「最近の若い人は優秀だ。」
私が社会人になってからというもの、よく上の世代の人からそんなことを言われる。これにはもちろん、IQが高いという意味も含まれているのだと思う。例えば、課長層の人たちは採用面接のグループディスカッションの場に立ち会ったりすることもあるのだけれど、「お前ら(つまりは私たち社員)よりも優秀だった」などと言う。
ただ、地頭が優秀といういい側面だけでこの言葉は使われていなかったりする。要するに、最近の若い奴は真面目で礼儀もわきまえていて何でも卒なくこなしてつまらない、という意味合いも込められているのだ。
若者なのだからもっとバカなことや面白いことを追求すればいいじゃないか、失敗すればいいじゃないか。少なくとも自分たちの若い頃はそうだった。そんな風に思っているのだと察する。そして、そういう若者がいないことを嘆くし、そういう若者らしさを出すことを求めらたりもする。
社会に入ってみて気づいたことは、若者らしい人が割と重宝される、ということである。学生時代までは大人っぽいことを割と売りにしてきた私としては、ちょっと受け入れがたい事実でもあった。佇まいが落ち着いていたり、地に足の着いた考え方をする人は「大人しい」と言われる。「大人しい」ことは「大人らしい」ことで、あまり推奨されないのである。
あえて言うならば、資本主義社会において、大人になることは悪いことなのである。自分の意志や欲求を持って、それを実現するために周りを巻き込むとか、リスクを取って挑戦するとか、その中で成長していくとか、そういう「若者らしさ」を永遠に求められる。結果、年を取っていくのに若くなっていくという矛盾が発生する。
また逆説的に、仕事ですごく成長をした人が必ずしも人間として成熟していない場合も多い。
はるか前であれば、もう少し仕事の成長と人間としての成長が合致している部分も多かったのかもしれない。しかし、資本主義が加速した現代は違う。例えば、ゲームをずっと極めているだけで人間として成長することができるのだろうか、という視点で考えてみるとわかりやすい。ゲームがいかに上手か?と人間として成熟しているか?は全く別のことなのだ。
では、成熟とは一体何なのか。大人とは一体何なのか。
もうじき三十路を迎える年齢的にはいい大人の私がたどり着いた結論は、「大人」というのは所詮はとある集団の中での仮初めの姿でしかない、ということだ。
私はたぶんちょうど二十歳ぐらいの時に自分が大人になったと錯覚した瞬間があった。それは最初のアルバイトの経験、中でも新人研修担当とかリーダー的役割を任された経験がかなり寄与していると思う。
でも本質的に人間が大人になるのは二十歳になった時ではない。自分の下が入ったときだ。たとえ、中学生でも部活の上級生であれば大人的側面を持っている。そういう意味で、アルバイトの中で私はたぶん大人だったのだけれど、私が大人になれたのはそのアルバイトをしていた時だけだったし、アルバイトの場においてだけだったのだと思う。
大都会の若者は大人になるのが遅れる、という説がある。それは当然、組織の中で、上の数が下の数よりも圧倒的に多いからだと思う。もちろん、仕事の能力とかそういうのはあるけれど、大人役をする人たちがあまりにも多いので、大人をすることを求められないし、評価もされないからだ。
大人になれないこんな社会ってどうなのだろうか。
「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?
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