∑考=人

そして今日も考える。

「大人」になれない社会

「最近の若い人は優秀だ。」

 

私が社会人になってからというもの、よく上の世代の人からそんなことを言われる。これにはもちろん、IQが高いという意味も含まれているのだと思う。例えば、課長層の人たちは採用面接のグループディスカッションの場に立ち会ったりすることもあるのだけれど、「お前ら(つまりは私たち社員)よりも優秀だった」などと言う。

 

ただ、地頭が優秀といういい側面だけでこの言葉は使われていなかったりする。要するに、最近の若い奴は真面目で礼儀もわきまえていて何でも卒なくこなしてつまらない、という意味合いも込められているのだ。

 

若者なのだからもっとバカなことや面白いことを追求すればいいじゃないか、失敗すればいいじゃないか。少なくとも自分たちの若い頃はそうだった。そんな風に思っているのだと察する。そして、そういう若者がいないことを嘆くし、そういう若者らしさを出すことを求めらたりもする。

 

社会に入ってみて気づいたことは、若者らしい人が割と重宝される、ということである。学生時代までは大人っぽいことを割と売りにしてきた私としては、ちょっと受け入れがたい事実でもあった。佇まいが落ち着いていたり、地に足の着いた考え方をする人は「大人しい」と言われる。「大人しい」ことは「大人らしい」ことで、あまり推奨されないのである。

 

あえて言うならば、資本主義社会において、大人になることは悪いことなのである。自分の意志や欲求を持って、それを実現するために周りを巻き込むとか、リスクを取って挑戦するとか、その中で成長していくとか、そういう「若者らしさ」を永遠に求められる。結果、年を取っていくのに若くなっていくという矛盾が発生する。

 

また逆説的に、仕事ですごく成長をした人が必ずしも人間として成熟していない場合も多い。

 

はるか前であれば、もう少し仕事の成長と人間としての成長が合致している部分も多かったのかもしれない。しかし、資本主義が加速した現代は違う。例えば、ゲームをずっと極めているだけで人間として成長することができるのだろうか、という視点で考えてみるとわかりやすい。ゲームがいかに上手か?と人間として成熟しているか?は全く別のことなのだ。

 

では、成熟とは一体何なのか。大人とは一体何なのか。

 

もうじき三十路を迎える年齢的にはいい大人の私がたどり着いた結論は、「大人」というのは所詮はとある集団の中での仮初めの姿でしかない、ということだ。

 

私はたぶんちょうど二十歳ぐらいの時に自分が大人になったと錯覚した瞬間があった。それは最初のアルバイトの経験、中でも新人研修担当とかリーダー的役割を任された経験がかなり寄与していると思う。

 

でも本質的に人間が大人になるのは二十歳になった時ではない。自分の下が入ったときだ。たとえ、中学生でも部活の上級生であれば大人的側面を持っている。そういう意味で、アルバイトの中で私はたぶん大人だったのだけれど、私が大人になれたのはそのアルバイトをしていた時だけだったし、アルバイトの場においてだけだったのだと思う。

 

大都会の若者は大人になるのが遅れる、という説がある。それは当然、組織の中で、上の数が下の数よりも圧倒的に多いからだと思う。もちろん、仕事の能力とかそういうのはあるけれど、大人役をする人たちがあまりにも多いので、大人をすることを求められないし、評価もされないからだ。

 

大人になれないこんな社会ってどうなのだろうか。

 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 

 

AI時代の予備校

前回AI時代の教育をテーマに思うところを書いてみたのだけれど。

n1dalap.hatenablog.com

 

今回は、教育と切っても切れない関係にある「予備校」について書こうと思う。

 

と、その前に。予備校の価値って何なのか。私は高校の時に予備校には通わなかったし、中学の時も終わりの方に遊び半分で半年くらい行っただけなので、本当のところはよくわかってはいないけれど、一度塾の価値を感じたのは、苦手だった国語の成績が飛躍的に上がったことである。

 

で、なんで高い点数が取れたのかを今更ながらに考えてみると、事前に解かされた予想問題に同じような問題が沢山あったから、だった。

 

先生方の「問いを考える力」が優れていたからなのか、過去の問題の蓄積量が凄かったのか、あるいはその両方なのかはわからない。だけど、結局のところ、これまで自分だけでは知り得なかった「問題と答えのセット」を知ることができた、というのが私の成績が上がった直接原因ってわけ。

 

つまり、良質な問題と答えのセットを与えられるという点は、少なくとも私にとっては予備校の一つの価値だったと言える。もちろん、それらを正しく記憶できるような指導とかも価値に含まれるし、そっちの方が一般的にはより重要なんじゃないかとも思う。

 

総じて言えることは、答えを教える、解法や考え方を教える、というのが今の予備校のやり方なのだ。ただ、それはじきに人間がやるべき領域ではなくなっていく。それを受けて予備校はどうするべきなのか。

 

もちろん、すぐに予備校が淘汰されることにはならない。大学が存在して、学歴が結局就職には有利である、という事実が揺るがない限り、難関大学の価値は残り、したがって予備校の価値も残る。

 

少し変化の余地があるとするならば、今まで講師が担っていた領域に対してAIを支援的に活用していくというのは十分ありえる。少し調べてみると、AIを活用した予備校の事例みたいなものがいくつかヒットする。

 

ただ上記みたいな悪あがきによる短期的な業績向上はできたとしても、「大学あっての予備校」という形を取っている限り、予備校はジリ貧の一途を辿っていくことになると私は思う。「大学受験って意味なくない?」ということに多くの人が気づき始めたら、今の予備校スタイルでは何一つ価値を提供できなくなる。

 

一つのシナリオは、予備校をラボっぽい感じにするということだ。教育が課題発掘、課題解決が中心になる前提で考えれば、それぞれの課題の分野のスペシャリストが予備校の講師を務める。学校ではファシリテーターを確保できてもスペシャリストの確保は物理的に厳しいので、そこに入り込むというもの。

 

ただ、そうなった時にやっぱり予備校はほとんどがオンラインが前提のプラットフォームと貸している可能性がある。個々の生徒たちの興味関心に合わせたスペシャリストなんて日本国内全体に広げても見つからないかもしれない。しかも完全に副業的なビジネスになるだろう。

 

実際のところ、教育制度自体が正しい姿に変わるまでに相当な年月がかかりそうな気もしているけれど、アップデートされないものが淘汰されていくことは心得ていたいもの。

AI時代に先生は要らない?

最近、落合陽一の動画をよく見てるんだけど、あの人ほんと頭いいと思う。久々に天才を感じた。年もほとんど変わらないのになんなんだこの差は、と思いつつ。

 

Youtubeで見た朝生の彼の議論は総じて面白かったんだけど、中でもAIがプラットフォーム化すると教育がいらなくなる、みたいな話が印象的で。

 

落合陽一氏曰く、これまでの人間は生まれたら勉強をして、知識を身につけて、社会に出て生産活動をして、死んでいくというのを各々でやっていて、しかも後世に残せるのは遺伝子だけなので、教育という観点ではめちゃくちゃ非効率だったという。

 

これがAIというプラットフォームができれば、そこに過去の人たちが学んできたことを全て蓄積していけるので、そこに繋ぐことで過去の偉人たちの知識にアクセス可能になるからめちゃくちゃ社会の成長スピードは上がるという理論。

 

でも、AIプラットフォーム上に知識が蓄積されても、そこに直接アクセスすることはできないんじゃないか?と普通の人はきっと思うんだけど、あの人はたぶん、攻殻機動隊みたいに、脳が直接AIにネットワークでアクセスする世界みたいなものを信じているんだろうね。

 

電脳化ははるか未来の話としても、教育の形はすでに変え始めないとマズい状況だと個人的には思っている。一方で、文部科学省が公開している学習要領をみると、我々が育った頃と大した変化はなかったりするのだが。みんなはどう思ってるのかね。

 

例えば、社会にコンピュータやスマホが普及した頃から、人が漢字を書ける必要はなくなった。すなわち、現代社会において、「読み」はともかく「書き」を学習する必要はないということ。

 

あと、数学も電卓が禁止とか馬鹿らしいことはやめて、証明のロジックを考える問題とか、解放を組み立てる思考に重点を置いた方が良い。たぶん、微分方程式とか行列式とかはすでに無料のアプリでも計算できるようになっているはず。つまり、人間ができる必要はないってこと。

 

プログラミングを必須教育にするのも一つだと思う。頭のいい人は大抵、構造的把握能力に長けているなと私は常々感じているのだけれど、それを鍛えるのに非常に良い訓練になるのがプログラミングなのだ。ただの翻訳としてのプログラミング、ではなく、ミッションを達成するためにどんなパーツが必要でどう組み立てていくのかを考える力、そういうのが必要。

 

と、言い出すとキリがないけれども、そのくらいに教育というのは止まったまま。大学の半分に価値がなくなっても、日本の難関大学が世界の中での地位を下げても、今でも昔ながらの受験戦争という名の茶番を繰り広げている。

 

これまでで、教育が変わったことといえば、ゆとり教育ぐらい。私の世代が受けてきたのがいわゆるゆとり教育なのだけれど、これは教育自体を変えた、というよりは教育量を減らしただけだったのが残念な点。コンセプトとしては、余った時間で個別で好きなことをやってほしかったのだろうけど、ほとんどの人は遊ぶ時間が増えただけで、学力も下がり総じて失敗として語られている。

 

ただ、私はこのゆとり教育の考え方について、方向性としては間違っていなかったんじゃないかと思っている。もし、今ほどネットワークインフラが整っていて、小学生が一般的にスマホを持ち、教育コンテンツがありふれている今の時代であれば、上手く機能する可能性は十分にある。

 

ゆとり教育で最大の問題だったのは、子供に完全な自由を与えてしまったことである。教育量を減らした分、自由にしていいよと言われれば9割の人は遊ぶに決まっている。だって、子供なんて別にやることないし。何らかのミッションを与えるべきだったのだ。

 

例えば、これまでの小学校で夏休みの宿題になる、”自由研究”に近い形の課題を常に与える。何か自分でテーマを決めて、それに対して調べたり学んだりして、成果を出す。学生ならレポートという形になってしまうのかもしれないけれど、そんな風に単なる自由ではなく裁量を与えるべきだったのだ。

 

ゆとり教育反論の理由として、オリンピック選手にはゆとり世代で活躍している人が沢山いる、という趣旨の意見をよく聞くことがあったが、あれはすでに自分のミッションを見つけていた人だったからそうなったのだ。なので、適切にミッションを与えることができていれば、必ずしもゆとり教育は悪、という結論には至らなかったのではないか、と私は思っているわけ。

 

要は、一律の教育は物凄く狭い領域に絞って、あとは各々が好きな分野で課題を見つけてそれを解決するための取り組みをしていく、という形がこれからの時代にはベスト。なんでかというと、一律で教育できる標準的な知識とか方法論は全てコンピュータなりAIに簡単に置き換えられてしまうから。一律教育で育った人がコンピュータやAIと戦うとか無理ゲー。

 

ただ、そういった未来型教育シフトへの大きな課題が二つある。

 

一つは今の先生では未来型教育ができない点だ。 言っちゃ悪いが、今の先生は、既に確立されたカリキュラムに沿って既に体系化された知識を教えるだけだ。もちろん、説明のやり方や、板書の取り方は個人で考えているのだろう。突発的な質問に答えられるようにもしておかなければならない。

 

でも、その部分に大きな苦労や難しさがあるとは思わない。私の友人にも先生になった人が沢山いるけれど、大抵、思春期の子供の扱いが難しいだとか、モンスターペアレントの対応が、とか、はっきり言って教育とは無関係とも思える話だ。教育の結果自体を問われない役所体質なところも原因なのかもしれないが、教育制度自体がある程度マニュアル化されたルーティンなものだから、と考えて良いだろう。

 

翻って、未来型教育はどうだ。本質的には、生徒と先生の主従関係がなくなる点が大きい。これまでは、先生が持っているものを生徒に与えるのが教育であったが、教育の多様化が進めば、当然、生徒が知っていることを先生が知らない、という状況が当たり前になる。

 

そんな中でも、生徒に対して学習の方向性付けを行っていくためには、まず、先生自身が問題解決能力を身につけていなければならないし、時には生徒から必要な情報を聞き出し学習し、かつ成長を適切にコントロールをしなければならなくなる。つまり、指導者ではなく、管理者とかアドバイザーに近い形になることを強いられるはず。教育の現場がビジネス化していくイメージ。

 

しかし、今の先生に果たしてそんな能力があるだろうか。もちろん、教育の現場も職員室の中は社会なので、それなりに対応はできるのかもしれないが、数十人の生徒をマネジメントするのは容易ではないはず。昨今は先生の数自体も少なくなっていることもあり、さらに先生を増やすというのも難しい。

 

結局、私が辿り着いてしまう結論は一つで、「先生制度をやめる」、というもの。なぜなら、「先生って要らなくない?」って私は子供の時に思っていたので。正確には、教育とか学習という観点では先生はもはや必要ないって話。私が子供の頃ですらそう思っていたので、今だと尚更そうなんじゃないかね。

 

そもそも「学力を上げる」という点においては既に、予備校や学習塾の方が完全に上なのであって。今の学校に意味があるとすれば、プラットフォームとしての役割だけ。お金を持っていない人でも一つのコミュニティに所属することができて、その中で人間関係を築くことができて、一緒に何かをすることができる、という点。実はこれこそが学校の本質。

 

で、そこに対して先生が関与すべき点は、いじめとか、子供が道徳的にあやまったことをしないように見守っておくだけで良い。つまり、学力の向上に寄与する必要はないのだ。

「絵にできる」は武器になる ~図解の基礎の基礎~

組織で働くビジネスマンにとって、最もポータブルで汎用的なスキルはズバリ「絵にする」力だ。絵を使えると良いことづくしである。

 

まず、一見見落としがちだが、図解ができると情報をイメージとして理解できるため、自分自身の理解が速くなる。

 

情報が整理、構造化されているので比較検討もしやすいため、結果的に意思決定のスピードも上がる。

 

そして、何よりも効果を発揮するのはコミュニケーション、すなわち情報伝達のスピードを上げる点だ。組織とは色んな専門、立場の人がコミュニケーションをとることで回っているので、いかに情報伝達を速く正確に行うかは極めて重要な能力である。

 

逆に、図解ができないと、言葉や文章だけで説明になり、認識の齟齬が発生したり、言っていることをよく理解してもらえなかったりと、困るケースが沢山ある。コミュニケーションコストが沢山かかるので、業務の推進が遅くなる。

 

以上、図解できると何が嬉しいのかを文章で書いてみたけれど、これも絵にすれば、たった1枚。  

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では、図解できる人になるためにはどうすればいいのか。図解する上で大事なことは何なのか。要点を絞って(一応ブログなので、文章メインで、最後に絵で表現、の形で)説明していく。

 

と、その前に「図解表現とは何なのか」をはっきりさせておく。

 

誤解を恐れずに言ってしまうと、それは「表」と「絵」で表現することである。理解がしやすい反面、表現するのは慣れないと難しい。一般的には、表よりも絵の方が理解がしやすいが表現の自由度が増すため、難しくなる傾向になる。

 

対局にある概念は文章など言語による表現である。もちろん、文章にも箇条書きなど構成的な要素もあるが、図や絵に比べるとはるかに書くのが簡単だが、理解するのは難しい。

 

まとめると、こんな感じ。 

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図解に慣れていない人がこんな風に表現するのはもしかすると少し難しいかもしれない。また、いわゆる「図解思考」みたいな書籍を見てみると、様々な図解パターンを紹介されるため、結局どんな風に表現すれば良いのか迷ってしまうこともあるだろう。

 

しかし、実のところ沢山ある図解のパターンは基本形の派生に過ぎない。なので、本エントリでは、図解をする上での最小限の表現パターンのみを紹介する。それはたった三つ。表、階層表現、動的表現のみ。この三つを意識すれば、上記ぐらいの図解はすぐにできるようになる。

 

まず、一つ目は表、マトリクス表現。何かを複数の観点で比較する時に必ず登場する。表は最も基本的かつ単純な図解表現である。

 

例えば、表と文章の特徴を比較するための表は下のように表現することができる。これだけでも箇条書きよりも全然わかりやすい。

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しかし、ビジネスの現場で使われる情報はこんなにシンプルにはならない場合の方が多い。そして、情報量が多くなると、全てをこの形で表現するのは難しくなってくる、あるいは、結局文字情報が多くなりわかりづらくなる。

 

こんな時に登場するのが、二つ目の階層表現である。階層表現は本来、各情報の構成要素を細分化する際に用いられるものである。

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例えば、上記の形で言えば、日本というのは、各地方(北海道地方、東北地方、関東地方・・・)から成りなっており、例えば、さらに関東地方は東京、千葉・・・から成り立っている、ということを表現することができる。数学的に言えば、右側の要素が1つ左隣の部分集合になっていることを表している。

 

ただ、私は別の必ずしもこの包含関係を示すために使う必要はないと考えている。どういう時に使えるかというと、マトリクスの次元が増えた時に使う

 

例えば、先ほどの文章と表の比較は(文章と表)×(難易度と理解度)の2次元のマトリクスであった。これを仮にそれぞれの難易度や理解度が高いと評価した理由を付け加える場合、すなわち(文章と表)×(難易度と理解度)×(理由)みたいに、3次元以上の情報を見せたい時に効力を発揮する。

 

つまりはこういうこと。

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元々2×2で表現していた部分を階層表現にすることで、1次元に変換したからこそ、こういう書き方ができる。なお、今回は縦軸のみ階層表現にしているが、扱う情報によっては横軸を階層化することも可能である。ほとんどの多次元情報を表にして整理することができる。

 

さて、表と階層表現がマスターできれば、その先の「絵を書く」もそれほど難しくはない。例えば、扱う情報が数字で定量的に表現できる、あるいは「できる」「できない」みたいな二元論で表現できるものであれば、それは絵にすることができるし、そうした方が見やすい。逆にそうならない情報は絵にしない方が良いこともある。

 

思考のスタート地点が文章表現だとして、扱う情報の種類に応じて適切な表現方法を階層表現で整理するとこういう形になる。

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正確には、次元をなるべく抑え、各情報を2元的に扱うためにどういう言葉を選ぶのか、というのが絵で表現するポイントである。

 

で、この上の表自体は、1つの表にまとまっていて(2次元情報)かつ「できる」「できない」の2元的に表現できているので、「より良い表現方法」も当然絵で表現することができる。

 

一例はこんな感じ。

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こう言った絵の表現パターンについて沢山あるが、本質的にはほとんどがマトリクス・階層表現の派生系に過ぎないことだけ留意していただければと思う。(沢山のパターンを知りたい人は図解思考の書籍を参照されたし。)

 

ただし、絵でしか表現しきれないものももちろんある。それが最後の動的表現である。

 

例えば、こんなフロー図。絵で表現するための思考ステップである。

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もちろん、「順序」などの列を追加して先ほどまでの表で表現することもできるが、明らかにこちらの方がわかりやすい。順序などのフロー、あるいは因果などの関連性を示す場合も絵で表現した方がよい。表現の手段はたった一つ、矢印だけ

 

ちなみに、応用形として絵×表みたいなパターンで表現することもできる。

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最後に、もう一度「絵にする」ために大切な3つの要素のおさらい。

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この3つを意識していれば、どんな情報も必ず絵にできる。「絵にできる」はこれからのスピーディーな社会を生き残る上での最強の武器となりえる。あとはただ練習あるのみ。

AIの不透明性など大した問題にはならない

今日はAIに纏わる課題、不透明性についての話。

blog.tinect.jp

 

上の記事によると、AIが採用した人材自体を人が評価した時に問題はなさそうに見えたが、なぜその人材を選んだか、がわからずに見送ったとの趣旨である。要するに、アウトプットは正しいのだけれど、プロセスの合理性が説明できない点に課題を感じている、ということだ。

 

確かにAIの不透明性は今の課題の一つかもしれない。

 

というのも、私も昨年の11月頃からAIを利用している。具体的には、資産運用をしてくれている「ロボアドバイザー」というサービスだ。はじめに、毎月の積立金額やリスク許容度などの簡単な診断にいくつか答えると、AIが自動的にポートフォリオを組んで資産を運用してくれる。

 

はじめの頃は、少額ながら資産が増加していたので特に気に留めてもいなかった。しかし、ここ数日、アメリカ株式の暴落を受けてか、マイナスに推移している。すると、AIは何をやっているんだ?という話になる。つまり、なぜ今のポートフォリオを買っているのか?とか、その考え方は果たして正しいのか?ということが気になるのだけれど、それが全くもってわからない。それがAIである。

 

AIは内部のプロセスを全てブラックボックスにしてしまうのだ。これは現代を生きる人間がAIを導入する要因のもっとも大きな障壁ではないかと思う。

 

でも、例えばAIがもう少し進化して人間の言葉で説明ができるようになったとすれば解消されるんじゃ?そう考える人もいるかもしれない。ただ、結論から言うと、それはできない。

 

AIの中でも、ディープラーニングと呼ばれる強いAIは大量のテストデータから特徴量を自ら生成する。特徴量というのは、例えば猫の場合は、「長い髭が3本ずつ生えている」などの特徴を表しているパラメータぐらいに考えれば良い。

 

ただし、あくまでAIが認識しているのは0と1のデジタルの集まりでしかなく、人間とは全く別の世界であることに注意する必要がある。決して「長い髭が3本ずつ生えていること」を認識しているわけではない可能性があるのだ。

 

つまり、我々は「長い髭が3本ずつ生えている。だからこれは猫だ。」という論理で結論を導出するけれど、AIからすれば、「猫は0と1の配列がこんな並びになっている。だからこれは猫だ。」みたいに、例え人間に説明したとしてもよくわからない論理になってしまう。

 

また、顔から犯罪予備軍を特定するAIなどが登場しているように、既にAIは人間には見つけられない特徴を見出せる可能性が非常に高い。こうなってくると、もはや第6感というか、人間には理解できない概念をAIが認識していると考えるべきだろう。霊感が強い人に「あなたの横に幽霊がいます」と言われたって、簡単には信じられない人もいるはず。そこに対してなぜなのかと説明を求めたとしても納得のいく理由は決して得られない。それと同じ。

 

しかしながら、私が言いたいのは、だからAIはダメだ、という話ではない。むしろ、「理由がわからないから」なんて理由でAIを却下していると、間違いなく時代に置いていかれる、という話。確かにディープラーニング同士の囲碁の対局はつまらないかもしれないが、ビジネスの現場に求められるのは常にプロセスではなく結果だからだ。

 

産業革命や情報革命の黎明期には、「人が丁寧に作ったものでないと品質が心配」だと考えていた人が沢山いた。しかし今はどうだろう。機械化・自動化が当たり前のものになっている。今車に乗る時に、「なぜ車が走るのかわからないから乗らない!」なんて人が周りにいるだろうか。AIの不透明性がいずれ問題にならなくなることは歴史が証明している。

ブログ投稿最適化を考えたときにぶち当たった壁

スマホタブレットって、情報伝達とか情報連携のスピードを加速させた点について非常に貢献度は高いんだけど、つくづく生産活動に適してないインターフェースだなと思う。

例えば、図解資料を作るとか、動画を編集するとか、アプリを作る、みたいな作業は圧倒的にPCの方が早いはず。

もちろん、ブログを書くのも同じ。確かに音声認識技術はかなり精度が増してきているけど、まだノン修正で投稿はできないレベルという感じ。

最適を考えると、SFっぽいけど、脳が電脳化して考えたことがそのまま文字起こしできる、みたいな形なのかなという気もする。そうなったらたぶん文字は要らなくなってるだろうけど。

そんなことはかなり先の未来なわけで、現実的にはやっぱり音声認識技術の完成が一つの区切りなるかなとは思う。PCでタイピングするよりも喋った方が確実に早いし。

ただ個人的には、声や音を出さなければ入力できないというのはナンセンスだよなーとも思う。例えば、電車の中とか、オフィシャルな場での作業はできないし。

最近でこそ社会的に浸透してきた感はあるけど、イヤホンつけてスマホに喋りかける人もやっぱり違和感は感じる。OKGoogleとかも全員がやりだしたら騒音問題に発展すんじゃね?とも思う。


なので、声を漏らさない仕組みとかは今後確実に必要になるんではないかと。具体的には、届けたいところにだけ届けたい音を届ける、ということ。

今までも、イヤホンのお陰で、届けたいところに届けることは一見可能立ったように見えるけれど、実は人間の発声を絞ることはできていない。遠くの人に声を届けられるようにはなったけど、近くの人への声を遮断する仕組みがないのだ。

こういった仕組みがあれば、そもそも、社内で電話をするのが迷惑、みたいなことにもならない。一つのビジネスチャンスになりえるんじゃないかな。

コンビニの24時間営業どうなる?

コンビニが24時間営業じゃなくなったら、果たして今の人たちはそれを「コンビニ」と呼ぶのかね。

 

business.nikkeibp.co.jp

 

私は別にコンビニを24時間続けるべきか続けないべきかというのは正直どっちでもいいんだけど、こういう議論を考える時に意識しておくべきは、どの立場で考えるべきのか、ということなんだよね。

 

例えば、「消費者」の立場で考えると、24時間あった方がいいのは明白なわけ。別にほとんど深夜帯にコンビニを使わない人からしても、深夜に空いている方が便利だし。元々のコンビニって実は一般家庭にある「冷蔵庫」の代わりを目指してた、なんて話もあって、いつでもどこでも使えることの価値はやっぱり消費者にとっては大きい。

 

コンビニ近辺の住人と言う立場で考えてみると、例えば、深夜にコンビニにたむろする輩が迷惑だからやめてほしいと考える人もいる。あるいはコンビニの店長(フランチャイズの加盟店側の人)からすると、従業員が集まらないとか、売り上げが上がらないとかそういった課題もあってやめたいと思っている人もきっと存在する。

 

私は社会的にどうなのか、というのを考えるのだけど、コンビニってもうこれ以上いらないし、別に24時間営業である必要もない。深夜に限らずだけど、コンビニで働いているオッサンとかをみると正直可哀想だし、虚しい。だってその仕事って意味あるの?って思うから。誰でもできるし。何の価値もないって言ったら怒られるかもだけど、ただだの物流のチャネルでしかないわけで。

 

実際、最近のコンビニの店員ってほとんどが中国人とかインド人とか海外の人で日本人なんてほとんどいない。これって要するに、コンビニ競争が激化しすぎていて、日本人を雇っていたら売上を確保できないことと、別に海外の人でも何の悪影響もなく営業が回せる、という二つの事実を証明しているのである。付加価値の低い仕事は人件費の安い国にアウトソーシングされていくのが世の常なので、つまりはそういうことなのである。

 

最近、仕事柄、「価値のない仕事をいかにして無くすのか」ということを考えている身としては、コンビニ店員もやっぱりなくなっていくべきだと私は考えている。でも、それをただ24時間営業を無くしましょう、という方向は明らかに時代に逆行してるんじゃないかな。少なくとも、コンビニが「社会インフラ」を掲げてこれまでやってきた理念とは逆行している。ただの営利活動だ。

 

どちらかといえば、テクノロジーの力で解決してほしい。少し海外に目を向ければ「無人コンビニ」みたいなものは既に運用されていて、それらが実現できれば、別に夜間帯に開けていても、利益としては若干のプラスにできる見込みは十分にある。そういった取り組みを推めていくべきだ。

 

とは言うものの、「価値のない仕事」を無くすというのは現実、すごく抵抗を受けるのも事実。これまで価値のない仕事をやってきた人はこれからどうすればいいの?、という主張だ。こういう人は可哀想だけれども、テクノロジーを進化させる人やビジネスを生み出している側の人たちは容赦なく切り捨てていく。だって、自分たちが勝てなくなるから。

 

コンビニは無人化して、24時間営業は継続するべき。

地方創生のカギは

まだ、人増えるのか、東京。

www.sankei.com

 

都会への人口一極集中が目立っている。福岡を除けば転入が転出よりも多いのはほとんどが東京、もしくはその近隣の都道府県という結果だ。私もつい数年前に上京して来た身ではあるけど、これ以上東京に人は増えてほしくないと思ったり。

 

まぁなんでこんなに東京に人が集まるんや?という一番の原因はやっぱり東京に仕事がたくさんあるから。東京への憧れ〜とか、都会は便利〜とかももちろんあるんだろうけど、昔ほど東京に拘る必要もないご時世じゃないだろうか。私も大阪と京都で暮らしてたけど、別に東京の方がすこぶる便利とも面白いスポットがたくさんあるともあんまり感じていない。

 

じゃあそんな私がなんで東京に来たのかっていうと、たまたま行こうと思った今の会社が東京にあっただけで、それ以上でも以下でもない。というわけで、一般的に見ても、仕事の数がキーファクターなのかなと。

 

そもそも桁違いに新卒を採用しているような大きい会社はやっぱり東京に本社を構えているのが普通で、その求人数のうちほとんどが本社勤務になる。と考えれば、少なくとも、大企業の採用人数の合計値の5〜7割ぐらいは東京に流れ込む計算になるのだ。ざっくり毎年300人ぐらい採用する会社が東京に100社ぐらいあるとすると、それだけでも2万人ぐらい。意外と全体の2割しか占めていないのが引っかかるけれど。残りの層もやっぱり仕事目当てなんだろうか。

 

こういう背景もあって、最近はやたらと「地方創生」というキーワードを聞くようになった。要は、東京ばかりに人を流出させるのではなく、地方の人たちを増やしましょう、ということだ。増やすために何をやるのかは大きくは2つ、地方で育った人が地方に留まるようにする、都心部から地方に来る人を増やす、というのが私の理解。

 

でも、なんで地方の人を増やさなくちゃいけないのか。この点はちゃんと説明されているのかね。

 

一般的な意見を要約すると、「地方に住んでいる人が困るから」という理屈みたい。そりゃ困るでしょ。地方に人がいなくなるということはそこに市場としての魅力がなくなるということ。例えば、コンビニを設置しようとしても商品が売れない、利益が出ない。そんな状況が続くとどうなるか。企業としては撤退せざるを得ない。

 

すると、ますます不便になって、人がより便利な都会へ移り、さらにビジネスは縮小し、と負のスパイラルが生まれることはもちろん、新しい価値を創造していく人たちすらいなくなってしまい、詰んでしまう、というわけ。残った人は否応無しに生活水準の高い都会に行かざるを得ない、という現象が起こる(というか既に起こりつつある)。

 

上記のようなことをマズいと政府は判断しているわけだが、これって実はビジネスとは対極にある考え方。つまり、ビジネス的に考えるとマズいとも言い難いのだ。

 

ビジネス思考で合理的に考えると、地方の人がいなくなった方が実は効率的だし、物流コストも移動コストも下がる。人の数に比例してイノベーションの起こりやすさも上がるので、ビジネス的には良いことの方が多い。そして、何よりビジネス思考では、弱者が淘汰されることで全体としての価値は上がるという思想が根底にあるので、衰退は仕方のないことだという割り切りがある。

 

一方で、地方創生を考える人は全く合理的ではない。(別に合理的じゃないことが悪いと言いたいわけではなく。)例えば、地方特有の文化がなくなってしまうことを懸念する声もあるけど、単純に「文化に触れたい人」よりも「生きるために仕事をしたい人」の方が多いという結果が現代社会なのだ。

 

つまり、文化に価値を感じている人って割合で言うとそんなに多くないってことでは?という話。資本主義が加速する中で昔のようなゆとりは持てなくなってきているのだ。文化はなくても困らないけど、仕事はないと困る。

 

ってなわけで、地方ならではの産業創出を支援する施策なんかが進められているみたいだが、正直に行って地方単体で創出する産業が東京に勝てるとは到底思えない。まず情報量が違うし、スピード感も違う。東京のフィールドで地方が戦うのはどう考えても難しいんじゃないだろうか。

 

ではどうすべきなのか。

 

地方が何をすべきなのかは一旦脇に置いておくと、私が地方創生にとってもっとも良い対策と考えているのは、「超大企業が地方に移転すること」である。なぜなら、上述の通り、結局は企業の求人数によって大方の人口は決まるから。例えば、大企業だと、本社が移るだけでも、数千人、下手すれば1万人規模の人たちが地方に転入することになる。

 

もし、デカい会社が「来年から本社を地方に移します」という宣言をすれば、それをビジネスチャンスと捉える企業群は確実に存在する。周辺に食べるところがないのであれば、レストランを出店しようとか、そもそも住むところがないから都市開発を進めようとか。そうすると、それらの将来の市場に群がる人たちも地方に移ることになる。企業に群がって人が東京へ行くのだから、企業を地方へ移せばいい。というのが私の答え。

 

ネックなのは、どの会社も本社を地方に移さない、というところにある。少なくとも今時点では高い土地代を払っても、やはり会社は都会にあった方がメリットが大きいのだ。

 

しかし、これを進める一つのポイントになるのが、これまた注目を浴びているリモートワークという働き方である。これが今よりはるかに進むと、「本社を東京におく意味あるのか?」ということに疑問を持つ人は確実に増える。

 

どのくらい進めば良いのか。というと、対面の打ち合わせが完全になくなるレベルだ。会議は全てテレビ会議、仕事の指示はメール、ライン、スカイプ、スラックなどのツール。「もう対面で一緒に仕事をする必要がない」という実績が積み重なれば確実にそうなる。

 

地方としては大企業でリモートワークが推進されるのをただひたすら待つしかないのか。逆に大企業の動きを逆手に取れるのが一番理想的だと私は思う。つまりは、地方発信でこういったリモートワークの仕組みを構築するのだ。

 

理論的にはできないことはない。今やネットワークで全世界と簡単につながることができるわけだし。北海道が青森と協力してもいいし、大分と協力してもいい。地方単体では数の利で完全に東京に及ばないが、複数の地方が連携できれば、それほどイノベーションの質は遜色ないレベルに引き上げられるのでは。

 

地方に仕事を創るのであれば、今の便利すぎる東京ではできない、地方だからやらざるを得ない新しい働き方の叩き台を創ってほしいと私は思う。

電子書籍のデメリット

私ごとではあるが、最近は紙の本を買う機会はほとんどなくなった。世論的にも20代、30代など比較的若い層の人たちはすでに紙の本よりも電子書籍をたくさん利用しているというアンケート結果すらある。実は購入されているのは漫画がほとんどだったりするのだけれど・・・。

 

電子書籍はカバンがかさばらないし、いつでもどこでも読めるという非常に便利な点が良い。ちょっとした待ち時間とかにサッと情報にありつける。そういった理由で電子書籍を購入する人も多いと思う。

 

ただ、個人的には本格的に読書を電子書籍に切り替えてから、感じているデメリットも存在する。

 

1.読破率の低下

電子書籍で購入した本は、購入した時に一気に読み切る、くらいの気持ちで読まないといつまでたっても読まれない積読本としてSDカードの容量をただ逼迫していく。下記のリンクでも、読了のプレッシャーがないとして紙の本に劣っていることが紹介されていた。

 

 

紙の本であれば、読みかけの本は家の中のすぐに目につくところに置かれるので、今まさに読まれていない本がそこにあること(臨済性)を感じやすいのだが、スマホの中に入ってしまうと、読んでいない本がリアルに感じられないのだ。よほど楽しみにしていないと読むことを途中で放棄してしまう。

 

2.記憶に残らない

電子書籍で読んだ本はあまり長期的な記憶として定着しない。本に書いてあったことを覚えていない、というよりはどんな本を読んだのかを覚えていないことが多い。なので、この本面白そうだと思って購入しようとすると、実は一年前に買ってました、みたいなことがままある。

 

電子書籍というのは全てが視覚情報として覚えているために記憶が定着しにくいと私が思っている。例えば、紙の本であれば、本のデザインはどうで、厚みや大きさがどのくらいで、ハードカバーなのかソフトカバーなのか、などといったことを触れて感じることができたりする。だから、「どんな本か」を考える時に「その本」のイメージを描きやすいのだ。

 

しかし、電子書籍は「本」を「Kindle上のデータの一つ」に変えてしまったのだ。もちろん、まとまりはあるのだけれど、そこに対するイメージのほとんどは文字情報だけでデザイン性が失われているために、どんな本読んだっけ?となるのだ。

 

電子書籍で本を読む際はこういった点に注意しよう。

両面性を持つ人たち

たまーにツイッターとかを見ると、未だにツイートをしている昔の友人たちがいることに驚いたりする。こんなの何のためにやってんねん、とかいつまでやっとんねん、みたいに思うこともあった。

 

でも、実は未だにツイッターを続けている人って、たぶん思考能力の高い人なんじゃないかなー、というのが私の仮説だったりする。正確に言うと、オフィシャルな場で生きる時の自分と、プライベートな場の自分が乖離している人たちが多いんじゃないかな、と感じたりする。

 

というのも、もはやほとんどのツイートには、返信もリツイートもついていないわけで。SNSと言えばコミュニケーションツールというイメージがあるけれど、ほとんどコミュニケーションは成立してないわけで。今、コミュニケーションツールなんてLINE使っとけばいいわけで。

 

ということから考えるに、彼らはおそらく、誰かにそのツイートを見てもらうことを期待しているわけでもなく、ただ自分の思考の軌跡を残しておく、という感覚に近いのだ。なぜ、そんなことをするのかというと、人間は本能的に自分が生きた証を何かしらの形で残したいと思っているからだ。

 

もちろん、自分が考えたことを残したいとか、そういう本能は全ての人に宿っていると私は思っているんだけど、自分の考え方や関心のポイントが社会とある程度一致している人はオフィシャルな場である程度発信できたり共感されたりする機会が多いので、そういう欲求が満たされる。よってわざわざ別に文字にして起こしておく必要がなくなる、というか。

 

で、社会とある程度一致できる人って、思考をあまり働かせなくてもできる浅い会話だったり、すごく一般的に受け入れられやすい話題で頭の中がいっぱいな人、とかあるいはすごく狭い世界の中で生きていて他に関心のない人、と私は思っている。彼らは知識はあるかもしれないけど、思考力はそんなにない。

 

逆に、思考力が一般に比べて高いと、自分の思考を吐き出す先がなくなってしまう時がある。だから、人にぶつけるのではなく、データとしてプラットフォーム上に残す、と言う行動を継続する人は思考力が高い、というのが私の論理。

 

闇雲にツイートする人たちをディスの視点で見ていたけれど、実は私がブログを書いているのと本質的にはほとんど変わらない。

 

では、私がツイッターで自己発信をするではなく、ブログを書くのはなぜなのか、というとやっぱり匿名性みたいなところ。例えば、フェイスブックとかにひたすら自分の考を投稿する人とかもいるんだけれど、あーいう人は昔の自分っぽくて好きになれないというか笑。「あいつ何かイタイよな」みたいに思われながら生きるのはまだしんどいと考えているんで。

 

あとは、別の側面の自分をオフィシャルにぶつけた時に、実は自分の共感者が友人の中にいて、より良い人間関係みたいなものを構築できる可能性は確かにあるんだけれど、そういう「ブログ」の私だけで共感されるのはそれはそれで困ったりもする。例えばだけど、一緒にパチンコ行ったりできないだろうし。

 

私は常に両面性を持つことは結構意識していて。つまる話がブログに書いている私が私を構成する100%の私ではないわけで。語弊はあるかもしれないけど、二重人格みたいなもの。関西弁でバカな事を考えたりしょーもないことをする私はこのブログにはほとんど登場することはないし、思考力を働かせて標準語で考えたり書くことは、仕事の時とブログ書く時ぐらい。どっちが本当の自分なのか、という論議にあんまり意味はない。

 

要は、人間誰しも色んな面を持って生きているってことで、その乖離が大きい人ほど、ネットに発信するんじゃないかなーという話。

優秀な人とそうでない人のシンプルな違い

「やり方を教えてもらっていないのでできません。」

 

「まだその業務は引き継がれていません。」

 

すぐにこんなことを言う人があなたの会社にもいないだろうか。私はこの手の人たちが苦手、というかはっきり言って嫌いだ。私だってやり方を教えてもらったことはないし、全ての業務をちゃんと引き継いでもらった覚えもない。それでもやっている。

 

新入社員ならまだいい。けれど、年配になってもこういうスタンスから抜けきれない人たちが驚くほどに多いのが実状である。そして、責任者になった時ですら、引き継がれていないことを嘆き、過去の担当者の愚痴を吐いたりする。

 

私は年齢関係なく、彼らのような人を無能だと思っている。なぜ、無能と言えるのかというと、自ら学ぶ気が全くないからだ。もし学ぶ気があるんなら、自分でやり方を調べていただろうし、それでもわからないならやり方をわかる人に聞いている。そして、自分ができるために必要な情報を手に入れる。これが勉強する、ということだ。

 

そして、優秀な人は例外なく勉強している。

 

もちろん、立場によっては必ずしも自分が理解することを求められないように感じられる場合もある。特にSIerと呼ばれる我々のような業種では、技術的なことは下請けのベンダがやってくれるので、特に仕事のアウトプットに自分たちの理解は必要ないと錯覚することもある。「丸投げ」と揶揄される、ただの伝書鳩のような人であっても、意外と現場の人の頑張りでチームとしては成果が出たりするから尚更だ。

 

しかし、こういう環境に甘んじて何もしない人はやっぱり無能である。理解するべきポイントは異なっていても、自分が理解しなければならないポイントは必ずある。それを見つけなければならない。それがないなら、その人の存在価値はない。

 

そういう人は、ビジネスに対して貢献する余地が全くないので、何も勉強する必要がないと勘違いしているのだ。結果的に何にも成長しないし、誰の役にも立たない。せいぜい労働力の足しになるかならないか、そんな程度だ。

 

他にも、今自分のやっている仕事が将来役に立たない、とか自分の関心と違うから、と学ばない人もいる。このケースは年齢にもよるだろうし、どこまで極めるのかという話もあるけれど、やったことがないならやってみた方が良い。私はどんな仕事でも人並みにできることを目指している。飲み会の幹事はやらないけれど。

 

関心がなくてもやった方がいいのは、結局「勉強」自体を勉強することにつながるからだ。

 

学生の頃、「こんな勉強が何の役に立つんだ?」と思って勉強してこなかった人と、「いつか役に立つかも」と思って勉強してきた人。10年、20年後、この二人どう違っているのか。

 

微分積分ができる、化学式を覚えている、英文法が使える。もしかすると、そういう違いも多少はあるかもしれない。でもそんなのは微々たるもんだし、日頃使っていない知識は月日とともに必ず忘れていく。私ですら、もう積分の公式とかほぼ忘れた。

 

では、本質的な違いは何か。それは、「勉強の仕方を体で理解している」こと、しかも、「目的達成のための勉強法を知っている」ということだ。勉強で学んできたこと自体はたいして重要ではない。

 

逆に「おれは学生時代勉強してきたから優秀なはず」という考えも捨てた方がいい。というのも、学生時代の勉強は正解をいかにして早くインプットするか、が重要であったのに対し、社会人ではいかにして正解を定義し、アウトプットを作るのか、が重要になるからだ。当然、勉強の方法論も結構違う。

 

 だから、社会人ならではの勉強法は社会人になってから身につけなければならないし、そのためには日々の中で勉強する姿勢が必要なのだ。それが、後々成果を出せる人と出せない人の差につながる。

何がAIの価値を決めるのか

前回、AIの進化に伴って、言われたことだけをやっているサラリーマンはいなくなる、というエントリを書いた。もう少し言えば、抽象的な指示を具体的に落とし込む(今ではそれなりに優秀だと考えられている人)たちの仕事が奪われてしまう、という内容にしたつもりである。

 

もっとも今時点で世の中に存在するAIは、ここまでのレベルには遠く及ばない、と言っても良い。最近のAI化の流れに沿って、様々なAIソリューションが紹介されているが、ほとんどのものは”弱いAI”である。人間っぽい認知とか反応ができるだけで、基本的には作られたロジックの中で動作しているのだ。

 

一方で、中にはディープラーニングという技術を活用したものもある。IBMのWatsonやGoogleのAlpha Goなどがそれに該当する。このディープラーニングを本気でやろうとすると莫大なコンピュータリソース(サーバ1000台分とも言われる)が必要になるという課題は残っていたりするものの、これらの技術が実用化されれば、本当にサラリーマンにとっては脅威的な存在になると思っている。

 

さて。そういう将来が到来したとき。すなわち色んなところで強いAIが使われるようになったとき、AIが当たり前に普及したときを少し想像してみてほしい。

 

果たしてAIの価値は何によって決まるのだろうか。

 

今であればマシンラーニングなのか、ディープラーニングの技術を使っているのか、によってある程度の優劣をつけることができるのではないかと思う。

 

マシンラーニングは特徴量(どういう値に着目して情報を分類すれば良いのかの観点)を人が逐一定義してやる必要があるが、ディープラーニングであれば、膨大なデータから特徴量を自律的に見出すことができる、という違いがあるのだ。よって、マシンラーニングはより自律的に学習することができるため、強いAIだと言える。

 

ただし、ディープラーニングが当たり前になった時にどうなるのか。

 

過去で言えば、コンピュータの登場は今のAIの登場ぐらいにインパクトがあったはずである。コンピュータを導入することが業務に対して革命的であったはずだ。しかし、コンピュータという存在も今でははっきり言って差別化の要素にはなっていない。

 

システムの世界ではメインフレームがクライアントサーバモデルに置き換えられた頃から、すなわち大衆に普及した頃から、システム自体が優位性を示せるものではなくなっていったのだ。

 

今システムを作っている我々にできることといえば、どれだけお客様の課題を引き出せるか、いかに早く作るのか、いかに品質を高めるのか、これらに尽きる。ただ、システムを作ることに価値がない、ということは単にシステムを導入することに価値がないのと同義である。

 

同じように、AIにおいてもディープラーニングが当たり前になった時、ただ単にAIを使っていることが必ずしも他に比べて優位である、ということにはならないはずである。ディープラーニング技術の中にも色んなアルゴリズムがあったり、その中での局所的な優位性はあるのかもしれないが、間違いなく使う側の意見としてはどれを使ってもそこまで変わらないレベルへと均質化されていくと私は踏んでいる。

 

一つ、AIの価値を決める要素としては、「テストデータ」の数と質が答えにはなると思う。ディープラーニングでは、膨大なデータを投入することによってAIが色んな知識を学習するが、これは人間でいうところの教育に非常に似ている。正しいことを沢山教えこめば、正しい人間に育つし、間違ったことを正しいと教えこめば、間違った人間になってしまう。AIのテストデータもおそらくは同じで、いかにして適切なテストデータを食わせられるかがAIの質を左右するたった一つにして最大の要因なのである。

 

人間の場合であれば、生まれ持った遺伝子によって学び方や学び取る事柄が異なってくるかもしれないが、AIであれば、遺伝子を担うアルゴリズムが同じなので、テストデータが全て、ということになるのだ。

 

では、正しいデータとは何なのか。この少々哲学性を帯びた質問に答えられる人はいるだろうか。一概には答えられない。

 

じゃあ人間で考えてみる。正しい知識とか正しい教訓とは何なのか。正しい知識は教科書に書いてあること、どっかのオフィシャルな機関が発信している情報などだろうか。正しい教訓とは何だろう。松下幸之助が言っていることなら正しいのだろうか。あるいは、みんなが言っていれば正しいのだろうか。

 

実は「正しい」というのは単に「正しいと信じている」だけにすぎない。正しい知識もをたどれば、人間が定義したことにつながるので正しさは存在する、と言えるかもしれないが、絶対的に正しい教訓はない。例えば、「善は急げ」と「急がば回れ」は相反する意味だが、どちらも正しい教訓として現在まで語り継がれている。どっちを信じるか、どういう場面で使うのが適切かを経験の中で決めているだけだ。

 

経験の中で決める、とはすなわち、それを活用した結果、「うまくいったのかいかなかったか」という結果をインプットにして再学習している、ということだ。つまり正解の定義に終わりはない。人間は常にこういった自分が今信じている教訓に沿って行動し、うまくいかなければ、その教訓を見直して生きていく。そして、永遠に完全な正しさの体現者にはなりえない。

 

AIもきっと同じである。もちろん、成人ぐらいの知識や一般教養を身につけるのは、大量のデータがあれば、数日もいらないだろう。しかし、その先の完全性を身につけることは永遠にできないと私は思う。テストデータを常に収集し、そのFBサイクルを回し続けることで人間よりも反省を生かし、エラーパターンをより正確に分類できるようになるためのテストデータ供給の仕組みが大事になってくるんではなかろうか。

AIの本質、一億総経営者社会

AIは49%の雇用を喪失させるという衝撃の予測が発表され、しばらく経つ。まだまだ先の話になるのかもしれないけれど、三菱UFLが1万人の業務量削減の方向性を示したりと、そう遠くない未来に様々な仕事は喪失していくことになると私も思っている。

 

まだまだ、人間こそが労働力の要だと本気で思っている人もいるかもしれないが、今の自分の仕事が将来残るのかを不安に思っている人もいるのではないか。もしかすると、「AIに奪われないような仕事」を見つけて、その分野で頑張っていこうと考えている人もいるかもしれない。

 

ただ、すでに長いキャリアを積んできている人がいきなり、AIに奪われないことを理由に全く別の職種にスライドする、というのはどうもナンセンスな気はしている。

 

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色んなメディアで、AIが奪う仕事とAIに奪われない仕事の分類を示されているが、実はAIが奪う仕事のたった一つの共通点は、「使われる側の仕事」である、という点である。端的に言うと、サラリーマンの仕事は奪うけれど、経営者の仕事は奪わない、ということだ。

 

「いやいや、サラリーマンの中でも奪われない職種もあるはずだ」、と考える人もいると思う。これは半分正解で半分間違い。たしかに営業など、奪われにくい職種はあるし、逆に奪われやすい職種もある。でも、職種が全てを決めるわけではないのだ。

 

営業であっても、契約などの事務手続きばかりをやっていたり、アポ取りやヒアリングばかりがメインの仕事であれば、簡単にAIに奪われる。たとえ、営業戦略やマーケティング企画を立案するようなポジションにいたとしても、上から降りてくる方針を本に単なる情報収集、加工などをやっているようではAIに奪われる。

 

AIに奪われるのは職種如何で決まるのではなく、スタンスが受動的かどうかなのだ。つまり、「これさえ決めてくれたら、やります」みたいな人は要らなくなる。逆に「こういうことをやったらいいんじゃないですか(価値があるんじゃないですか)」と言える人が残る。これって、優秀なビジネスパーソンなのか否かの違いと全く同じ。

 

これまでは受動的でも優秀、という人が社会に認められていた。抽象的なことを具体化できる人だ。例えば、すごく優秀なプログラマーとかは仕様が決まりさえすれば、それを動くソフトウェアという形にすることができる。

 

当然スキルも必要だし、誰にでもできることではない。ただこういう仕事は残念ながらAIに置き換えられていくことになる。AIも受動的だけど、抽象的なことを具体化するポイントにおいてはすごく優秀(になっていく)だからだ。

 

だから、例えば、プログラマーは価値あるサービスを考えられる人間になれなければならない。つまり、「経営目線でどうやったら儲かるか」の命題に答えなければならないということなのだ。誰しもがこういうことを求められる時代が来る。一億総経営者社会だ。

 

すごく厳しい時代が来るように感じる人もいるかもしれないが、裏を返すと経営の難易度はすごく下がる。これまでは、人を沢山雇ったり、色んなスキルのある人を集めないと、組織として価値を提供できるレベルで機能しなかったものが、一人+AIでできるようになるかもしれない。

 

今は、AIに経営はできない、という前提で話をしているが、もし仮にAIが経営をできるようになれば、「OK Google!会社作って今日中に1億儲けて!」とか言えば、何もしなくても1億稼げる、みたいな話にもなるかもしれないのだ。使う側にとってはAIはすごく便利なものなのだ。

 

職種を変える前に、価値を作るために何をどう使えばいいのか、を考える訓練をするのが先である。

そのお金は人生を変えうるのか

気がつけば、仮想通貨の含み益が100万ぐらいに膨れ上がっていた。これを利確してしまう、というのは一つの選択肢ではあるのだけれど、なんというか、今100万円を手にしたところで、今の私には使い切れないなぁと思うと、売却に気が乗らない。

 

まさに「100万円あったら何に使う?」という質問を突きつけられている気分である。考えつくのは、家電製品、ファッションアイテムの購入、あとは旅行ぐらいだ。これらはどれも浪費といっていい。一時的な幸せを買うには一役買ってくれるかもしれないが、その後の人生に影響を与える要素にはなりえない。ここにお金の限界がある。

 

逆に100万円を浪費ではなく、投資に使う方法を考えてみる。何を隠そう、仮想通貨を始めたのが、そもそも余剰分をただただ貯金していくのが嫌で、投資に回した結果なのだ。ただ、結局これも資産が増えていくだけで、自分の人生の質を向上させる点に寄与しているとは思えない。(もちろん、資産運用の勉強になるという点は意味があるが、正直お金に興味がないとあまり面白くない。)

 

なので、自分の能力にできれば投資をしたいと思うわけだが、自分の能力への投資に一番必要なのは、お金ではなく時間なのだ。確かに、海外留学、MBA取得、医学部受験など、前提条件としてお金が沢山かかる教育投資はたくさんある。けれど、これらはお金さえあればその能力を手に入れられるわけではない。お金があって、かつ時間をかけるからこそ手に入るのだ。

 

なので、お金だけがあったところで、時間を捻出できなければ意味はない。

SIerのデジタル化への対応とは

最近、「デジタル」という言葉をあらゆるところで耳にするようになってきた。デジタルトランスフォーメーション、デジタルビジネス、デジタル時代などなど。これは最近になって登場したキーワードだけれど、考え方や概念のようなものは結構前からある。

 

いわゆる「攻めのIT投資(SoE)」とかフロントビジネスにITを活用していく、という意味合いで使われていることが多い。が、個人的にはUberとかAirbnbなどに代表される「ディスラプター」と呼ばれる存在がデジタルビジネスと関連付けて話されることが多いと感じる。なので、あえて違いを述べるとすれば、IT企業が直接市場へサービスを投入する時代になった、ということだ。

 

元々のITといえば、バックヤード系の業務の効率化がメインだった。いかにしてコストを削減するかに主眼が置かれていた。会計処理など、それ自体がビジネスとしての価値を生み出すわけではない業務がシステム化の対象だったのだ。

 

そして、時代とともにITをサービスに活用しようとする動きが主流になっていった。要するにIT技術を前提としたビジネスモデルを構築する、という考え方だ。少しレガシーなものだとオンラインショッピングなんかも一つの事例である。Webブラウザからの決済を前提としたシステム構築をすることで売上の増加を目論むものだ。攻めのIT投資というとごく最近のような気もするが、実はかなり前から存在していたこともおわかりだと思う。

 

ただし、オンラインショッピングという仕組みであれば、基本的には商用をエンドユーザに提供している企業(事業部門やユーザ企業)がSIer(IT部門)にシステム開発を依頼することによって開発されていた。

 

もちろん、業務知識がなければ本当にユーザによって良いシステムを作ることはできないので、SIerは業務知識を持つことを求められていた一方で、事業部門もSIerに丸投げするのではなく、共にサービスについて考える姿勢が求められていた。つまり、事業部門とIT部門がコラボして進めていく必要があったものの、あくまでもサービスの提供者は事業部門でIT部門が事業部門にシステムを提供する、という役割に分かれていた。

 

しかし、UberAirbnbはどうだろう。彼らはITを活用し、自らがサービスを提供する企業として君臨した。これまでのSIチックな商売であれば、タクシー会社と連携してサービスを検討し、タクシー会社を顧客とするシステム販売モデルとなったってよかったのだ。Airbnbだってホテル業界に対してシステムを販売するモデルになってもおかしくはなかった。けれど、彼らはCtoCの仕組みを活用することで、サービス提供会社の資産力を不要にしてしまったのだ。

 

SIerで働いていると、こういう未来がくることは何となくわかっていた。というのも、お客さんから入ってくる声は「もっと、こちらの業務を理解した上での提案をしてほしい」というものがほとんどだ。はっきり言ってお客さん以上にお客さんのビジネスや業務に対する理解を求められる。もちろん、SIerとしてはそういう方向にいくしかないこともわかっていた。一方で、「では、そうなったときに果たしてお客さん企業は必要なのだろうか?」という疑問を常に持っていた。

 

もちろん、その会社にしかない資産や商品などがあって、それらが外部調達不可能なものであれば、それでもなお手を組む意味はあるのかもしれない。でも、業務に対する知見をユーザ企業に期待しているだけであって、それすらも自分たちが理解しなければビジネスを創出できないほどITと絡み合っている現代において、SIerから見たときのユーザ企業の存在価値なんてない。

 

 

そして、真逆のケースもある。ユーザ企業が自分たちでITを活用することでサービスを強化するパターンだ。その代表格は誰もがご存知アマゾンである。今でこそ、アマゾンというとIT企業のイメージが根強いけれど、元々は単なる本屋さんだったはずである。彼らはITを外部に委託せず、自分たちの強みとして取り込むことでIT企業としてはもちろんのこと、物流企業としても大成功を収めている。

 

近年、Fintechに始まり、Edtech、Agritech、Medtechなど、〇〇techというキーワードの出現が後を立たない。おそらく数十種類ぐらいある。これの本質も、もはやITだけでは何の価値も生み出せないし、サービスを提供する会社が自らITを駆使していかなければならない時代に本格突入した、ということが示唆される。近い将来、「IT企業」とかtechみたいな造語すら使われなくなっていくことが予想できる。

 

こうなってきたときに、SIerというのは本当に実態のよくわからない組織である。すでに、今うちの会社は何の会社なのか、私はよくわからない。雑にいえば、信頼だけは高いただのベンチャー企業群である。(ただし、ベンチャースピリットは何もない。)

 

もうユーザ企業は要らない、という話をしたが、BtoCビジネスに比べて、BtoBビジネスはリスクが小さいので、その緩衝材としての役割を果たす存在としてユーザ企業に期待している側面もある。SIerは工数ビジネスなので、ぶっちゃけシステムを導入した結果、ビジネス的な成果が得られなくとも開発さえすればその稼働分は売上を生み出せるぬるゲーなのだ。そして、これこそがSIerが今だにユーザ企業相手にシステムを売るモデルを採用している理由だと思う。

 

しかし、これに甘んじていられる時代もそう長くはない。資金余力が残っている会社であれば、いつまでも無駄金をはたいてくれるのかもしれないが、IT投資はかなり業績にインパクトがある。事業化につながらないシステムを開発し続けたところで、ユーザ企業がジリ貧になって転げ落ちていくときは、SIerも一蓮托生だ。開発案件がなくなって、売上が取れない。かくいう私の担当も今開発案件は0で、どうやって組織を残していくのかに必死になっているが、ぬるゲーに甘んじていた人たちは今更何もできない。

 

そして、お客さんの事業を成長させられるほどの、業務知見があるならば、もはやSIという形態ではなく、自分たちで直接BtoCサービスを展開していくのが最も良いと思う。はるかにビジネスを展開しやすいし、顧客のレベルによって自分たちの業績が決まることもない。これがSIerとしてのデジタル化への対応なのではないかと思っているが、どうもSIerではデジタルビジネスを活用した提案をしていく必要がある、などとまだSI形態にこだわっているから残念である。