∑考=人

そして今日も考える。

生みの苦しみ

新規ビジネス創出・サービス企画。これらの仕事は、花形なイメージがあるかもしれない。確かに難しい仕事ではあるし、面白い部分もある。ただ、この半年くらいやってみて思ったのは、本当に泥臭い、ということだ。そもそも画期的なアイデアや斬新な発想が簡単に出るはずもないし、それらを本当の意味で使える形・売れる形にしていくのには手間もお金がかかる。

 

今の仕事を始める前に、「生みの苦しみを味わってこい」と課長から言われたことがある。確かに新しいことを考える、という時点でも苦しい側面はあった。そもそも仕事をどう定義するのか、仕事の進め方をどうするのか、アウトプットの結果をどう分析すればいいのか、全て考えなければならない。常に仮説を立てて、その通りにやってみて、ダメならブラッシュアップしていく、という繰り返しがベースにある。

 

ただそうやって、考えて自分なりの答えを出して創りあげていく、という活動は実は結構面白かった。この辺はアプリ開発とかにも似ている。理想の形を作る、理想を描く。こういうのは慣れてくると、稚拙だとはしても意外と考えられるようにはなってきて、形にできるようになると面白いのだ。

 

ただ、考えるだけ、で事が終わるならばいい。上述した通り、それは一つの仮説でしかない。「こういうことに課題意識を持っているから、こういうサービスを提供すれば売れるのではないか。」みたいな仮説を立てたとしても、実態はそんな上手くいかない。

 

そもそもユーザが課題意識を持っていない。すなわちニーズがない、という場合もあるし、サービスとしての価値を認めてもらえない場合もある。単なる心理的な抵抗を示されることもあれば、政治的要因に阻害されることもある。

 

これに対して、どういうサービスにすれば良いか?だけを考え直すのであればそれでも私は構わないと思っている。ただし、会社員である以上、そのサービスの中のパーツを自分たちが作る、あるいはそのサービスを展開する上での何らかの役割を担う必要がある。つまりは、そのサービスの中で自分たちが発揮できる強みを持っている必要があるのだ。

 

もし、その強みを持たないのであれば、自分たちでサービスを創出することはできない、ということと同義である。また、その強みとなりうる部分が自分たちのやりたい領域ではない、という場合も往々にしてある。はっきり言えば、今の私の状況がそうだ。

 

今の時代は一つの会社や一つの組織でサービスが完結することなど皆無に等しい。また、本気でサービスを考えるのであれば、適材適所でそれぞれの強みが発揮できる分野で仕事をした方が合理的だ。となると、強みがないのであれば、そのサービスの創出に関わるべきではない、と思う。ただのマッチング業者でしかない。

 

生みの苦しみとは、差し詰め、全体のサービス創出のためにどれだけ、割に合わない役割を引き受けられるのか、という部分も大きいと思う。

YouTuberという仕事

子供の将来の夢トップ3にYouTuberという職業がランクインしているのはもはや周知の事実。まだまだ真っ当な職業として認められていないような気もするが、事実それで生計を立てている人たちは一定数存在する。

 

こういうことを言うと批判の声が上がるのかもしれないけれど、私はスポーツ選手とYouTuberは本質的に同じだと思う。だから、子供の将来の夢が野球選手やサッカー選手なら良いけど、YouTuberを目指すとはけしからん、みたいな考え方になるのはよく理解できない。むしろYouTuberとかの方が子供の夢らしくていい。(逆に2位が「医者」の方がやばいとさえ感じる。)

 

スポーツ選手とYouTuberの二つの違いが何かというと、要は世の中の大多数が認めているのか認めていないのか、だけなんだよね。YouTubeの動画って大多数の大人にとって面白いコンテンツにはなっていないんじゃないかと。HIKAKINとかはじめしゃちょーとかトッププレイヤーの動画をいくつか見たことはあるけれど、「へーこういうのを面白いと思う人がいるんだー」ぐらいの感じ。正直もう一回みたいとかは思わない。

 

でも、事実として世界中の沢山の人たちは見ていて。つまり、価値を感じているってわけで。ただただ、多くの日本人の思想観には合わないかも、それだけなのだ。YouTuberはふざけて遊んでいるだけ、みたいに捉えられるケースがあるけれど、私からすれば、スポーツ選手だって「遊んでいるだけでしょ?」という感じ。

 

ただ、遊びを本気でやって感動を呼び起こせているから、多くの人が価値を認めている、というだけ。価値をそんなに見出さない人だって一定数いるはず。私はスポーツにあんまり興味はないけど、価値は認めている、というスタンス。YouTuberも全く同じ。

 

そもそも、未だに仕事に高い社会貢献性を求め出す人がいるんだけど、もうそんな時代じゃなくなってきてる。インフラとか生命に関わるような仕事はほんの一握りの人しかやっていない。

 

例えば、食のインフラに降臨しているように見えるセブンイレブンが仮に潰れたって、ファミマに行けばいいわけで。そりゃ完全な娯楽産業に比べれば社会貢献性はあるけれど、そもそも今や食のほとんどは娯楽化している前提で考えれば、別に大した貢献はしてない。私の仕事だって、同じ。

 

つまり、誰かが喜ぶならそれはもはや社会貢献と考えるべき。であれば、YouTuberも社会貢献はしていると言えるだろう。

 

ただ、YouTuberも不自由な仕事ではある。例えば、ブロガーとかも同じ。これは別に生計を立てるほどの収入を稼ぐのが大変とか、ネタを探したり配信するのが大変とか、一般的に語られる苦労の話ではない。

 

ビジネスモデルを決めているのが、プラットフォーム側である、ということだ。

 

YouTuberやブロガーはサラリーマンに比べてすごく自由な印象を受けるが、実のところ、プラットフォームにめちゃくちゃ依存した自由なのである。この辺はサラリーマンと全く同じだ。例えば、YouTube側が1PVあたりの収入を半分にします、といえば、ただ利用しているだけのYouTuberは収入が半分になるし、そこに対して何もできない。

 

じゃあ別のプラットフォームを選ぼう、という選択ができるかというと、それも難しい。そもそもYouTubeというプラットフォームの利点を生かして集めていたPV数なので、別のプラットフォームに移った時に発生するマイナス要素は避けられない。もちろん、HIKAKINぐらい個人として有名になっていれば、もとのファンが追従してくれる可能性は十分にあるが、確実に何かしらの影響は出る。

 

さらに、YouTubeを支えている広告収入モデルのスキームが壊れた時に、どうなるのか、という問題もある。例えば、物販モデルというような価値を作って、それを消費者に届ける対価としてお金を得る携帯のビジネスモデルであれば、プラットフォームなどは別に必要ない。価値を届ける先と、お金を払う人が同じだからだ。

 

しかし、近代型のビジネスモデルは異なっている。要するに、YouTubeの動画の価値を届けている人からお金をもらっているわけではない、ってこと。むしろ広告宣伝を届けるユーザ数が多い=多くの消費行動に繋がるという仮説のもと、物やサービスを売りたい企業がYouTube側にお金を支払い、そしてYouTubeがYouTuberに報酬を支払う、というスキームになっている。

 

つまり、現時点では成り立っているかもしれないが、広告宣伝を届けるユーザ数が多い=多くの消費行動に繋がる、という仮説が成り立たない時がくれば、このビジネスモデルは崩壊することになる。たとえば、YouTubeのコンテンツが低俗化して、子供しかみないようになれば、見ているユーザ数が多くなっても消費行動に繋がらない、などの可能性は考えられる。

 

こうなったとき、今のYouTuberたちはより購買力を持っているユーザをターゲットにしなければならなくなるし、プラットフォームに依存しないのであれば、お金を払ってでもコンテンツを見たいと考えるユーザを身につけて彼らからお金を取るビジネスモデルへと回帰する必要が出てくる。

 

こんな風に考えると、やっぱりYouTuberとかプロガーもそれでお金を稼ぐとなれば、そんなに自由ではないな、と。

自動運転車の死亡事故を受けて

タクシー業界のディスラプターとして注目を浴びていた企業Uberが自動運転車の試験中に死亡事故を起こしたことが話題になっている。これを受けて、数日前に日本No.1企業のトヨタも自動運転車の公道テストを停止する方針だ。

jp.autoblog.com

 

自動化の推進というのは結構難しい。私も今の仕事で自動化を推進してたりするのでよくわかるが、結構システム化することに対する抵抗や不安を示す人たちが未だに多いのだ。「100%の安全は保証できませんよね?」みたいなスタンスで来られたら、正直その通りです、としか言えない。

 

しかし、「だから、人にやらせた方がよい」と考えるのは完全に誤りである。人にやらせたって100%はないし、なんならシステムに任せた方が精度は高い。でなければ、今世の中の業務にITがこれほど使われていることの説明はつかない。

 

それでも、世の中のシステムだって未だにバグは発生することはあるし、そもそもバグの発生しないシステムなんてないのだ。(Windows OSだって未だにバグが発生している。)そしてそれを承知の上で使うという選択を下した結果が今の社会のはずだ。

 

既に導入済みのシステムの完全性に対する不安は完全に置き去りなのに、新しい領域を自動化する話となると、必ずこういった抵抗が起こる、というのはもはや面白い。自然の摂理、歴史は繰り返される、というわけ。

 

で、そういった不安を誰しもが抱えている導入フェーズで問題が起こると必ず、「自動化」自体が悪い、という考え方をする人たちが一定数存在する。こんな形で自動運転車の進化がストップしてしまうのは、残念。いや、もちろん亡くなってしまった方は本当に気の毒ではあるけれど、「だから自動運転車が悪い」という考え方は短絡的なのかな、と。

 

例えば、今回の事件だとまず一番問題だったのは、テストドライバーが道路を見ていなかったことだし、会社としてはその訓練や管理が甘かったと言われても仕方がないとは思う。導入段階においてはやはりバグが潜在している可能性もあり、システム自体の品質に懸念があることの方が多いので、そこは人の目と並行して確認を行う必要があるからだ。

 

ただ、やはり注意が必要なのは、いくらバグを改修していったからといって、今後自動運転車で死亡事故が0になることはおそらくない、ということだ。つまり、100%の安全を実現することはできないだろう。ただ、人が運転するよりは極めて安全になる、というだけだ。

 

また、車というのは物理的な制約を受ける。つまり、今のスピードに対して、もう絶対に止まれない距離範囲内に人が現れれば、事故は普通に起こり得る。むしろ歩行者はこれまで以上に気をつけなければならないかもしれない。今回の事故もそういう示唆を与えるものだったのではないだろうか。

 

5Gなどの通信環境が進化することで、車同士がお互いの状況をリアルタイムで検知することが可能になれば、車同士の衝突などは確かに激減するだろう。しかし、オフライン状態の人のことは理解できないので、安全のために何かしらのアプリを入れて、人がそこにいることを車に伝える仕組みが必要になってくるかもしれない。

だるいけど頑張るか、みたいなノリ

もし仮に「人」で就職先を選ぶなら、私はそんなノリの人たちを選ぶんじゃないかなーと思ってます。私がそうだし。基本的に何にも頑張りたくはないんです。僕のベースにあるのはやっぱり超意識低い系なんですよね。

 

ただ、私の場合、初動まで全然やる気ないですけど、やり始めると止まらなくなる気質はあるので、結果的に「他の人よりも頑張ってるんちゃうか?」みたいな状況になることがあるってだけで。こういうムラっけがあるので、人と一緒に何かをするっていうのがしんどいんですね。マイペースにできない感じ。

 

もちろん、仮にもプロとして仕事をしているので、個人としては最低限のパフォーマンスは常に出すつもりではあるんですが。常に意識高い人とか、常に正論言ってる人たちを見ると、どうも人間らしさを感じられないというか。業務的な繋がりしか築けないし、ついていけないなぁ、という感じになります。

 

それらをまとめると、「この仕事だるくないですか?」みたいなことを普通に言えるような人と仕事がしたいってわけです。だけど頑張りますか、みたいな感じでやったら意外と必死になっていいものができる、みたいな。考えてみれば、部活やってた時もそうだったし、バイトで仲の良かったメンバがそんな感じだったなぁ、と。

 

あと、「だるい」と感じるポイントが似ていると、なおよし、なんですけどね。結構、今の会社だと「だるい」のポイントが違う人が多くて。例えば、個人的に送別会とか飲み会とか基本的にだるいんですよね。企画はもちろん、みんなだるいだろうけど、私は参加自体がだるい。四半期に一回ぐらい、数人で飲むぐらいが本当はベストだと思ってる。

 

一方でずっとやる気ない奴とか終始意識低い奴を見ているとそれはそれで腹が立つ、という。そんな奴から「この仕事だるくないですか?」とか言われたらたぶんブチ切れますね。もうシャットアウトして其奴の成果には何も期待しなくなるだろうなーという感じ。

 

私は結構、仕事をする上での人間関係はそんなに重要視してなくて、ビジネスライクで構わないと割り切っていたんですが、それはそれで結構もろいな、と最近は感じております。

 

仕事に何かしらの面白さ、モチベーションを見出せている時はまぁ別にどうでもいいんですが、それらが奪われた時に拠り所が何もなくなる、というリスクがあるんですね。趣味を持っておく、というのもたぶんそういう時のリスクヘッジだし、家庭を持つのもそういうことなんだろうなあ、と。

 

これまではたぶん若かったこともあって、今やっていること、それも一つのことに夢中になっておけば良かったんですよ。それが一番面白いし、シンプルで良かった。でも、なんというかそれはそれで、やっぱりもろいな、と。

 

だるいけど頑張るか、みたいなノリの人と仕事したい。

サチった時にどうするか

スポーツでも勉強でも仕事でも、何か一つのことをテーマにして進めていくと、必ずぶち当たる壁がある。「あれ?なんかサチってきた?」という感覚だ。サチる、サチュレーション。すなわち、自分の能力や自分の出せる成果が定常状態に近づいているな、という感覚のことだ。

 

私にとって、この瞬間は「飽き」の瞬間となることが多い。特に、結果を出したことによるメリットがもたらすモチベーションよりも、自身のスキルが向上していくことにモチベーションを感じているようなことをやっている場合はそうなる。

 

私にとっては多分、受験勉強とかバスケットボールがそういう類のものだった。そもそも受験に合格すること、とか試合で相手に勝つことに対するモチベーションはそんなになくて。むしろそういう仮の目標があって、そこに向かって成長していることが面白かったのだ。

 

成長しているうちは面白いけど、余地がなくなると途端に飽きる。そういう物事を好きだと考えていたけれど、これは本質的に”好き”ではないのだと思う。最近になってようやくそんな考え方になってきた。まだ同じように錯覚している人もいるんじゃないだろうか。

 

では、本質的な好きとは何なのか。

 

例えば、私の場合、ブログを書くのは、自分のスキルの向上などは求めているわけではない。今更、文章力を向上させようとか、構成力を上げたいとか、そういうモチベーションはそれほどなくて。実際のところ、ブログを書くことを通じて自分が成長しているという感覚はほとんどない。

 

それよりは自分という存在や思考を保存しておきたい、とか作品を創りたい、みたいな欲求を埋めたくて、書いている。つまり、成果に対するモチベーションの方が強いので、飽きずに続けられているのだと思ってる。

 

逆に言うと、似たような文章を書くことに対するモチベーションは全くない。もっとも、結果的に人から見たときに同じようなことを言っている場合はあるのかもしれないけど。文章というのは表現方法が無限にあるので、自分自身で同じだと思うことがあんまりないのだ。

 

システム開発も私にとっては作品の創出に近い。もちろん、新しい言語を覚える学習の意欲もあるにはあるが、こんな風にしたいを実現できることが面白い。新規開発であればいいが、機能追加開発だと、既存のすでに確率された仕組みの中で「同じものを作っている」という感覚が優ってしまうことがある。というか、そういう場合の方が多い。

 

これまでは、仕事を楽しむ上で”成長”を拠り所にすることができた。できないことだらけで、伸び代だらけだったからだ。ただ、もうすぐ入社5年目ともなると、自分の伸び代が昔に比べてなくなってきていることを自覚せざるを得ない瞬間がある。

 

具体的な違いはあっても、「こうすればいいはずだ」、とか「こうやれば何とかなるな」、みたいなことがわかるし、それを実際にやったとして新しい成長があるかというとそれほど感じなくなってきている。別に全く成長していないとかではなく、過去の自分と比較して、ということではあるけれど。確実にサチってるなと。

 

こうなると、対策としては二つしかなくて。

 

一つは、これまでとは違う領域の仕事をやってみる、ということだ。あくまで成長に面白さを見出すスタンス。

 

ただし、このやり方には限界があると最近気づいてきた。私も、なんだかんだ小さい規模ではあるが、アプリ系開発に始まり、インフラ系開発、維持、そしてチームリーダー、新規ビジネス企画、営業・コンサル、運用設計・開発など、これまで業務や役割を変えて携わってきた。

 

その都度新しいことをやる面白さ、自分ができないことができるようになる面白さは確かにあった。短期的には。しかし中長期的にはどれも飽きてしまった、というのが真実である。ましてこの先、年齢的に自分の成長が衰えていくことを考えると、”成長”だけを拠り所にするのは心細い。

 

なので、別の方法が必要で。それがもう一つ、自分の作品(成果)を沢山残すことに対するモチベーションで頑張っていく、というやり方。自分が何を得るかではなく、社会に何を残すのか、という視点。前回の記事だと、ポートフォリオを作ることに対するモチベーション。

n1dalap.hatenablog.com

 

そういう風に考えないと、仕事人生はどんどんつまらなくなっていくなぁと感じたわけです。

私がコンテンツに意義を感じない理由

私って、たぶん「面白いものを作る」よりも「役に立つものを作る」方が好きなんですよね。コンテンツかインフラならインフラを作る方が好きってことです。

 

例えば、IT系の会社だと、コンテンツを作るのはWeb系とかスマホアプリ開発とかがそうだし、インフラだと、SIerとかの業務アプリ開発になります。なので、たぶん私の会社選択はまずまず合ってたってことですかね。

 

実際、スマホアプリ開発とかあんまり興味ないです。ゲームってなんというか、やっててもすぐに飽きちゃうんですよ。だから、どういうゲームが面白いのか?という問いに対して、どんなゲームもすぐに飽きるからどうせそんなに面白いものにはならない、と思っちゃうんですね。きっと、子供心を忘れてしまったわけで。

 

だから、たぶんもし自分がゲームを作ったとして、それが大ヒットしたとしても、そのことに対して「楽しんでくれて嬉しい」という思いよりも「あーなんでこんなゲームまだやってんだろ?笑」とか思っちゃうわけで。

 

なんかそういうのってゲーム開発者としてあるまじきだな、みたいな変な仁義があったり。でも、実際はAndroidの上位アプリランキングってほとんどがゲームアプリだったりするので、一般的な感覚とは違うんだろうな、ということは理解してるつもりです。

 

一方で、インフラって必ず役に立つじゃないですか。例えば、今更ですけど、Googleマップってめちゃくちゃ便利やん、と。スマホアプリでもっともインストールされてるアプリなんですが、超便利だったから今ではインフラになった、という順序が正しいですね。

 

インフラができると、世界が前進するんですね。これはもはや、飽きる飽きないとかの次元の話ではないってことなんです。逆に言えば、それ自体に対する面白さは全くないんですけど笑。

 

で、わかりやすく二元論的に語りましたけど、まぁ私はコンテンツとインフラの間には少し別の概念も存在していると思ってまして。

 

一つは、"ポートフォリオ"などと表現するのがいいんでしょうかね。例えば、私が割と今でも好きで続けているこのブログも世間一般の分類ではコンテンツに入ると思いますけど、私の中ではポートフォリオだと思っています。(だから続いているんだと思う。)

 

要は「複数のコンテンツの組み合わせ」のことです。一つ一つのエントリはコンテンツなんだけれど、色んなコンテンツを随時生み出していくことで、全体として一つのポートフォリオになっているという感じ。一つ一つのエントリは一回読んだらすぐに飽きるけど、全体として長期的に楽しむことができるのが良いかな、と。

 

ただ、これもおんなじようなエントリが続くと、結局全部ほとんど一緒やないか、ということで、ただのコンテンツに成り下がってしまうので、難しいところですね。他の例だと漫画とかも海外ドラマとかがポートフォリオで、一作完結型の映画はコンテンツ、という感じです。一回ポッキリで終わるか終わらないかの違いというわけ。

 

もう一つはプラットフォームです。これは「色んな人たちがコンテンツを生み出す場」のこと。決してコンテンツを作っているわけではないけれど、場を作った結果として、色んな人から色んなコンテンツが生まれるので、一人が作るポートフォリオとは次元の違う多様性とか面白さを生み出すもののことです。

 

よく言われる話だけど、今流行っているサービスの大半がこのプラットフォーム。子供が将来なりたい職業ランキング1位のYouTuberや、LINEのスタンプ、インスタ映えなど、プラットフォームがあったから生まれたコンテンツ、職業、ワードが沢山あります。

 

プラットフォームレベルになると、もう社会を推し進めることに寄与できるっていうことなんですね。そういう意味では、ポートフォリオとは断絶された壁があるように思います。ちなみに私が好きなプラットフォームはZOZOTOWNとAmazonですね。単純に買い物が便利だし、色んな商品が見れて面白い。この「はてなブログ」も良いプラットフォームです。

 

こういったプラットフォームがないと困るレベルになると、インフラと呼ばれます。例えば、もうLINEアプリなんかはインフラと呼ばれてもおかしくないですね。

 

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新しく生み出されるものをコンテンツ、ポートフォリオ、プラットフォーム、インフラという四つに分類してみました。

 

なお、絵にするとこんなイメージです。

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上のものほど、感情への影響は大きいですが、短期的な価値を発揮する傾向にあり、下に行くほど、面白さはないけれど、長期的に価値を発揮できる傾向にある、というわけです。実際の世の中はこれほどシンプルではないですが、自分が生産者であると言う前提で、果たして何を作りたいのか、どこを作りたいのか、を考えてみるのも面白いんじゃないですかね。

「マネジメント」が要らない時代へ

 先日、とある海外製品の数十万ぐらいの研修に(もちろん会社のお金で)行ってきたんだけど。で、まぁその製品がなんなのかっていうと「マネジメントシステム」の製品で。

 

マネジネントシステムっていうのは、つまりは管理を効率的にやるための仕組みとか考え方のことなんだが、そのパッケージ製品だと考えてもらえばよい。

 

例えば、管理の一つに進捗管理というのもあるけれど、進捗管理自体は実は結構簡単で、要はいつまでに何をどれだけ終わらせなければならないのかを決めておけば自ずと進捗率は数式で算出できるわけ。

 

つまりインプットとルールを定義すれば機械的に結果がわかるので、システム化が可能なのである。

 

私も管理がメインと言われる会社なので、色んなマネジメントシステムを使ってたりするし、他の会社もそうじゃないか?と思ってたりはするんだけど。

 

つまりそれがどういうことかを意味するかというと、管理って実は難しくないということであり、人がやる必要もなくなってきているということ。たぶん、私が社会人になる頃からそうだったと思ってる。

 

過去に見たエントリでもそんなことが書かれていたし、事実そうである。

blogs.itmedia.co.jp

 

では、マネージャーとかマネジメントをする役割の人が全く要らないのかというと、そういうことではない。マネージャーに求められる役割が変わったと言うのが正しい。

 

そもそも、管理すること自体が目的化して、管理簿を作ることが仕事になってしまっている人が会社の中には沢山ある。管理の仕事を人がやると、事務的で面倒だしつまらない。さらに、付加価値もほとんどないのだが、”管理職”なんて名前があるものだから、そういうしょーもない仕事を物凄く高い賃金で課長クラスの人たちがやっていたりするのだ。

 

でも管理業務の本当の目的は管理(すなわち現在の状態を把握すること)によって適切なアクション、改善に繋げるところにある。本当に求められる能力というのは、正しく管理することではなく、管理している結果から問題を見抜き解決する力である。

 

そもそも”管理する”ことはしばしば英語だと"manage"と言うが、この単語の本質は"何とかして成し遂げる"という意味である。つまりプロジェクトマネージャーというのは、プロジェクトを何としても成功させられる人なのだ。プロジェクトを管理する人ではない。

 

私も会社柄、色んな管理をしてきたが、結局のところ価値を示せるのは問題をいかにして解決するか、の部分でしかないと思っている。そのためにありとあらゆる思考を働かせられる人、それがマネジメントを担う者の宿命なのだ。

 

今まさにそういう時代に移り変わった・・・、という文調で綴っているが、実は今のマネジメントはさらに先の段階に来ているらしい、ということを痛感したのが、下記のエントリである。

 

blog.tinect.jp

 

本エントリでは、「能力のアウトソーシングが始まった」という言い方をしているが、要するに、問題解決能力だけでは相対的な価値が発揮できない時代へ突入しつつあることを意味している。つまり、管理業務だけではなく、マネジメントを自分たちがやる必要のない時代に移り変ろうとしているのだ。

 

今は、「問題解決」よりも「問題発掘」が大切だと言われることがしばしばある。0から1を生み出せる人、起業家精神が必要、ビジネスディペロップスキルが必要、これらも総じておんなじ意味だ。

 

私たちが社会に出る少し前ぐらいから、「言われたことを愚直にこなうような人」の価値はおそらくかなり低下していたこともあって、近年は課題解決能力を求められる機会が社会的に増えていたことも原因の一つだろう。

 

もちろん、ITの成長で、単価の安い海外の人たちが日本人よりもはるかに優秀になったことも一因だし、AI技術の登場による、今までは問題解決能力を生業にしてきた医師や弁護士などの職業の地位が脅かされていることも背景にはあるはず。

 

将来、管理職になって、承認印を押すだけの仕事生活を楽しみにしている人は残念だろうけど、大人になる頃にはほとんどの人がプレーヤーであり続けなければならない時代がくるかもしれない。個人的にはそっちの方がいいかなと思うけど。

「大人」になれない社会

「最近の若い人は優秀だ。」

 

私が社会人になってからというもの、よく上の世代の人からそんなことを言われる。これにはもちろん、IQが高いという意味も含まれているのだと思う。例えば、課長層の人たちは採用面接のグループディスカッションの場に立ち会ったりすることもあるのだけれど、「お前ら(つまりは私たち社員)よりも優秀だった」などと言う。

 

ただ、地頭が優秀といういい側面だけでこの言葉は使われていなかったりする。要するに、最近の若い奴は真面目で礼儀もわきまえていて何でも卒なくこなしてつまらない、という意味合いも込められているのだ。

 

若者なのだからもっとバカなことや面白いことを追求すればいいじゃないか、失敗すればいいじゃないか。少なくとも自分たちの若い頃はそうだった。そんな風に思っているのだと察する。そして、そういう若者がいないことを嘆くし、そういう若者らしさを出すことを求めらたりもする。

 

社会に入ってみて気づいたことは、若者らしい人が割と重宝される、ということである。学生時代までは大人っぽいことを割と売りにしてきた私としては、ちょっと受け入れがたい事実でもあった。佇まいが落ち着いていたり、地に足の着いた考え方をする人は「大人しい」と言われる。「大人しい」ことは「大人らしい」ことで、あまり推奨されないのである。

 

あえて言うならば、資本主義社会において、大人になることは悪いことなのである。自分の意志や欲求を持って、それを実現するために周りを巻き込むとか、リスクを取って挑戦するとか、その中で成長していくとか、そういう「若者らしさ」を永遠に求められる。結果、年を取っていくのに若くなっていくという矛盾が発生する。

 

また逆説的に、仕事ですごく成長をした人が必ずしも人間として成熟していない場合も多い。

 

はるか前であれば、もう少し仕事の成長と人間としての成長が合致している部分も多かったのかもしれない。しかし、資本主義が加速した現代は違う。例えば、ゲームをずっと極めているだけで人間として成長することができるのだろうか、という視点で考えてみるとわかりやすい。ゲームがいかに上手か?と人間として成熟しているか?は全く別のことなのだ。

 

では、成熟とは一体何なのか。大人とは一体何なのか。

 

もうじき三十路を迎える年齢的にはいい大人の私がたどり着いた結論は、「大人」というのは所詮はとある集団の中での仮初めの姿でしかない、ということだ。

 

私はたぶんちょうど二十歳ぐらいの時に自分が大人になったと錯覚した瞬間があった。それは最初のアルバイトの経験、中でも新人研修担当とかリーダー的役割を任された経験がかなり寄与していると思う。

 

でも本質的に人間が大人になるのは二十歳になった時ではない。自分の下が入ったときだ。たとえ、中学生でも部活の上級生であれば大人的側面を持っている。そういう意味で、アルバイトの中で私はたぶん大人だったのだけれど、私が大人になれたのはそのアルバイトをしていた時だけだったし、アルバイトの場においてだけだったのだと思う。

 

大都会の若者は大人になるのが遅れる、という説がある。それは当然、組織の中で、上の数が下の数よりも圧倒的に多いからだと思う。もちろん、仕事の能力とかそういうのはあるけれど、大人役をする人たちがあまりにも多いので、大人をすることを求められないし、評価もされないからだ。

 

大人になれないこんな社会ってどうなのだろうか。

 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 

 

AI時代の予備校

前回AI時代の教育をテーマに思うところを書いてみたのだけれど。

n1dalap.hatenablog.com

 

今回は、教育と切っても切れない関係にある「予備校」について書こうと思う。

 

と、その前に。予備校の価値って何なのか。私は高校の時に予備校には通わなかったし、中学の時も終わりの方に遊び半分で半年くらい行っただけなので、本当のところはよくわかってはいないけれど、一度塾の価値を感じたのは、苦手だった国語の成績が飛躍的に上がったことである。

 

で、なんで高い点数が取れたのかを今更ながらに考えてみると、事前に解かされた予想問題に同じような問題が沢山あったから、だった。

 

先生方の「問いを考える力」が優れていたからなのか、過去の問題の蓄積量が凄かったのか、あるいはその両方なのかはわからない。だけど、結局のところ、これまで自分だけでは知り得なかった「問題と答えのセット」を知ることができた、というのが私の成績が上がった直接原因ってわけ。

 

つまり、良質な問題と答えのセットを与えられるという点は、少なくとも私にとっては予備校の一つの価値だったと言える。もちろん、それらを正しく記憶できるような指導とかも価値に含まれるし、そっちの方が一般的にはより重要なんじゃないかとも思う。

 

総じて言えることは、答えを教える、解法や考え方を教える、というのが今の予備校のやり方なのだ。ただ、それはじきに人間がやるべき領域ではなくなっていく。それを受けて予備校はどうするべきなのか。

 

もちろん、すぐに予備校が淘汰されることにはならない。大学が存在して、学歴が結局就職には有利である、という事実が揺るがない限り、難関大学の価値は残り、したがって予備校の価値も残る。

 

少し変化の余地があるとするならば、今まで講師が担っていた領域に対してAIを支援的に活用していくというのは十分ありえる。少し調べてみると、AIを活用した予備校の事例みたいなものがいくつかヒットする。

 

ただ上記みたいな悪あがきによる短期的な業績向上はできたとしても、「大学あっての予備校」という形を取っている限り、予備校はジリ貧の一途を辿っていくことになると私は思う。「大学受験って意味なくない?」ということに多くの人が気づき始めたら、今の予備校スタイルでは何一つ価値を提供できなくなる。

 

一つのシナリオは、予備校をラボっぽい感じにするということだ。教育が課題発掘、課題解決が中心になる前提で考えれば、それぞれの課題の分野のスペシャリストが予備校の講師を務める。学校ではファシリテーターを確保できてもスペシャリストの確保は物理的に厳しいので、そこに入り込むというもの。

 

ただ、そうなった時にやっぱり予備校はほとんどがオンラインが前提のプラットフォームと貸している可能性がある。個々の生徒たちの興味関心に合わせたスペシャリストなんて日本国内全体に広げても見つからないかもしれない。しかも完全に副業的なビジネスになるだろう。

 

実際のところ、教育制度自体が正しい姿に変わるまでに相当な年月がかかりそうな気もしているけれど、アップデートされないものが淘汰されていくことは心得ていたいもの。

AI時代に先生は要らない?

最近、落合陽一の動画をよく見てるんだけど、あの人ほんと頭いいと思う。久々に天才を感じた。年もほとんど変わらないのになんなんだこの差は、と思いつつ。

 

Youtubeで見た朝生の彼の議論は総じて面白かったんだけど、中でもAIがプラットフォーム化すると教育がいらなくなる、みたいな話が印象的で。

 

落合陽一氏曰く、これまでの人間は生まれたら勉強をして、知識を身につけて、社会に出て生産活動をして、死んでいくというのを各々でやっていて、しかも後世に残せるのは遺伝子だけなので、教育という観点ではめちゃくちゃ非効率だったという。

 

これがAIというプラットフォームができれば、そこに過去の人たちが学んできたことを全て蓄積していけるので、そこに繋ぐことで過去の偉人たちの知識にアクセス可能になるからめちゃくちゃ社会の成長スピードは上がるという理論。

 

でも、AIプラットフォーム上に知識が蓄積されても、そこに直接アクセスすることはできないんじゃないか?と普通の人はきっと思うんだけど、あの人はたぶん、攻殻機動隊みたいに、脳が直接AIにネットワークでアクセスする世界みたいなものを信じているんだろうね。

 

電脳化ははるか未来の話としても、教育の形はすでに変え始めないとマズい状況だと個人的には思っている。一方で、文部科学省が公開している学習要領をみると、我々が育った頃と大した変化はなかったりするのだが。みんなはどう思ってるのかね。

 

例えば、社会にコンピュータやスマホが普及した頃から、人が漢字を書ける必要はなくなった。すなわち、現代社会において、「読み」はともかく「書き」を学習する必要はないということ。

 

あと、数学も電卓が禁止とか馬鹿らしいことはやめて、証明のロジックを考える問題とか、解放を組み立てる思考に重点を置いた方が良い。たぶん、微分方程式とか行列式とかはすでに無料のアプリでも計算できるようになっているはず。つまり、人間ができる必要はないってこと。

 

プログラミングを必須教育にするのも一つだと思う。頭のいい人は大抵、構造的把握能力に長けているなと私は常々感じているのだけれど、それを鍛えるのに非常に良い訓練になるのがプログラミングなのだ。ただの翻訳としてのプログラミング、ではなく、ミッションを達成するためにどんなパーツが必要でどう組み立てていくのかを考える力、そういうのが必要。

 

と、言い出すとキリがないけれども、そのくらいに教育というのは止まったまま。大学の半分に価値がなくなっても、日本の難関大学が世界の中での地位を下げても、今でも昔ながらの受験戦争という名の茶番を繰り広げている。

 

これまでで、教育が変わったことといえば、ゆとり教育ぐらい。私の世代が受けてきたのがいわゆるゆとり教育なのだけれど、これは教育自体を変えた、というよりは教育量を減らしただけだったのが残念な点。コンセプトとしては、余った時間で個別で好きなことをやってほしかったのだろうけど、ほとんどの人は遊ぶ時間が増えただけで、学力も下がり総じて失敗として語られている。

 

ただ、私はこのゆとり教育の考え方について、方向性としては間違っていなかったんじゃないかと思っている。もし、今ほどネットワークインフラが整っていて、小学生が一般的にスマホを持ち、教育コンテンツがありふれている今の時代であれば、上手く機能する可能性は十分にある。

 

ゆとり教育で最大の問題だったのは、子供に完全な自由を与えてしまったことである。教育量を減らした分、自由にしていいよと言われれば9割の人は遊ぶに決まっている。だって、子供なんて別にやることないし。何らかのミッションを与えるべきだったのだ。

 

例えば、これまでの小学校で夏休みの宿題になる、”自由研究”に近い形の課題を常に与える。何か自分でテーマを決めて、それに対して調べたり学んだりして、成果を出す。学生ならレポートという形になってしまうのかもしれないけれど、そんな風に単なる自由ではなく裁量を与えるべきだったのだ。

 

ゆとり教育反論の理由として、オリンピック選手にはゆとり世代で活躍している人が沢山いる、という趣旨の意見をよく聞くことがあったが、あれはすでに自分のミッションを見つけていた人だったからそうなったのだ。なので、適切にミッションを与えることができていれば、必ずしもゆとり教育は悪、という結論には至らなかったのではないか、と私は思っているわけ。

 

要は、一律の教育は物凄く狭い領域に絞って、あとは各々が好きな分野で課題を見つけてそれを解決するための取り組みをしていく、という形がこれからの時代にはベスト。なんでかというと、一律で教育できる標準的な知識とか方法論は全てコンピュータなりAIに簡単に置き換えられてしまうから。一律教育で育った人がコンピュータやAIと戦うとか無理ゲー。

 

ただ、そういった未来型教育シフトへの大きな課題が二つある。

 

一つは今の先生では未来型教育ができない点だ。 言っちゃ悪いが、今の先生は、既に確立されたカリキュラムに沿って既に体系化された知識を教えるだけだ。もちろん、説明のやり方や、板書の取り方は個人で考えているのだろう。突発的な質問に答えられるようにもしておかなければならない。

 

でも、その部分に大きな苦労や難しさがあるとは思わない。私の友人にも先生になった人が沢山いるけれど、大抵、思春期の子供の扱いが難しいだとか、モンスターペアレントの対応が、とか、はっきり言って教育とは無関係とも思える話だ。教育の結果自体を問われない役所体質なところも原因なのかもしれないが、教育制度自体がある程度マニュアル化されたルーティンなものだから、と考えて良いだろう。

 

翻って、未来型教育はどうだ。本質的には、生徒と先生の主従関係がなくなる点が大きい。これまでは、先生が持っているものを生徒に与えるのが教育であったが、教育の多様化が進めば、当然、生徒が知っていることを先生が知らない、という状況が当たり前になる。

 

そんな中でも、生徒に対して学習の方向性付けを行っていくためには、まず、先生自身が問題解決能力を身につけていなければならないし、時には生徒から必要な情報を聞き出し学習し、かつ成長を適切にコントロールをしなければならなくなる。つまり、指導者ではなく、管理者とかアドバイザーに近い形になることを強いられるはず。教育の現場がビジネス化していくイメージ。

 

しかし、今の先生に果たしてそんな能力があるだろうか。もちろん、教育の現場も職員室の中は社会なので、それなりに対応はできるのかもしれないが、数十人の生徒をマネジメントするのは容易ではないはず。昨今は先生の数自体も少なくなっていることもあり、さらに先生を増やすというのも難しい。

 

結局、私が辿り着いてしまう結論は一つで、「先生制度をやめる」、というもの。なぜなら、「先生って要らなくない?」って私は子供の時に思っていたので。正確には、教育とか学習という観点では先生はもはや必要ないって話。私が子供の頃ですらそう思っていたので、今だと尚更そうなんじゃないかね。

 

そもそも「学力を上げる」という点においては既に、予備校や学習塾の方が完全に上なのであって。今の学校に意味があるとすれば、プラットフォームとしての役割だけ。お金を持っていない人でも一つのコミュニティに所属することができて、その中で人間関係を築くことができて、一緒に何かをすることができる、という点。実はこれこそが学校の本質。

 

で、そこに対して先生が関与すべき点は、いじめとか、子供が道徳的にあやまったことをしないように見守っておくだけで良い。つまり、学力の向上に寄与する必要はないのだ。

「絵にできる」は武器になる ~図解の基礎の基礎~

組織で働くビジネスマンにとって、最もポータブルで汎用的なスキルはズバリ「絵にする」力だ。絵を使えると良いことづくしである。

 

まず、一見見落としがちだが、図解ができると情報をイメージとして理解できるため、自分自身の理解が速くなる。

 

情報が整理、構造化されているので比較検討もしやすいため、結果的に意思決定のスピードも上がる。

 

そして、何よりも効果を発揮するのはコミュニケーション、すなわち情報伝達のスピードを上げる点だ。組織とは色んな専門、立場の人がコミュニケーションをとることで回っているので、いかに情報伝達を速く正確に行うかは極めて重要な能力である。

 

逆に、図解ができないと、言葉や文章だけで説明になり、認識の齟齬が発生したり、言っていることをよく理解してもらえなかったりと、困るケースが沢山ある。コミュニケーションコストが沢山かかるので、業務の推進が遅くなる。

 

以上、図解できると何が嬉しいのかを文章で書いてみたけれど、これも絵にすれば、たった1枚。  

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では、図解できる人になるためにはどうすればいいのか。図解する上で大事なことは何なのか。要点を絞って(一応ブログなので、文章メインで、最後に絵で表現、の形で)説明していく。

 

と、その前に「図解表現とは何なのか」をはっきりさせておく。

 

誤解を恐れずに言ってしまうと、それは「表」と「絵」で表現することである。理解がしやすい反面、表現するのは慣れないと難しい。一般的には、表よりも絵の方が理解がしやすいが表現の自由度が増すため、難しくなる傾向になる。

 

対局にある概念は文章など言語による表現である。もちろん、文章にも箇条書きなど構成的な要素もあるが、図や絵に比べるとはるかに書くのが簡単だが、理解するのは難しい。

 

まとめると、こんな感じ。 

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図解に慣れていない人がこんな風に表現するのはもしかすると少し難しいかもしれない。また、いわゆる「図解思考」みたいな書籍を見てみると、様々な図解パターンを紹介されるため、結局どんな風に表現すれば良いのか迷ってしまうこともあるだろう。

 

しかし、実のところ沢山ある図解のパターンは基本形の派生に過ぎない。なので、本エントリでは、図解をする上での最小限の表現パターンのみを紹介する。それはたった三つ。表、階層表現、動的表現のみ。この三つを意識すれば、上記ぐらいの図解はすぐにできるようになる。

 

まず、一つ目は表、マトリクス表現。何かを複数の観点で比較する時に必ず登場する。表は最も基本的かつ単純な図解表現である。

 

例えば、表と文章の特徴を比較するための表は下のように表現することができる。これだけでも箇条書きよりも全然わかりやすい。

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しかし、ビジネスの現場で使われる情報はこんなにシンプルにはならない場合の方が多い。そして、情報量が多くなると、全てをこの形で表現するのは難しくなってくる、あるいは、結局文字情報が多くなりわかりづらくなる。

 

こんな時に登場するのが、二つ目の階層表現である。階層表現は本来、各情報の構成要素を細分化する際に用いられるものである。

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例えば、上記の形で言えば、日本というのは、各地方(北海道地方、東北地方、関東地方・・・)から成りなっており、例えば、さらに関東地方は東京、千葉・・・から成り立っている、ということを表現することができる。数学的に言えば、右側の要素が1つ左隣の部分集合になっていることを表している。

 

ただ、私は別の必ずしもこの包含関係を示すために使う必要はないと考えている。どういう時に使えるかというと、マトリクスの次元が増えた時に使う

 

例えば、先ほどの文章と表の比較は(文章と表)×(難易度と理解度)の2次元のマトリクスであった。これを仮にそれぞれの難易度や理解度が高いと評価した理由を付け加える場合、すなわち(文章と表)×(難易度と理解度)×(理由)みたいに、3次元以上の情報を見せたい時に効力を発揮する。

 

つまりはこういうこと。

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元々2×2で表現していた部分を階層表現にすることで、1次元に変換したからこそ、こういう書き方ができる。なお、今回は縦軸のみ階層表現にしているが、扱う情報によっては横軸を階層化することも可能である。ほとんどの多次元情報を表にして整理することができる。

 

さて、表と階層表現がマスターできれば、その先の「絵を書く」もそれほど難しくはない。例えば、扱う情報が数字で定量的に表現できる、あるいは「できる」「できない」みたいな二元論で表現できるものであれば、それは絵にすることができるし、そうした方が見やすい。逆にそうならない情報は絵にしない方が良いこともある。

 

思考のスタート地点が文章表現だとして、扱う情報の種類に応じて適切な表現方法を階層表現で整理するとこういう形になる。

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正確には、次元をなるべく抑え、各情報を2元的に扱うためにどういう言葉を選ぶのか、というのが絵で表現するポイントである。

 

で、この上の表自体は、1つの表にまとまっていて(2次元情報)かつ「できる」「できない」の2元的に表現できているので、「より良い表現方法」も当然絵で表現することができる。

 

一例はこんな感じ。

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こう言った絵の表現パターンについて沢山あるが、本質的にはほとんどがマトリクス・階層表現の派生系に過ぎないことだけ留意していただければと思う。(沢山のパターンを知りたい人は図解思考の書籍を参照されたし。)

 

ただし、絵でしか表現しきれないものももちろんある。それが最後の動的表現である。

 

例えば、こんなフロー図。絵で表現するための思考ステップである。

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もちろん、「順序」などの列を追加して先ほどまでの表で表現することもできるが、明らかにこちらの方がわかりやすい。順序などのフロー、あるいは因果などの関連性を示す場合も絵で表現した方がよい。表現の手段はたった一つ、矢印だけ

 

ちなみに、応用形として絵×表みたいなパターンで表現することもできる。

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最後に、もう一度「絵にする」ために大切な3つの要素のおさらい。

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この3つを意識していれば、どんな情報も必ず絵にできる。「絵にできる」はこれからのスピーディーな社会を生き残る上での最強の武器となりえる。あとはただ練習あるのみ。

AIの不透明性など大した問題にはならない

今日はAIに纏わる課題、不透明性についての話。

blog.tinect.jp

 

上の記事によると、AIが採用した人材自体を人が評価した時に問題はなさそうに見えたが、なぜその人材を選んだか、がわからずに見送ったとの趣旨である。要するに、アウトプットは正しいのだけれど、プロセスの合理性が説明できない点に課題を感じている、ということだ。

 

確かにAIの不透明性は今の課題の一つかもしれない。

 

というのも、私も昨年の11月頃からAIを利用している。具体的には、資産運用をしてくれている「ロボアドバイザー」というサービスだ。はじめに、毎月の積立金額やリスク許容度などの簡単な診断にいくつか答えると、AIが自動的にポートフォリオを組んで資産を運用してくれる。

 

はじめの頃は、少額ながら資産が増加していたので特に気に留めてもいなかった。しかし、ここ数日、アメリカ株式の暴落を受けてか、マイナスに推移している。すると、AIは何をやっているんだ?という話になる。つまり、なぜ今のポートフォリオを買っているのか?とか、その考え方は果たして正しいのか?ということが気になるのだけれど、それが全くもってわからない。それがAIである。

 

AIは内部のプロセスを全てブラックボックスにしてしまうのだ。これは現代を生きる人間がAIを導入する要因のもっとも大きな障壁ではないかと思う。

 

でも、例えばAIがもう少し進化して人間の言葉で説明ができるようになったとすれば解消されるんじゃ?そう考える人もいるかもしれない。ただ、結論から言うと、それはできない。

 

AIの中でも、ディープラーニングと呼ばれる強いAIは大量のテストデータから特徴量を自ら生成する。特徴量というのは、例えば猫の場合は、「長い髭が3本ずつ生えている」などの特徴を表しているパラメータぐらいに考えれば良い。

 

ただし、あくまでAIが認識しているのは0と1のデジタルの集まりでしかなく、人間とは全く別の世界であることに注意する必要がある。決して「長い髭が3本ずつ生えていること」を認識しているわけではない可能性があるのだ。

 

つまり、我々は「長い髭が3本ずつ生えている。だからこれは猫だ。」という論理で結論を導出するけれど、AIからすれば、「猫は0と1の配列がこんな並びになっている。だからこれは猫だ。」みたいに、例え人間に説明したとしてもよくわからない論理になってしまう。

 

また、顔から犯罪予備軍を特定するAIなどが登場しているように、既にAIは人間には見つけられない特徴を見出せる可能性が非常に高い。こうなってくると、もはや第6感というか、人間には理解できない概念をAIが認識していると考えるべきだろう。霊感が強い人に「あなたの横に幽霊がいます」と言われたって、簡単には信じられない人もいるはず。そこに対してなぜなのかと説明を求めたとしても納得のいく理由は決して得られない。それと同じ。

 

しかしながら、私が言いたいのは、だからAIはダメだ、という話ではない。むしろ、「理由がわからないから」なんて理由でAIを却下していると、間違いなく時代に置いていかれる、という話。確かにディープラーニング同士の囲碁の対局はつまらないかもしれないが、ビジネスの現場に求められるのは常にプロセスではなく結果だからだ。

 

産業革命や情報革命の黎明期には、「人が丁寧に作ったものでないと品質が心配」だと考えていた人が沢山いた。しかし今はどうだろう。機械化・自動化が当たり前のものになっている。今車に乗る時に、「なぜ車が走るのかわからないから乗らない!」なんて人が周りにいるだろうか。AIの不透明性がいずれ問題にならなくなることは歴史が証明している。

ブログ投稿最適化を考えたときにぶち当たった壁

スマホタブレットって、情報伝達とか情報連携のスピードを加速させた点について非常に貢献度は高いんだけど、つくづく生産活動に適してないインターフェースだなと思う。

例えば、図解資料を作るとか、動画を編集するとか、アプリを作る、みたいな作業は圧倒的にPCの方が早いはず。

もちろん、ブログを書くのも同じ。確かに音声認識技術はかなり精度が増してきているけど、まだノン修正で投稿はできないレベルという感じ。

最適を考えると、SFっぽいけど、脳が電脳化して考えたことがそのまま文字起こしできる、みたいな形なのかなという気もする。そうなったらたぶん文字は要らなくなってるだろうけど。

そんなことはかなり先の未来なわけで、現実的にはやっぱり音声認識技術の完成が一つの区切りなるかなとは思う。PCでタイピングするよりも喋った方が確実に早いし。

ただ個人的には、声や音を出さなければ入力できないというのはナンセンスだよなーとも思う。例えば、電車の中とか、オフィシャルな場での作業はできないし。

最近でこそ社会的に浸透してきた感はあるけど、イヤホンつけてスマホに喋りかける人もやっぱり違和感は感じる。OKGoogleとかも全員がやりだしたら騒音問題に発展すんじゃね?とも思う。


なので、声を漏らさない仕組みとかは今後確実に必要になるんではないかと。具体的には、届けたいところにだけ届けたい音を届ける、ということ。

今までも、イヤホンのお陰で、届けたいところに届けることは一見可能立ったように見えるけれど、実は人間の発声を絞ることはできていない。遠くの人に声を届けられるようにはなったけど、近くの人への声を遮断する仕組みがないのだ。

こういった仕組みがあれば、そもそも、社内で電話をするのが迷惑、みたいなことにもならない。一つのビジネスチャンスになりえるんじゃないかな。

コンビニの24時間営業どうなる?

コンビニが24時間営業じゃなくなったら、果たして今の人たちはそれを「コンビニ」と呼ぶのかね。

 

business.nikkeibp.co.jp

 

私は別にコンビニを24時間続けるべきか続けないべきかというのは正直どっちでもいいんだけど、こういう議論を考える時に意識しておくべきは、どの立場で考えるべきのか、ということなんだよね。

 

例えば、「消費者」の立場で考えると、24時間あった方がいいのは明白なわけ。別にほとんど深夜帯にコンビニを使わない人からしても、深夜に空いている方が便利だし。元々のコンビニって実は一般家庭にある「冷蔵庫」の代わりを目指してた、なんて話もあって、いつでもどこでも使えることの価値はやっぱり消費者にとっては大きい。

 

コンビニ近辺の住人と言う立場で考えてみると、例えば、深夜にコンビニにたむろする輩が迷惑だからやめてほしいと考える人もいる。あるいはコンビニの店長(フランチャイズの加盟店側の人)からすると、従業員が集まらないとか、売り上げが上がらないとかそういった課題もあってやめたいと思っている人もきっと存在する。

 

私は社会的にどうなのか、というのを考えるのだけど、コンビニってもうこれ以上いらないし、別に24時間営業である必要もない。深夜に限らずだけど、コンビニで働いているオッサンとかをみると正直可哀想だし、虚しい。だってその仕事って意味あるの?って思うから。誰でもできるし。何の価値もないって言ったら怒られるかもだけど、ただだの物流のチャネルでしかないわけで。

 

実際、最近のコンビニの店員ってほとんどが中国人とかインド人とか海外の人で日本人なんてほとんどいない。これって要するに、コンビニ競争が激化しすぎていて、日本人を雇っていたら売上を確保できないことと、別に海外の人でも何の悪影響もなく営業が回せる、という二つの事実を証明しているのである。付加価値の低い仕事は人件費の安い国にアウトソーシングされていくのが世の常なので、つまりはそういうことなのである。

 

最近、仕事柄、「価値のない仕事をいかにして無くすのか」ということを考えている身としては、コンビニ店員もやっぱりなくなっていくべきだと私は考えている。でも、それをただ24時間営業を無くしましょう、という方向は明らかに時代に逆行してるんじゃないかな。少なくとも、コンビニが「社会インフラ」を掲げてこれまでやってきた理念とは逆行している。ただの営利活動だ。

 

どちらかといえば、テクノロジーの力で解決してほしい。少し海外に目を向ければ「無人コンビニ」みたいなものは既に運用されていて、それらが実現できれば、別に夜間帯に開けていても、利益としては若干のプラスにできる見込みは十分にある。そういった取り組みを推めていくべきだ。

 

とは言うものの、「価値のない仕事」を無くすというのは現実、すごく抵抗を受けるのも事実。これまで価値のない仕事をやってきた人はこれからどうすればいいの?、という主張だ。こういう人は可哀想だけれども、テクノロジーを進化させる人やビジネスを生み出している側の人たちは容赦なく切り捨てていく。だって、自分たちが勝てなくなるから。

 

コンビニは無人化して、24時間営業は継続するべき。

地方創生のカギは

まだ、人増えるのか、東京。

www.sankei.com

 

都会への人口一極集中が目立っている。福岡を除けば転入が転出よりも多いのはほとんどが東京、もしくはその近隣の都道府県という結果だ。私もつい数年前に上京して来た身ではあるけど、これ以上東京に人は増えてほしくないと思ったり。

 

まぁなんでこんなに東京に人が集まるんや?という一番の原因はやっぱり東京に仕事がたくさんあるから。東京への憧れ〜とか、都会は便利〜とかももちろんあるんだろうけど、昔ほど東京に拘る必要もないご時世じゃないだろうか。私も大阪と京都で暮らしてたけど、別に東京の方がすこぶる便利とも面白いスポットがたくさんあるともあんまり感じていない。

 

じゃあそんな私がなんで東京に来たのかっていうと、たまたま行こうと思った今の会社が東京にあっただけで、それ以上でも以下でもない。というわけで、一般的に見ても、仕事の数がキーファクターなのかなと。

 

そもそも桁違いに新卒を採用しているような大きい会社はやっぱり東京に本社を構えているのが普通で、その求人数のうちほとんどが本社勤務になる。と考えれば、少なくとも、大企業の採用人数の合計値の5〜7割ぐらいは東京に流れ込む計算になるのだ。ざっくり毎年300人ぐらい採用する会社が東京に100社ぐらいあるとすると、それだけでも2万人ぐらい。意外と全体の2割しか占めていないのが引っかかるけれど。残りの層もやっぱり仕事目当てなんだろうか。

 

こういう背景もあって、最近はやたらと「地方創生」というキーワードを聞くようになった。要は、東京ばかりに人を流出させるのではなく、地方の人たちを増やしましょう、ということだ。増やすために何をやるのかは大きくは2つ、地方で育った人が地方に留まるようにする、都心部から地方に来る人を増やす、というのが私の理解。

 

でも、なんで地方の人を増やさなくちゃいけないのか。この点はちゃんと説明されているのかね。

 

一般的な意見を要約すると、「地方に住んでいる人が困るから」という理屈みたい。そりゃ困るでしょ。地方に人がいなくなるということはそこに市場としての魅力がなくなるということ。例えば、コンビニを設置しようとしても商品が売れない、利益が出ない。そんな状況が続くとどうなるか。企業としては撤退せざるを得ない。

 

すると、ますます不便になって、人がより便利な都会へ移り、さらにビジネスは縮小し、と負のスパイラルが生まれることはもちろん、新しい価値を創造していく人たちすらいなくなってしまい、詰んでしまう、というわけ。残った人は否応無しに生活水準の高い都会に行かざるを得ない、という現象が起こる(というか既に起こりつつある)。

 

上記のようなことをマズいと政府は判断しているわけだが、これって実はビジネスとは対極にある考え方。つまり、ビジネス的に考えるとマズいとも言い難いのだ。

 

ビジネス思考で合理的に考えると、地方の人がいなくなった方が実は効率的だし、物流コストも移動コストも下がる。人の数に比例してイノベーションの起こりやすさも上がるので、ビジネス的には良いことの方が多い。そして、何よりビジネス思考では、弱者が淘汰されることで全体としての価値は上がるという思想が根底にあるので、衰退は仕方のないことだという割り切りがある。

 

一方で、地方創生を考える人は全く合理的ではない。(別に合理的じゃないことが悪いと言いたいわけではなく。)例えば、地方特有の文化がなくなってしまうことを懸念する声もあるけど、単純に「文化に触れたい人」よりも「生きるために仕事をしたい人」の方が多いという結果が現代社会なのだ。

 

つまり、文化に価値を感じている人って割合で言うとそんなに多くないってことでは?という話。資本主義が加速する中で昔のようなゆとりは持てなくなってきているのだ。文化はなくても困らないけど、仕事はないと困る。

 

ってなわけで、地方ならではの産業創出を支援する施策なんかが進められているみたいだが、正直に行って地方単体で創出する産業が東京に勝てるとは到底思えない。まず情報量が違うし、スピード感も違う。東京のフィールドで地方が戦うのはどう考えても難しいんじゃないだろうか。

 

ではどうすべきなのか。

 

地方が何をすべきなのかは一旦脇に置いておくと、私が地方創生にとってもっとも良い対策と考えているのは、「超大企業が地方に移転すること」である。なぜなら、上述の通り、結局は企業の求人数によって大方の人口は決まるから。例えば、大企業だと、本社が移るだけでも、数千人、下手すれば1万人規模の人たちが地方に転入することになる。

 

もし、デカい会社が「来年から本社を地方に移します」という宣言をすれば、それをビジネスチャンスと捉える企業群は確実に存在する。周辺に食べるところがないのであれば、レストランを出店しようとか、そもそも住むところがないから都市開発を進めようとか。そうすると、それらの将来の市場に群がる人たちも地方に移ることになる。企業に群がって人が東京へ行くのだから、企業を地方へ移せばいい。というのが私の答え。

 

ネックなのは、どの会社も本社を地方に移さない、というところにある。少なくとも今時点では高い土地代を払っても、やはり会社は都会にあった方がメリットが大きいのだ。

 

しかし、これを進める一つのポイントになるのが、これまた注目を浴びているリモートワークという働き方である。これが今よりはるかに進むと、「本社を東京におく意味あるのか?」ということに疑問を持つ人は確実に増える。

 

どのくらい進めば良いのか。というと、対面の打ち合わせが完全になくなるレベルだ。会議は全てテレビ会議、仕事の指示はメール、ライン、スカイプ、スラックなどのツール。「もう対面で一緒に仕事をする必要がない」という実績が積み重なれば確実にそうなる。

 

地方としては大企業でリモートワークが推進されるのをただひたすら待つしかないのか。逆に大企業の動きを逆手に取れるのが一番理想的だと私は思う。つまりは、地方発信でこういったリモートワークの仕組みを構築するのだ。

 

理論的にはできないことはない。今やネットワークで全世界と簡単につながることができるわけだし。北海道が青森と協力してもいいし、大分と協力してもいい。地方単体では数の利で完全に東京に及ばないが、複数の地方が連携できれば、それほどイノベーションの質は遜色ないレベルに引き上げられるのでは。

 

地方に仕事を創るのであれば、今の便利すぎる東京ではできない、地方だからやらざるを得ない新しい働き方の叩き台を創ってほしいと私は思う。