∑考=人

そして今日も考える。

分担する技術

仕事を適切に分担するのはそれなりに技術がいる。

 

もちろん、どんな組織でも仕事は分担して進めているとは思うが、分担して進めただけの効果が果たして得られているのかが大事であって、分担したけど何かそんなに速く終わらなかったね、みたいなシーンは多々見かける。ということはつまり、適切に分担できていないと考えるべきなのだ。

 

分担する上での障害は大きく三つだ。

 

まず一つ目。超基本だが、ちゃんと分担できるレベルに作業をブレイクダウンすること。システム開発プロジェクトの場合は、WBSという階層構造で作業分解を行うが、ちゃんと分担可能な範囲に分解することが重要だ。

 

ちなみに、WBSを考えるためのツールは無料で公開しているので、ぜひインストールしてほしい。

play.google.com

 

ただ、このWBSを作る、とか、計画を立てるみたいな作業はそれなりに時間がかかる場合もある。少なくとも計画が立たないと他の作業が進められない、みたいなことになってしまっては意味がない。つまり、分担を考えるまでの時間はできるだけ短くしなければならないのだ。

 

どうするかというと、ざっくり分担できるレベルの粗い計画を立てる。そこから先の作業分解は分担を決めてそれぞれで進めてもらう。あとは各々で作成した計画のパーツを積み重ねれば全体計画となる。他にも例えば、計画と平行してもう見えている直近の作業に着手してもらう、でもいい。

  

そして二つ目。殊の外、日本企業においては人に対して仕事を割り当てる、みたいなやり方が取られるため、誰が何の仕事をやるのが適切なのか判断がつかないシーンが毎度毎度訪れる。特に、チーム内での検討事項は、「誰が」「何を」するのかを決めるということがよく必要になる。

 

ここで、大事なのはみんなで相談して決める、みたいなやり方はしないことだ。もちろんリーダーによってはそういうやり方を選択するもいるが、私に言わせればその時点で一歩意思決定が遅れている。セオリー的にはスキル適正、経験、稼働量などで決めるべきだろうが、適当でもいいからまず決めることが大事だ。別にスキルが足りなければ、それはむしろ成長のためだとも言えるし、稼働量の問題は進めてみてから再度調整すればいい話。

 

そして、最後。分担したら、ちゃんと任せること。特に、みんなよくわかっていない仕事をすることになると、なるべく多くの人が一緒になって考えようとしてしまうことが多い。これはここ半年間新規ビジネスの検討をしていたのでよくわかる。やたらとみんなで考える時間が多くなってしまうのだ。

 

 これはある意味良いアイデアを生み出すためには必要なアプローチにも思えるが、「みんなで考える時間」を作りすぎると生産性は極端に落ちる。みんなでやるのは「ブレスト」の場だけでいい。例えば、ブレストの結果をまとめる、みたいな仕事は一人でやろうが数人でやろうがほとんど大差はない。日本人の生産性が低いのは打ち合わせが多いのももちろんだけど、「みんなで考えましょう」が多すぎるのではないだろうか。

 

資料のレビューをむやみやたらにやるのも、ちゃんと任せきれていないからで、これも生産性が落ちる。レビューをすればするほど品質は上がるという幻想に取り憑かれている人は非常に多いが、たかがコミュ二ケーションツールである資料にそこまで過度な品質はいらないし、そもそも初めからちゃんと作れる人が作ればいい。

 

分業をちゃんと効率化するためには、必ず分担する技術が必要なのだ。

人はギャップを認識することしかできない

私たちが「これはおかしい」とか「間違っている」と判断する時、頭の中で行われているのは「比較」、それだけである。よく、変化に機敏に反応したり、違和感を検知できる人は感性の鋭い人と言われたりするが、感性の実態は、比較対象となる「答え」を頭の中に持っているかどうかが全てである。

 

例えば、以下の数式を見て欲しい。

 

1+1=5

 

ほとんど全ての人がこの数式をみると間違っていると考えるはずだ。そして、「間違っている」と判断した理由はたった一つ。頭の中で出した正しい結果と違うからだ。きっとほとんどの人が頭に下記の式を思い浮かべたはずだ。

 

1+1=2

 

すると、自分の前にある情報と自分の頭の中にある情報が違う。よって間違っていると判断するのである。つまり、自分の頭の中にある情報、すなわち”答え”と比較することによってのみ「間違っている」、「おかしい」などの疑問を抱くことができるのだ。

 

 なので、下記の例のように、少し複雑な式になった途端に判断が難しくなる。

 

1983726578÷24998378=924

 

この式は正しいか?否か。もちろん、適当に作った数列なので、電卓を使って実際に計算してみれば間違っていることは判断できるだろう。ただ、もう一度やって正しさを検証する、というのは、仕事をする上での良い方法論ではないし、少なくとも分担して仕事を進める意味がない。というわけで、この数式を見た瞬間に「何かがおかしいな」と違和感を抱けなければ確認者としては失格である。

 

ちなみに上の式は、複雑ではあるが、ちゃんと違和感はある。まず、結果の一の位が4になるのはあり得ない。なぜなら、4×8=32なので、少なくとも…2÷....8=となっている必要がある。逆のアプローチで考えても、...8÷....8という数式でありえる選択肢は1か6だけだ。だからやっぱりありえない。よってこの数式は間違いだ、と計算し直さずとも判断できる。

 

 

もし、一の位が1だったとしても、オーダーがおかしかったり、先頭の数字だけ計算して見てもおかしいということがわかる。いずれにせよ、「これが正しいはずだ」という知識をすでに持っているか、「こうすれば確からしき答えを瞬時に出せる」という方法を事前に知っておかなければ、妥当性を測ることができないのだ。

 

仕事の場合は、唯一の正解というものはないので、ざっくりでいい。また数式の例をするなら、

 

1983726578÷22998378=91

 

ぐらいであれば、何となく合っていそうだと判断して良い。(もちろん、誰が計算したのか、とか何の数字かによってはもう少し慎重に判断しなければならない場合もあるが。)実際に計算してみても、86.25…ぐらいなので大きく外れてはいない。数字の場合はこんなに外れるとよくないかもしれないが、「大きく外れてはいない」という状態を維持するのは仕事を進める上では非常に重要だ。

 

 もちろん、この考え方は自分が管理や確認をする側になれば当然求められるとしても、別に自分が作業者であったとしても、自分の頭で妥当性を判断する癖をつけるためにも「正解らしきものは何なのか」を事前に考えるようにしておくことをオススメする。慣れてくると、「何となくこれが正しい」という答えにたどり着くまでの時間が短くなっていくことだろう。

没頭感

「モチベーション革命」という本の中で、人間の欲求は五つに分類されるという話があった。達成・快楽・意味合い・人間関係・没頭、この五つである。

 

著者曰く、昔の世代は、達成や快楽の欲求が強かったそうな。まだ社会的な課題が沢山あったこともそうだし、何かを達成する(仕事で成功する)と、快楽が満たされる(高い車に乗れる)、みたなロールモデル的スキームがあったからだ。

 

ただ、現代を生きる若者が違うらしい。確かに自分の周りにも、高い目標を達成したい、みたいな人間は少ない気もする。それよりは人間関係を重視したり、仕事に意味を求める人の方が多い気はする。相変わらず快楽を追求する人間はいるけれども、今の時代は結構安価に快楽を買うことができたりもする。

 

そんな中、私にとっては、「没頭感」というのは昔から非常に大切な要素で。没頭し始めるまでに結構エネルギーがいるのだけれど、没頭しているときが楽しい。没頭する対象が好きかどうかはたぶんあんまり関係なくて、「没頭するから好きになる」というホリエモンの言葉に割と共感している。

 

ただ、昔と少し違うのは、没頭状態に突入する前に、「意味合い」を求めてしまうことが増えた、ということだ。例えば、アプリ開発とかも始め出すと止まらないし、絶対に面白いことはわかっているけれど、そこに意味を求めてしまうと、没頭状態に入る前に「めんどくさいな」となってしまって、進まない。そういう意味では、「意味合い」というのも大事な要素になってきたのだろう。

 

とは言え、先日も10時間ぐらい買ったばかりのスーパーファミコンクラシックをやり込んだぐらいなので、別に「意味合い」なんてなくたって没頭はできる。長くは続かないけれど、始める障害を小さくできれば始めることはできるのだ。

 

一方で、「人間関係」については今はまだあんまり意識していない。というのも、人間関係が全くないと、困るし確実に不幸ではあるけれど、今ある人間関係が大切にできればそれでも幸せ、って意味では十分な気もしている。友達の数が多いとか少ないとかはあんまり生きる上で重要なパラメータではないな、とまだ思っている。ただ、まぁむやみに人を毛嫌いする必要もないかなーというぐらいで。

 

とまぁ、自分の特性を客観的に考えてみると、私があんまり仕事を楽しめない原因の一つはやっぱり「没頭感」の欠如なんだろうな、という気がする。

 

例えば、日本人が当たり前にやるマルチタスクで進める仕事のスタイル。別にスキルとしてできないことはないけれど、やっぱり好きにはなれない。

 

あとは凄く漠然とした仕事も本当は好きではない。まぁある意味具体化するためにどうすればいいんだっけ?と考えるまでは没頭できていいんだけど、それを実行に移す(大抵が誰かに聞く、資料を調べる、打ち合わせを開く、みたいな)仕事は非常に億劫である。

 

逆に、まとまった資料を作ったりするのは結構好きで。基本作成する資料は作品だと思っているので、プロダクト志向の私にとってはいかに無駄な資料であってもそれなりに面白い。表とか絵とか作るのが楽しい。ただまぁそれって手段であって目的ではないよね?みたいな葛藤は常にある。実際資料作りにハマって仕事をやった気になっている人間もいるので。

 

だから、「プログラムを作る」みたいなことまでできれば、ちゃんとそれ自体に「意味合い」もあって「没頭感」もあって、かつ「達成感」も得られる、と私は思っているけれど、全ての作業を一貫してやることって組織で仕事をするとないわけで。やっぱりこれはサラリーマンの限界かなーという感じ。結局どの部分を担っても「おれが作ったと言えるのか?」という感じがある。

 

そんな思いを抱えながら、とりあえず今はまだ見ぬ気づきを探してひたすらやったことのない仕事をやってみてる。

「ため」のサービスの衰退

「ため」のサービスは時代と共に衰退する。これは歴史が証明している。

 

電話交換手という職業をご存じだろうか。昔は誰かに電話をかける時、実は今のように電話番号を入力して発信、みたいなことができなかった。そういう仕組みが存在しなかったからだ。

 

当時の電話交換手は、かかってきた電話を一限的に受け、発信したい相手に線を繋ぐという仕事を担っていた。今では考えられないが、ダイヤル発信という技術が生まれるまではそれが普通だったということである。

 

電話交換手の価値とは何だったのだろうか。通話ができること?遠隔地の相手との会話ができること?厳密には違う。相手と通話をする「ため」に必要な作業をするという価値だ。つまりは「価値」を実現するための手段に過ぎなかった。別のもっといい手段が見つかればもはや勝ち目はない。

 

比較的新しい話では、ショッピングモールは巨大なECサイトに置き換えられつつある。まだ百貨店等は残ってはいるものの衰退の一途をたどっていくだろう。なぜか。

 

洋服という価値を届ける「ため」に場所を提供する、あるいは沢山の洋服を見る楽しみを与える「ため」に場所を提供するのが価値だからだ。別のもっといい手段があれば、やはり勝ち目はない。せいぜい「リアル」の価値をどう訴求していくか、という別の対策を考えるぐらいの余地しかない。

 

もっとIT業界よりの話をすると、クラウドの普及が本格化している。一方で、オンプレミス、すなわち自社でサーバを保有するスタイルは衰退しているはずだ。すなわちサーバなどのハードウェアメーカーやサーバ構築などをこれまで担っていたインフラエンジニアと呼ばれる人たちの雇用は確実に局所化し、衰退していく。なぜか。

 

インフラはそもそも「アプリ」というサービスに直結するプログラムを動かす「ため」の場所でしかないからだ。自分たちでサーバを調達して、セットアップするよりもクラウドを使った方が楽で簡単であれば、当然そうする。もちろんセキュリティなどの課題はまだ残ってはいるが、クラウド化の方向性が変わることはないと断言できる。

 

最後に、現金。日本には拝金主義が蔓延っているし、一定数の人たちはまだまだ現金自体に価値を感じているかもしれない。ただ、現金も手段の典型例だ。仮想通貨というより良い決済手段が登場したことで、必ず、現金の発行数は減少する方向に流れていく。今は価格も不安定で、決済インフラが整っていないが、決済インフラを簡単に作る仕組みが出来てくれば、この辺りの課題は将来的にはクリアされる。

 

個人個人は感情で動く社会ではあるけれど、世の中全体としてみれば合理化されていくみたい。そして、それを支えるのは技術革新だ。このことは、特に仕事をする上では頭に入れておきたい。

 

そして、手段としての価値が淘汰されるスピードは近年格段に上がっているのは間違いない。例えば、数年前まで我々SIerというのはサービス提供の手段としての価値を提供するBtoBの業態であった。

 

だが、時代の潮流を受け、今や「サービス創出」を事業戦略に掲げている。一言で言えば、BtoCにシフトする、ということなのだ。価値を提供する「ための」ビジネスは今後確実に衰退するのだから当然である。

 

これは全てのBtoB企業に突きつけられている課題である。もちろん、差別化・専門化によって生き残る術はあるが、生き残れる企業数は確実に減っていく。かつ、新しい技術によって代替可能となったら終わりである。

 

また、少し違った味方をすれば、「会社」という仕組み自体が、個人の能力から生まれる価値を誰かに届けるための手段でしかないので、やっぱり淘汰されていく。最近、メルカリなど、CtoC市場が発展し続けているのは、つまりそういうことなのだ。

 

もしかすると、ECサイトの例など、プラットフォーマーと呼ばれるBtoB企業の威力と矛盾するように感じるかもしれないが、市場を制した一部の企業にしかできないビジネスになるという意味で、業界としては衰退せざるを得ない。

 

さらに付け加えるならば、今はまだ凄まじい影響力を持つプラットフォーマーも、実は手段でしかないことを考えると、将来的に全く別のものに今後置き換えられる可能性は高い。

 

究極的には、新しい技術を創出する人とサービスを創出する役割に二分化されていく。これを念頭に置いて、仕事をしよう。

DX時代のプログラマー

今、SIer業界はデジタルトランスフォーメーション(DX)の流れを受けて、ビジネスモデルの変革を余儀なくされている。では、どういった変革が必要になるのか。

 

これまでは、何となくお客さんの要望を聞いて、開発を受託できればそれで売上をあげることができた。プライムコントラクターの立場からすると、なるべく大きい開発案件を受注して、多くのベンダを雇って、マネジメントをすれば良い。

 

リスクマネジメントや高品質を言い訳に、新しい技術を使う必要もなかったし、新規開発以外は、既存のスキームのコピーでできるため、大した技術力は求められない。プログラマーの立場でも一度開発を経験すれば、そのシステムの有識者として重宝されるようにもなった。

 

今は既にそうではなくなってきている。プライムコントラクターの立場であっても、技術、特に最新の技術動向を知っていなければ良い提案ができない。これはSEに限らず営業もそうであるべきだ。お客さんの御用達に甘んじていれば、お客さんの事業継続が怪しくもなってくる。

 

当然、システムを実装するプログラマーだって、技術の理解を求められることになる。これまでは、特定のプログラム言語、例えばC言語Javaなどに精通しているだけでも使いものにはなったかもしれない。しかし、既に世の中はパッケージ開発があたり前で、すなわち、他の製品と組み合わせて何を実現するかを問われており、そういうスキルが技術力として再定義されている。

 

古い人は、コンピュータの根本原理を理解していることにすごく重きを置いていたりするけれど、別にそういった根本の難しい部分を理解しているだけでは使い物にならない時代になっている。

 

実際のところ、新しい企画や新技術の活用を検討する時に、果たして、今のプログラマー相当の人たちのスキルを活用しようとすると、壁にぶち当たることが多々ある。また、色んなものを組み合わせるということはステークホルダーも多岐に渡るので、たとえプログラマーであっても一定以上のコミュニケーション能力は必要になる。

 

別の言い方をすると、本来の”プログラマー”という仕事はほとんどの開発現場でいらなくなっているのが現状なのだ。だから、C言語がめちゃくちゃ得意とかJavaの経験がある、ぐらいでは正直なところ、ビジネス創出時には頼りにできない。

 

今、IT業界で生きていくために一番求められるのは新しいことを学ぶスキルに尽きる。この4年間を振り返ってみても、「この人は優秀だ」と感じる人は、新しいことを意欲的にキャッチアップできる人だった。別に世間の中で必ずしも新しい必要はない。要するに「ここまでは自分の領域」みたいな線引きをしない人が結局一番頼りになる。私も無意識にそんな人を目指していたのかもしれない。

 

もし、今プログラマーを目指す人がいるなら、新しいことを学ぶこととコミュニケーションスキルがないと、本当にレガシーシステムの保守・運用とかをやらされることになるので、注意した方がいいだろう。

生みの苦しみ

新規ビジネス創出・サービス企画。これらの仕事は、花形なイメージがあるかもしれない。確かに難しい仕事ではあるし、面白い部分もある。ただ、この半年くらいやってみて思ったのは、本当に泥臭い、ということだ。そもそも画期的なアイデアや斬新な発想が簡単に出るはずもないし、それらを本当の意味で使える形・売れる形にしていくのには手間もお金がかかる。

 

今の仕事を始める前に、「生みの苦しみを味わってこい」と課長から言われたことがある。確かに新しいことを考える、という時点でも苦しい側面はあった。そもそも仕事をどう定義するのか、仕事の進め方をどうするのか、アウトプットの結果をどう分析すればいいのか、全て考えなければならない。常に仮説を立てて、その通りにやってみて、ダメならブラッシュアップしていく、という繰り返しがベースにある。

 

ただそうやって、考えて自分なりの答えを出して創りあげていく、という活動は実は結構面白かった。この辺はアプリ開発とかにも似ている。理想の形を作る、理想を描く。こういうのは慣れてくると、稚拙だとはしても意外と考えられるようにはなってきて、形にできるようになると面白いのだ。

 

ただ、考えるだけ、で事が終わるならばいい。上述した通り、それは一つの仮説でしかない。「こういうことに課題意識を持っているから、こういうサービスを提供すれば売れるのではないか。」みたいな仮説を立てたとしても、実態はそんな上手くいかない。

 

そもそもユーザが課題意識を持っていない。すなわちニーズがない、という場合もあるし、サービスとしての価値を認めてもらえない場合もある。単なる心理的な抵抗を示されることもあれば、政治的要因に阻害されることもある。

 

これに対して、どういうサービスにすれば良いか?だけを考え直すのであればそれでも私は構わないと思っている。ただし、会社員である以上、そのサービスの中のパーツを自分たちが作る、あるいはそのサービスを展開する上での何らかの役割を担う必要がある。つまりは、そのサービスの中で自分たちが発揮できる強みを持っている必要があるのだ。

 

もし、その強みを持たないのであれば、自分たちでサービスを創出することはできない、ということと同義である。また、その強みとなりうる部分が自分たちのやりたい領域ではない、という場合も往々にしてある。はっきり言えば、今の私の状況がそうだ。

 

今の時代は一つの会社や一つの組織でサービスが完結することなど皆無に等しい。また、本気でサービスを考えるのであれば、適材適所でそれぞれの強みが発揮できる分野で仕事をした方が合理的だ。となると、強みがないのであれば、そのサービスの創出に関わるべきではない、と思う。ただのマッチング業者でしかない。

 

生みの苦しみとは、差し詰め、全体のサービス創出のためにどれだけ、割に合わない役割を引き受けられるのか、という部分も大きいと思う。

YouTuberという仕事

子供の将来の夢トップ3にYouTuberという職業がランクインしているのはもはや周知の事実。まだまだ真っ当な職業として認められていないような気もするが、事実それで生計を立てている人たちは一定数存在する。

 

こういうことを言うと批判の声が上がるのかもしれないけれど、私はスポーツ選手とYouTuberは本質的に同じだと思う。だから、子供の将来の夢が野球選手やサッカー選手なら良いけど、YouTuberを目指すとはけしからん、みたいな考え方になるのはよく理解できない。むしろYouTuberとかの方が子供の夢らしくていい。(逆に2位が「医者」の方がやばいとさえ感じる。)

 

スポーツ選手とYouTuberの二つの違いが何かというと、要は世の中の大多数が認めているのか認めていないのか、だけなんだよね。YouTubeの動画って大多数の大人にとって面白いコンテンツにはなっていないんじゃないかと。HIKAKINとかはじめしゃちょーとかトッププレイヤーの動画をいくつか見たことはあるけれど、「へーこういうのを面白いと思う人がいるんだー」ぐらいの感じ。正直もう一回みたいとかは思わない。

 

でも、事実として世界中の沢山の人たちは見ていて。つまり、価値を感じているってわけで。ただただ、多くの日本人の思想観には合わないかも、それだけなのだ。YouTuberはふざけて遊んでいるだけ、みたいに捉えられるケースがあるけれど、私からすれば、スポーツ選手だって「遊んでいるだけでしょ?」という感じ。

 

ただ、遊びを本気でやって感動を呼び起こせているから、多くの人が価値を認めている、というだけ。価値をそんなに見出さない人だって一定数いるはず。私はスポーツにあんまり興味はないけど、価値は認めている、というスタンス。YouTuberも全く同じ。

 

そもそも、未だに仕事に高い社会貢献性を求め出す人がいるんだけど、もうそんな時代じゃなくなってきてる。インフラとか生命に関わるような仕事はほんの一握りの人しかやっていない。

 

例えば、食のインフラに降臨しているように見えるセブンイレブンが仮に潰れたって、ファミマに行けばいいわけで。そりゃ完全な娯楽産業に比べれば社会貢献性はあるけれど、そもそも今や食のほとんどは娯楽化している前提で考えれば、別に大した貢献はしてない。私の仕事だって、同じ。

 

つまり、誰かが喜ぶならそれはもはや社会貢献と考えるべき。であれば、YouTuberも社会貢献はしていると言えるだろう。

 

ただ、YouTuberも不自由な仕事ではある。例えば、ブロガーとかも同じ。これは別に生計を立てるほどの収入を稼ぐのが大変とか、ネタを探したり配信するのが大変とか、一般的に語られる苦労の話ではない。

 

ビジネスモデルを決めているのが、プラットフォーム側である、ということだ。

 

YouTuberやブロガーはサラリーマンに比べてすごく自由な印象を受けるが、実のところ、プラットフォームにめちゃくちゃ依存した自由なのである。この辺はサラリーマンと全く同じだ。例えば、YouTube側が1PVあたりの収入を半分にします、といえば、ただ利用しているだけのYouTuberは収入が半分になるし、そこに対して何もできない。

 

じゃあ別のプラットフォームを選ぼう、という選択ができるかというと、それも難しい。そもそもYouTubeというプラットフォームの利点を生かして集めていたPV数なので、別のプラットフォームに移った時に発生するマイナス要素は避けられない。もちろん、HIKAKINぐらい個人として有名になっていれば、もとのファンが追従してくれる可能性は十分にあるが、確実に何かしらの影響は出る。

 

さらに、YouTubeを支えている広告収入モデルのスキームが壊れた時に、どうなるのか、という問題もある。例えば、物販モデルというような価値を作って、それを消費者に届ける対価としてお金を得る携帯のビジネスモデルであれば、プラットフォームなどは別に必要ない。価値を届ける先と、お金を払う人が同じだからだ。

 

しかし、近代型のビジネスモデルは異なっている。要するに、YouTubeの動画の価値を届けている人からお金をもらっているわけではない、ってこと。むしろ広告宣伝を届けるユーザ数が多い=多くの消費行動に繋がるという仮説のもと、物やサービスを売りたい企業がYouTube側にお金を支払い、そしてYouTubeがYouTuberに報酬を支払う、というスキームになっている。

 

つまり、現時点では成り立っているかもしれないが、広告宣伝を届けるユーザ数が多い=多くの消費行動に繋がる、という仮説が成り立たない時がくれば、このビジネスモデルは崩壊することになる。たとえば、YouTubeのコンテンツが低俗化して、子供しかみないようになれば、見ているユーザ数が多くなっても消費行動に繋がらない、などの可能性は考えられる。

 

こうなったとき、今のYouTuberたちはより購買力を持っているユーザをターゲットにしなければならなくなるし、プラットフォームに依存しないのであれば、お金を払ってでもコンテンツを見たいと考えるユーザを身につけて彼らからお金を取るビジネスモデルへと回帰する必要が出てくる。

 

こんな風に考えると、やっぱりYouTuberとかプロガーもそれでお金を稼ぐとなれば、そんなに自由ではないな、と。

自動運転車の死亡事故を受けて

タクシー業界のディスラプターとして注目を浴びていた企業Uberが自動運転車の試験中に死亡事故を起こしたことが話題になっている。これを受けて、数日前に日本No.1企業のトヨタも自動運転車の公道テストを停止する方針だ。

jp.autoblog.com

 

自動化の推進というのは結構難しい。私も今の仕事で自動化を推進してたりするのでよくわかるが、結構システム化することに対する抵抗や不安を示す人たちが未だに多いのだ。「100%の安全は保証できませんよね?」みたいなスタンスで来られたら、正直その通りです、としか言えない。

 

しかし、「だから、人にやらせた方がよい」と考えるのは完全に誤りである。人にやらせたって100%はないし、なんならシステムに任せた方が精度は高い。でなければ、今世の中の業務にITがこれほど使われていることの説明はつかない。

 

それでも、世の中のシステムだって未だにバグは発生することはあるし、そもそもバグの発生しないシステムなんてないのだ。(Windows OSだって未だにバグが発生している。)そしてそれを承知の上で使うという選択を下した結果が今の社会のはずだ。

 

既に導入済みのシステムの完全性に対する不安は完全に置き去りなのに、新しい領域を自動化する話となると、必ずこういった抵抗が起こる、というのはもはや面白い。自然の摂理、歴史は繰り返される、というわけ。

 

で、そういった不安を誰しもが抱えている導入フェーズで問題が起こると必ず、「自動化」自体が悪い、という考え方をする人たちが一定数存在する。こんな形で自動運転車の進化がストップしてしまうのは、残念。いや、もちろん亡くなってしまった方は本当に気の毒ではあるけれど、「だから自動運転車が悪い」という考え方は短絡的なのかな、と。

 

例えば、今回の事件だとまず一番問題だったのは、テストドライバーが道路を見ていなかったことだし、会社としてはその訓練や管理が甘かったと言われても仕方がないとは思う。導入段階においてはやはりバグが潜在している可能性もあり、システム自体の品質に懸念があることの方が多いので、そこは人の目と並行して確認を行う必要があるからだ。

 

ただ、やはり注意が必要なのは、いくらバグを改修していったからといって、今後自動運転車で死亡事故が0になることはおそらくない、ということだ。つまり、100%の安全を実現することはできないだろう。ただ、人が運転するよりは極めて安全になる、というだけだ。

 

また、車というのは物理的な制約を受ける。つまり、今のスピードに対して、もう絶対に止まれない距離範囲内に人が現れれば、事故は普通に起こり得る。むしろ歩行者はこれまで以上に気をつけなければならないかもしれない。今回の事故もそういう示唆を与えるものだったのではないだろうか。

 

5Gなどの通信環境が進化することで、車同士がお互いの状況をリアルタイムで検知することが可能になれば、車同士の衝突などは確かに激減するだろう。しかし、オフライン状態の人のことは理解できないので、安全のために何かしらのアプリを入れて、人がそこにいることを車に伝える仕組みが必要になってくるかもしれない。

だるいけど頑張るか、みたいなノリ

もし仮に「人」で就職先を選ぶなら、私はそんなノリの人たちを選ぶんじゃないかなーと思ってます。私がそうだし。基本的に何にも頑張りたくはないんです。僕のベースにあるのはやっぱり超意識低い系なんですよね。

 

ただ、私の場合、初動まで全然やる気ないですけど、やり始めると止まらなくなる気質はあるので、結果的に「他の人よりも頑張ってるんちゃうか?」みたいな状況になることがあるってだけで。こういうムラっけがあるので、人と一緒に何かをするっていうのがしんどいんですね。マイペースにできない感じ。

 

もちろん、仮にもプロとして仕事をしているので、個人としては最低限のパフォーマンスは常に出すつもりではあるんですが。常に意識高い人とか、常に正論言ってる人たちを見ると、どうも人間らしさを感じられないというか。業務的な繋がりしか築けないし、ついていけないなぁ、という感じになります。

 

それらをまとめると、「この仕事だるくないですか?」みたいなことを普通に言えるような人と仕事がしたいってわけです。だけど頑張りますか、みたいな感じでやったら意外と必死になっていいものができる、みたいな。考えてみれば、部活やってた時もそうだったし、バイトで仲の良かったメンバがそんな感じだったなぁ、と。

 

あと、「だるい」と感じるポイントが似ていると、なおよし、なんですけどね。結構、今の会社だと「だるい」のポイントが違う人が多くて。例えば、個人的に送別会とか飲み会とか基本的にだるいんですよね。企画はもちろん、みんなだるいだろうけど、私は参加自体がだるい。四半期に一回ぐらい、数人で飲むぐらいが本当はベストだと思ってる。

 

一方でずっとやる気ない奴とか終始意識低い奴を見ているとそれはそれで腹が立つ、という。そんな奴から「この仕事だるくないですか?」とか言われたらたぶんブチ切れますね。もうシャットアウトして其奴の成果には何も期待しなくなるだろうなーという感じ。

 

私は結構、仕事をする上での人間関係はそんなに重要視してなくて、ビジネスライクで構わないと割り切っていたんですが、それはそれで結構もろいな、と最近は感じております。

 

仕事に何かしらの面白さ、モチベーションを見出せている時はまぁ別にどうでもいいんですが、それらが奪われた時に拠り所が何もなくなる、というリスクがあるんですね。趣味を持っておく、というのもたぶんそういう時のリスクヘッジだし、家庭を持つのもそういうことなんだろうなあ、と。

 

これまではたぶん若かったこともあって、今やっていること、それも一つのことに夢中になっておけば良かったんですよ。それが一番面白いし、シンプルで良かった。でも、なんというかそれはそれで、やっぱりもろいな、と。

 

だるいけど頑張るか、みたいなノリの人と仕事したい。

サチった時にどうするか

スポーツでも勉強でも仕事でも、何か一つのことをテーマにして進めていくと、必ずぶち当たる壁がある。「あれ?なんかサチってきた?」という感覚だ。サチる、サチュレーション。すなわち、自分の能力や自分の出せる成果が定常状態に近づいているな、という感覚のことだ。

 

私にとって、この瞬間は「飽き」の瞬間となることが多い。特に、結果を出したことによるメリットがもたらすモチベーションよりも、自身のスキルが向上していくことにモチベーションを感じているようなことをやっている場合はそうなる。

 

私にとっては多分、受験勉強とかバスケットボールがそういう類のものだった。そもそも受験に合格すること、とか試合で相手に勝つことに対するモチベーションはそんなになくて。むしろそういう仮の目標があって、そこに向かって成長していることが面白かったのだ。

 

成長しているうちは面白いけど、余地がなくなると途端に飽きる。そういう物事を好きだと考えていたけれど、これは本質的に”好き”ではないのだと思う。最近になってようやくそんな考え方になってきた。まだ同じように錯覚している人もいるんじゃないだろうか。

 

では、本質的な好きとは何なのか。

 

例えば、私の場合、ブログを書くのは、自分のスキルの向上などは求めているわけではない。今更、文章力を向上させようとか、構成力を上げたいとか、そういうモチベーションはそれほどなくて。実際のところ、ブログを書くことを通じて自分が成長しているという感覚はほとんどない。

 

それよりは自分という存在や思考を保存しておきたい、とか作品を創りたい、みたいな欲求を埋めたくて、書いている。つまり、成果に対するモチベーションの方が強いので、飽きずに続けられているのだと思ってる。

 

逆に言うと、似たような文章を書くことに対するモチベーションは全くない。もっとも、結果的に人から見たときに同じようなことを言っている場合はあるのかもしれないけど。文章というのは表現方法が無限にあるので、自分自身で同じだと思うことがあんまりないのだ。

 

システム開発も私にとっては作品の創出に近い。もちろん、新しい言語を覚える学習の意欲もあるにはあるが、こんな風にしたいを実現できることが面白い。新規開発であればいいが、機能追加開発だと、既存のすでに確率された仕組みの中で「同じものを作っている」という感覚が優ってしまうことがある。というか、そういう場合の方が多い。

 

これまでは、仕事を楽しむ上で”成長”を拠り所にすることができた。できないことだらけで、伸び代だらけだったからだ。ただ、もうすぐ入社5年目ともなると、自分の伸び代が昔に比べてなくなってきていることを自覚せざるを得ない瞬間がある。

 

具体的な違いはあっても、「こうすればいいはずだ」、とか「こうやれば何とかなるな」、みたいなことがわかるし、それを実際にやったとして新しい成長があるかというとそれほど感じなくなってきている。別に全く成長していないとかではなく、過去の自分と比較して、ということではあるけれど。確実にサチってるなと。

 

こうなると、対策としては二つしかなくて。

 

一つは、これまでとは違う領域の仕事をやってみる、ということだ。あくまで成長に面白さを見出すスタンス。

 

ただし、このやり方には限界があると最近気づいてきた。私も、なんだかんだ小さい規模ではあるが、アプリ系開発に始まり、インフラ系開発、維持、そしてチームリーダー、新規ビジネス企画、営業・コンサル、運用設計・開発など、これまで業務や役割を変えて携わってきた。

 

その都度新しいことをやる面白さ、自分ができないことができるようになる面白さは確かにあった。短期的には。しかし中長期的にはどれも飽きてしまった、というのが真実である。ましてこの先、年齢的に自分の成長が衰えていくことを考えると、”成長”だけを拠り所にするのは心細い。

 

なので、別の方法が必要で。それがもう一つ、自分の作品(成果)を沢山残すことに対するモチベーションで頑張っていく、というやり方。自分が何を得るかではなく、社会に何を残すのか、という視点。前回の記事だと、ポートフォリオを作ることに対するモチベーション。

n1dalap.hatenablog.com

 

そういう風に考えないと、仕事人生はどんどんつまらなくなっていくなぁと感じたわけです。

私がコンテンツに意義を感じない理由

私って、たぶん「面白いものを作る」よりも「役に立つものを作る」方が好きなんですよね。コンテンツかインフラならインフラを作る方が好きってことです。

 

例えば、IT系の会社だと、コンテンツを作るのはWeb系とかスマホアプリ開発とかがそうだし、インフラだと、SIerとかの業務アプリ開発になります。なので、たぶん私の会社選択はまずまず合ってたってことですかね。

 

実際、スマホアプリ開発とかあんまり興味ないです。ゲームってなんというか、やっててもすぐに飽きちゃうんですよ。だから、どういうゲームが面白いのか?という問いに対して、どんなゲームもすぐに飽きるからどうせそんなに面白いものにはならない、と思っちゃうんですね。きっと、子供心を忘れてしまったわけで。

 

だから、たぶんもし自分がゲームを作ったとして、それが大ヒットしたとしても、そのことに対して「楽しんでくれて嬉しい」という思いよりも「あーなんでこんなゲームまだやってんだろ?笑」とか思っちゃうわけで。

 

なんかそういうのってゲーム開発者としてあるまじきだな、みたいな変な仁義があったり。でも、実際はAndroidの上位アプリランキングってほとんどがゲームアプリだったりするので、一般的な感覚とは違うんだろうな、ということは理解してるつもりです。

 

一方で、インフラって必ず役に立つじゃないですか。例えば、今更ですけど、Googleマップってめちゃくちゃ便利やん、と。スマホアプリでもっともインストールされてるアプリなんですが、超便利だったから今ではインフラになった、という順序が正しいですね。

 

インフラができると、世界が前進するんですね。これはもはや、飽きる飽きないとかの次元の話ではないってことなんです。逆に言えば、それ自体に対する面白さは全くないんですけど笑。

 

で、わかりやすく二元論的に語りましたけど、まぁ私はコンテンツとインフラの間には少し別の概念も存在していると思ってまして。

 

一つは、"ポートフォリオ"などと表現するのがいいんでしょうかね。例えば、私が割と今でも好きで続けているこのブログも世間一般の分類ではコンテンツに入ると思いますけど、私の中ではポートフォリオだと思っています。(だから続いているんだと思う。)

 

要は「複数のコンテンツの組み合わせ」のことです。一つ一つのエントリはコンテンツなんだけれど、色んなコンテンツを随時生み出していくことで、全体として一つのポートフォリオになっているという感じ。一つ一つのエントリは一回読んだらすぐに飽きるけど、全体として長期的に楽しむことができるのが良いかな、と。

 

ただ、これもおんなじようなエントリが続くと、結局全部ほとんど一緒やないか、ということで、ただのコンテンツに成り下がってしまうので、難しいところですね。他の例だと漫画とかも海外ドラマとかがポートフォリオで、一作完結型の映画はコンテンツ、という感じです。一回ポッキリで終わるか終わらないかの違いというわけ。

 

もう一つはプラットフォームです。これは「色んな人たちがコンテンツを生み出す場」のこと。決してコンテンツを作っているわけではないけれど、場を作った結果として、色んな人から色んなコンテンツが生まれるので、一人が作るポートフォリオとは次元の違う多様性とか面白さを生み出すもののことです。

 

よく言われる話だけど、今流行っているサービスの大半がこのプラットフォーム。子供が将来なりたい職業ランキング1位のYouTuberや、LINEのスタンプ、インスタ映えなど、プラットフォームがあったから生まれたコンテンツ、職業、ワードが沢山あります。

 

プラットフォームレベルになると、もう社会を推し進めることに寄与できるっていうことなんですね。そういう意味では、ポートフォリオとは断絶された壁があるように思います。ちなみに私が好きなプラットフォームはZOZOTOWNとAmazonですね。単純に買い物が便利だし、色んな商品が見れて面白い。この「はてなブログ」も良いプラットフォームです。

 

こういったプラットフォームがないと困るレベルになると、インフラと呼ばれます。例えば、もうLINEアプリなんかはインフラと呼ばれてもおかしくないですね。

 

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新しく生み出されるものをコンテンツ、ポートフォリオ、プラットフォーム、インフラという四つに分類してみました。

 

なお、絵にするとこんなイメージです。

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上のものほど、感情への影響は大きいですが、短期的な価値を発揮する傾向にあり、下に行くほど、面白さはないけれど、長期的に価値を発揮できる傾向にある、というわけです。実際の世の中はこれほどシンプルではないですが、自分が生産者であると言う前提で、果たして何を作りたいのか、どこを作りたいのか、を考えてみるのも面白いんじゃないですかね。

「マネジメント」が要らない時代へ

 先日、とある海外製品の数十万ぐらいの研修に(もちろん会社のお金で)行ってきたんだけど。で、まぁその製品がなんなのかっていうと「マネジメントシステム」の製品で。

 

マネジネントシステムっていうのは、つまりは管理を効率的にやるための仕組みとか考え方のことなんだが、そのパッケージ製品だと考えてもらえばよい。

 

例えば、管理の一つに進捗管理というのもあるけれど、進捗管理自体は実は結構簡単で、要はいつまでに何をどれだけ終わらせなければならないのかを決めておけば自ずと進捗率は数式で算出できるわけ。

 

つまりインプットとルールを定義すれば機械的に結果がわかるので、システム化が可能なのである。

 

私も管理がメインと言われる会社なので、色んなマネジメントシステムを使ってたりするし、他の会社もそうじゃないか?と思ってたりはするんだけど。

 

つまりそれがどういうことかを意味するかというと、管理って実は難しくないということであり、人がやる必要もなくなってきているということ。たぶん、私が社会人になる頃からそうだったと思ってる。

 

過去に見たエントリでもそんなことが書かれていたし、事実そうである。

blogs.itmedia.co.jp

 

では、マネージャーとかマネジメントをする役割の人が全く要らないのかというと、そういうことではない。マネージャーに求められる役割が変わったと言うのが正しい。

 

そもそも、管理すること自体が目的化して、管理簿を作ることが仕事になってしまっている人が会社の中には沢山ある。管理の仕事を人がやると、事務的で面倒だしつまらない。さらに、付加価値もほとんどないのだが、”管理職”なんて名前があるものだから、そういうしょーもない仕事を物凄く高い賃金で課長クラスの人たちがやっていたりするのだ。

 

でも管理業務の本当の目的は管理(すなわち現在の状態を把握すること)によって適切なアクション、改善に繋げるところにある。本当に求められる能力というのは、正しく管理することではなく、管理している結果から問題を見抜き解決する力である。

 

そもそも”管理する”ことはしばしば英語だと"manage"と言うが、この単語の本質は"何とかして成し遂げる"という意味である。つまりプロジェクトマネージャーというのは、プロジェクトを何としても成功させられる人なのだ。プロジェクトを管理する人ではない。

 

私も会社柄、色んな管理をしてきたが、結局のところ価値を示せるのは問題をいかにして解決するか、の部分でしかないと思っている。そのためにありとあらゆる思考を働かせられる人、それがマネジメントを担う者の宿命なのだ。

 

今まさにそういう時代に移り変わった・・・、という文調で綴っているが、実は今のマネジメントはさらに先の段階に来ているらしい、ということを痛感したのが、下記のエントリである。

 

blog.tinect.jp

 

本エントリでは、「能力のアウトソーシングが始まった」という言い方をしているが、要するに、問題解決能力だけでは相対的な価値が発揮できない時代へ突入しつつあることを意味している。つまり、管理業務だけではなく、マネジメントを自分たちがやる必要のない時代に移り変ろうとしているのだ。

 

今は、「問題解決」よりも「問題発掘」が大切だと言われることがしばしばある。0から1を生み出せる人、起業家精神が必要、ビジネスディペロップスキルが必要、これらも総じておんなじ意味だ。

 

私たちが社会に出る少し前ぐらいから、「言われたことを愚直にこなうような人」の価値はおそらくかなり低下していたこともあって、近年は課題解決能力を求められる機会が社会的に増えていたことも原因の一つだろう。

 

もちろん、ITの成長で、単価の安い海外の人たちが日本人よりもはるかに優秀になったことも一因だし、AI技術の登場による、今までは問題解決能力を生業にしてきた医師や弁護士などの職業の地位が脅かされていることも背景にはあるはず。

 

将来、管理職になって、承認印を押すだけの仕事生活を楽しみにしている人は残念だろうけど、大人になる頃にはほとんどの人がプレーヤーであり続けなければならない時代がくるかもしれない。個人的にはそっちの方がいいかなと思うけど。

「大人」になれない社会

「最近の若い人は優秀だ。」

 

私が社会人になってからというもの、よく上の世代の人からそんなことを言われる。これにはもちろん、IQが高いという意味も含まれているのだと思う。例えば、課長層の人たちは採用面接のグループディスカッションの場に立ち会ったりすることもあるのだけれど、「お前ら(つまりは私たち社員)よりも優秀だった」などと言う。

 

ただ、地頭が優秀といういい側面だけでこの言葉は使われていなかったりする。要するに、最近の若い奴は真面目で礼儀もわきまえていて何でも卒なくこなしてつまらない、という意味合いも込められているのだ。

 

若者なのだからもっとバカなことや面白いことを追求すればいいじゃないか、失敗すればいいじゃないか。少なくとも自分たちの若い頃はそうだった。そんな風に思っているのだと察する。そして、そういう若者がいないことを嘆くし、そういう若者らしさを出すことを求めらたりもする。

 

社会に入ってみて気づいたことは、若者らしい人が割と重宝される、ということである。学生時代までは大人っぽいことを割と売りにしてきた私としては、ちょっと受け入れがたい事実でもあった。佇まいが落ち着いていたり、地に足の着いた考え方をする人は「大人しい」と言われる。「大人しい」ことは「大人らしい」ことで、あまり推奨されないのである。

 

あえて言うならば、資本主義社会において、大人になることは悪いことなのである。自分の意志や欲求を持って、それを実現するために周りを巻き込むとか、リスクを取って挑戦するとか、その中で成長していくとか、そういう「若者らしさ」を永遠に求められる。結果、年を取っていくのに若くなっていくという矛盾が発生する。

 

また逆説的に、仕事ですごく成長をした人が必ずしも人間として成熟していない場合も多い。

 

はるか前であれば、もう少し仕事の成長と人間としての成長が合致している部分も多かったのかもしれない。しかし、資本主義が加速した現代は違う。例えば、ゲームをずっと極めているだけで人間として成長することができるのだろうか、という視点で考えてみるとわかりやすい。ゲームがいかに上手か?と人間として成熟しているか?は全く別のことなのだ。

 

では、成熟とは一体何なのか。大人とは一体何なのか。

 

もうじき三十路を迎える年齢的にはいい大人の私がたどり着いた結論は、「大人」というのは所詮はとある集団の中での仮初めの姿でしかない、ということだ。

 

私はたぶんちょうど二十歳ぐらいの時に自分が大人になったと錯覚した瞬間があった。それは最初のアルバイトの経験、中でも新人研修担当とかリーダー的役割を任された経験がかなり寄与していると思う。

 

でも本質的に人間が大人になるのは二十歳になった時ではない。自分の下が入ったときだ。たとえ、中学生でも部活の上級生であれば大人的側面を持っている。そういう意味で、アルバイトの中で私はたぶん大人だったのだけれど、私が大人になれたのはそのアルバイトをしていた時だけだったし、アルバイトの場においてだけだったのだと思う。

 

大都会の若者は大人になるのが遅れる、という説がある。それは当然、組織の中で、上の数が下の数よりも圧倒的に多いからだと思う。もちろん、仕事の能力とかそういうのはあるけれど、大人役をする人たちがあまりにも多いので、大人をすることを求められないし、評価もされないからだ。

 

大人になれないこんな社会ってどうなのだろうか。

 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 

 

AI時代の予備校

前回AI時代の教育をテーマに思うところを書いてみたのだけれど。

n1dalap.hatenablog.com

 

今回は、教育と切っても切れない関係にある「予備校」について書こうと思う。

 

と、その前に。予備校の価値って何なのか。私は高校の時に予備校には通わなかったし、中学の時も終わりの方に遊び半分で半年くらい行っただけなので、本当のところはよくわかってはいないけれど、一度塾の価値を感じたのは、苦手だった国語の成績が飛躍的に上がったことである。

 

で、なんで高い点数が取れたのかを今更ながらに考えてみると、事前に解かされた予想問題に同じような問題が沢山あったから、だった。

 

先生方の「問いを考える力」が優れていたからなのか、過去の問題の蓄積量が凄かったのか、あるいはその両方なのかはわからない。だけど、結局のところ、これまで自分だけでは知り得なかった「問題と答えのセット」を知ることができた、というのが私の成績が上がった直接原因ってわけ。

 

つまり、良質な問題と答えのセットを与えられるという点は、少なくとも私にとっては予備校の一つの価値だったと言える。もちろん、それらを正しく記憶できるような指導とかも価値に含まれるし、そっちの方が一般的にはより重要なんじゃないかとも思う。

 

総じて言えることは、答えを教える、解法や考え方を教える、というのが今の予備校のやり方なのだ。ただ、それはじきに人間がやるべき領域ではなくなっていく。それを受けて予備校はどうするべきなのか。

 

もちろん、すぐに予備校が淘汰されることにはならない。大学が存在して、学歴が結局就職には有利である、という事実が揺るがない限り、難関大学の価値は残り、したがって予備校の価値も残る。

 

少し変化の余地があるとするならば、今まで講師が担っていた領域に対してAIを支援的に活用していくというのは十分ありえる。少し調べてみると、AIを活用した予備校の事例みたいなものがいくつかヒットする。

 

ただ上記みたいな悪あがきによる短期的な業績向上はできたとしても、「大学あっての予備校」という形を取っている限り、予備校はジリ貧の一途を辿っていくことになると私は思う。「大学受験って意味なくない?」ということに多くの人が気づき始めたら、今の予備校スタイルでは何一つ価値を提供できなくなる。

 

一つのシナリオは、予備校をラボっぽい感じにするということだ。教育が課題発掘、課題解決が中心になる前提で考えれば、それぞれの課題の分野のスペシャリストが予備校の講師を務める。学校ではファシリテーターを確保できてもスペシャリストの確保は物理的に厳しいので、そこに入り込むというもの。

 

ただ、そうなった時にやっぱり予備校はほとんどがオンラインが前提のプラットフォームと貸している可能性がある。個々の生徒たちの興味関心に合わせたスペシャリストなんて日本国内全体に広げても見つからないかもしれない。しかも完全に副業的なビジネスになるだろう。

 

実際のところ、教育制度自体が正しい姿に変わるまでに相当な年月がかかりそうな気もしているけれど、アップデートされないものが淘汰されていくことは心得ていたいもの。

AI時代に先生は要らない?

最近、落合陽一の動画をよく見てるんだけど、あの人ほんと頭いいと思う。久々に天才を感じた。年もほとんど変わらないのになんなんだこの差は、と思いつつ。

 

Youtubeで見た朝生の彼の議論は総じて面白かったんだけど、中でもAIがプラットフォーム化すると教育がいらなくなる、みたいな話が印象的で。

 

落合陽一氏曰く、これまでの人間は生まれたら勉強をして、知識を身につけて、社会に出て生産活動をして、死んでいくというのを各々でやっていて、しかも後世に残せるのは遺伝子だけなので、教育という観点ではめちゃくちゃ非効率だったという。

 

これがAIというプラットフォームができれば、そこに過去の人たちが学んできたことを全て蓄積していけるので、そこに繋ぐことで過去の偉人たちの知識にアクセス可能になるからめちゃくちゃ社会の成長スピードは上がるという理論。

 

でも、AIプラットフォーム上に知識が蓄積されても、そこに直接アクセスすることはできないんじゃないか?と普通の人はきっと思うんだけど、あの人はたぶん、攻殻機動隊みたいに、脳が直接AIにネットワークでアクセスする世界みたいなものを信じているんだろうね。

 

電脳化ははるか未来の話としても、教育の形はすでに変え始めないとマズい状況だと個人的には思っている。一方で、文部科学省が公開している学習要領をみると、我々が育った頃と大した変化はなかったりするのだが。みんなはどう思ってるのかね。

 

例えば、社会にコンピュータやスマホが普及した頃から、人が漢字を書ける必要はなくなった。すなわち、現代社会において、「読み」はともかく「書き」を学習する必要はないということ。

 

あと、数学も電卓が禁止とか馬鹿らしいことはやめて、証明のロジックを考える問題とか、解放を組み立てる思考に重点を置いた方が良い。たぶん、微分方程式とか行列式とかはすでに無料のアプリでも計算できるようになっているはず。つまり、人間ができる必要はないってこと。

 

プログラミングを必須教育にするのも一つだと思う。頭のいい人は大抵、構造的把握能力に長けているなと私は常々感じているのだけれど、それを鍛えるのに非常に良い訓練になるのがプログラミングなのだ。ただの翻訳としてのプログラミング、ではなく、ミッションを達成するためにどんなパーツが必要でどう組み立てていくのかを考える力、そういうのが必要。

 

と、言い出すとキリがないけれども、そのくらいに教育というのは止まったまま。大学の半分に価値がなくなっても、日本の難関大学が世界の中での地位を下げても、今でも昔ながらの受験戦争という名の茶番を繰り広げている。

 

これまでで、教育が変わったことといえば、ゆとり教育ぐらい。私の世代が受けてきたのがいわゆるゆとり教育なのだけれど、これは教育自体を変えた、というよりは教育量を減らしただけだったのが残念な点。コンセプトとしては、余った時間で個別で好きなことをやってほしかったのだろうけど、ほとんどの人は遊ぶ時間が増えただけで、学力も下がり総じて失敗として語られている。

 

ただ、私はこのゆとり教育の考え方について、方向性としては間違っていなかったんじゃないかと思っている。もし、今ほどネットワークインフラが整っていて、小学生が一般的にスマホを持ち、教育コンテンツがありふれている今の時代であれば、上手く機能する可能性は十分にある。

 

ゆとり教育で最大の問題だったのは、子供に完全な自由を与えてしまったことである。教育量を減らした分、自由にしていいよと言われれば9割の人は遊ぶに決まっている。だって、子供なんて別にやることないし。何らかのミッションを与えるべきだったのだ。

 

例えば、これまでの小学校で夏休みの宿題になる、”自由研究”に近い形の課題を常に与える。何か自分でテーマを決めて、それに対して調べたり学んだりして、成果を出す。学生ならレポートという形になってしまうのかもしれないけれど、そんな風に単なる自由ではなく裁量を与えるべきだったのだ。

 

ゆとり教育反論の理由として、オリンピック選手にはゆとり世代で活躍している人が沢山いる、という趣旨の意見をよく聞くことがあったが、あれはすでに自分のミッションを見つけていた人だったからそうなったのだ。なので、適切にミッションを与えることができていれば、必ずしもゆとり教育は悪、という結論には至らなかったのではないか、と私は思っているわけ。

 

要は、一律の教育は物凄く狭い領域に絞って、あとは各々が好きな分野で課題を見つけてそれを解決するための取り組みをしていく、という形がこれからの時代にはベスト。なんでかというと、一律で教育できる標準的な知識とか方法論は全てコンピュータなりAIに簡単に置き換えられてしまうから。一律教育で育った人がコンピュータやAIと戦うとか無理ゲー。

 

ただ、そういった未来型教育シフトへの大きな課題が二つある。

 

一つは今の先生では未来型教育ができない点だ。 言っちゃ悪いが、今の先生は、既に確立されたカリキュラムに沿って既に体系化された知識を教えるだけだ。もちろん、説明のやり方や、板書の取り方は個人で考えているのだろう。突発的な質問に答えられるようにもしておかなければならない。

 

でも、その部分に大きな苦労や難しさがあるとは思わない。私の友人にも先生になった人が沢山いるけれど、大抵、思春期の子供の扱いが難しいだとか、モンスターペアレントの対応が、とか、はっきり言って教育とは無関係とも思える話だ。教育の結果自体を問われない役所体質なところも原因なのかもしれないが、教育制度自体がある程度マニュアル化されたルーティンなものだから、と考えて良いだろう。

 

翻って、未来型教育はどうだ。本質的には、生徒と先生の主従関係がなくなる点が大きい。これまでは、先生が持っているものを生徒に与えるのが教育であったが、教育の多様化が進めば、当然、生徒が知っていることを先生が知らない、という状況が当たり前になる。

 

そんな中でも、生徒に対して学習の方向性付けを行っていくためには、まず、先生自身が問題解決能力を身につけていなければならないし、時には生徒から必要な情報を聞き出し学習し、かつ成長を適切にコントロールをしなければならなくなる。つまり、指導者ではなく、管理者とかアドバイザーに近い形になることを強いられるはず。教育の現場がビジネス化していくイメージ。

 

しかし、今の先生に果たしてそんな能力があるだろうか。もちろん、教育の現場も職員室の中は社会なので、それなりに対応はできるのかもしれないが、数十人の生徒をマネジメントするのは容易ではないはず。昨今は先生の数自体も少なくなっていることもあり、さらに先生を増やすというのも難しい。

 

結局、私が辿り着いてしまう結論は一つで、「先生制度をやめる」、というもの。なぜなら、「先生って要らなくない?」って私は子供の時に思っていたので。正確には、教育とか学習という観点では先生はもはや必要ないって話。私が子供の頃ですらそう思っていたので、今だと尚更そうなんじゃないかね。

 

そもそも「学力を上げる」という点においては既に、予備校や学習塾の方が完全に上なのであって。今の学校に意味があるとすれば、プラットフォームとしての役割だけ。お金を持っていない人でも一つのコミュニティに所属することができて、その中で人間関係を築くことができて、一緒に何かをすることができる、という点。実はこれこそが学校の本質。

 

で、そこに対して先生が関与すべき点は、いじめとか、子供が道徳的にあやまったことをしないように見守っておくだけで良い。つまり、学力の向上に寄与する必要はないのだ。