∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

一人暮らしを振り返る

同棲をすることにした。別に同棲がしたいとか、何か決定打があったわけではないけれど、強いて言えば、経済的にも時間的にも同棲した方がいいような気がしたことと、あと一人暮らしの自由さに飽きてしてしまったことが理由だろうか。あと、昔は他人と生活をするなんて考えられなかったが、今の私と、今の彼女ならなんとなく大丈夫な気がしたのもある。

 

本当のところ、このままトントン拍子で話が進んで、もう一生一人暮らしをすることはないかもしれないと思うと、少し寂しい気はする。しかし、手放すのは惜しいけど今持っていても幸せになれないものは捨てた方がいい場合が多いことを話は知っている。それは物であっても、人間関係であっても、生活であっても同じだ。人生のステージが変わるのは、新しいことを始める時ではなく、過去を捨てた時だからだ。ステージが変わらない人生は、やっぱりつまらない。

 

ただまぁ一人暮らしをして良かったと心から思う。実家暮らしの方がお金もたまるし楽だから、と社会人になっても実家暮らしを続ける人は最近多いらしいけど、それははっきりいって人生損している。

 

なら、一人暮らしの何がいいのか。少し振り返ってみたいと思う。

 

・好きなテレビが見れる

家族に見ている内容についてイチャモンをつけられたり、同じ時間に見たいチャンネルが競合したりすることがない。親に見られたくないような内容のドラマも映画も見放題。今でこそテレビはほとんど見なくなったけど、一人暮らしを始めた時は感動したものだ。

・好きなだけ夜更かしできる

遅くまで起きていても家族に迷惑をかけることがないので、好きなだけ夜更かしできる。夜遅くまで動画を見たり、何をやってもいい。

・好きなだけ寝れる

逆もまた然り。夜更かしをした次の日に家族に起こされることもない。物音もないので、深く眠ることができる。昼寝も自由。こたつの中でも寝ても注意されない。

・好きなものだけ食べれる

一人暮らしをしたら是非とも料理をした方がいい。自分が食べたい食材を使って、食べたい料理を作って、自分の好きな味付けで食べられる。うっかり母親が自分の嫌いな料理を作ったりすることもないし、「今日は家でご飯食べるの?」とか聞かれることもない。自分で外食するのかしないのか、選択できる点も非常に魅力だ。

・友達を呼んで馬鹿騒ぎできる

家に友達を呼んでお酒を飲んで馬鹿騒ぎができるのは一人暮らしの一つの特権だ。もちろん、今は片付けが非常に面倒くさいことを知っているので、極力断っているが、それでもやってみると楽しいことの方が多い。酔っぱらったまますぐ寝れるのがまた格別である。

・大声で歌える

風呂で大声で歌っても何も気にしなくていい。大音量で音楽を聞くこともできる。この開放感は実家の中では味わえないだろう。

 

さて、どうだろう。まさに好き放題で、何もかもが自由なのだ。一人暮らしを始めたばかりの私にとっては天国だった。ただ、これらを魅力的に感じない人もいるかもしれない。実は今の私自身がそうである。別に好きなテレビを見れたり、好きなものばかり食べれたり、好きなだけ夜更かしができたりすることに感動しなくなってきた、つまり飽きたのだ。上記の自由は本質ではないと悟ったというべきか。

 

でも未だに一人暮らしっていいなと思う理由がたった一つだけ残っている。

・静かに一人を噛みしめられる

社会人になると尚更だが、他者を完全に排除し、自分が一人でいられる時間というのは人生の中では本当にごくわずかしかない。一人なんて寂しいから嫌だ、という人もいるかもしれないが、一人の時間・空間でしかできないこと、考えられないことはたくさんある。(私は一人モードでなければブログなんて書くことはできない。)そして、その中にこそ自分の本質は眠っているんじゃないかと思う。

 

最後に、私が一人暮らしの中で学んだことを一つ。

 

・自由には限界がある

一人暮らしの一番いいところは、自由とセットで責任がちゃんと付いてくることである。例えば、自分の好きな番組ばかり見ていると世の中のニュースについていけなくなったり、自分の好きな料理ばっかり食べていると健康が悪化したり。好きなだけタバコ吸ったら家から出る時に80000円ぐらい請求されたり。二日起きて二日寝てを繰り返すと体調崩したり、とあげれば本当にキリがない。

 

また、好きなことを好きなだけできる代わりに、生活を維持するための家事という重いタスク・責任がのし掛かってくる。自由の代わりに発生する責任と真っ向から直面した時初めて、「この自由は責任の代わりに手に入れるほどのものなのか」という問いが自分の中に生まれるのだ。これに答えることで自分の価値観が浮き彫りになっていくのはなかなか面白い。

 

子供の頃、世の中にルールがなぜ存在するのか、について誰でも教わったことがあると思う。自由が最高なのになぜ制約を設けるのか。この問いに対する回答はこうだったはずである。制約があることによって自由は最大化される、と。逆に言えば、過度に自由であることは逆に不自由な状況を導いてしまうのだ。

 

これはあくまで集団行動に限った話、と私などは考えていたがあながちそうでもないらしい。だから自分ルールを作ったり、自分で自分に制限を課すことで、自分の自由を最大化しようとする人がいるのだ。

 

ここで述べたようなことはきっと月並みだ。私も一人暮らしをするまで想定していなかったか、というと嘘になる。でも、一人暮らしをする前の私は知っていただけで、今の私は体験した。体験にこそ意味があったし、面白さがあった、そして自分自身に変化もあった。「一人暮らしなんて大変でしょ?」とか言わずに一人暮らしはやっといた方がいい。

アイデンティティクライシス

しばらく会社という組織の中にいると、自分が何者でもないことに気づく。自分にしか出せないアイデアがあるわけでもなく、カリスマ的なリーダーシップがあるわけでもない。自分ができる仕事の大半は他の人だってできる。学生時代の私を私たらしめていたはずの優秀さを自分自身で特に感じることもない。

 

周りにいる人が凄くてみんな特殊、というのも違う。もちろんそういう人もいるけれど、別に、彼らが自分と比べて圧倒的に優秀だと思う事もなければ、特に目立つ側面があると感じるわけでもない。でも、自分の方が上だ、と思う事もやっぱりない。

 

自分が勝負できるフィールドがない。

 

私は誰かに勝てない競技が好きではない。バスケットボールに興味を失ったのも、努力だけでは超えられない壁を感じたからだし、そこに自分を投影することができなかったからだ。私にとってバスケットボールはやっていて楽しいという感情はもちろんあったが、私を私たらしめるものであってほしかった。たぶんそういうことなんだと思う。

 

私が大学院まで進学したのも、学業が自分にとって勝ちやすいフィールドだったから、なのだと思う。別に大して勉強したわけでもないし、それほど苦痛でもなかった。なのに結果は人の何倍も出る。私にとってはこれが普通だったが、それが一般的に見て特殊であることは理解していた。だからこそ、私のアイデンティティは学業の中に投影していた。

 

昔、一番になれないことを嘆くようなツイートをしたら、中学の同級生から「何でも一番がいいと思うなよ!」とツッコミをいただいたことがある。彼は当時の私から見ると、何の取り柄もない友人だった。そもそもほとんどの人は、勉強も部活も平均ぐらい、のはずだ。

 

彼のように昔から平凡だった人は自分という人間をどのように捉えているのか、私はずっと疑問だった。平凡である事が当たり前すぎて、平凡であることに大して何の疑問も感じていないのかもしれない。あるいは、すでにこのアイデンティティの崩壊を乗り越えた上での人生をずっと昔から歩んでいるのかもしれない。

 

自分の趣味を楽しめる人、というのはある意味すでに負けの人生を悟ったことのある人なのかもしれない、と最近は思う。私が今になってもこれといった趣味を持てないのは、結局のところ、のめり込んだ先の結果を求めてしまうからだ。

 

自分にすごく向いている分野があって、それをやればすぐに成果が出て、楽しいと感じられるはず。でも、ほとんどのことはすぐに結果は出ないし、他の人たちよりも抜きん出ることさえ難しい。そういうことを考え出すと今やっていることの楽しさも薄れてしまう。

 

でも、なんというか、もう自分は何者でもないし、何者になる必要もないのかもなーと考えると、少し気が楽になる。

 

やりたいことを自由に。

 

面倒を取るか退屈を取るか

新しい物事を始める。新しい仕事を始める。新しい環境へ移る。新しい人間関係を構築する。これらは基本的に面倒であり、苦労を伴うことである。そして、人間というのは元来面倒くさいことが嫌いな生き物だ。だから、慣れ親しんだ習慣、慣れ親しんだ仕事、慣れ親しんだ人間関係の中でルーティンを送ることになる。

 

ただ、こういった生活には実は大きな欠点がある。人生がすごく退屈なものになってしまう、ということだ。

 

大人になって自分のことを理解し始めると、自分が何が好きで何が嫌いなのかがなんとなくわかるようになる。そうなると、自分の行動パターンを固定化しがちである。そして、自分に合った生活や習慣を続けていくことこそが幸せな人生だと考える。実に理にかなった考え方だと私も思う。

 

しかし、実際はそうではない、人間の気持ちや考えは絶えず変化していくからだ。例えば、私は漫才の動画を見るのが好きである。しかし、今では好きな漫才師のネタを見ても笑うことはない。一種の心地良さはあるけれど、初めて見た時のインパクトや面白みを今感じることは全くないと言ってもいい。慣れたが故に面白くなくなってきているのだ。

 

一人暮らし、というのもそうだ。実家暮らしが嫌で仕方がなかった大学生の私が初めて一人暮らしを始めた時はまさにそこが天国のように感じた。自分の好きなことを好きな時間にやることができる上、誰にも邪魔されない静かな空間がそこにはあったからだ。翻って、今はどうかというと、退屈でしかない。逆にそういった自由が自制心を妨げて、自分をより一層怠惰にしていることを心配するほどだ。

 

仕事というのもきっとそうだ。新人の頃は毎日が覚えることだらけで、大変ではあったが、正直なところ面白かった。設計や試験もそうだし、ツールを作ったりするのもそうだ。だから、そういうことが好きだと錯覚したこともあった。でも本質はそうではなく、できなかったことができるようになったのが面白かったのだ。

 

つくづく、人間とは飽きる生き物だと思う。

 

ただし、こういった生活を打破するのは結構少し難しい。というのも、慣れ親しんだ物事というのは退屈ではあるが、非常に楽だからだ。楽な人生を選ぶ人たちを今まで何度も見てきたし、楽であることを推奨してくる人も多い。かくいう私も若い頃に比べると、はるかに楽であることの重要性を感じるようにはなってきていると思う。

 

しかし、やはり限度というものはある。変化を嫌うのが人間であっても、退屈も同じくらい、もしくはそれ以上に嫌いなのが人間なのだ。私の友人にも仕事が嫌で仕方なく退職したのに、退職したら暇になったから復帰した、という人もいる。「自由からの逃走」で述べられているように、人は退屈に絶えられなくなると自由を放棄することさえあるのだ。

 

私はこの、「退屈」という感情はセンサーとしてすごく重要だと考えている。というのも、私が今までの人生で自分の環境を変える原動力になっていた大元の感情が退屈だからである。現実逃避っぽくて、あまり、聞こえのいい話ではないかもしれない。確かに、夢や希望を追いかけて一歩を踏み出す方がはるかにかっこいいだろう。しかし、どういう理屈で行動を変えたかよりも、実際に行動を変えたかどうかの方が人生に影響を与えることは多い。

 

一般的な話として、これからはますます、変化を強いられる時代になっていく。これまでの人生は学生として勉強した後、社会人になり終身雇用で一つの会社に尽くし、引退後の余暇を楽しみ人生を終える、というのが標準的なスタイルだった。

 

しかしながら、高齢化社会が進み、我々ぐらいの世代は平均寿命が100歳に差し掛かるとも言われている。当然日本を取り巻く年金不払のリスクはある(というかもらえない可能性が圧倒的に高い)ため、何歳まで労働生活を強いられるかもわからない。つまり、労働人としての人生が長くなることを意味する。

 

それに加え、近年はテクノロジーの変化がこれまでにないほど著しい。特に、AI、人工知能の出現は、これまでの雇用のあり方をがらっと変えるだろう。将来的に49%の仕事が人工知能に代替されるとも言われている。割合以上に危機意識を持つべきなのは、これまで高い専門性を発揮することで成立していた仕事(医者や弁護士など)が代替されうる、ということだ。

 

エンジニアも同じである。ただコーディングが得意です、なんてプログラマーはすぐに淘汰されるだろう。これまでのプログラムの歴史を考えてみてもわかる。扱いにくいアセンブラ言語はC言語にとって変わられ、よりわかりやすいスクリプト言語Java言語などに置き換えられた。さらに、いくつものフレームワークやライブラリが登場したことで高い専門性がある部分はラッピング、簡略化されていく流れが続いている。

 

インフラ系についても同様だ。クラウドコンピューティングの登場で、サーバを構築するスキルも、ネットワークを構築するスキルもかなり簡略化されてきている。要するに、専門性は必要だが、ある程度パターン化されているスキルや知識というのはどんどん簡略化されていくのが世の流れであったし、人工知能はそれらを完全に奪ってしまう可能性があるということだ。

 

よって、時間をかけて何らかの専門家になれば、人生安泰という時代は終わったと考えた方がいいだろう。昔であれば、学生時代に頑張っていい大学に入って、いい会社に入れば、その後は会社の中で学ぶだけで十分だった。しかし、今は大人になってからも新しいことを学び、新しい知識やスキルを身に付けなければならない、ということだ。今の会社でやっている仕事が将来的に必要とされる可能性も低いし、そもそも会社が残り続けるかさえわからない。

 

以上を考慮するのであれば、面倒を取ることを厭わないことが大切であることが論理的にはわかるだろう。しかし、冒頭で述べたように面倒事をなるべく避けたいのが人間だ。だからこそ、退屈と天秤にかけるべきである。これまでの時代は退屈を無難で手軽なコンテンツで暇つぶしをすれば、将来は保証されていた。しかし、今は違う。退屈に絶えられないと感じたら即刻で動くべきだ。

 

面倒を取るか退屈を取るか。私は常に自問している。

社会人3年目までに身に付けたい3つのこと

「というテーマで、プレゼンできる?」と昔、研修のクラス担任であった先輩に問われたのがきっかけで自分なりにこんなテーマについて考えてみた。結論から言うと、本当に大切なことは3つである。

1.あなたがその組織にいる理由

残念ながら、あなたの代わりはいくらでもいる。サラリーマンとして働いているのなら尚更である。しかし、あなたがやれば早く終わる、あなたがやれば高い品質を実現できる、そんな仕事や領域があればいい。それだけで、少なくともあなたが今その組織で仕事をする理由になる。

 

強みを身につける、というと高い専門性を身に付けなければならないと考える人が非常に多い。確かに高い専門性があった方が新規性の高い仕事などを検討する時には役に立つ傾向にあるだろう。私もそうなりたいと思っている。

 

しかし、実際の仕事というのはこれまでやってきたことを少しずつ改良していくものもまだまだ多い。だから、色んなことができる人材というのもそれはそれで強みだったりするのだ。かくいう私も担当内では二つのシステムの業務と方式を経験しているところだ。だからこそ活きる部分ももちろんある。

 

また、あまり数値化されないためわかりにくいが人間性の部分での強み、というのもある。これは社会人になってから身につく、というよりは社会人になってから自覚するものであり、むしろ社会人になったら自覚しなければならない。

 

人間性の強みは弱みと表裏一体だ。すなわち弱みがあるということは強みがある、ということである。例えば、私は他人に対して厳しくすることができない。リーダーになった今でもそうだし、今後立場が変わってもできないだろう。

 

逆に言えば、他人の言うことに共感を示すことができるし、論理的に指摘なりをすることはできる。チームの空気も決して悪くは無い。実際上司からはチームビルディングの素養もあるのでは?と言われているほどだ。これに関しては社会人になるまでに既に形成された私の人格的な部分であるが、これが強みとして生きてくる場合もある。

 

2.あなたに仕事を任せる理由

端的に言うと、「信頼」のことだ。これはもうスキル云々だけの話ではない。いかに特殊なスキルを持っていようが、信頼できない人間には重大な仕事は任せられない。遅刻したり、急に休んだり、仕事の期限をいつも守らなかったり。だから、最低限の信頼を手に入れる必要はある。

 

そこで、必要なのは何かを完遂する経験である。もちろん、チームとしてやり遂げる経験もあった方がいい。ただ、どちらかといえば、自分が主管として与えられた裁量・期限の中で求められる品質基準を満たす成果を出した経験が大切だ。

 

そして、何かを完遂するためには必ず自分で答えを出さなければならない場面がある。想定外の問題が発生した時にどうするか。正しいと信じていた前提が覆ったらどうするか。ここに対して、ゼロ回答はありえない。自分がどういう調査をして、どういう検証をして、その結果どうだったから、こう解釈した、だからこうする、を決めて進めなければならない。これを繰り返していると、あいつに任せても大丈夫だと思ってもらえる。

 

3.あなたのために動く理由

結局、最後が一番大切なのかもしれない。と最近ようやく本気で考えるようになってきた。要するに本当にチームとして良い仕事をするためには、自分が優秀なだけではなく、他人を動かす必要がある、ということだ。

 

他人が気持ちよく動くためには理由が必要である。もちろん、他人が動くための理由には実に様々なものがあるが、ここで特に言及しておきたいことは自分の意見がちゃんと相手に伝わることである。すなわちプレゼンテーションだ。そして、最低限プレゼンテーションで大切なことは二つ。自分の意見を構造化して述べる力と、図解・可視化する力である。

 

自分の意見を構造化して述べられるようになることは必須である。ただ、この辺りは普段のメールや会議の報告資料などを作成したり、加えて主要な論理展開のフレームワークを勉強したり、ある程度は身につくものだと思われる。ビジネスは総じて同じような流れ(結論→理由など)で説明されることが多いので、誰でも経験とともに慣れていく。

 

差がつくのは図解力だ。プレゼンテーションに関する本には書かれているが、文字よりも図の方が圧倒的にわかりやすい。ただ、最低限文字が起こされていれば報告はできるため、普段から意識していなければ、自分の考えを絵で伝えたり表現する機会は激減する。

 

逆に、普段から説明する時に図で表現するにはどうなるかを考えてみたり、実際にホワイトボードを使ってみたり、あるいは他人が言葉で説明している内容を自分のノートに図解してみたりする習慣をつけることを勧める。ちなみに私は絵の重要さに気づいてからは自宅用にホワイトボードを購入した。ホワイトボードに絵を書く奴というと、なんとなくいけすかない気がするけれど、割と社会では高評価につながることも多い。

 

社会人3年目で、3つの理由を持っていれば、十分組織の中で働き組織に貢献することはできる。これから社会人になる人、1年目〜3年目くらいの人は是非とも参考にしていただければと。

ナレッジマネジメントがうまくいかないのはなぜなのか

ナレッジマネジメントとは直訳すれば、知識管理です。誰かの持っている知識を他の人が利用できるようにはからうための取り組み、といった意味合いで使われることが多く、スキルトランスファーと似たような考え方です。

 

どんな組織もきっとそうだと思うんですれど、過去の人たちのノウハウは総じて消失していくんもんなんですね。何かについて調べた結果とか、整理した結果とか、実際にぶち当たった問題とかその解決策とか。マネジメントをする立場としては、まぁまた現場の人に調べてもらえばいいか、という話なんでしょうけど、これはかなりの稼働損失です。

 

こういう状態をノウハウが蓄積されていない、というわけですけど、ノウハウが蓄積されていないはずはないと思いませんか。例えば、うちの会社だとデータとか仕事で作成したものは基本的に全てサーバ上に保管されています。なので、誰かが何かに調べた結果というのはどこかしらに残っているわけです。

 

問題なのはどこに残っているかがわからない、探し出すのにすごく時間がかかる、ということです。設計書など公式なドキュメント類はもちろん全体に共有されているので、ある程度探しやすくはなっていますが、設計書に記載されないような細かい内容、しかし重要な情報は誰かの個人用フォルダに埋まっているのが現状です。

 

なぜ、こんな風になってしまうのかというと、原因は二つあって、ノウハウを残しておくための枠組みを用意していないこと。ノウハウに過度な品質を求めてしまっていることです。

 

例えば、サーバのフォルダ構成というものは概ねルールが決まっていると思います。その方が直感的にどこにどんなファイルがあるかわかりやすいからです。しかし、その枠組みに当てはまらないような成果物があると、どこにおくべきか困ってしまいます。

 

また、全員が見れる場所、ということでドキュメントの品質を求めすぎると、個人的に作ったけどよくまとまっていない資料とか、情報に誤りが含まれていない資料とかを公開フォルダにおくことをためらってしまう人もいます。(なので、私は困った時には個人フォルダの中をよく探索します。)

 

情報を蓄積していく、という観点で言えば、資料が見やすいか間違っているか、正しいか間違っているか、などは脇に置いて、ただひたすら情報を格納するためのフォルダを作ればよいと思います。

 

実はフォルダというはデータベースなどに比べると実に情報の管理がしにくい構造(ツリー構造)になっています。なので、どんなに綺麗なフォルダ構成にしたところで、誰にとってもわかりやすい構造にすることはできないと考えた方が良いです。

 

むしろ、格納は雑にして、フォルダを検索するためのツールを使ったりすることで、検索性能をあげる方がベターではないかと思います。ちなみに私はHXGrepというツールを使って情報を検索しています。フォルダの構成とかをはっきり理解していなくとも、あるワードが使われている資料を特定のフォルダ配下で探すことができれば、ローカル版のグーグルのような使い方ができます。

 

それに、グーグルで検索できる情報というのも、実際のところ、正しいのかなんてわかりません。すごくコアな情報を調べたりすると、誰かの個人用ブログのページに飛んだりすることも多々あります。でも、私たちはそれを手がかりに次のステップに進められるのも事実です。ならば、別に自分たちのサーバ内の情報についてもそういうスタンスで調査すればよいんではないでしょうか。

本当の働き方改革とは

私の担当でも、「働き方改革」という言葉がよく使われるようになった。電通の事件がってから労働時間を減らしましょう、そのために生産性を高めましょう、という動きが色んな会社で起こっているようで、プレミアムフライデー制度なんてものまで導入され、これはこれで別の経済効果を生み出そうとしてたり。

 

働き方改革というと、真っ先に挙がるアイデアが、テレワーク、リモートワーク、である。例えば、出張の時間を仕事に使えればその分生産的になれるし、自宅での勤務が可能であれば、満員電車のストレスにさらされることもなくなる。その分が良い労働につながる、という考え方が背景にはある。

 

私はもちろん、テレワーク制度には賛成である。家で仕事ができる方が望ましい。プライベートと仕事の境目がなくなることを懸念する人は多いけど、別にプライベートとか仕事とかは私にとってはあんまりどうでもいい。一人の方が変な割り込みがないし、自分の好きなように仕事を進められると思う。

 

ただ、テレワークを導入すれば、組織として生産性があがるのか、というと答えはノーだ。テレワークが効果的なのは、成果が明確で、個人での作業が大半をしめるスキームで動いている仕事、例えば、バックオフィス業務などに限る。

 

 

逆に打ち合わせで物事が決まるサラリーマン、成果が曖昧なサラリーマンには向いていない。だって、人が集まらないと仕事にならないから。だから、テレワークしてもいいですよ、と言われても、最前線で働いている人たちはテレワークによる生産性の向上はあまり望めない。

 

サラリーマンの本質的な問題点は、働く場所如何ではない。非同期に進められる仕事が少ないことが問題なのだ。つまり、打ち合わせを前提とした意思決定の方法論、打ち合わせの中で進捗報告、情報共有が間違っているのだ。

 

テレワークを導入の効果を得るためには、まずこういった非同期の仕事をいかにして無くすかを考えなければならない。制度を導入する、という施策は簡単なためハードルは低いが、他社の成功事例の真似事をしたぐらいでは、はっきり言ってほとんど意味はない。少なくとも、改革とは呼べない。

 

本当に働き方改革を目指すなら、文字通り働き方を変えなければならない。端的に言えば、今やっている仕事の質を落とすしかない。質を落とせば自ずと量は減る。ただ、残念なことに、大きい組織ほど、品質を下げるという選択ができない。

 

また、仕組のプロセスが完成されている組織において、品質は何らかの形で定量化されているケースが多い。例えば、提案用の企画書であれば、先輩・上司・部長と多くの確認プロセスを踏んだものの方が品質が高いと考えられるし、ソフトウェアであれば、より沢山の試験をして、バグの少ないものが品質が高いと考えられる。

 

でも、こんなのは実際のところ、仮説に過ぎない。最初の企画書の方がお客さんから見ればわかりやすかったかもしれないし、試験で全くバグの出なかったソフトウェアを実際に動かしてみたら、肝心の機能で大量にバグがでることだってある。組織が謳っている品質なんてものは自己満足的なものなのだ。

 

だから、沢山の仕事量が高品質を支えている、という幻想をまず捨てるべき。

 

生産性を向上させるのに最も効果的なのは、無駄な作業を減らすことだ。しかし、品質を過大評価しすぎると、すごく微小な価値しかない仕事さえ無くすができない。すると、仕事を減らすことはできなくなる。なぜなら、仕事として定義されている以上、何らかの役には立っている、あるいはいつか役に立つ可能性があるからだ。

 

生活をしていく上での家事も同じだ。毎日掃除するのが大変なら、掃除する場所を限定化したり、掃除の頻度を下げたりすればいい。別にちょっとぐらい汚れてたって何の問題もない。

 

洗濯も同じだ。乾燥機付きの洗濯機を買うより何より、洗濯の頻度を下げる方がよっぽど効果がある。なんなら、冬に同じ服を3日着たってそれほど汚れないだろうし、傍目には不潔にはうつらない。衛生的に問題があるけど、それが原因で体を壊すことなどまずないだろう。人間の体はそんなに柔ではない。必要以上に100%を目指さないことだ。つまり、必要最低限の品質があればいいのである。

 

品質を落とす覚悟を決めること。それが本当の働き改革である。

何のために働くのか

最近、働く目的がブレてきているんですね。というか、完全に見失ってきている。3年目ぐらいまではとりあえず目の前の仕事をやりきって、仕事を覚えて、評価を勝ち取って、自分が自由に働きやすい環境を作ることが目的だったんですね。その中に成長もあるだろうと思っていました。

 

でも、蓋を開けてみれば、自分が求めていたような成長はないし、そういった成長は会社からも求められていない。もちろん、自分の弱い部分とか、サラリーマンとしての基礎的な能力は鍛えられたと思いますけど、ただ別にそんな能力伸ばしてもねって感じです。

 

また、ある程度自由になった、というのも目的を失ってしまった一つの理由ではあるかと思います。というのも、人間って不自由な環境に置かれると、まず自由になることを本能レベルで渇望するじゃないですか。低次元の欲求が脅かされるとまずはその欲求を満たすことを求める。すなわちそれが目的になって、行動のモチベーションになるわけです。

 

でも、どうも今の私はそれなりに自由な状況になってしまったが故に5月病っぽい感じになっているんですね。自由になった上で、何をやりたいのか?を考えた時に、今の会社でやりたいことってなんだろう。そもそもそんな仕事あるのか?という話になるわけです。つまり、今までやっていたようにただ何となーく会社にいって目の前の仕事をしているだけ。

 

で、私なんかはこれといった趣味もないですし、仕事を人生の中での結構重要な部分に位置付けているわけです。その前提で、仕事が意味のないものになってしまうと、人生の意味も揺らぎかねないわけですね。実際、最近は休日も退屈過ぎて困ってしまいます。

 

ツラツラと述べてきましたが、近年は、私と同じような考えをもっている若者が多いらしいです。自分の存在意義を感じないとか、自分が何をしたいのかわからないとか。なんていうか、逆説的にはすごく自由で幸せな状況なんですけど、ただ自由である状態というのはフロイトが「自由からの逃走」で述べているように実は苦痛なんです。

 

最近は簡単にインスタントに楽しめるコンテンツがたくさん用意されていて、さくっと暇をつぶすことはできるんですけど、映画見たりドラマを見ても、イマイチ満足できない。人間の深い部分に突き刺さるほどのクオリティがなく、表面的な面白さしか感じられないんですね。

 

今やっている仕事も世の中のコンテンツと同じような側面が感じることが多くて。一言で言うと、「とりあえずお金になりそうな仕事をする」、という方針しかないように感じるんですね。自分たちのWillとかは何にもなく、ただただお金になりそうな仕事を探して、そこに対してソリューションを探して売る、みたいな。資本主義社会の中では確かにそういう考え方が必要なんでしょうけど、拝金主義的な考え方には薄っぺらさを感じてしまう。

 

就職する前の私は、システムというのは作品だと考えていた節があって。それはすなわち、少なからず芸術的な意味合いを持つものだと考えてました。でも、今考えてみれば、ただの製品でしかないんですね。そこに対して誰かの思い入れがあるわけでもなく、ただただ分業化して作られたパーツを組み合わせたもの、でしかない。思い入れよりも納期やコストが優先されるスキームの上で動いています。

 

で、こういった実利的な考え方の組織で行動するようになると、プライベートの過ごし方もどんどん実利的になっていくわけです。意味のないことはなるべくさけ、作業を効率化して、面倒臭いことを避ける生き方をする。それが洗練化されていくわけですね。これちょっと面白そうだな、と思う前に頭でこれには価値がないな、と考えてしまうわけです。で、手軽に楽しめるコンテンツに手を出してひまを潰す。

 

こういう生活をしていると、むしろ生きている意味がわからなくなる、という矛盾に苛まれます。でも、本当は生きている意義に縛られすぎているんですね。今日という日を価値あるものにしなければならない、という強迫観念が染み付いているので、意義がない日々を過ごしていると、意味がない人生だと考えてしまう。

 

子供の頃の人生が充実していたのって、実はこの部分が非常に大きいんです。なぜならば、子供の頃は意義なんてものを誰も意識していなかったし、誰からも意義を求められることはなかったからです。頭で考えるよりもノリで動いて、その瞬間を楽しんで、それだけ。非計画的で、非合理的。だから充実していたんです。たぶん、それが「遊び」だったんだと思います。

 

大人になると、色んな場面で、計画性や合理性が求められる。休日の遊びですら、仕事に感じるし、億劫に感じる。何かしらの意義を強要されている気がする。で、そういう生活を続けていると、ますます、自分の人生ってこれでいいのか?などと思うわけです。実はそういう人結構いるんじゃないですかね。

 

この状況を脱却するためには無計画、即興的に生きてみること、敢えて面倒臭いことをやってみること。要するに、頭を使わず感覚的に生きる瞬間を作る、ということです。必要以上に意義を求めない、ということです。仕事の中でこれをやるってのは非常に難しいですけどね。

 

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実存的で非常に面白いです。

 

定例会議が主体性を奪う

実は4月から方式チームのリーダーになってしまったんですね。実務経験は約半年足らず。技術力、専門知識ともにまだまだ素人レベルにもかかわらず。まぁ厄介な先輩の下で働き続けるよりは、自分もチームも健康になったかなとは思いますし、自分がコントロールできる裁量が大きくなって、仕事は進めやすくなったとは思います。

 

ただ、当然悪いこともたくさんあって。もっとも個人的に辛いのは現場経験が詰めないことですね。そもそも方式へ転換したのだって、AP開発では設計のサル真似程度で、プログラミングもできず、技術力がつかないと判断したからなんですけど、リーダーポジションになってしまうと、サーバいじったりする機会が減ってしまう。皮肉な言い方すれば、人使ってなんぼの仕事でしかありません

 

上記にも関連しますが、打ち合わせや説明をする機会が増えましたね。進捗報告用の資料を作ったり、内部の定例会議を開いて全員の進捗や課題を刈り取ったり、ルールを策定したり、と。わかっちゃいましたが、これが割と負担です。多くの情報を得られるようになったのはメリットだと思いますが、如何せんそれを活用しきれていない気がします。会議の時間もさながら、それに向けた準備や説明の仕方を考えるのも結構稼働がかかるんです。だから自分のやりたい仕事があんまり捗らない。

 

というわけで最近は、「定例会議って本当にいるのか!?」と強く思うようになりました。定例会議ってなんとなくあった方がいいし、ないと困りそうなんだけれど、そういったなんとなーくの理由で開催されている文化がありますよね。で、新人の頃にそれが当たり前のものとして洗脳されるから、誰も疑問を持たない。なんなら、新しくプロジェクトを始めることになっても、まず定例会議をいつやるかから決めたりする。う〜ん。

 

しかも、定例会議自体にどんな価値があるのかを考えてみると、ビックリするほど価値がない。議事録には「報告資料の通り。」の羅列が並んでいるだけだし、資料の内容を深堀する程度の議論(というかただの勉強会?)の証跡がたまに残っているだけ。

 

ぶっちゃけ、定例会議をやるのって偉い人が怠慢なせいなんですよ。

 

どうせ会議用に報告資料を作っているわけだし、事前に課長なり部長が資料に目を通してくれればいいだけじゃないですか。沢山人が集まる必要もないし、知りたい情報だけを選択して確認することだってできる。絶対に会議を開くよりもかかる時間もコストも小さい。

 

「資料だけではわからない部分があるから対面の方がいい。」こんな答えが返ってくるかもしれませんね。いやいや。わからないとこがあるなら、何がわからないかを明確にした上で、質問すればいいじゃん。社会人2年目だってそのくらいできるでしょ。それを課長や部長がやらないのはなんで?コストの無駄?会議に集まる人数考えたら、年収に5〜10倍ぐらい差がないとその理屈は通らないと思います。

 

彼らの本音はこうなんです。

 

例えば、映画を見るのと小説を見るのとどっちが疲れますか?ってゆう話です。間違いなく読書の方がしんどいです。それはなぜか?能動的な行為だからです。目を動かして、思考を働かせて、ページをめくらなければ読み進めることができません。これに対し映画は受動的です。ただひたすらぼーっと時間とともに流れていく映像を見て音楽を聞くだけ。楽なんですね。他人の説明を聞くのも全く同じ。受動的でもある程度の内容は理解できるんです

 

あるいは、進捗における課題について議論するのも定例会議の目的だ、という人もいるでしょう。でも、課題は課題で議論する場を設ければいいだけの話ですよね。しかも、事前に資料を読んだ上で、議論をした方がいい意見や解決策が出るとは思いませんか。

 

先にも述べた通り、定例会議の場でなされる議論は議論になっていないことが多く、その結果特に何かが生まれるわけではありません。せいぜい、誰かが安心したいがための再確認の宿題が増えるくらい。これも大体が無駄な作業です。

 

なぜ、そうなるかって、初見で得た情報に対していきなり議論をしようとするからです。また、立場上何か発言や指摘をしないといけない、という観念的なものから、的外れな議論(本来必要ではない議論)に発展するケースが多々あります。(なのに自分は議論ができていると考えている「議論をしている自分に酔っている」人が大企業には沢山います。)実際のところ、瞬時に価値あることを考え出せる人間はごく一握りの人だけです。

 

有意義な議論をするためにもまず、事前に資料を読み込んで内容を把握した上で、課題について検討会を開いた方が良いでしょう。各々が解決策の叩き台を考えた上で議論ができれば尚良し。ただ、この「議論する場を設ける」という行為も主体性・能動性が求められる行為なんですね。だから、ほとんどの人は率先してやりたがらないんですね。

 

と、こうやって利益よりも楽を優先した結果が定例会議なんですね。そして、ここでいっている楽というのは「主体性が求められない」ことを意味しています。単純な話、定例会議があると、誰を呼ぶか、いつやるかは既に定められていて、自分が目的に照らし合わせた上で考える必要がありません。こういう組織風土が社員の主体性を奪う要因にもなっているんじゃないでしょうか。

 

ただ、もちろんここには逆のリスクもあって。主体性がない人間で構成されているのに定例会議がないと、課題の対応が遅延したり、漏れたりするんですね。主体性が必要なのに、主体性を発揮しなければ問題がおきます。だから定例会議を開催した方がいい、と結論が導かれることが多いのも事実です。(私自身そう考えていた時もあります。)が、ただ一つ言えるのは、定例会議を開催するのは主体性がないことに対する最も簡単な暫定対処でしかない、ということです。

 

定例会議を無くす方法について考えていたのに、主体性の話になってしまいましたね。ただ、こんな風にメリット・デメリットを押さえておけば、別の解決策も模索できそうな気がします。

クラウドはエンジニアの在り方を変える

最近、少しクラウドについて勉強しています。いわゆる、Dropboxとかが流行り出した頃から「クラウド」という言葉が一般的に使われるようになった記憶がありますが、これえはただのオンラインストレージサービスに過ぎません。つまり、自分が作った資料とかを自分のハードディスクではなく、どこの誰が保有しているかわからないサーバ常に保存できる、ただそれだけの機能だったんですね。

 

近年使われるクラウドとはもっとずっと広い概念であり、正確にはクラウドコンピューティングと言ったりします。代表的な形態は大きく三つあり、守備範囲が広い方から順にSaaS、PaaS、IaaS。それぞれ、サース、パース、イアースと読む。

 

それぞれの特徴を説明する前に、そもそも一般的なITサービスを提供するために何が必要になるかを理解しておく必要があります。ただ細かく説明すると、本が一冊書けてしまうので、すごくシンプルに二つの構成要素だけ。ソフトウェアとハードウェア。以上。

 

例えば、今ではご老人でさえ使っているLINEというサービス。あれを利用するためには、まずLINEアプリをインストールする必要がありますよね。このアプリというのがLINEを動かすためのソフトウェアのことだと思って貰えればいいです。じゃあアプリをどこにインストールするのか。スマホ、あるいはPC版使ってる人ならPCでしょう。これがハードウェア。

 

ハードウェアというのはソフトウェアを動かすために必要なもの、だと考えれば良いです。なので、Wi-Fiなどの通信回線などもハードウェアの分類に入ります。あるいは少し細かくなりますが、スマホやPCの中に入っているOSもハードウェアの分類となります。ハードウェアがないと、ソフトウェアを動作させることはできません。

 

上記を踏まえて、クラウドの各形態について説明していきます。

 

まず、SaaSというのは、遠隔地のソフトウェアを使えますよ、というものです。ソフトウェアを使うためにはハードウェアが必要ですから、ハードウェア+ソフトウェアをサービスとして貸し出しますよ、というものです。

 

例えば、このはてなブログ。これも実はSaaSなんですね。なぜなら、エントリした記事内容に関するデータや、ブログ投稿用画面を動かすためのソフトウェアも自分のPCやスマホには入ってませんから。当然それらのソフトウェアを動かしているサーバ(ハードウェア)も私たちのものではありません。まさにサービスとしてブログ用ソフトを使っているので、SaaSというわけです。

 

ただ、デメリットとしては自由にカスタマイズができないことです。ホーム画面の配置を変えたい、と思ってもWebページのソースコードを編集して書き換える、みたいなことはできないわけです。(もちろん、ソフトウェアとして提供されている機能の範囲なら、テーマを変えたり、カスタマイズすることはできますが。)

 

もっとカスタマイズしたい、カスタマイズしなければ十分に使えない、となった時に検討すべきなのが、PaaSです。

 

たまに一般的なブログサービスではなく、自分のオリジナルのホームページを作って、ブログを書いている人いますよね。彼らはWordPressなどのフレームワークを利用してブログサービス用プログラムを自前で作っています。そして、開発したプログラムをレンタルサーバ上に乗せることで、ブログサービスを利用しているのです。そして、このレンタルサーバサービス、がまさにPaaSの一つです。

 

要するに、自分で作ったソフトウェアを動かすための”実行環境”を提供してもらえるサービスのことをPaaSと言います。

 

提供してもらえる部分はほとんどハードウェアと同じです。しかしながら、自作のプログラム以外のパッケージ製品を提供されているハードウェアに対してインストールしたりできない、というデメリットがあります。あとは、ハードウェアのスペックもせいぜい容量何GBぐらいにするか、という程度のもので、細かく指定することができません。そのため、あくまで”実行環境”を提供してくれるサービス、という表現を使われる場合が多いです。

 

というわけで、登場するのがIaaSです。IaaSもPaaSと同様ハードウェアをサービスとして利用できますが、これはハードウェアのスペックや構成、どんなソフトを入れるかについてもかなり柔軟にカスタマイズすることができます。よって、企業でも利用しやすい「クラウド」です。ちなみに今「クラウド」と呼ばれるサービスはほとんどがこれに該当すると考えて結構です。

 

と、ここまでがクラウドについての説明です。非IT系でここまで把握していれば、まぁ多少はクラウドのことを知っている人、で通るでしょうし、十分かと思います。ただ、ITエンジニアの方には、もう少しこれの意味するところを理解していただきたいかな、と。特に私のようなインフラエンジニアには。

 

今までの時代は、Linuxスペシャリストとか、Oracleがバリバリ使える、そんな専門家が割と重宝されてきたと思うんですよ。サーバ構築スキルなどもきっと評価されていました。(スマホとかと違って、ソフトウェアをインストールするのもコマンド操作が基本なので、直感的にはできないので。)でも、こんな風に新しい技術が出てくると、もうそういった専門家は入らなくなります。ここでソフトウェアを指定してこのボタンを押せばインストール完了、みたいに。それこそ、スマホなんかはもうすでにそうなってますけどね。

 

エンジニア志望の人って、自分の専門領域にこだわりを持っている人が多いけど、これだけ時代の変化が激しい中専門領域にこだわりすぎることは逆に危険だな、と感じましたね。時代的にはフルスタックエンジニアへのシフトも推奨されていますし。逆に設計の考え方、みたいな方がずっと役に立つとゆうか、汎用的に使えるというか。

 

こんな風に考えると、エンジニアってよっぽど新しい技術好きじゃないと大変だなーと思う次第です。

 

新人IT担当者のための クラウド導入&運用がわかる本

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イラスト図解式 この一冊で全部わかるクラウドの基本

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まず、「できます」と言おう。

子供の頃は、きっと不言実行の方が相手に好印象を与えることが多かった。普段はおとなしいのにサッカーは上手いやつ、根暗なのに音楽の時間に歌を歌うと上手いやつ。能ある鷹は爪を隠す、ではないが、本当に能力のある奴ほど、自分の能力を誇示しないものだと思っていたし、そういう人の方が好印象だったと思う。

 

でも、社会に出ると、こういう人たちは誰からも目を当てられず、単なる普通の人、で終わってしまう可能性が非常に高くなる。なんでかって。それは機会の平等性が子供の世界と大人社会では全く異なるからだ。

 

子供の頃は、みんなが同じように様々な科目を勉強し、色んなスポーツをやり、芸術などに勤しむ。だから、否が応でも、自分の能力が人目に晒される機会があったわけである。しかし、仕事の機会というのは全くもって平等ではない。自分で起業でもしない限り、その時、その場所でやらなければならないことを仕事としてやらされるだけだ。基本的に自分がやらされる仕事は他人はやらない仕事である。

 

そんな限られた範囲ではあるが、仕事の中には当然つまらないものと面白い要素が詰まった仕事がある。では、面白い仕事(ここでは難易度の高い仕事のことだとする)が誰に与えられるかというと、その仕事が出来そうな人物に与えられるのである。つまり、その仕事をできる能力があるのかないやつなのかは全く関係ない、ということだ。

 

もちろん、過去の実績なども参考にはなる。ただ、過去と全く同じ仕事をする、ということはないし、全く新しい事業を始める場合にはそもそも皆が未経験、という場合だってある。そんな時、何を頼りに仕事を任せる人を決めるのか。それが自信であり覚悟である。

 

自信と覚悟を示す、実に簡単な方法がある。まず、「できます」ということだ。

 

もちろん、できる根拠などはない。そもそも未来の出来事について100%断言することなんて不可能である。それは周知の事実である。にもかかわらず、「できます」ということの意味は?自信と覚悟を相手に示すことだ。未来にコミットするというと表明なのである。

 

これはプロポーズと全く同じである。永遠の愛を100%誓うことなんてできない。ただそれでも誓うのだ。極端な話、ハッタリでも構わない。でもベストエフォートで努力はするという覚悟を貫く必要はある。ただ、無理だったとしても平謝りして離婚するしかできない。

 

仕事で失敗したって、謝って怒られるだけだ。失敗しなければ、一つあなたの実績ができるし、こんどはその実績があなたに仕事を任せる裏付けにもなる。

 

まず、「できます」と言おう。

好奇心を取り戻すには

会社の打ち合わせでとある質問をすると、「それは何を意図した質問なの?」と聞かれることがある。こちらからすれば、まず自分なりに意味を解釈した上で質問に答え、その後で意図を確認してほしいものだが、平気で逆質問をしてしまう人がいる。

 

大学の講義などではいきなりこのような切り返しをされることはまずない。別にどんな意図であったとしてもそれを知りたいという学生の好奇心に答えることが重要だからだ。しかし、ビジネスの現場では、目的のない質問は排除される傾向にある。それは仕事が理解ではなく、成果を目的とするものだからだ。すなわち、最小限の理解で最大限のアウトプットを出す、これがビジネスにおいては理想とされる考え方なのである。

 

だから、何にも知らない人が多い。私もそうだ。短期的な成果を出す上で、”理解している”ことは、それほど重要ではない。むしろ本当に理解する必要に差し迫った時に、「あの人に聞けばわかる」とか「あそこの設計書を読めばわかる」ということさえ把握していれば十分なのだ。そう考えられている。それを理解することに時間を使うぐらいなら仕事をしてくれ、という話になる。

 

これが好奇心を奪う元凶である。好奇心がないと、物事の理解は浅くなるし、行動の活力もなくなる。これでは能力の向上は最小化され、特定の分野に特化することもなくなる。サラリーマンにプロフェッショナルがいないのは、こういう文化的背景もあるんじゃないだろうか。

 

好奇心がないと新しいことができず、人生もつまらなくなる。大人よりも子供の方が楽しかったのは、好奇心を抑制されない文化の中で、好奇心を抑制しないだけの時間があり、色んな新しいことを学ぶことができたからだ。

 

だから、大人は好奇心を取り戻す必要がある。確かに、社会として、ルール上好奇心を持つことはあまり推奨されることではない。好奇心は秩序を乱す恐れのある発想だからだ。しかし、新しいビジネスを考えたり、価値を創造するフェーズでは、むしろ好奇心無くして行動することはできない。だって、「聞けば答えを教えてくれる人」も「答えの書いてある設計書」もないのだから。

 

そんなこと言っても自分の知らない世界に興味がない、という人は多いだろう。正確には、多少の興味はあるけど、それを深く調べるのは時間がもったいないと。私たちはこの情報社会の中で、調べることを毛嫌いするようになった。丸一日かけて何かを調べる、なんて今ではあまり考えられない。ネットで調べればほんの1分足らずで欲しい情報が手に入るのが当たり前だと思っているからだ。だから、自分で仮説を立てたり、様々な情報を収集したりすることを億劫に感じてしまう。1次情報を得るために行動することもない。私だってそうだ。

 

でも、そこは苦しい時期を超えるしかない。よく人間関係や性格などの問題に対する解決策として、「好奇心を持ちましょう」が提示されることが多いが、これは実は問題の裏返しでしかなく、好奇心を持つためにどうすれば良いかがわからないので、好奇心の持ちようがないのだ。

 

ではどうすればよいのか。苦労して新しい知識を取り入れる、に尽きる。実は、好奇心というのは、自分が全く知らないものに対しては強く働かない傾向がある。少し知っているけれど知らない部分がある、つまりは無知を自覚しているものに対して好奇心を抱くのだ。

 

例えば、ミステリー小説は好奇心を煽るタイプの作品である。中盤あたりから結末が気になって止まらなくなる。ただし、序盤は背景となる人物についての情報をインプットするだけなので、はっきりいってそれほど面白くはない。ただし、そのインプット情報があるからこそ、中盤で事件が発生した時に、犯人は誰なのか、彼らがどうなるのか、が気になるのだ。

 

小説やドラマなどの作品は好奇心の煽りと知的欲求を短時間で満たしてくれる。当然、苦労する時間は短い。しかし、人生でもこの構造は変わらない。始めに苦労して学ぶ時期を設けると、好奇心を持てる幅はきっと広がる。まずは新しい知識を取り入れるところからスタートしてはどうだろうか。

 

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説明が下手?理解力が足りない?

会社の打ち合わせで誰かが説明を聞いている内容を聞いていて全くわからない時、逆に自分が説明する側に回って相手に理解してもらえない時、きっとあるだろう。説明が理解されない、というのはどんな場所でもよくあることだ。

 

この問題の原因はたった二つ。話し手の説明が下手か、聞き手の理解力が足りないか、そのどちらかである。でも、結局どっちが悪い、と白黒ハッキリさせるのは難しい。そもそも説明が下手でも理解力のある人が聞けば、あるいは、理解力が低くても説明が凄く上手ければコミュニケーションとしては問題は発生しない。両者は補完関係にあるのだ。

 

この、問題の根本をどこに求めるのか、が実は学生と社会で異なってくる。学生の頃、先生の話を聞いて理解できない人は理解力が足りない人、すなわち学生側の問題だと考えられることの方が多い。確かに、先生によってわかりやすいわかりにくいは当然ある。けれど、優秀な学生は先生の話を理解することができていたはずだ。

 

しかし、社会人になると、説明がわからないとなると、説明する側に問題がある、という判断になることが多い。相手の理解力のせいではなく、話し手に非があるとする考え方だ。特に、上司への説明、お客さんへの説明の場面でこの構図は顕著に表れる。

 

なぜ、こういった差が表れるのか。これは主従関係が逆だからである。

 

例えば、先生と生徒の関係。先生は生徒に勉強を理解してもらうために、生徒は勉強を理解するために先生の話を聞く。しかし、先生は生徒に勉強を理解してもらおうが理解してもらわまいが、別に大きな違いはない。(詳細を知っているわけではないが、クラスの平均点が高いからといってボーナスが増えるわけでもないだろう。)

 

反対に、生徒の方からすると先生の話を理解できるか理解できないかで、進学する高校、大学、さらに言えばその後のキャリアも大きく変わってくる。(もちろん、全ての人がそう考えているわけではない。)つまり、生徒の「理解したい」気持ちの方が、先生の「理解して欲しい」気持ちよりも上回っているのだ。これがすなわち、先生が主で、生徒が従、という状態である。

 

しかしながら、社会で自分がお客さんに説明をする時。この場合は、お客さんが主、自分たちが従となる。社会の場で説明をする場合は、ほとんどのケースで、相手に何らかのアクションを取ってもらうためである。わかりやすいのは企画書の提案など、その説明如何によっては、受注できるかどうかが決まる、という場合などだ。

 

私たちが「売り込みたい」という気持ちの方が、お客さんの「買いたい」という気持ちよりも強い。(お客さんからすればメリットのある提案なら受け入れるが、その検討とか理解には時間・コストを掛けたくないのが普通。)だから説明する方が相手に理解してもらうための工夫をしなければならない構図となる。

 

もちろん、学生と社会人の違いとして述べたが、塾講師と生徒の関係や、BtoC企業の場合など、主従関係が反転するケースもある。(例えば、iPhoneの説明が不十分だって、ユーザの方の使いたい気持ちの方が強ければ、自分たちで調べるだろう。)大切なのは、主従関係がどうなっているのか、だ。理解できなかった時に一番困るのはどちらなのか、ということなのである。

IoTと監視社会

IoTとはモノのインターネット化、すなわち世の中のあらゆるデバイスが相互に情報通信を可能となる概念のことである。これはセンターの小型化、高精度化に起因して成長を遂げたITの分野である。

 

例えば、IoTを使って何ができるかというと、遠隔地点の監視、あるいは遠隔操作などだ。これらができることによって、今まで行動が制限されていた物理制約が緩和され、シームレスに、リアルタイムで自分たちが見たいものを見る、やりたいことをできるようになっている。

 

IoTはセキュリティと親和性が高い。不正や防犯を検知するために、人の目が届かない場所に入ってリアルタイムで監視したり、それらを通知する機能は、必ずや社会に対して大きな貢献をするものだと考えてられている。

 

しかし一方で、あらゆるところが監視されることは我々にとって本当に望ましいことなのだろうか、という懸念もある。それはセキュリティとは相反する概念、プライバシーの考え方だ。

 

今までのツイッターなどSNSの普及によって、一部の芸能人たちのプライバシーが全世界にさらされる問題があった。色んなことを共有できるということは色んながことが共有されてしまうということでもある。

 

基本的に芸能人に限らず、スマホを使っている我々の行動は全てデータとしてあらゆるところにネットを介して送信・蓄積されている。そして、それらの情報がビッグデータとして解析され、広告などに利用され、我々の消費行動に影響を与えているのだ。ただ、それがプライバシーの侵害として認識できるのは、芸能人などの一部の有名人ぐらいというのが真実である。

 

IoTはさらに個人に関するデータを膨大化させ、今までならわからなかったはずの個人情報にういても世間にさらすことになる可能性がある。情報の流入ルートがスマホだけではなくなるし、ということは情報を取得する場所も増えるからだ。

 

とりわけ悪事を働かない人であっても、自分がどんな人間で、普段どんな人間であるかを24時間監視されているというのはあまり好ましくはないと思う。息が詰まって仕方がない。

 

例えば、今は子供の安全を謳って、親がいつでも子供を監視できるサービスがあったりするが、常に親にコントロールされることは、子供の自我を抑制することにもなりかねない。そもそも、子供ながらに危険に自分で対処する経験がなければ、大人になった時に問題解決力や自分で考える力に影響を及ぼしてしまうのではないか、とも思う。

 

何より、あんなものは子供にしてみたらいい迷惑でしかないと思う。私が親に常に監視されている子供なら、自分が檻に閉じ込められた動物園の動物であるかのように感じる。親としては子供の安全を思ってのことだろうが、実際は、自分の安心と子供の自由がトレードオフになっていることを理解しておく必要はあるだろう。

 

IoTはこういった社会を助長する。つまりは社会としての安心を優先することによって、個人の自由が侵害されるリスクを孕んでいるということだ。IoTはセキュリティと親和性が高いからこそ、使う範囲や使う機能を制限して、自由についても考えを巡らせる必要がある。

新規事業を考えて虚しくなった話

今私の担当では新規事業の立ち上げに向けて少しずつ検討を開始している。背景としては、お客さんの事業・業界がシュリンクしているため、別の業界を相手に新しい事業を生み出すことを視野に入れている、といった感じだ。

 

私の会社はまぁ正直業界ではそれなりのブランド力を持っている、と思う。だから、社内を探せば提案するためのパイプは何かしらあったりするし、新規で営業活動をしても話ぐらいは聞いてくれるお客さんはいる。

 

また、お客さんの課題を解決するためのソリューションは社内にたくさんあるので、そこをマッチングさせることで利益を上げようとする、というのが基本的な方針である。皮肉な言い方をすると、転売活動である。

 

でも、こういった活動はほとんどが失敗する。仮に受注までたどり着いたとしても、直接的な開発を請け負うのが自分たちの担当という形になることはない。なぜか。マッチングさせるところで我々は役割を終えてしまうからだ。

 

もちろん、我々はそうではないと主張するだろう。マネジメント力で貢献します、と。別の会社と競争しているのであれば、それでも良いのかもしれない。ただ、同じマネジメントを強みとしている会社の中で争うのであれば、マネジメント力は大した強みにはならない。別にあなた方にお願いしなくてもうちでやりますよ、という話になるのが自然だろう。

 

では、技術力を生かすのは?新しい技術を使っていたり、既に確立したソリューションがあれば、その経験・ノウハウを生かすことはできる。しかし、そういう開発経験がないとどうなるか。結局、他で生かすための開発力がないので貢献のしようがない。そもそも技術を生かせないから、外部とのマッチングでプロフィット化を目指す方向に進むしか選択肢がないのである。

 

うちの会社は基本的にはお客さんとかその業界単位で部署が縦割りになっている。なので、自分たちと他の担当を分けている最大の強みは自分たちだけの顧客を持っているところにあるのだ。つまり、別の顧客を探すという行為は、自分たちの最大の強みを捨てるのに等しい。そんな強みを失った組織が、他者を利用したビジネスをして、自分たちの利益が多くなるように計らうなんて、都合が良過ぎないだろうか。到底うまくいくとは思えない。

 

などと考えていると、希望であるはずの新規事業を考えても虚しくなってくるだけであった。

リリース準備にかける時間の妥当性は

僕思うんですけどね。もし、高校入試とか大学入試のタイミングが、自分の好きなタイミングで選べるとしたら。日本人のほとんどはいつまでも勉強してるんだろうなって。そう思います。いくら勉強したって合格率100%にはならないけれど、勉強した分だけ確率は上がっていく、あるいは上がっていくような感覚になるから。

 

人生には本番という、ここだけは絶対に失敗できないって場面が何度となく訪れます。受験もその一つです。そして、失敗のリスクを避けるためにできることはひたすら準備です。準備不足で失敗する人もたくさんいます。絶対に失敗できないからこそ失敗のリスクはできるだけ避けたいと考えます。それは日本人なら尚更です。

 

私もどちらかといえば慎重派ですが、必要以上にリスクに備える時間は無駄だと考えています。だって、やったことない作業の成功確率なんて測りようないし。模試の結果で80%で合格とか言われても無意味だし。それが本当に8割の合格率を保証する数字でもなければ、8割が正しくても残り2割に入ることだってままあることです。

 

こんな私にとって、システム開発のリリースにかける準備稼働というのは実に不毛なんですよね。クソつまんない。リリース手順書を作って、Rvして、リハーサルやって、切り戻しのリハーサルやって、本番を迎える、みたいな流れ。メールアドレスの宛先を一つ追加します、程度の改修で。失敗しても大きな影響が出るリスクも小さいのにもかかわらず。

 

ぶっつけ本番でやれば、1日で終わりそうな作業を、もろもろ準備して1ヶ月ぐらいかけてやる。コストを30倍かけてでもやるべきことなのでしょうか、と私はずっと疑問に思っている。

 

とは言え、「リスクが小さい」ということを論理的に説明することってできないんですね。みんな、リスクの大小というのは感覚に頼って判断しているんです。それはつまり、リスクの対策が不足なのか過多なのかを論理的には判断できない、ということです。

 

で、日本組織の場合は、必ず一番慎重な人の意見に合わせる決断が下されることが多いです。勇敢な上司ならわかりませんよ。けど、現場の実態がよく見えない、ソースコードの構造がよく見えていない課長クラスの人達が安心するためには、品質を高めるプロセスをどれだけ踏んでいるかが極めて重要になってきます。そのプロセスにかかっているコストよりも、失敗してお客さんに迷惑をかけるリスクを避けるのは、特にコスト意識の低い大企業ではもはや普通ですね。

 

上層部クラスがこの当たりのリスクを許容する、あるいはコスト感覚と照らし合わせて考えてもらえないと、いつまでたっっても無駄な仕事は減らないし、現場の生産性は上がらないままです。標準化された枠組みに縛られず、規模に応じてスリム化する柔軟さが必要でしょう。