える台形の公式を理解することが、生活するために必要な科学知識の理解を助け、数学的思考法を養うことに繋がる、というわけですね。

・現代の数学では数学的思考力は身につかない

バッタもん日記の著者はおそらく頭の良い方だと思います。私もこういった考え方に囚われていた時期がありました。基本的なことを忠実に勉強してきたからこそ、数学的思考力が身に付いたと確信していたのです。そして、自分がそうなのだから他の人もそうするべきだとも考えていました。

 

しかし、実はこれ、因果関係が逆です。数学的思考力があったから基本的な理論を勉強しただけでも実用的なことに応用ができるのです。そして、ちきりんの言う下位7割の人たちはそれができない人たちだと定義されます。だから、ちきりんは数学に関しては、自分も含めた下位7割にとっては、基本理論を学ぶことが無駄だと考えているわけです。よって、ちきりん的には数学的思考力よりも、実用的な知識を丸暗記でもいいから教えた方がいい、という苦渋の選択を推奨しているのです。

 

実際、数学のテストで高得点を取るために求められるのは、数学的思考力ではありません。数学の入試問題にいちいち数学的思考力を使っていたら、時間内に解き終えることはできません。2次試験では高得点を取れるのに、センター試験だと時間が足りないという人が続出するのはこのためです。また、和田秀樹氏の「受験は暗記だ」という本がバカ売れしたのも、暗記の補強程度にしか数学的思考力は必要ではないことを裏付けています。差し詰め、数学的思考力を養うためだとしても今の教育方針はあんまり効果的ではないのです。

・考える力はどうやってつけるのか?

上記の意見を鵜呑みにするならば、では、どうやって考える力を身につけることができるのか?という疑問も浮かび上がるでしょう。結論から言います。考える力を身につけることはできません。考える力を養うためにフレームワークを勉強しても考え方を記憶しただけであり、本来の考える力を養ったことにもなりません。

 

しかし、いついかなる場面においても、考える力が必要となるわけでもありません。以前のエントリでも書きましたが、思考力そのものに意味はないのです。知識で対処できるなら知識で対処すれば良いのです。考える力こそが何より重要という過大視はやめましょう

・「考える力」は皆が生まれた瞬間に持っている

じゃあこの世には、考える力を持った人と考える力を持たない人に二分化されるのか、というと、そうでもありません。実は誰しもが考える力を生まれた瞬間から持っています。私の仮説では、生まれた瞬間がもっとも思考力が高いはずです。

 

一般的に頭の良い人=考える力のある人と考えられますが、それは正しい認識ではありません。恐縮ながら、勉強ができる人代表として言わせてもらうと、確かに私は色んな人の考えについて、浅はかだ、と苦言を呈することがよくあります。しかし、他人から見ると私の考えがすごく浅はかであることもたくさんあります(だから、よくバカにされます)。要するに、考える人と考えない人がいるのではなく、思考力を発揮できる分野とそうでない分野があるのです。

 

ちきりんは自身について数学的思考力を持っていないと言いますが、ビジネス系の分野に関しては、驚くほどの数学的思考力が活用されていると(私は)感じます。それはなぜかというと、ちきりんがビジネス分野について高い関心を持っているからに他なりません。よって、考える力(数学的思考力)とは知的好奇心に過ぎないのです。誰でも努力によって身につけることができる何かしらの能力、という認識がそもそもの間違いなんです。好きでないものを抑制して好きになろうとしてもほとんど上手くはいきません。

 

そして、このことは数学的思考力を養うために数学や理科を勉強する必要がないことも示唆しています。むしろ本当に大切なのは、知的好奇心のある分野で学問を修めることなんです。分野は何でも構いません。もっと知りたい」を突き詰めると、それが科学になります。このように考えると、早いうちからやりたい(知りたい)ことをやらせる(教える)方が思考力育成の観点では効果的なのです。

・今後の展望

ただし、従来はそんな教育は不可能でした。学校という限られたスペースで皆が一緒になって勉強する必要がありましたし、先生の数にも限りがあります。だからこそパッケージ型教育として複数の科目があらかじめ決められた教育を提供する他なかったのです。

 

しかし、時代は変わりました。今ではネット環境さえあれば、学校以外の場に先生を見つけることができます。そして、遠隔地からモニター越しにインタラクティブな教育を受けることが可能になっています。英会話をフィリピンの講師からオンラインで学べたりする事例なんかが有名ですよね。このように、フレキシブルに教育ができるようになったことで、今まで一般教養と考えられていた科目を好きでもないのに勉強する必要性は格段に減っているのです。

 

もちろん、この変化に国の制度変更や意思決定が追いつくのはかなり難しいでしょう(官公庁の民営化に繋がってしまうため)。しかし、個人個人にカスタマイズされた教育を提供できる環境はすでに整っています。今後の可能性を見通したときに、この教育システムの変化は十分に検討にするに値するでしょう。

・学校の役割

学問教育の場としての今の学校はもうほとんど形骸化してしまっています。とは言え、義務的に課すべき学問もやはり必要です。また、集団行動の場としての学校の必要性については、別の議論が必要になります。皆で同じことをやり遂げるために、小学生ぐらいまでな、強制的に皆で同じことを勉強する、という経験は人生にプラスの影響を与えるでしょう。

 

私が学校で教えるべきだと考えるのは、寺子屋と同じ、読み書きと計算です。時代に応じていくつか追加しても良いとは思います。今の時代なら英語とパソコンの使い方などが該当します。それがないと学ぶことすらできない、という生活必要最低限の道具を与えるのです。

 

ただ、ここでの教育において思考力を養う必要は皆無です。ただ道具を与える、知識として定着させる勉強だと割り切るべきでしょう。嫌々覚えたにしろ、子供の頃の記憶は定着しやすいものです。下位7割であってもほとんどの人は四則演算や九九ぐらいなら今でも使えるでしょう。実感はないかもしれませんが、そういった実用的な暗記知識は思考力以上に役に立っているものです。

 

今の教育範囲を踏まえると、その程度の生活知識なら小学校までの6年で十分に事足りると思います。さらに、世界にはどんなものがあって、どんなことをしている人がいるのかと、いうことを広く浅く紹介するような授業が定期的にあれば、小学校教育が終わった後の学問選択にも役立つことでしょう。思考力を養うための学問については、(今の)中学生以降のフェーズで半強制的に学校以外の場で学ばせれば良いのです。

・最後に

ここに述べたことは机上の空論です。おそらく実現するとしてもかなり遠い将来でしょう。ただ一つ言えるのは、グローバリゼーションの到来によって、既に国家レベルではなく世界レベルで教育を考えなければならなくなってきているということです。教育を民営化するのは極めてリスクの大きいものですし、逆に、民営化しない(教育の公共性や信頼性を最低限保証する)ためには、世界各国にあらゆる分野についての教育機関が存在しなければならないということになります。日本だけで改革できる教育構造ではないのです。だからこそ、教育について既存の枠組みに囚われず、柔軟な発想をしていくことが今後は求められるのでしょう。