∑考=人

そして今日も考える。

独断で選ぶ家での楽しみ方3選

今の引きこもりの状況、普段よく出かけている人からすると結構しんどいらしいっすね。

 

私には正直わからん。笑。もちろんまぁずっと家、というのは多少つらいけれど、家の中でもやることがあったり、夢中になれることがあれば、正直全く気にならない。というわけで、生活としては今はかなり特殊な状況だけれど、私個人としてはかなり充実している。

 

考えてみれば、受験勉強で家に引きこもっていた時にもこんな感じだったし、修士論文を本格的に書き出したの時もこんな感じだったわけで。出かけないから疲れがたまらないため、ハイパフォーマンスなのでは、と思ったり。最近は仕事中以外はほぼWebサービス制作に時間をかけているし、休日の朝も早起きになった。

 

休みの日にやることがなくて困るみたいな人も発送を変えてみればチャンス。こんなに新しいことに挑戦する時間とエネルギーが余るなんてことはこの先ないぜ。 

 

ということで家での楽しみ方5選を紹介する。

 

第1位:プログラミング

まずはPCを買うところから。やぱりプログラミングはいい暇つぶしになる。私は今の休日はもっぱらプログラミングしている。実際、私だけでなく、世間敵に需要も増えているらしい。

www.sankeibiz.jp

 

初心者が始めるならHTMLがおすすめ。内部の処理じゃなくて見た目なので、作った部分が見えるので、やった感がある。そこそこやってみて、なんか普通のWebサイトみたいにカッコよくできない、イライラと思ったら「CSS フレームワーク」とかで検索してみるといい。CSSが使えると格段にWebサイト作りが楽しくなるはずだ。

 

まぁもちろん、見た目とかどうでもいい、ゴリゴリロジック考えたいぜ、みたいなは人はCでもJavaでもpythonでもどうぞ。

 

第2位:楽器

私はギター。やっぱり楽器があると家での退屈しのぎになるし、楽しい。休日に外出しないなら、上達の時間も確保できるでしょう。

 

初心者セットなら、1万円でそこそこの物が買えるのでおすすめ。

 

第3位:ルービックキューブ

こういうちょっと普通なら手をつけないようなことをやってみると面白い。私は数年前からやっていてもう飽きたので、片手間でしかやらないけど。新しく始めるにいいとおもう。ちょっとした特技として言えるし。

 

どうせならちょっといい奴を買ってみると、続けられるかも。おすすめはこれ。  インテリアとしてもお洒落。

 

 

もちろん、他にも、映画鑑賞とか読書とかもあるけれど、インプットばかりだと人間は疲れてしまうので、少しでも自分をあげるもの、クリエイティブなものを紹介しました。

外出することの意味を考えてみる

あいかわらず、在宅勤務継続中です。どうも生活にメリハリが無くなって、それがしんどいという人が結構目立ってきている印象です。私の妻もそうだし、会社の同僚や上司もそんなことを言っています。

 

確かに、平日なのに休みのようでもあるし、休日でも家にいるので、プライベートと仕事の境目はかなり曖昧になっている気はします。まぁ私個人としてはそういう方が向いているなぁという感じはありますけど。

 

しかし、まぁ前回の記事でも書きましたけど、「家にいなければならない」という前提で皆が考えだしたせいか、仕事以外も色んなことが家でもできるようになりましたね。例えば、Zoom飲み会なんてものが今は流行っているらしいですが、実際私もこの2ヶ月で3件実際にオンラインで飲み会をやりました。

 

で、何か問題があるかというと、別に問題じゃないんですね。普通に話できるし、楽しいし、まぁ美味しい飯は食べられないけれど、友人と話すという観点においてはなんの問題もない。ちょっと聞き返さないとダメとか、同居人に迷惑がかからないようにしないと、とかはあるけれど、本質的には同じように楽しめるんです。

 

買い物とかもおそらく以前よりも通販とかオンラインショッピングみたいなものが多くの人に使われだしていると思うんです。私も最近はUbereatsとかかなり使うようになったので。

 

で、こういったものに嫌悪感を示していた人も、実際にやってみると以外といいじゃん、という感触を得た人もいると思うんです。となった時に、はて外出する意味って何だろう?と少し思ったりするわけです。

 

例えば、今私は完全にフルリモートワークですけど、別に仕事できてるんですよ。まぁもちろん効率は少し落ちている可能性もありますけど、クオリティオブライフは確実に高いわけです。なら、外出して会社に行く必要ってあるのかね?と今は思っていたりします。たとえ、コロナが収束しても、「もう会社行く必要ないんじゃ?」という感じです。まぁ週に何回かはいくんでしょうけど。

 

他にも、友人と飲むというのもそうですね。今までであれば、長期休暇に地元に帰って旧友と集まって飲む、というのが当たり前でしたが、オンライン飲み会などが流行る世界観では、そもそも「会いにいく」必要がないわけです。

 

もちろん、直接会えるに越したことはないけど、毎回直接である必要もないかな、と。こうちょうどいい中間ができるというか。外出というのは実は多くの場合は手段の一つだったことに気づくわけです。

 

で、外出しなくても良いと、実に色んなものが要らなくなって。身嗜みを整える必要もないし、外出するようの洋服も要らない。靴、アクセサリー全般も要らない。それはそれで結構味気なかったりするんですが。

 

一方で、公園に行くとか散歩に行くとか、普段ならやらないようなこと、つまりは外出自体を目的とした行動が活発になっている点もちょっとおもろいですね。

 

私の予想では5月6日以降も今の状況は続くので、外出できないうちに外出の意味を皆が考えてみるといいと思います。

 

在宅勤務で生産性は下がるのか?1ヶ月を過ごした結果。

在宅勤務が始まってから、一ヶ月を超えているが、通常勤務の目処は立っていない。今週からは週1、2ぐらいで出社するけれど、この先果たして通常出社できる体に戻れるのだろうか。

 

そしてこうもコロナが大問題化して、志村けんが亡くなるなど、少し身近に感じる事件があると少しずつ心配にもなってくる。

 

ただ、このコロナ問題は悪い面もあったけれど、社会としては一つ確実に成長したなと思う今日この頃でもある。

 

例えば、今の状況になるつい最近までの私の会社といえば、「テレワークなんかできるのは一部のやつだけ」とか「自宅からだとネットワーク繋がらないじゃん」とか「打ち合わせは対面でやらないと伝わらないでしょ」など、テレワークができない言い訳ばかり並べて、結局誰も本気で変えることをしようとしてこなかったんですな。

 

でも、こうしてテレワークをやらないとならない、という状況に追い込まれると、工夫の方向性が変わってくる。

 

例えば、これまでWeb会議をやっていたら、「音声が途切れるよね、声が遅延するよね、だからやっぱり対面で」という結論が導かれていたはずだけれど、「音声が途切れるから喋らない人はミュートにしよう」とか「声が遅れるから音声だけはLINEを使おう」みたいに”Web会議のままで上手くやる方法を考えようになる。

 

これが人間の面白いところで人間のすごいところだなーと思う。そもそも、ほんの2ヶ月前まではIT企業にもかかわらず、「Zoomってなんですか?」みたいなところからスタートしている組織もいっぱいあったはずだけど、「意外とやってみれば使える」みたいな空気になっていて。

 

たぶん、こういうことは色んな中間層の会社の中で怒っている革新ではないかなと思う。その一方で、果たして本当にテレワークでこれまでの生産性が維持できているのか?は皆が疑問視しているところかもしれない。

 

私自身、約一ヶ月テレワークをしてみて所感としては、トータルでの生産性は落ちないと考えている。

 

生産性が上がる要素としては、例えば下記がある。

1. 仕事を遮られず、作業に集中しやすい。

2. 無駄な仕事が生まれにくい。

3. 通勤の負担がないから日々疲れにくい。

 

1. はまぁその通り。特にやるべきことが明確なときや自分一人でできる作業は圧倒的に集中して作業できるから捗る。打ち合わせに関しても、システムで時間を制御されるため、だらだらと延長することがなくなりやすい。

 

2. に関しては、結局人と会話をしないから、やった方が良いけど必須ではないような仕事を依頼されにくいのだ。実際面白いデータがあるらしく、どうも、「人の顔を見ることでその人に依頼する仕事を思い出す」というのだ。重要な仕事であれば、人の顔をみなくてもメールなりで依頼がくるはずなので、重要度フィルタがかけられる。

 

3. に関してもいわずもがなだろう。加えて、特に営業、それも旧時代的に客先に足を運ぶタイプの営業の場合は、これまで客先訪問するための移動時間が労働時間にカウントされていたため圧倒的に作業時間が増える。私の嫁も営業だが、在宅勤務をすると休みの気分になると豪語していた。

 

当たり前だが、もちろん生産性が下がる要素もある。

1. 強制力がなく、労働のモチベーションが維持しづらい。

2. ファシリテーション、コミュニケーションスキルや準備が必要な場合がある。

 

1. は特に人によってその影響は大きく変わるかもしれないが、私もやはりずっと在宅勤務をしていると、サボることが増えた。たぶん生産性が上がったことで、少し暇になり、暇になった時間をサボりに使っているという感じ。だから生産性がプラマイゼロ笑。

 

2. について、やはりホワイトボードなどを使ってその瞬間に意識を合わせたりするのが少し難しいため、うまく打ち合わせをファシリテートしたり、コミュニケーションを取りやすくするための資料を用意しておくなどの工夫が必要になる。パワポで絵を書きながらやったりするけど、それも少し時間がかかる。

 

もちろん、そもそも在宅勤務などできない業種は当然致命的に生産性は下がってしまうだろうが、実際のところ、どうなのかは国の偉い人が統計してくれているのだろうか。ぜひとも確かめたいものである。

 

ただ、私自身としては、生産性が仮に少し下がっていたとしても、生活自体に非常にゆとりはできるので、ワークライフバランスとかを考えると、良い傾向だと思う。これまでは仕事から帰ってきたら、もう何もしたくない、という感じであったが、最近は仕事以外の活動をする気も出てきている。

 

もし、通常勤務ができるようになったとして、働き方を戻す必要もないのかもしれない。

テレワーーーーーク

 少し前のNTTデータの協働者に引き続き、電通の社員もコロナ感染が発覚したのはつい先日のことであるが、本社勤務の5000人がテレワークというまさかの対応には驚いた。ここまでの判断が過去にあっただろうか。

 

そんな波風を受けてか、二日ほど前に私の会社(もう少し性格に言うと本部)からも、「原則在勤務」という通達が社員に降った。夕方5時くらいに管理職が緊急召集されてなんとなく予感はしていたけれど。

 

テレワークではなく、在宅勤務としているのは、家から極力出るな、と言われているので、それはつまりテレワークではなく在宅勤務なのだ。ちょっとお洒落なカフェで仕事できるならテレワーク。そういう使い分け。

 

実際、他の会社でも在宅勤務はやはり進んでいるらしい。

www3.nhk.or.jp

 

そんなこんなで私はこの二日間は家から出ずに仕事をしていた。最近はWeb会議とかも結構普通にやるようになってきたので、以外と家でも仕事ができてしまうのだ。これが何とも生産的で驚いた。考えてみれば一日中会社ではないところで一人で仕事をする、なんてことはこれまでなかったからだ。

 

感じたメリットを雑に上げてみる。

・通勤時間分だけお得。(寝れる)

・身嗜みを整えなくてもいい。その時間がお得。

・余計な雑談に巻き込まれない。

・余計な仕事を振られない。

・自由にお茶とか飲める。

・電話に出なくていい。

・よって仕事が捗る。

 

もちろん、デメリットも少し感じている。

・ちょっと困ったときに非公式な軽めの相談ができない。

・Web会議の準備が少し面倒。

・みんな仕事してんのか?と疑心暗鬼になる。

・緊張の糸が切れるとやる気をなくす。

・別のことをしてしまう。

・何より孤独。

 

私は休日家で一人のことが結構あるので、平日もこうだと死んじゃうなぁとしみじみ。

採用の合否を分けるポイントは◯◯だったという話

どうも。

唐突だが、私の会社の同期は数百人ぐらいいる。そして、入社6年目ともなると、色んな組織に散らばって活躍している。

独立したという話はあまり聞かないけれど、イケイケのベンチャーに転職、外資系コンサルに転職する人もいれば、会社の中で地方に転勤、子会社に出向、海外常駐みたいなケースももちろんある。

ちなみに私の嫁と親しい同期の場合は、人事部に異動した。開発が合わず、営業も合わず、最終的に人事になってそこそこ楽しくやっているらしい。

「そんなに合わないなら会社やめれば?」とか個人的には思ったが、諦めずに自分に合った場所を探すという姿勢はどうも大事らしい。

とまぁ私の感想はどうでもいいとして。人事の大きな仕事と言えばやはり採用である。中でも私の会社の場合は新卒採用が大半を占めるので、「いかに優秀な新卒を採用できるか」が重要視されている。

優秀をもう少し平たく言うのであれば、自社の仕事の中で成果を挙げられる人、極論を言うと速く出世していく人、といってもいいかもしれない。そんな人をいかに採用していくかが鍵なのだ。(私自身は出世していく人=成果を出している人とは思わないけれどそう考えた方が単純なためここではそういうことにしておく。)


であれば、どういう人が速く出世するのか?というのをトレースすれば結果は一目瞭然な気はするのだが、現段階ではそういったトレースは難しいそうで。


おそらく数年前は採用活動にデータが活用されていなかったのだろう。どんなファクターが出世スピードに影響を与えているのかが厳密には特定できていないらしいのだ。

これは個人的にも非常に興味があって。思い出しても見てほしい。新卒採用の面接の時は、リーダーシップ、協調性、コミュニケーション能力、プレゼンテーション能力、論理的思考能力、独創性、英語力、などキリがないほどの能力を求められなかっただろうか。そんなスーパーマンがどこにいるんだと。

だから、結局のところ何が本質なのかを掴めないままなぜか就職だけが決まった、というのが正直な感想で。一体どんな資質が大事なのか、は私自身ずっとわかっていないのだ。もっと言えば採用を担当した人事の人ですら私を雇って正解だったのかもわかっていないはず。

とまぁ採用の完全な正解はわかっていないのが現状なのだが、少なくとも採用活動を行う以上は合否を分けるポイントはあって然るべきだろう。と思っていればやはり現時点で採用の際に最も重視しているポイントはある、というのだ。

さて。どんな資質が評価されるのか、想像できるだろうか。

これはたぶん会社によっても異なるとは思う。私の会社の場合はなんと・・・

ストレス耐性

とのこと。つまりストレス耐性が強い人が私の会社に残る傾向が認められ、成果を出す傾向が認められている、ということだ。

この回答には驚きと共感しかなかった。

2020年やらないことを決める

まぁ守れる守れないは別として。

 

普通新年って「これをやろう」みたいな目標を立てるのが一般的だと思うし、個人的にも達成したいことがないわけではないんですが。目標って何となく立ててもだいたい達成できないもので、この理由って時間の有限性に起因すると思ってます。

 

仕事でもそうですよね。こんな反省があるから次はこうしよう!とか言うけど、結局できなかったりする。当たり前。時間を増やさないと新しいことはできないんです。だから今までやっていたことをいかに効率化するか、とか考えるんですけど、効率化するよりもやめた方が断然効果は高いです。

 

一例をあげるならば、例えば私はyoutubeとかで動画を見る時はだいたい2〜2.7倍速ぐらいで見てます。要は倍の生産性が出てるわけです。じゃあ時間が余るかというと余りません。だって別の動画を見ますからね。

 

でもこれが例えば「動画を見るのを止める」という判断をすると、どうなるでしょう。これまで動画を見ていた時間はゼロになりますし、侵食されることもなく、完全に別のことに時間を使えます。

 

だから、まず「やらないこと」を決める。それが正解と思った次第です。ただ、やらないことを決める上で、一体自分が何に時間を使っていたのか?を知っておくことも重要だと思います。そういう情報がApple Watchとかで取れるといいな、と思いますが、ないので、記憶を頼りに。みなさんも去年の予定表とか見ながら考えてみると面白いかも。

 

大前提として、1年間は24時間×365日なので、総パイは8760時間あります。これは全員同じです。

 

おそらく最も多いであろう睡眠時間から。まず私の場合、基本的に1時〜8時まで毎日寝てます。はっきり行って休日は11時ぐらいまで寝てることがほとんど。だいたい年間120日(≒1/3)が休日だと考えると(7時間×2/3+10時間×1/3)×365日=2920時間は寝てる、ということになります。つまり、ちょうど1/3が睡眠ということですね。実質、活動に費やせる時間が5840時間しかないということです。

 

次に労働時間。昨年度の労働時間は推定ですけれども、残業時間が確か年間トータル600時間ぐらいなので、20日×7.5時間×12ヶ月+600時間=2400時間は働いているということになります。36協定に引っかかりそうな数字なので、実際にはもう少し少ないはずですが、お昼休憩の1時間も労働時間内と考えれば、ほぼ同じくらいの数値かな、という感じです。

 

すると余った自由に使える時間は2440時間。意外にも働いている時間と同じくらいの時間が余ってます。これだけの時間を自由に使えるはず、というのは少し気が早いです。例えば、通勤時間とかもこの中に含まれています。

 

私の場合は電車通勤で、だいたい往復1時間ぐらいです。なので、240時間は自由には使えません。残り2200時間になりました。あとは例えば、会社の飲み会などが頻繁に開催される人であればそこも計算に入れる必要がありますね。週1で2時間飲みに行くとすると、52週×2で100時間ぐらいが引かれます。残り2100時間です。

 

労働以外でも、生活に必要な時間もあります。朝起きて髪を整える、歯磨きをする、顔を洗う、用を足す、ご飯を食べる、お風呂に入る、などもあります。毎日トータル1〜2時間ぐらいはかかっているでしょうね。私はお風呂も5分ぐらいなので365×1=約360時間で、これはなかなかインパクトありますね。1740時間まで減ってしまいました。

 

家事に費やす時間もあります。人によっては一番インパクトがあるかもしれません。私は料理は基本的にやらないし、掃除はルンバにお任せで洗濯物ぐらいなので、週1回で20分ぐらいですか。年間20時間ぐらいですね。(嫁に怒られそうな時間感。)残り1720時間。

 

結局、残るのって20%にも満たないってことなんですね。私の場合でそうだから家事をキッチリやって仕事もしている人とか、子育てしている人とかってこんな比ではないはず。

 

で、その余った20%を何に使っているのか。休日の1/4は嫁と外出するから100時間ぐらいは時間使っていて。昨年で言うと、毎日1時間ぐらいはギターを引いていた気がするので360時間。たぶん、読書とブログ書くのは合わせても50時間ぐらいしか使っていない気がする。

 

となると、残りの1720-100-360-50=1210時間はどこに消えているのか。きっとアマゾンプライムYouTubeなわけで。こう考えると、積み重ねってすごく恐ろしいなと。

 

最近はYouTubeのコンテンツは本当に充実していて、それこそ私の好きなお笑いのコンテンツは山ほどあるし、教育系、ビジネス系の動画もある。見ていて勉強にはなるし面白い。面白いからいいかと思っていたけれど、なんとなくで今の自分に必要ではないコンテンツを受動的に選ぶのは良くないという思いが強くなり。

 

だからもう目的のない動画鑑賞は2020年やめることにします。

私たちはいつまで紙で採点を使うのか

どうも。この度秋期のシステムアーキテクト試験に合格しました。

 

私は前回応用情報技術者の資格を取得してからとっくに2年以上経っているため、午前試験の免除が効かず、シンプルに覚えなければならない知識量が多いんですな。おまけに年に1回しかチャンスもなく、タイミングも選べない。そもそも丸一日ペーパーテストで潰れるのがこの歳になると惜しいし、体力的にもきつい。。。

 

と、まぁ色んな嫌な要素があって、ここ数年間は情報処理試験からずっと手を引いていたんですが、出世のために高度資格が必要とのことで、上司からの圧力を受けながら今回受験することにした、という背景です。

 

システムアーキテクトを選んだ理由はまぁいくつかあるんですが、強いて言うならば持っていた時に目立つかな?ぐらいで。ネットワークスペシャリストとかDBスペシャリストってこの世界にいるとよく聞くんですが、システムアーキテクトってあんまり聞かないんですね。

 

たぶん論文問題があるからで(これが後述の通り相当しんどい)、勉強する気が削がれるんでしょうね。私はこれでも割と文章を書くのは多分得意な方なので、今ならいけるんじゃね?ぐらいの感じでチャレンジしたわけです。

 

結局、論文対策なんてやっている時間はほぼなくて、当日にフル活用に無理やり回答した、という感じです。そもそも回答用紙に余白ありまくりだったので、100%落ちたと思っていましたが、まぁラッキーでしたね。

 

と、まぁ私の自慢話はここまでにして、本題なのは、この論文問題についてです。午後2時間半ぐらいで、トータル4000文字ぐらいを書かなければなりません。たぶんシステムアーキテクトに限らず他の高度情報系の資格とか、もしかしたら全然別の資格でもそういうのがあるかもしれませんね。

 

私はぶっちゃけ1時間で2000文字以上ぐらいは書けるんですが、それはタイピングを前提とした話。試験の時は「紙に筆記で書かなければならない」ことが最大の障害になりました。

 

まず、はっきり言って全然時間が足りませんでした。何を書くか考えなければならない難しさももちろんありますが、考えたことを書くスピードが追いつかないんですね。だから一度考えたことが書いている間にどこかへ行ってしまう。

 

また、ブログなどもそうで、書き出すことで初めて頭の中が整理されたりするものなんだけど、気軽に書き直すことができない。例えば、文章の構成を途中で変更しようものなら、最初から全て書き直さなければならなくなったりするので、基本的に最初に決めた通りに書くしかないんです。

 

最後に、漢字が出てこない瞬間とかもありましたね。やっぱり自動変換に慣れすぎるのもよくないです。

 

と、まぁ色んな障害をクリアする必要があるんですが、「この障害って今の時代に必要なのか?」と強く思いました。あくまで、知識や技能を持っていることを評価するための媒体に紙を使っているだけで、書面に自分の考えを時間内に筆記できる力は必要ないはずじゃないですか。

 

漢字がわからなくて落ちたり、途中で文章構成を変更する時間がなくて落ちてしまう人が実務でそのスキルが発揮できていないかというと、たぶんそんなことはなくて。だって、PCを使えば自分の知識やスキルを使って表現できるはずだから。

 

こう考えると、紙で採点を行うというのは機会損失ではないか、と思うんですね。本当に柔軟に自分の考えを表現する人は不合格になり、逆に初めに構成や文章量をかっちり固めている人が評価される。

 

教育の現場は古い慣習に縛られていることで、どれだけ損失を出しているか自覚した方がいいでしょうね。

プログラミング言語を勉強してもサービスが作れない理由

最近は、IT系の人とかSEじゃなくてもプログラミング言語を学習する人が増えてる気がする。私の友人にも何人かいる。「今、Python勉強してるで」みたいな。

 

プログラミング学習サービスが沢山登場して学習のハードルが下がってきたこともあるし、サービスを作りたいと考える人が増えたからなのだと思う。で、はじめの一歩としてプログラミング言語を勉強する、というわけだ。

 

私はプログラミング言語の勉強はまったく否定しないどころか良い事だと思っている。少なくとも何かの言語を一通りやってみることは重要だ。どの言語にも共通する考え方を学ぶことができるからだ。

 

しかし、特定の言語(例えばPython)だけを一通り学習すれば、サービスが作れるようになるか。もちろん答えはNOである。プログラミング言語を知っているだけでは不十分なのだ。

 

かく言う私がそうだった。大学院時代にC言語の教科書を一通り学習した後にWebサービスを作ろうと思ったが、全くわからなかった。サービスを作る上で必要なことを理解していなかったからだ。

 

 

プログラミング言語を理解するよりもずっと大切なこと、それはアーキテクチャの本質を理解することである。ズバリ言ってしまうと、アーキテクチャの本質とは入出力、データ、加工方法、この3つ。これだけ。システム風な言葉としては、それぞれ、インターフェース、データベース、ビジネスロジックなどと言う。

 

簡素なWebシステムでさえ、インターフェースはブラウザなので、htmlやphpが使われるし、データベースを扱うためにはsqlが必要、そしてビジネスロジックでCとかJavaとかPythonとかを使う。

 

Androidアプリも同じ。私が過去に作った簡単なやつでも、アプリの画面はxml、データベースはsqlビジネスロジックJavaと3種類は必要だった。結論から言うと、1つの言語で今風のサービスを作ることなんてできないということ。(もちろん、C言語だけで画面もデータベースの仕組みも作れることは作れるけれど、コード量が膨大になって保守性も悪いのでもはやできないと考えた方が良い。)

 

もっと言えば、それらを動かすために必要なミドルウェアとかフレームワークも理解する必要がある。

 

私の場合は、「Webサービスの作り方」的な本を買って勉強して、始めてこのアーキテクチャを理解した。だから、いきなり言語の本を買うよりも、「チャットサービスの作り方」とか「作って覚えるゲームプログラミング」的な本を目的に応じて選んだ方がサービスを構成する全体像が見えて良い。

バタフライエフェクト

たぶん今が人生の1つのターニングポイントやな。

 

なんとなく、そんな確信はあった。1つはこのまま出世を目指していく道。もう1つは遠回りでも自分の欲求に従う道。その分かれ道がくっきりと見えた気がした。

 

私のこれまでの選択というと、シンプルに組織に必要とされることをやる、だった。組織として結果を出すためにはそれが最も合理的であるし、その中で学べることがあると思っていたから。そのおかげといってはなんだが、絶対に自分には向いていないと思っていた仕事も人並み程度かそれ以上にはできるようになったという感覚はある。

 

良くも悪くも、いろんなプロジェクトにいろんな役割で仕事をさせてもらえたこともあって、ここにこのままいてもマズいな、という不満が爆発することは幸いなかったのだ。

 

あまり望んでいないプロジェクトに飛ばされたとしても、実際のところやってみないとわからない。今振り返ってみると、「あれは楽しかった」と思える仕事も元々別にやりたかったわけではなかったりするし、人気のプロジェクトもタイミングによっては全然面白くないこともある。

 

結局のところ、私は選択をしてこなかっただけなのかもしれない。組織に流されることを甘んじて受け入れていただけだったかもしれない。自ら行動を起こすのが面倒に感じていたのはもちろんのことであるが、何より私に足りなかったのは覚悟なのだと。今回、以前開発したシステムのプロジェクトに戻った時にそんなことに気づいた。

 

「楽だけどつまらない仕事」と「忙しいけど楽しい仕事」のどちらを選ぶか。これなら私は迷わず後者を選ぶ。でも現実はそうはいかない。選べるのは「忙しくてほどほどの仕事」と「めちゃくちゃ忙しくて楽しいかもしれない仕事」のどちらか。あなたなら一体どちらを選ぶだろうか?

 

私は潜在意識の中でいつもこの2つの選択肢を天秤にかけていた。そして、私は前者を選んでいたのだ。

 

ただ前者が良いと思っていても、人事的な都合で意図しない選択を強いられる時ももちろんある。私の場合は、約2年前から意図せず、「めちゃくちゃ忙しくてつまらない仕事」を余儀なくされることになった。そして、今回戻ってきたプロジェクトはその最たるものだったと言える。

 

そんな今のプロジェクトもあと一ヶ月ほどで終了という時期。状況的にはかなり落ち着いている(落ち着かせたと言った方が正しい)。開発プロジェクトが終わると、次アサインするプロジェクトの話になるのがシステム開発の世の常であるが、私はこのまま維持として落ち着くまでは残って欲しいと言われていた。加えて、来年最短で出世できるように組織としてバックアップしてくれる方向で動いていたのだ。

 

しかし、今の私は出世になど興味はない。これは本当にそう思っている。これまで権限があるだけで役に立たない人間をたくさん見てきたせいだと思う。あるいは、そうでない人に出会えば変わるのかもしれないが。

 

それならまだ楽しい可能性にかけた方がマシだ。素直にそんな気持ちが腑に落ちていた。これを覚悟と呼ぶのかもしれない。私は別組織へ異動する決意をした。今所属している組織の意向とは関係なく、別組織の長と面談をして、採用されれば異動できる、というよく考えると素晴らしい仕組み(公募制度)が弊社にはあるのだ。

 

とは言え、面談はまだ実施していないので採用されるのかはわからない。加えて、上手く事が運んだとしても、異動できるのは早くても来年度から。だから私が現時点でやったことは、覚悟を決めて、異動したい希望先をノリで選んで、面倒な自己PR文を書いて応募しただけなのだ。

 

でも、この一歩の影響力は私の想像を遥かに超えていた。

 

まず、昔働いていたプロジェクト全体の飲み会で、異動願いを出した話をすると、今は別組織になっている部課長陣から勧誘を受けた。人事異動の制度で、上を通して自分の組織に引き抜くといってくれる人がいたのだ。

 

そして、どちらが良いかを再び悩み始めていた頃、今度は同じ事業部の部長から個別に呼び出しを受けることになった。端的に言えば、別の事業部に移るのであれば、同じ事業部配下で別の組織に入って欲しいと懇願された。それも来月から、と。

 

私は公募を出しただけだったが、それだけでも選択肢が5つに広がり、異動時期が数ヶ月早まることになったのだ。まったくもって嬉しい誤算である。(実のところ、異動希望を出した部署は大変社内的には評判が悪く、若干の後悔が募り始めていたところでもあり・・・)

 

私がこれまでの同じように、課長に自分の意志をただ伝え続けているだけではこんな変化は絶対に起こせなかった。事実、私は元々7月までの約束が12月までになり、4月になり、最終的には「維持が落ち着くまでは」みたいな無期限契約にすり替わっていた。

 

だから、ただ伝えるだけでは足りない。必要なのは、覚悟を示すこと。一歩踏み出すこと。

 

他のやり方はいくらでもあるだろう。めちゃくちゃキレる。めちゃくちゃ泣く。「会社辞めます」と言う。普段の自分が簡単にやらないことなら何だっていい。私にとっての覚悟は、公募を出し、そしてそれを課長に伝える、ということ。ただそれだけ。そして、それだけでも状況は大きく変わる。そんなことをこの年になって学んだ気がするのである。

真実を見抜く力

若い人と仕事をしていると、「何が真実か?」を見極める力が圧倒的に弱いなと感じることがある。簡単に例えるならば、Aさんは「1+1=2だ」と言っていて、Bさんは「1+1=3だ」と言っている場合、それがどちらが正解なのかを見抜けないのだ。

 

上記の例であれば、誰でも即答できる。なぜなら、1+1=2であることを皆知っているからだ。「でもそれって本当に正しいの?」と聞かれた時にあなたはそれをどうやって証明できるだろうか。あるいは、「なぜそれが正しいと思うのか?」という問いに答えることができるだろうか。

 

おそらく、こんな回答をするのではなかろうか。

 

「学校でそう教わったから。」

 

「教科書にそう書いてあったから。」

 

上記の計算の場合においてこれは限りなく正しい。私もそう答える。

 

しかし、ビジネスの現場でこの類の回答でははっきりいって、甘い。「先輩にそう教えてもらった」、「設計書にそう書いてあった」としても、先輩が正しいことを言っているのか?設計書に書かれていることが正しいのか?の確証が弱ければ正しいとは言えないのだ。

 

学校や教科書がなぜ正しいと言えるのか?1+1=2であるという決め事が複数人によって承認され、年月を重ねているから限りなく正しいと言えるにすぎない。そして、これは100%の正しさを保証するものでもない。聖徳太子が実は存在しなかったのでは?など、教科書自体の記述を否定する説もあるように。

 

仕事をする上で扱う情報も同じである。人がやっている以上、情報間の完璧な整合性を保つことはほぼ不可能に近いし、タイムリーに正しい情報が変わっていくこともざらにある。


もちろんリーダーを勤める人はいかにして正しい教科書を作り、いかにして時の流れに適応させるのかを考えなければならない。


が、どんなに頑張ったところで程度の差はあれ必ず間違った情報は混ざってしまうということに全メンバが留意しなければいけない。

 

なぜならば、間違った情報を正しいと信じて行動すると必ずアウトプットを誤ることになる。そして、それは間違ったインプットを与えた人物の責任ではなく、そのインプットの正しさを見抜けなかったあなたのせいになってしまう可能性すらある。


もちろん会社間で仕事をする際は、契約などで守るはずであるが、社内、同じチームなどではこれらの意識は薄れがちである。注意しなければならない。

ドキドキ、ワクワク的な感情

大人になると緊張することが少なくなっていく、という。緊張の原因はある種の怖さであり、人間は一般的に未知のことに対して恐怖を感じる習性がある。だから、知らないことが多い子供の頃は緊張するけれど、大人になって色んな経験を積むと緊張しなくなる、という論理である。

 

けれども、これは真実とは少し違うと私は思っていて。なぜなら、私自身「まったく緊張しない」という体になりそうにもないからだ。社会人になって随分と慣れたけれども今だにキックオフのプレゼンやお客さん先の説明は緊張するし、他にも初対面の人と話したり、もっと言えば久しぶりに会う友人と会話するのだって少なからず緊張する。

 

一方で、確かに緊張することは減ったともと思う。でもそれは経験値が増えたから、というよりは、「緊張するようなことはやらない」という選択をする癖がついてしまうせいじゃないかと思っている。

 

子供の頃というのは無意識の中で、自分が何か困ったことに直面しても誰かが助けてくれるし何とかなるだろうという感覚があるものだ。それはつまり、「自分でコントロールしきれないこと」に対する恐怖をあまり抱かずに済む、ということでもある。なので、純粋にドキドキワクワクの部分だけを感じることができる。そこに相反するマイナスの感情を意識することは少ない。 

 

しかし、大人になるとそうもいかない。大人とは自立した存在のことであり、それは自分で自分をコントロールしなければならないということだからだ。すると、途端に自分自身をコントロールしきれないことが怖くなる。先のリスクを考える。メリットデメリット、損得を考えるようになる。そして未知性を除外しがちになる。

 

そういった思考がドキドキワクワクをないがしろにしてしまう。ドキドキワクワクを感じたいという大人は沢山いるけれども、ドキドキワクワクとはある種の未知性の中に飛び込むことでしか得られない。が、そういった未知性の中に飛び込む、という勇気を持たねばならない。

無駄を排除するとは

最近、会社がいよいよ転換期を迎えているなという感じが上層部からひしひしと伝わってくるのが現場レベルでも肌で感じる。上層部のお達しは、カッコ良く言うならば「デジタルトランスフォーメーション(以下DX)に対応せよ」とのことらしい。そもそも現場レベルでは、「デジタル」と言う言葉をどういう意味で使ってるのかさえ曖昧なのだが。

 

まぁ簡単に言えば、「自分たちで事業を創出してください」というメッセージ。そう私は解釈している。強いて言えば、「新しいテクノロジーを活用して」という条件が加わるし、「社員一人一人ができるように」というのもあるだろう。

 

数年前からこういった風潮はあるにはあったけども年々本格化(少なくとも表面的には)している印象はある。よくある事業部のキックオフでも、SIビジネスからの脱却を目指そう的なスローガンで持ちきりだ。

 

ただし、そういった事業方針の転換が実態として上手く進んでいない。私がやっているプロジェクト もゴリゴリのSIである。蓋を開けてみると、周辺の組織も同じようなものであり、会社レベルでは一部そういった取り込みをやっている組織もある、ぐらいなものである。

※ちなみにここでの「SI」という言葉は、事業を創出するのはあくまでお客様で我々はあくまでも手段としてのITシステムを作りますよ、といった仕事、あるいはそういった働き方のことを指していると思っていただきたい。

 

そういった停滞を踏まえ、「なぜ、DXうまく進まないか」という議論が上層部で交わされているのである。

 

そこで得られた結論は何か想像できるだろうか。「会社の文化に合わない」「適切なスキルを持った人材が少ない」、色んな理由があるが、結局のところ、一番の原因として定義されたのは実にシンプル。

 

時間、リソースが足りない。

 

「あ、それいっちゃうんだ・・・。笑」という感じである。そして、面白いのが時間がないことへの対策として、「短い時間で仕事を終わらせる工夫をしよう」という結論になったらしい。はて。それは問題のただの裏返しでは・・・?

 

もちろん、上層部がただ何もしたくないわけではない(、と私は信じたい)。過去の経験からなのか、推測なのか、「人や時間を増やしたところで結局やらないでしょ?」と彼らは考えているのだ。

 

私自身もある程度制約があった方が仕事は速く片付くようなイメージはある。例えば、今一人に与えている仕事量を半分にしたとしても半分時間が増えるかという増えない。また、5人で構成されているチームを10人にしてもきっと同じだ。

 

なぜ、人を増やしても時間に余裕ができないのか。答えは「無意識に品質基準をあげてしまうから」である。パーキーソンの法則にもあるように、「仕事の量は完成のために与えられた時間を全て満たすまで膨張する」のだ。

 

例えば、学生の頃。試験が始まる5分前ぐらいまでずっと教科書見てる人が沢山いたし、試験の前日まで何時間も予備校で勉強する人が沢山いた。私はあの光景がずっと信じられないし、バカバカしいと思っているのだけど、そういう考え方ってなんか美徳とされる傾向にある。日本特有な気がするけれど。

 

要はそういう思考回路の人間に時間を与えたら、決して届くことのない成功率100%の状態を目指して時間を使いますよ、という話なのだ。特にプロジェクト型の仕事をしている人は必ずそうなる。システムエンジニアとかコンサルタントの残業時間が長いのはそういった失敗のリスクや仕事そのものの不安定さと常に直面しているからだと予想する。

 

例えば、システム開発の場合、「どれだけの試験を実施するのか」というのももはやシステム開発の中では哲学と呼べるほどに奥が深く、正解がない。人によって全然感覚が違うし、どういったシステムなのか(人命に関わるのか、お金が関わるのか)によっても考え方は異なる。

 

他にもリリースや移行と呼ばれるシステムを新たに導入したり、新システムに切り替える作業などもやはりミスは許されないのが普通である。であれば、入念にリハーサルを行いたいものだ。練習すればするほど、成功率は上がるのだから。

 

結局のところ、悔いを残したくないのだろうな、と思う。「やりきった感」と表現しても良いかもしれない。

 

例えば、商用へシステムをリリースして故障が出たとしても、ギリギリまで働いた上での結果なら「しょうがないか」と納得できるものだが、毎日定時帰りの働き方だったとしたら「もっとやれることがあったんじゃないか」と考えるはずだ。だから私たちは持っている時間の全てを成功率をわずか数%でもあげるために膨大なコストを払うのだろう。

 

時間を減らすのであれば、「いかに妥協するか」を考える必要がある。これは現場ももちろんだが、特に上層部が真摯に向き合わなければならない課題である。

 

 

そもそもミッションクリティカルなシステム開発は請けない、試験は項目数の上限値を先に決めて業務的重要度に応じて網羅性担保の段階を分ける、資料のRvは1回に決めるなど、立場に応じて色々なやり方がある。

 

無駄を排除するとは、基本的には「品質を捨てること」なのだ。それでもどうしても品質を捨てられないのであれば、「いかに時間をかけずに品質を上げるか」を考える続けるしかない。今まで複数の組織を見てきたが、どの組織も品質を上げること方策を考えるだけで「いかに時間をかけずに」という視点が抜けていた。

 

そのため、総じて「時間の限りやれることは全てやる」という対策が打たれ、結果的に時間をかけた割には品質が上がっていない、という状況が散見された。(でも絶対的な品質は少なからず上がるため、その取り組みは効果的だったなどと考察されることが多いのも事実。)

 

いかに時間をかけずに品質を上げるか。個人としても会社としても問い続けてほしい。

社会からの断絶

どうも。皆さんお盆休みはいかがでしたか。ゆっくり体を休めた方も、羽を伸ばして遊び疲れた方もいることでしょう。そして、休暇後の出勤を憂鬱に感じながら徐々に社会復帰している、そんな感じでしょうか。

 

私は、というと、お盆休み継続中です。社会人になってから奇跡の16連休を取得しております。まぁこれまで散々働いたので休め、ということで課長のお言葉に甘えている次第です。

 

ずっと働きづめの時はとにかく休みたい休みたいと思っておりましたが、いざ休んでみると、どうにもやることがない。そして、これがもし仮に何ヶ月、何年も続いた時を想像してみると、社会から断絶された気分になるんですよね。

 

自分がいなくても回る世界、自分を必要としない社会、すごく楽だけど物足りない、退屈でつまらない。そんなことを思っています。こうやって人は自由から逃走するんでしょうね。

 

誰かの言葉にあったような気がするんですが、人間には”帰る”場所だけじゃなくて、”行く”場所が必要なんですね。

 

何か上手くいかないことがあっても帰れる場所、自分を受け入れてくれる場所があれば幸せ、みたいに思われがちです。これは確かに大事で、私も家に帰って嫁がいることで安心できる側面もあるし、地元に帰って旧友に会うことで安らげる。

 

でも、そこにあるのは安らぎだけで、かつそれがずっと続くわけでもない。彼らにもやはり行く場所があるわけで。なので、私にも行く場所、戦場がないとやっぱりダメなんですわ。

 

だから私は仕事へ行く。来週から。

アウトプットの場が必要であるということ

ずっと、無趣味な私ではあるが、ここ最近は色々と新しいことにハマる努力をしていたりする。

 

1つ目はルービックキューブ。実は昨年は日本大会にも出場して、一応記録も認定されたりしている。参加のハードルも低いのでおすすめ。ただ、こう言ってしまうとあれだけど、最近は楽しいというよりはただの暇つぶしの延長でやっている感がすごい。単調だし。

 

2つ目はギター。今年に入ってから練習しているけれど、簡単な曲ならほぼ初見で弾けるぐらいにはなってきた。ギターは予想以上に面白かった。練習して上手くなっていくのは楽しいけれど、ある程度できるようになってくると、成長に物足りなくなっていく。

 

この2つを通じて気づいたことがある。成長曲線が鈍化していった時にどう物事を楽しんでいくのか、が重要だということだ。

 

新しいことに取り組むのは基本的に楽しい。なぜなら、最初はできない。けれど、少し知識を身につけて練習をするとできるようになる。この、”上達”を感じられるのが人間にとっては嬉しいことだからだ。

 

しかし、上達はいつまでたっても続くものではない。すると、どこに楽しみを得るのか、というと、アウトプットを出すところではないか。自分の中に蓄えたものを外部へ放出する。そして、そこに対するフィードバックを得る。

 

一人の趣味だとここに限界がある。

サボタージュ

今日、会社をサボった。

 

リーダーなんだからちゃんとしろ、と思われてるかもしれないけれど、私とて人間、しかも完璧な人間を演じられるタイプではない。とはいえ、私がサボったことによってチームには多少なりとも迷惑はかかる。仕事はきっと回るのだけれど。

 

さて”サボる”の反対とはなんなのか。辞書を見ると、”頑張る”ということらしい。おかしいよなー。常に頑張ることを求められるのに、一度でもサボることが認められない社会って。そんな社会って、そんな組織ってしんどくないか。

 

そもそもサボると何が悪いのだろう?その人がやるはずだったの仕事を誰かがやらなければならないから?迷惑がかかるから?うん。それはその通りだ。でも逆に計画的に休む分には問題ない。となると、サボりの悪さは突発的に休むことであるとわかる。

 

そういう視点で考えると、サボるの反対は突発的に働くことだから、残業とか休日出勤とかが該当するんじゃないか。でもこれって悪いことにはならんよね。むしろ忙しい状況であれば仕方ない、とか突発的なトラブルが発生したらしかたない、当然みたいな感じで突発的に働かされることが多い。

 

別に給料貰えるんだからいいじゃん、みたいな感覚なのだろうけど、サボりもその日の給料はない(もしくは権利としての有休消化)からいいじゃん、という形であっさり了承してもらえるのだろうか。そうはならんよね。

 

組織VS個人の構図になるとどうしても組織が正になってしまう。組織が個人に迷惑をかけるのはいいけど、個人が組織に迷惑をかけるのはNGみたいな。マジで意味わからん。迷惑をかけられた分ぐらいは迷惑をかけてもいい。

 

私は迷惑をかけられ続けて、システム開発をリリースできるほどに貢献してきたから、今別に迷惑をかけることに大きな問題はない。

 

だから今日は会社いかない。