∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

障害対応は苦しいけど楽しい

最近、自分達が維持しているシステムで障害が発生した。俗にITの世界ではインシデントというのだけれど、まぁお客さんがシステムを使えなくなってしまう、という状況のこと。

 

もちろん、インシデントにもレベルがあって、システム的な問題が発生しても業務には影響が出ていないことが見きれれば、ある程度は自分たちのペースで対応を進めていくことができる。しかし、緊急性の高いトラブル、既にある機能が使えなくなっているとか、性能が著しく劣化するとか、そういった問題の場合は力の限りをインシデント対応にそそぐことになる。

 

と、今回は後者のパターンであったため、連日夜遅くまで働くことになった。もともと予定していた仕事は進めなければならず、そこに対して緊急の仕事が入れば当然そうなる。また、普段踏襲している安全なプロセスを通さずにスピーディな対応を求められることも多く、プレッシャーもかかる。だから、インシデント対応は苦しい。

 

一方で、不謹慎な話ではあるが、維持をやっている中で障害発生は面白いイベントだったりする。維持の仕事は基本的には短いスパンで同じようなことをひたすらぐるぐる回していくことが多く、飽きてくる。だから、障害が発生すると、新鮮なのだろう。また、否が応でも知らないことを勉強して、理解して、解決せざるを得ないため、成長に繋がったりする面白さもある。ただ、本来維持業務はインシデントを発生させないためにやっていたりもするので、そこには矛盾があるのだが。

 

私が障害対応が良いと感じるのは、やっぱりスピード感を持って仕事ができる点である。普段であれば、一ヶ月とかかけて失敗を防ぐために実に無駄とも思える複数のプロセスを経由した上で本番環境へリリース、となるのだが、障害対応時は緊急だから、という理由だけで、色んなプロセスをすっ飛ばすことができる。

 

ただ、そんな中でもデカい失敗はできないし、明らかに無茶なスピード感を求められると、苦しい。そんな分岐点の中にちょうど良い働き方があるのかなぁと思う。

テレワーク推進に足りないのは働き方のフォーマット

昨日はテレワークデーということで、うちの会社でもテレワークデーのポスターおよびテレワークの推奨が告知されていた。これでめでたくテレワーク、と思いきや、いきなり会社のサーバに接続できない事態が発生。結局仕事をしだしたのは夕方になってからであった。

 

制度を作って改革を促す、というのは典型的な日本人の短絡的発想だと常々思う。6万人もの社会人が実際にテレワークを実施したらしいが、割合として多いとも言いがたく、差し詰め、既にテレワークという働き方が部分的に導入されていた企業が実施しただけでは?という印象である。

 

そもそも、テレワークが導入されない背景を無視したところで、テレワークの導入が進むはずもない。仕事の形態を変えるということは、仕事のやり方を見直す必要がある、ということである。その理解が足りていないから、テレワークを導入しない理由として、「テレワークに適した仕事がないから」が70%もの割合をしめているのだ。

 

mainichi.jp

 

ちなみに未だにIT化が進まない業務というのも実は全く同じ構造であることが多い。システム化されない理由として、「業務が複雑化してシステム化できないから」などと言われる。これでは当然システム化はできない。まず、業務をシンプルにそぎ落とすという最も根幹的かつ、困難な部分の検討をすっ飛ばして単純にシステム化しようとするからできないのだ。(これがアメリカなどであれば、システムに対して業務を合わせていくマインドが主流のため対応されたりするが日本だとそうもいかない。)

 

例えば、私が最近考えているのは、会社に電話は必要なのか、というものである。私はプライベートでも仕事上でも電話をかけられるのが実に嫌いである。全てメールで文字に起こしてくれれば記録にもなるし、時間を取られないし、非同期に仕事を進めることができる。電話に対応しなければならないのもリモートワークができない一つの原因なのでは?と思っている。

 

しかし、電話機無くしませんか?などといったところで到底受け入れられない考え方だろう。なぜなら会社には当たり前のように存在しているし、実際に毎日それらを使って連絡のやり取りが行われているからだ。新人研修で習うほどに社会人として基本的なスキルの一つにもなっている。今、不要かと問われれば、当然必要である。

 

ただし、電話はあくまで連絡するという目的を達成するための手段でしかない。つまり別の手段があれば代替は可能だろう。あるいはもっともいいやり方さえ考えることができれば、電話がある必要はない、という状態にできるはずである。

 

例えば、ソフトウェアのベンダなどは基本的な問合せは電話NGとしているケースも決して珍しくない。考えてみれば当然で、電話でやり取りをしても記録は残らないし、話も整理されないし、時間もかかる。多数のユーザーに対して問合せに対してそんなに時間を取られていては仕事にならないからだろう。

 

変わりに問合せ専用のWebポータルやメールでの問合せが受付できる。もちろん、例外的に電話応対をすることもあるのだろうが、こういった地盤の築き方を変えるだけで、仕事のやり方というのは変えられるのだ。問題なのは、今の地盤こそはいつになっても絶対的に正しいという大いなる勘違いにある。

 

「打ち合わせは対面でやるべきだ。」「いつでも連絡がつくように電話が必要。」「LINEで連絡を取るなんてマナーがなってない。」

 

これらは全て、自分が教わったことがいつまでも正しいと思い続けているめでたい中高年の勘違いでしかない。ちゃんと今の時代にできることとやるべきことを考えた上で、考え方・働き方をフォーマットしてみることだ。

ルーティング追加時のgwとviaの違い

LPICレベル2取得に向けて勉強中。内容としては基本的にはレベル1の詳細版、といった感じである。今ネットワークの分野を勉強している。

 

そんな中に謎の問題が現れた。

 

新規にルーティングエントリを追加するipコマンドは次のうちどれか。二つ選択せよ。

 

A.ip route add 10.0.1.0/24 gw 172.16.255.254

B.ip route add 10.0.1.0/24 via 172.16.255.254

C.ip route add gw 172.16.255.254 10.0.1.0/24

D.ip route add via 172.16.255.254 10.0.1.0/24

 

 

正解はB,D。ポイントとなっているのは、gwを指定するのか、viaを指定するのか。ただ、なぜviaが選択されるのかがわからない。

 

解説を見ると、「ルータの指定はgwではなくviaでするので~」と記載されていたがますます不明である。なぜルータの指定であることが問題文から判断できるのか。ネット文献をそれなりにあさってみたが、ピンとくる解答は得られなかった。

 

 

結論から言うと、ipコマンドの時はviaで指定、routeコマンドの時はgwで指定するべき、と思われる。ip route add~と、route add~ってできることも構文もよく似ているので全く同じものだと考えがちだが、こういう微妙な違いがあるのだ。

 

備忘がてら残しておく。

 

 

ベストエフォートの危うさ

職場でよく見かけるやり取り。

 

「この仕事空いた時間でやってもらえますか?」

「わかりました。いつまでにやればいいですか?」

「いつまでにできますか?」

「優先度によりますね。」

「じゃあどのくらい工数(時間)がかかるか教えてもらえますか。」

「・・・」

 

いかに期限を決めるのが下手なのかが露呈されるやり取りである。が、むしろこれが正しい姿であるかのようにまかり通っているのが社会(もしかしてうちの会社だけ?)である。

 

優先度の高い仕事であれば、本当に守らなければならない期限が定まっているため、こういった事態にはならないことが多い。例えばお客さんに報告する日が決まっていれば、明らかに無茶な要望ではない限り、どのくらいの時間がかかるかなんてことは構わず、その日までに間に合わせるように仕事のやり方を変えることになるからだ。

 

しかし、優先度の低い仕事の場合は期限を決めかねるケースが多い。今すぐやらなくてもいいけど、このまま放っておくと問題になるとか、現状を改善する仕事など、やらなくても別に今より悪い状況にはならない仕事というのは大抵ちゃんとした期限が定まらず、ずるずると対応されないままとなることが多い。

 

 

「決める」ことが難しいと感じるのは、全ての物事に対して「決める」ためには論理的、合理的なプロセスを経て決める必要があると考えているからにすぎないと私は思う。合理的に決めるのであれば、確かにそこに面倒さが伴うし、特に優先度の低い仕事に対してそれを検討するのは面倒である。だからそこを横着して期限を決めない、というまま放置されることが多いのだ。

 

でも期限を決めないくらいだったら、適当でもいいから決めてやった方がいい。というか決めないと進まない。日本の会社は決めないから進まない、というケースが非常に多いのだ。

 

すごく似た話で、「全員で検討しましょう」、というのも全く同じである。こういう進め方でやると全く進まない。一人に責任を与え、裁量を与えないと、物事は決まらない。全員がアドバイザーになって、物事を推し進める人がいなくなるのだ。これ以上アドバイザーは要らないっす。

 

つまらない仕事

リーダーという立場で仕事をするようになってから、一気に自分の作業がなくなった。今の自分の仕事って何だろうか。計画立てる。タスクをメンバに割り振る。進捗状況を確認する。報告資料にまとめる。たまに課題を吸い上げる。またスケジュールに落とし込む。あとはひたすらそれのループ。

 

これがもし開発だったら納期の制約があるから難しさがあって面白いのかもしれない。が、維持の場合、しかも比較的安定稼働しているシステムともなると優先度の高い仕事というのがない。しかも、維持はいってみれば定額制で売上が上がるから、ぶっちゃけた話仕事したって仕事しなくたってお金は入ってくる。だから、こっちとしては早くやり遂げてしまいたい仕事だったとしても、「そんなに無理してやることないんじゃない?」みたいな空気感がマネジメント層から出される。

 

非常に退屈だ。いや、単に楽をしたいだけならいいのかもしれないけど、何ていうか仕事の面白さみたいなものはあんまりないし、エンジニアとして成長している実感が全くもって持てないのはいかがなものだろう。もちろん、サラリーマンとしての能力は鍛えられている気はするが。

 

組織としての判断はおそらく、合理的には正しい。例えば、既存のコードをリファクタリングしよう、みたいな話になったとしても、その作業が生み出す価値とその作業が生み出すリスクを天秤にかければ、やらない方が合理的だ。もう不要になったルーティングの定義を消したりする作業も、同じ。やらない方がいいこと、やる必要がないことはやらない。

 

新しい事業をやる、というのもそうだろう。市場規模の大きいマーケットを選ぶ、それが合理的だ。最も効果的なところを攻める。それも合理的だ。私も費用対効果を考えて仕事はしたい。けれど、全てが費用対効果だとしたらそれはきっとつまらないのではないだろうか。

 

面接官になった場合を考えてみてほしい。「あなたはなぜこの会社を選んだのですか?」に対する回答が「もっとも給料が高いからです。」であったとして、その人を採用したいと思うだろうか。きっと思わないはずだ。

 

では、なぜそのように合理的な選択をした人を採用したいとは思わないのか。それはお金だけを目的に仕事をしていても、仕事に対する意欲がなければ成長しないことが予想されるからではないだろうか。

 

これを組織の目線で考えてみてもきっと同じだ。いかに合理的で、いかに割のいいビジネスであったとしても、それが仕事として面白いもの、実際に現場で働く人が面白いと思うような仕事であることも、利益と同じ、もしくはそれ以上に重要なはずだ。

 

だとすれば、多少非効率でも面白そうなら仕事化してみる、とか、すごく売上にはなるけどつまらない案件は取らない、とか、そういうちょっとした遊びがいるんじゃないだろうか。

 

リーダーとして、人にタスクを割り振る時、こんなつまらない仕事ばかりさせてごめんなさい、といつも思う。

一人暮らしを振り返る

同棲をすることにした。別に同棲がしたいとか、何か決定打があったわけではないけれど、強いて言えば、経済的にも時間的にも同棲した方がいいような気がしたことと、あと一人暮らしの自由さに飽きてしてしまったことが理由だろうか。あと、昔は他人と生活をするなんて考えられなかったが、今の私と、今の彼女ならなんとなく大丈夫な気がしたのもある。

 

本当のところ、このままトントン拍子で話が進んで、もう一生一人暮らしをすることはないかもしれないと思うと、少し寂しい気はする。しかし、手放すのは惜しいけど今持っていても幸せになれないものは捨てた方がいい場合が多いことを話は知っている。それは物であっても、人間関係であっても、生活であっても同じだ。人生のステージが変わるのは、新しいことを始める時ではなく、過去を捨てた時だからだ。ステージが変わらない人生は、やっぱりつまらない。

 

ただまぁ一人暮らしをして良かったと心から思う。実家暮らしの方がお金もたまるし楽だから、と社会人になっても実家暮らしを続ける人は最近多いらしいけど、それははっきりいって人生損している。

 

なら、一人暮らしの何がいいのか。少し振り返ってみたいと思う。

 

・好きなテレビが見れる

家族に見ている内容についてイチャモンをつけられたり、同じ時間に見たいチャンネルが競合したりすることがない。親に見られたくないような内容のドラマも映画も見放題。今でこそテレビはほとんど見なくなったけど、一人暮らしを始めた時は感動したものだ。

・好きなだけ夜更かしできる

遅くまで起きていても家族に迷惑をかけることがないので、好きなだけ夜更かしできる。夜遅くまで動画を見たり、何をやってもいい。

・好きなだけ寝れる

逆もまた然り。夜更かしをした次の日に家族に起こされることもない。物音もないので、深く眠ることができる。昼寝も自由。こたつの中でも寝ても注意されない。

・好きなものだけ食べれる

一人暮らしをしたら是非とも料理をした方がいい。自分が食べたい食材を使って、食べたい料理を作って、自分の好きな味付けで食べられる。うっかり母親が自分の嫌いな料理を作ったりすることもないし、「今日は家でご飯食べるの?」とか聞かれることもない。自分で外食するのかしないのか、選択できる点も非常に魅力だ。

・友達を呼んで馬鹿騒ぎできる

家に友達を呼んでお酒を飲んで馬鹿騒ぎができるのは一人暮らしの一つの特権だ。もちろん、今は片付けが非常に面倒くさいことを知っているので、極力断っているが、それでもやってみると楽しいことの方が多い。酔っぱらったまますぐ寝れるのがまた格別である。

・大声で歌える

風呂で大声で歌っても何も気にしなくていい。大音量で音楽を聞くこともできる。この開放感は実家の中では味わえないだろう。

 

さて、どうだろう。まさに好き放題で、何もかもが自由なのだ。一人暮らしを始めたばかりの私にとっては天国だった。ただ、これらを魅力的に感じない人もいるかもしれない。実は今の私自身がそうである。別に好きなテレビを見れたり、好きなものばかり食べれたり、好きなだけ夜更かしができたりすることに感動しなくなってきた、つまり飽きたのだ。上記の自由は本質ではないと悟ったというべきか。

 

でも未だに一人暮らしっていいなと思う理由がたった一つだけ残っている。

・静かに一人を噛みしめられる

社会人になると尚更だが、他者を完全に排除し、自分が一人でいられる時間というのは人生の中では本当にごくわずかしかない。一人なんて寂しいから嫌だ、という人もいるかもしれないが、一人の時間・空間でしかできないこと、考えられないことはたくさんある。(私は一人モードでなければブログなんて書くことはできない。)そして、その中にこそ自分の本質は眠っているんじゃないかと思う。

 

最後に、私が一人暮らしの中で学んだことを一つ。

 

・自由には限界がある

一人暮らしの一番いいところは、自由とセットで責任がちゃんと付いてくることである。例えば、自分の好きな番組ばかり見ていると世の中のニュースについていけなくなったり、自分の好きな料理ばっかり食べていると健康が悪化したり。好きなだけタバコ吸ったら家から出る時に80000円ぐらい請求されたり。二日起きて二日寝てを繰り返すと体調崩したり、とあげれば本当にキリがない。

 

また、好きなことを好きなだけできる代わりに、生活を維持するための家事という重いタスク・責任がのし掛かってくる。自由の代わりに発生する責任と真っ向から直面した時初めて、「この自由は責任の代わりに手に入れるほどのものなのか」という問いが自分の中に生まれるのだ。これに答えることで自分の価値観が浮き彫りになっていくのはなかなか面白い。

 

子供の頃、世の中にルールがなぜ存在するのか、について誰でも教わったことがあると思う。自由が最高なのになぜ制約を設けるのか。この問いに対する回答はこうだったはずである。制約があることによって自由は最大化される、と。逆に言えば、過度に自由であることは逆に不自由な状況を導いてしまうのだ。

 

これはあくまで集団行動に限った話、と私などは考えていたがあながちそうでもないらしい。だから自分ルールを作ったり、自分で自分に制限を課すことで、自分の自由を最大化しようとする人がいるのだ。

 

ここで述べたようなことはきっと月並みだ。私も一人暮らしをするまで想定していなかったか、というと嘘になる。でも、一人暮らしをする前の私は知っていただけで、今の私は体験した。体験にこそ意味があったし、面白さがあった、そして自分自身に変化もあった。「一人暮らしなんて大変でしょ?」とか言わずに一人暮らしはやっといた方がいい。

アイデンティティクライシス

しばらく会社という組織の中にいると、自分が何者でもないことに気づく。自分にしか出せないアイデアがあるわけでもなく、カリスマ的なリーダーシップがあるわけでもない。自分ができる仕事の大半は他の人だってできる。学生時代の私を私たらしめていたはずの優秀さを自分自身で特に感じることもない。

 

周りにいる人が凄くてみんな特殊、というのも違う。もちろんそういう人もいるけれど、別に、彼らが自分と比べて圧倒的に優秀だと思う事もなければ、特に目立つ側面があると感じるわけでもない。でも、自分の方が上だ、と思う事もやっぱりない。

 

自分が勝負できるフィールドがない。

 

私は誰かに勝てない競技が好きではない。バスケットボールに興味を失ったのも、努力だけでは超えられない壁を感じたからだし、そこに自分を投影することができなかったからだ。私にとってバスケットボールはやっていて楽しいという感情はもちろんあったが、私を私たらしめるものであってほしかった。たぶんそういうことなんだと思う。

 

私が大学院まで進学したのも、学業が自分にとって勝ちやすいフィールドだったから、なのだと思う。別に大して勉強したわけでもないし、それほど苦痛でもなかった。なのに結果は人の何倍も出る。私にとってはこれが普通だったが、それが一般的に見て特殊であることは理解していた。だからこそ、私のアイデンティティは学業の中に投影していた。

 

昔、一番になれないことを嘆くようなツイートをしたら、中学の同級生から「何でも一番がいいと思うなよ!」とツッコミをいただいたことがある。彼は当時の私から見ると、何の取り柄もない友人だった。そもそもほとんどの人は、勉強も部活も平均ぐらい、のはずだ。

 

彼のように昔から平凡だった人は自分という人間をどのように捉えているのか、私はずっと疑問だった。平凡である事が当たり前すぎて、平凡であることに大して何の疑問も感じていないのかもしれない。あるいは、すでにこのアイデンティティの崩壊を乗り越えた上での人生をずっと昔から歩んでいるのかもしれない。

 

自分の趣味を楽しめる人、というのはある意味すでに負けの人生を悟ったことのある人なのかもしれない、と最近は思う。私が今になってもこれといった趣味を持てないのは、結局のところ、のめり込んだ先の結果を求めてしまうからだ。

 

自分にすごく向いている分野があって、それをやればすぐに成果が出て、楽しいと感じられるはず。でも、ほとんどのことはすぐに結果は出ないし、他の人たちよりも抜きん出ることさえ難しい。そういうことを考え出すと今やっていることの楽しさも薄れてしまう。

 

でも、なんというか、もう自分は何者でもないし、何者になる必要もないのかもなーと考えると、少し気が楽になる。

 

やりたいことを自由に。

 

面倒を取るか退屈を取るか

新しい物事を始める。新しい仕事を始める。新しい環境へ移る。新しい人間関係を構築する。これらは基本的に面倒であり、苦労を伴うことである。そして、人間というのは元来面倒くさいことが嫌いな生き物だ。だから、慣れ親しんだ習慣、慣れ親しんだ仕事、慣れ親しんだ人間関係の中でルーティンを送ることになる。

 

ただ、こういった生活には実は大きな欠点がある。人生がすごく退屈なものになってしまう、ということだ。

 

大人になって自分のことを理解し始めると、自分が何が好きで何が嫌いなのかがなんとなくわかるようになる。そうなると、自分の行動パターンを固定化しがちである。そして、自分に合った生活や習慣を続けていくことこそが幸せな人生だと考える。実に理にかなった考え方だと私も思う。

 

しかし、実際はそうではない、人間の気持ちや考えは絶えず変化していくからだ。例えば、私は漫才の動画を見るのが好きである。しかし、今では好きな漫才師のネタを見ても笑うことはない。一種の心地良さはあるけれど、初めて見た時のインパクトや面白みを今感じることは全くないと言ってもいい。慣れたが故に面白くなくなってきているのだ。

 

一人暮らし、というのもそうだ。実家暮らしが嫌で仕方がなかった大学生の私が初めて一人暮らしを始めた時はまさにそこが天国のように感じた。自分の好きなことを好きな時間にやることができる上、誰にも邪魔されない静かな空間がそこにはあったからだ。翻って、今はどうかというと、退屈でしかない。逆にそういった自由が自制心を妨げて、自分をより一層怠惰にしていることを心配するほどだ。

 

仕事というのもきっとそうだ。新人の頃は毎日が覚えることだらけで、大変ではあったが、正直なところ面白かった。設計や試験もそうだし、ツールを作ったりするのもそうだ。だから、そういうことが好きだと錯覚したこともあった。でも本質はそうではなく、できなかったことができるようになったのが面白かったのだ。

 

つくづく、人間とは飽きる生き物だと思う。

 

ただし、こういった生活を打破するのは結構少し難しい。というのも、慣れ親しんだ物事というのは退屈ではあるが、非常に楽だからだ。楽な人生を選ぶ人たちを今まで何度も見てきたし、楽であることを推奨してくる人も多い。かくいう私も若い頃に比べると、はるかに楽であることの重要性を感じるようにはなってきていると思う。

 

しかし、やはり限度というものはある。変化を嫌うのが人間であっても、退屈も同じくらい、もしくはそれ以上に嫌いなのが人間なのだ。私の友人にも仕事が嫌で仕方なく退職したのに、退職したら暇になったから復帰した、という人もいる。「自由からの逃走」で述べられているように、人は退屈に絶えられなくなると自由を放棄することさえあるのだ。

 

私はこの、「退屈」という感情はセンサーとしてすごく重要だと考えている。というのも、私が今までの人生で自分の環境を変える原動力になっていた大元の感情が退屈だからである。現実逃避っぽくて、あまり、聞こえのいい話ではないかもしれない。確かに、夢や希望を追いかけて一歩を踏み出す方がはるかにかっこいいだろう。しかし、どういう理屈で行動を変えたかよりも、実際に行動を変えたかどうかの方が人生に影響を与えることは多い。

 

一般的な話として、これからはますます、変化を強いられる時代になっていく。これまでの人生は学生として勉強した後、社会人になり終身雇用で一つの会社に尽くし、引退後の余暇を楽しみ人生を終える、というのが標準的なスタイルだった。

 

しかしながら、高齢化社会が進み、我々ぐらいの世代は平均寿命が100歳に差し掛かるとも言われている。当然日本を取り巻く年金不払のリスクはある(というかもらえない可能性が圧倒的に高い)ため、何歳まで労働生活を強いられるかもわからない。つまり、労働人としての人生が長くなることを意味する。

 

それに加え、近年はテクノロジーの変化がこれまでにないほど著しい。特に、AI、人工知能の出現は、これまでの雇用のあり方をがらっと変えるだろう。将来的に49%の仕事が人工知能に代替されるとも言われている。割合以上に危機意識を持つべきなのは、これまで高い専門性を発揮することで成立していた仕事(医者や弁護士など)が代替されうる、ということだ。

 

エンジニアも同じである。ただコーディングが得意です、なんてプログラマーはすぐに淘汰されるだろう。これまでのプログラムの歴史を考えてみてもわかる。扱いにくいアセンブラ言語はC言語にとって変わられ、よりわかりやすいスクリプト言語Java言語などに置き換えられた。さらに、いくつものフレームワークやライブラリが登場したことで高い専門性がある部分はラッピング、簡略化されていく流れが続いている。

 

インフラ系についても同様だ。クラウドコンピューティングの登場で、サーバを構築するスキルも、ネットワークを構築するスキルもかなり簡略化されてきている。要するに、専門性は必要だが、ある程度パターン化されているスキルや知識というのはどんどん簡略化されていくのが世の流れであったし、人工知能はそれらを完全に奪ってしまう可能性があるということだ。

 

よって、時間をかけて何らかの専門家になれば、人生安泰という時代は終わったと考えた方がいいだろう。昔であれば、学生時代に頑張っていい大学に入って、いい会社に入れば、その後は会社の中で学ぶだけで十分だった。しかし、今は大人になってからも新しいことを学び、新しい知識やスキルを身に付けなければならない、ということだ。今の会社でやっている仕事が将来的に必要とされる可能性も低いし、そもそも会社が残り続けるかさえわからない。

 

以上を考慮するのであれば、面倒を取ることを厭わないことが大切であることが論理的にはわかるだろう。しかし、冒頭で述べたように面倒事をなるべく避けたいのが人間だ。だからこそ、退屈と天秤にかけるべきである。これまでの時代は退屈を無難で手軽なコンテンツで暇つぶしをすれば、将来は保証されていた。しかし、今は違う。退屈に絶えられないと感じたら即刻で動くべきだ。

 

面倒を取るか退屈を取るか。私は常に自問している。

社会人3年目までに身に付けたい3つのこと

「というテーマで、プレゼンできる?」と昔、研修のクラス担任であった先輩に問われたのがきっかけで自分なりにこんなテーマについて考えてみた。結論から言うと、本当に大切なことは3つである。

1.あなたがその組織にいる理由

残念ながら、あなたの代わりはいくらでもいる。サラリーマンとして働いているのなら尚更である。しかし、あなたがやれば早く終わる、あなたがやれば高い品質を実現できる、そんな仕事や領域があればいい。それだけで、少なくともあなたが今その組織で仕事をする理由になる。

 

強みを身につける、というと高い専門性を身に付けなければならないと考える人が非常に多い。確かに高い専門性があった方が新規性の高い仕事などを検討する時には役に立つ傾向にあるだろう。私もそうなりたいと思っている。

 

しかし、実際の仕事というのはこれまでやってきたことを少しずつ改良していくものもまだまだ多い。だから、色んなことができる人材というのもそれはそれで強みだったりするのだ。かくいう私も担当内では二つのシステムの業務と方式を経験しているところだ。だからこそ活きる部分ももちろんある。

 

また、あまり数値化されないためわかりにくいが人間性の部分での強み、というのもある。これは社会人になってから身につく、というよりは社会人になってから自覚するものであり、むしろ社会人になったら自覚しなければならない。

 

人間性の強みは弱みと表裏一体だ。すなわち弱みがあるということは強みがある、ということである。例えば、私は他人に対して厳しくすることができない。リーダーになった今でもそうだし、今後立場が変わってもできないだろう。

 

逆に言えば、他人の言うことに共感を示すことができるし、論理的に指摘なりをすることはできる。チームの空気も決して悪くは無い。実際上司からはチームビルディングの素養もあるのでは?と言われているほどだ。これに関しては社会人になるまでに既に形成された私の人格的な部分であるが、これが強みとして生きてくる場合もある。

 

2.あなたに仕事を任せる理由

端的に言うと、「信頼」のことだ。これはもうスキル云々だけの話ではない。いかに特殊なスキルを持っていようが、信頼できない人間には重大な仕事は任せられない。遅刻したり、急に休んだり、仕事の期限をいつも守らなかったり。だから、最低限の信頼を手に入れる必要はある。

 

そこで、必要なのは何かを完遂する経験である。もちろん、チームとしてやり遂げる経験もあった方がいい。ただ、どちらかといえば、自分が主管として与えられた裁量・期限の中で求められる品質基準を満たす成果を出した経験が大切だ。

 

そして、何かを完遂するためには必ず自分で答えを出さなければならない場面がある。想定外の問題が発生した時にどうするか。正しいと信じていた前提が覆ったらどうするか。ここに対して、ゼロ回答はありえない。自分がどういう調査をして、どういう検証をして、その結果どうだったから、こう解釈した、だからこうする、を決めて進めなければならない。これを繰り返していると、あいつに任せても大丈夫だと思ってもらえる。

 

3.あなたのために動く理由

結局、最後が一番大切なのかもしれない。と最近ようやく本気で考えるようになってきた。要するに本当にチームとして良い仕事をするためには、自分が優秀なだけではなく、他人を動かす必要がある、ということだ。

 

他人が気持ちよく動くためには理由が必要である。もちろん、他人が動くための理由には実に様々なものがあるが、ここで特に言及しておきたいことは自分の意見がちゃんと相手に伝わることである。すなわちプレゼンテーションだ。そして、最低限プレゼンテーションで大切なことは二つ。自分の意見を構造化して述べる力と、図解・可視化する力である。

 

自分の意見を構造化して述べられるようになることは必須である。ただ、この辺りは普段のメールや会議の報告資料などを作成したり、加えて主要な論理展開のフレームワークを勉強したり、ある程度は身につくものだと思われる。ビジネスは総じて同じような流れ(結論→理由など)で説明されることが多いので、誰でも経験とともに慣れていく。

 

差がつくのは図解力だ。プレゼンテーションに関する本には書かれているが、文字よりも図の方が圧倒的にわかりやすい。ただ、最低限文字が起こされていれば報告はできるため、普段から意識していなければ、自分の考えを絵で伝えたり表現する機会は激減する。

 

逆に、普段から説明する時に図で表現するにはどうなるかを考えてみたり、実際にホワイトボードを使ってみたり、あるいは他人が言葉で説明している内容を自分のノートに図解してみたりする習慣をつけることを勧める。ちなみに私は絵の重要さに気づいてからは自宅用にホワイトボードを購入した。ホワイトボードに絵を書く奴というと、なんとなくいけすかない気がするけれど、割と社会では高評価につながることも多い。

 

社会人3年目で、3つの理由を持っていれば、十分組織の中で働き組織に貢献することはできる。これから社会人になる人、1年目〜3年目くらいの人は是非とも参考にしていただければと。

ナレッジマネジメントがうまくいかないのはなぜなのか

ナレッジマネジメントとは直訳すれば、知識管理です。誰かの持っている知識を他の人が利用できるようにはからうための取り組み、といった意味合いで使われることが多く、スキルトランスファーと似たような考え方です。

 

どんな組織もきっとそうだと思うんですれど、過去の人たちのノウハウは総じて消失していくんもんなんですね。何かについて調べた結果とか、整理した結果とか、実際にぶち当たった問題とかその解決策とか。マネジメントをする立場としては、まぁまた現場の人に調べてもらえばいいか、という話なんでしょうけど、これはかなりの稼働損失です。

 

こういう状態をノウハウが蓄積されていない、というわけですけど、ノウハウが蓄積されていないはずはないと思いませんか。例えば、うちの会社だとデータとか仕事で作成したものは基本的に全てサーバ上に保管されています。なので、誰かが何かに調べた結果というのはどこかしらに残っているわけです。

 

問題なのはどこに残っているかがわからない、探し出すのにすごく時間がかかる、ということです。設計書など公式なドキュメント類はもちろん全体に共有されているので、ある程度探しやすくはなっていますが、設計書に記載されないような細かい内容、しかし重要な情報は誰かの個人用フォルダに埋まっているのが現状です。

 

なぜ、こんな風になってしまうのかというと、原因は二つあって、ノウハウを残しておくための枠組みを用意していないこと。ノウハウに過度な品質を求めてしまっていることです。

 

例えば、サーバのフォルダ構成というものは概ねルールが決まっていると思います。その方が直感的にどこにどんなファイルがあるかわかりやすいからです。しかし、その枠組みに当てはまらないような成果物があると、どこにおくべきか困ってしまいます。

 

また、全員が見れる場所、ということでドキュメントの品質を求めすぎると、個人的に作ったけどよくまとまっていない資料とか、情報に誤りが含まれていない資料とかを公開フォルダにおくことをためらってしまう人もいます。(なので、私は困った時には個人フォルダの中をよく探索します。)

 

情報を蓄積していく、という観点で言えば、資料が見やすいか間違っているか、正しいか間違っているか、などは脇に置いて、ただひたすら情報を格納するためのフォルダを作ればよいと思います。

 

実はフォルダというはデータベースなどに比べると実に情報の管理がしにくい構造(ツリー構造)になっています。なので、どんなに綺麗なフォルダ構成にしたところで、誰にとってもわかりやすい構造にすることはできないと考えた方が良いです。

 

むしろ、格納は雑にして、フォルダを検索するためのツールを使ったりすることで、検索性能をあげる方がベターではないかと思います。ちなみに私はHXGrepというツールを使って情報を検索しています。フォルダの構成とかをはっきり理解していなくとも、あるワードが使われている資料を特定のフォルダ配下で探すことができれば、ローカル版のグーグルのような使い方ができます。

 

それに、グーグルで検索できる情報というのも、実際のところ、正しいのかなんてわかりません。すごくコアな情報を調べたりすると、誰かの個人用ブログのページに飛んだりすることも多々あります。でも、私たちはそれを手がかりに次のステップに進められるのも事実です。ならば、別に自分たちのサーバ内の情報についてもそういうスタンスで調査すればよいんではないでしょうか。

本当の働き方改革とは

私の担当でも、「働き方改革」という言葉がよく使われるようになった。電通の事件がってから労働時間を減らしましょう、そのために生産性を高めましょう、という動きが色んな会社で起こっているようで、プレミアムフライデー制度なんてものまで導入され、これはこれで別の経済効果を生み出そうとしてたり。

 

働き方改革というと、真っ先に挙がるアイデアが、テレワーク、リモートワーク、である。例えば、出張の時間を仕事に使えればその分生産的になれるし、自宅での勤務が可能であれば、満員電車のストレスにさらされることもなくなる。その分が良い労働につながる、という考え方が背景にはある。

 

私はもちろん、テレワーク制度には賛成である。家で仕事ができる方が望ましい。プライベートと仕事の境目がなくなることを懸念する人は多いけど、別にプライベートとか仕事とかは私にとってはあんまりどうでもいい。一人の方が変な割り込みがないし、自分の好きなように仕事を進められると思う。

 

ただ、テレワークを導入すれば、組織として生産性があがるのか、というと答えはノーだ。テレワークが効果的なのは、成果が明確で、個人での作業が大半をしめるスキームで動いている仕事、例えば、バックオフィス業務などに限る。

 

 

逆に打ち合わせで物事が決まるサラリーマン、成果が曖昧なサラリーマンには向いていない。だって、人が集まらないと仕事にならないから。だから、テレワークしてもいいですよ、と言われても、最前線で働いている人たちはテレワークによる生産性の向上はあまり望めない。

 

サラリーマンの本質的な問題点は、働く場所如何ではない。非同期に進められる仕事が少ないことが問題なのだ。つまり、打ち合わせを前提とした意思決定の方法論、打ち合わせの中で進捗報告、情報共有が間違っているのだ。

 

テレワークを導入の効果を得るためには、まずこういった非同期の仕事をいかにして無くすかを考えなければならない。制度を導入する、という施策は簡単なためハードルは低いが、他社の成功事例の真似事をしたぐらいでは、はっきり言ってほとんど意味はない。少なくとも、改革とは呼べない。

 

本当に働き方改革を目指すなら、文字通り働き方を変えなければならない。端的に言えば、今やっている仕事の質を落とすしかない。質を落とせば自ずと量は減る。ただ、残念なことに、大きい組織ほど、品質を下げるという選択ができない。

 

また、仕組のプロセスが完成されている組織において、品質は何らかの形で定量化されているケースが多い。例えば、提案用の企画書であれば、先輩・上司・部長と多くの確認プロセスを踏んだものの方が品質が高いと考えられるし、ソフトウェアであれば、より沢山の試験をして、バグの少ないものが品質が高いと考えられる。

 

でも、こんなのは実際のところ、仮説に過ぎない。最初の企画書の方がお客さんから見ればわかりやすかったかもしれないし、試験で全くバグの出なかったソフトウェアを実際に動かしてみたら、肝心の機能で大量にバグがでることだってある。組織が謳っている品質なんてものは自己満足的なものなのだ。

 

だから、沢山の仕事量が高品質を支えている、という幻想をまず捨てるべき。

 

生産性を向上させるのに最も効果的なのは、無駄な作業を減らすことだ。しかし、品質を過大評価しすぎると、すごく微小な価値しかない仕事さえ無くすができない。すると、仕事を減らすことはできなくなる。なぜなら、仕事として定義されている以上、何らかの役には立っている、あるいはいつか役に立つ可能性があるからだ。

 

生活をしていく上での家事も同じだ。毎日掃除するのが大変なら、掃除する場所を限定化したり、掃除の頻度を下げたりすればいい。別にちょっとぐらい汚れてたって何の問題もない。

 

洗濯も同じだ。乾燥機付きの洗濯機を買うより何より、洗濯の頻度を下げる方がよっぽど効果がある。なんなら、冬に同じ服を3日着たってそれほど汚れないだろうし、傍目には不潔にはうつらない。衛生的に問題があるけど、それが原因で体を壊すことなどまずないだろう。人間の体はそんなに柔ではない。必要以上に100%を目指さないことだ。つまり、必要最低限の品質があればいいのである。

 

品質を落とす覚悟を決めること。それが本当の働き改革である。

何のために働くのか

最近、働く目的がブレてきているんですね。というか、完全に見失ってきている。3年目ぐらいまではとりあえず目の前の仕事をやりきって、仕事を覚えて、評価を勝ち取って、自分が自由に働きやすい環境を作ることが目的だったんですね。その中に成長もあるだろうと思っていました。

 

でも、蓋を開けてみれば、自分が求めていたような成長はないし、そういった成長は会社からも求められていない。もちろん、自分の弱い部分とか、サラリーマンとしての基礎的な能力は鍛えられたと思いますけど、ただ別にそんな能力伸ばしてもねって感じです。

 

また、ある程度自由になった、というのも目的を失ってしまった一つの理由ではあるかと思います。というのも、人間って不自由な環境に置かれると、まず自由になることを本能レベルで渇望するじゃないですか。低次元の欲求が脅かされるとまずはその欲求を満たすことを求める。すなわちそれが目的になって、行動のモチベーションになるわけです。

 

でも、どうも今の私はそれなりに自由な状況になってしまったが故に5月病っぽい感じになっているんですね。自由になった上で、何をやりたいのか?を考えた時に、今の会社でやりたいことってなんだろう。そもそもそんな仕事あるのか?という話になるわけです。つまり、今までやっていたようにただ何となーく会社にいって目の前の仕事をしているだけ。

 

で、私なんかはこれといった趣味もないですし、仕事を人生の中での結構重要な部分に位置付けているわけです。その前提で、仕事が意味のないものになってしまうと、人生の意味も揺らぎかねないわけですね。実際、最近は休日も退屈過ぎて困ってしまいます。

 

ツラツラと述べてきましたが、近年は、私と同じような考えをもっている若者が多いらしいです。自分の存在意義を感じないとか、自分が何をしたいのかわからないとか。なんていうか、逆説的にはすごく自由で幸せな状況なんですけど、ただ自由である状態というのはフロイトが「自由からの逃走」で述べているように実は苦痛なんです。

 

最近は簡単にインスタントに楽しめるコンテンツがたくさん用意されていて、さくっと暇をつぶすことはできるんですけど、映画見たりドラマを見ても、イマイチ満足できない。人間の深い部分に突き刺さるほどのクオリティがなく、表面的な面白さしか感じられないんですね。

 

今やっている仕事も世の中のコンテンツと同じような側面が感じることが多くて。一言で言うと、「とりあえずお金になりそうな仕事をする」、という方針しかないように感じるんですね。自分たちのWillとかは何にもなく、ただただお金になりそうな仕事を探して、そこに対してソリューションを探して売る、みたいな。資本主義社会の中では確かにそういう考え方が必要なんでしょうけど、拝金主義的な考え方には薄っぺらさを感じてしまう。

 

就職する前の私は、システムというのは作品だと考えていた節があって。それはすなわち、少なからず芸術的な意味合いを持つものだと考えてました。でも、今考えてみれば、ただの製品でしかないんですね。そこに対して誰かの思い入れがあるわけでもなく、ただただ分業化して作られたパーツを組み合わせたもの、でしかない。思い入れよりも納期やコストが優先されるスキームの上で動いています。

 

で、こういった実利的な考え方の組織で行動するようになると、プライベートの過ごし方もどんどん実利的になっていくわけです。意味のないことはなるべくさけ、作業を効率化して、面倒臭いことを避ける生き方をする。それが洗練化されていくわけですね。これちょっと面白そうだな、と思う前に頭でこれには価値がないな、と考えてしまうわけです。で、手軽に楽しめるコンテンツに手を出してひまを潰す。

 

こういう生活をしていると、むしろ生きている意味がわからなくなる、という矛盾に苛まれます。でも、本当は生きている意義に縛られすぎているんですね。今日という日を価値あるものにしなければならない、という強迫観念が染み付いているので、意義がない日々を過ごしていると、意味がない人生だと考えてしまう。

 

子供の頃の人生が充実していたのって、実はこの部分が非常に大きいんです。なぜならば、子供の頃は意義なんてものを誰も意識していなかったし、誰からも意義を求められることはなかったからです。頭で考えるよりもノリで動いて、その瞬間を楽しんで、それだけ。非計画的で、非合理的。だから充実していたんです。たぶん、それが「遊び」だったんだと思います。

 

大人になると、色んな場面で、計画性や合理性が求められる。休日の遊びですら、仕事に感じるし、億劫に感じる。何かしらの意義を強要されている気がする。で、そういう生活を続けていると、ますます、自分の人生ってこれでいいのか?などと思うわけです。実はそういう人結構いるんじゃないですかね。

 

この状況を脱却するためには無計画、即興的に生きてみること、敢えて面倒臭いことをやってみること。要するに、頭を使わず感覚的に生きる瞬間を作る、ということです。必要以上に意義を求めない、ということです。仕事の中でこれをやるってのは非常に難しいですけどね。

 

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実存的で非常に面白いです。

 

定例会議が主体性を奪う

実は4月から方式チームのリーダーになってしまったんですね。実務経験は約半年足らず。技術力、専門知識ともにまだまだ素人レベルにもかかわらず。まぁ厄介な先輩の下で働き続けるよりは、自分もチームも健康になったかなとは思いますし、自分がコントロールできる裁量が大きくなって、仕事は進めやすくなったとは思います。

 

ただ、当然悪いこともたくさんあって。もっとも個人的に辛いのは現場経験が詰めないことですね。そもそも方式へ転換したのだって、AP開発では設計のサル真似程度で、プログラミングもできず、技術力がつかないと判断したからなんですけど、リーダーポジションになってしまうと、サーバいじったりする機会が減ってしまう。皮肉な言い方すれば、人使ってなんぼの仕事でしかありません

 

上記にも関連しますが、打ち合わせや説明をする機会が増えましたね。進捗報告用の資料を作ったり、内部の定例会議を開いて全員の進捗や課題を刈り取ったり、ルールを策定したり、と。わかっちゃいましたが、これが割と負担です。多くの情報を得られるようになったのはメリットだと思いますが、如何せんそれを活用しきれていない気がします。会議の時間もさながら、それに向けた準備や説明の仕方を考えるのも結構稼働がかかるんです。だから自分のやりたい仕事があんまり捗らない。

 

というわけで最近は、「定例会議って本当にいるのか!?」と強く思うようになりました。定例会議ってなんとなくあった方がいいし、ないと困りそうなんだけれど、そういったなんとなーくの理由で開催されている文化がありますよね。で、新人の頃にそれが当たり前のものとして洗脳されるから、誰も疑問を持たない。なんなら、新しくプロジェクトを始めることになっても、まず定例会議をいつやるかから決めたりする。う〜ん。

 

しかも、定例会議自体にどんな価値があるのかを考えてみると、ビックリするほど価値がない。議事録には「報告資料の通り。」の羅列が並んでいるだけだし、資料の内容を深堀する程度の議論(というかただの勉強会?)の証跡がたまに残っているだけ。

 

ぶっちゃけ、定例会議をやるのって偉い人が怠慢なせいなんですよ。

 

どうせ会議用に報告資料を作っているわけだし、事前に課長なり部長が資料に目を通してくれればいいだけじゃないですか。沢山人が集まる必要もないし、知りたい情報だけを選択して確認することだってできる。絶対に会議を開くよりもかかる時間もコストも小さい。

 

「資料だけではわからない部分があるから対面の方がいい。」こんな答えが返ってくるかもしれませんね。いやいや。わからないとこがあるなら、何がわからないかを明確にした上で、質問すればいいじゃん。社会人2年目だってそのくらいできるでしょ。それを課長や部長がやらないのはなんで?コストの無駄?会議に集まる人数考えたら、年収に5〜10倍ぐらい差がないとその理屈は通らないと思います。

 

彼らの本音はこうなんです。

 

例えば、映画を見るのと小説を見るのとどっちが疲れますか?ってゆう話です。間違いなく読書の方がしんどいです。それはなぜか?能動的な行為だからです。目を動かして、思考を働かせて、ページをめくらなければ読み進めることができません。これに対し映画は受動的です。ただひたすらぼーっと時間とともに流れていく映像を見て音楽を聞くだけ。楽なんですね。他人の説明を聞くのも全く同じ。受動的でもある程度の内容は理解できるんです

 

あるいは、進捗における課題について議論するのも定例会議の目的だ、という人もいるでしょう。でも、課題は課題で議論する場を設ければいいだけの話ですよね。しかも、事前に資料を読んだ上で、議論をした方がいい意見や解決策が出るとは思いませんか。

 

先にも述べた通り、定例会議の場でなされる議論は議論になっていないことが多く、その結果特に何かが生まれるわけではありません。せいぜい、誰かが安心したいがための再確認の宿題が増えるくらい。これも大体が無駄な作業です。

 

なぜ、そうなるかって、初見で得た情報に対していきなり議論をしようとするからです。また、立場上何か発言や指摘をしないといけない、という観念的なものから、的外れな議論(本来必要ではない議論)に発展するケースが多々あります。(なのに自分は議論ができていると考えている「議論をしている自分に酔っている」人が大企業には沢山います。)実際のところ、瞬時に価値あることを考え出せる人間はごく一握りの人だけです。

 

有意義な議論をするためにもまず、事前に資料を読み込んで内容を把握した上で、課題について検討会を開いた方が良いでしょう。各々が解決策の叩き台を考えた上で議論ができれば尚良し。ただ、この「議論する場を設ける」という行為も主体性・能動性が求められる行為なんですね。だから、ほとんどの人は率先してやりたがらないんですね。

 

と、こうやって利益よりも楽を優先した結果が定例会議なんですね。そして、ここでいっている楽というのは「主体性が求められない」ことを意味しています。単純な話、定例会議があると、誰を呼ぶか、いつやるかは既に定められていて、自分が目的に照らし合わせた上で考える必要がありません。こういう組織風土が社員の主体性を奪う要因にもなっているんじゃないでしょうか。

 

ただ、もちろんここには逆のリスクもあって。主体性がない人間で構成されているのに定例会議がないと、課題の対応が遅延したり、漏れたりするんですね。主体性が必要なのに、主体性を発揮しなければ問題がおきます。だから定例会議を開催した方がいい、と結論が導かれることが多いのも事実です。(私自身そう考えていた時もあります。)が、ただ一つ言えるのは、定例会議を開催するのは主体性がないことに対する最も簡単な暫定対処でしかない、ということです。

 

定例会議を無くす方法について考えていたのに、主体性の話になってしまいましたね。ただ、こんな風にメリット・デメリットを押さえておけば、別の解決策も模索できそうな気がします。

クラウドはエンジニアの在り方を変える

最近、少しクラウドについて勉強しています。いわゆる、Dropboxとかが流行り出した頃から「クラウド」という言葉が一般的に使われるようになった記憶がありますが、これえはただのオンラインストレージサービスに過ぎません。つまり、自分が作った資料とかを自分のハードディスクではなく、どこの誰が保有しているかわからないサーバ常に保存できる、ただそれだけの機能だったんですね。

 

近年使われるクラウドとはもっとずっと広い概念であり、正確にはクラウドコンピューティングと言ったりします。代表的な形態は大きく三つあり、守備範囲が広い方から順にSaaS、PaaS、IaaS。それぞれ、サース、パース、イアースと読む。

 

それぞれの特徴を説明する前に、そもそも一般的なITサービスを提供するために何が必要になるかを理解しておく必要があります。ただ細かく説明すると、本が一冊書けてしまうので、すごくシンプルに二つの構成要素だけ。ソフトウェアとハードウェア。以上。

 

例えば、今ではご老人でさえ使っているLINEというサービス。あれを利用するためには、まずLINEアプリをインストールする必要がありますよね。このアプリというのがLINEを動かすためのソフトウェアのことだと思って貰えればいいです。じゃあアプリをどこにインストールするのか。スマホ、あるいはPC版使ってる人ならPCでしょう。これがハードウェア。

 

ハードウェアというのはソフトウェアを動かすために必要なもの、だと考えれば良いです。なので、Wi-Fiなどの通信回線などもハードウェアの分類に入ります。あるいは少し細かくなりますが、スマホやPCの中に入っているOSもハードウェアの分類となります。ハードウェアがないと、ソフトウェアを動作させることはできません。

 

上記を踏まえて、クラウドの各形態について説明していきます。

 

まず、SaaSというのは、遠隔地のソフトウェアを使えますよ、というものです。ソフトウェアを使うためにはハードウェアが必要ですから、ハードウェア+ソフトウェアをサービスとして貸し出しますよ、というものです。

 

例えば、このはてなブログ。これも実はSaaSなんですね。なぜなら、エントリした記事内容に関するデータや、ブログ投稿用画面を動かすためのソフトウェアも自分のPCやスマホには入ってませんから。当然それらのソフトウェアを動かしているサーバ(ハードウェア)も私たちのものではありません。まさにサービスとしてブログ用ソフトを使っているので、SaaSというわけです。

 

ただ、デメリットとしては自由にカスタマイズができないことです。ホーム画面の配置を変えたい、と思ってもWebページのソースコードを編集して書き換える、みたいなことはできないわけです。(もちろん、ソフトウェアとして提供されている機能の範囲なら、テーマを変えたり、カスタマイズすることはできますが。)

 

もっとカスタマイズしたい、カスタマイズしなければ十分に使えない、となった時に検討すべきなのが、PaaSです。

 

たまに一般的なブログサービスではなく、自分のオリジナルのホームページを作って、ブログを書いている人いますよね。彼らはWordPressなどのフレームワークを利用してブログサービス用プログラムを自前で作っています。そして、開発したプログラムをレンタルサーバ上に乗せることで、ブログサービスを利用しているのです。そして、このレンタルサーバサービス、がまさにPaaSの一つです。

 

要するに、自分で作ったソフトウェアを動かすための”実行環境”を提供してもらえるサービスのことをPaaSと言います。

 

提供してもらえる部分はほとんどハードウェアと同じです。しかしながら、自作のプログラム以外のパッケージ製品を提供されているハードウェアに対してインストールしたりできない、というデメリットがあります。あとは、ハードウェアのスペックもせいぜい容量何GBぐらいにするか、という程度のもので、細かく指定することができません。そのため、あくまで”実行環境”を提供してくれるサービス、という表現を使われる場合が多いです。

 

というわけで、登場するのがIaaSです。IaaSもPaaSと同様ハードウェアをサービスとして利用できますが、これはハードウェアのスペックや構成、どんなソフトを入れるかについてもかなり柔軟にカスタマイズすることができます。よって、企業でも利用しやすい「クラウド」です。ちなみに今「クラウド」と呼ばれるサービスはほとんどがこれに該当すると考えて結構です。

 

と、ここまでがクラウドについての説明です。非IT系でここまで把握していれば、まぁ多少はクラウドのことを知っている人、で通るでしょうし、十分かと思います。ただ、ITエンジニアの方には、もう少しこれの意味するところを理解していただきたいかな、と。特に私のようなインフラエンジニアには。

 

今までの時代は、Linuxスペシャリストとか、Oracleがバリバリ使える、そんな専門家が割と重宝されてきたと思うんですよ。サーバ構築スキルなどもきっと評価されていました。(スマホとかと違って、ソフトウェアをインストールするのもコマンド操作が基本なので、直感的にはできないので。)でも、こんな風に新しい技術が出てくると、もうそういった専門家は入らなくなります。ここでソフトウェアを指定してこのボタンを押せばインストール完了、みたいに。それこそ、スマホなんかはもうすでにそうなってますけどね。

 

エンジニア志望の人って、自分の専門領域にこだわりを持っている人が多いけど、これだけ時代の変化が激しい中専門領域にこだわりすぎることは逆に危険だな、と感じましたね。時代的にはフルスタックエンジニアへのシフトも推奨されていますし。逆に設計の考え方、みたいな方がずっと役に立つとゆうか、汎用的に使えるというか。

 

こんな風に考えると、エンジニアってよっぽど新しい技術好きじゃないと大変だなーと思う次第です。

 

新人IT担当者のための クラウド導入&運用がわかる本

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イラスト図解式 この一冊で全部わかるクラウドの基本

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まず、「できます」と言おう。

子供の頃は、きっと不言実行の方が相手に好印象を与えることが多かった。普段はおとなしいのにサッカーは上手いやつ、根暗なのに音楽の時間に歌を歌うと上手いやつ。能ある鷹は爪を隠す、ではないが、本当に能力のある奴ほど、自分の能力を誇示しないものだと思っていたし、そういう人の方が好印象だったと思う。

 

でも、社会に出ると、こういう人たちは誰からも目を当てられず、単なる普通の人、で終わってしまう可能性が非常に高くなる。なんでかって。それは機会の平等性が子供の世界と大人社会では全く異なるからだ。

 

子供の頃は、みんなが同じように様々な科目を勉強し、色んなスポーツをやり、芸術などに勤しむ。だから、否が応でも、自分の能力が人目に晒される機会があったわけである。しかし、仕事の機会というのは全くもって平等ではない。自分で起業でもしない限り、その時、その場所でやらなければならないことを仕事としてやらされるだけだ。基本的に自分がやらされる仕事は他人はやらない仕事である。

 

そんな限られた範囲ではあるが、仕事の中には当然つまらないものと面白い要素が詰まった仕事がある。では、面白い仕事(ここでは難易度の高い仕事のことだとする)が誰に与えられるかというと、その仕事が出来そうな人物に与えられるのである。つまり、その仕事をできる能力があるのかないやつなのかは全く関係ない、ということだ。

 

もちろん、過去の実績なども参考にはなる。ただ、過去と全く同じ仕事をする、ということはないし、全く新しい事業を始める場合にはそもそも皆が未経験、という場合だってある。そんな時、何を頼りに仕事を任せる人を決めるのか。それが自信であり覚悟である。

 

自信と覚悟を示す、実に簡単な方法がある。まず、「できます」ということだ。

 

もちろん、できる根拠などはない。そもそも未来の出来事について100%断言することなんて不可能である。それは周知の事実である。にもかかわらず、「できます」ということの意味は?自信と覚悟を相手に示すことだ。未来にコミットするというと表明なのである。

 

これはプロポーズと全く同じである。永遠の愛を100%誓うことなんてできない。ただそれでも誓うのだ。極端な話、ハッタリでも構わない。でもベストエフォートで努力はするという覚悟を貫く必要はある。ただ、無理だったとしても平謝りして離婚するしかできない。

 

仕事で失敗したって、謝って怒られるだけだ。失敗しなければ、一つあなたの実績ができるし、こんどはその実績があなたに仕事を任せる裏付けにもなる。

 

まず、「できます」と言おう。