∑考=人

そして今日も考える。

ホワイトカラーの生産性を上げるために押さえるべきたった1つの本質

たまには結論から述べよう。

 

ホワイトカラーの生産性を上げるために必要な一つの本質とは、

「意思決定の速さ」

である。

 

他にもプレゼンテーション能力、コミュニケーション能力、資料作成能力、マネジメント能力、色んな能力を思い浮かべた人もいるかもしれない。だが、これらも本質的には全ては迅速な意思決定に繋がっている。だから意思決定を速くすることだけを考えれば良い。

 

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昨年ぐらいから働き方改革がちょっとしたムーブメントになって、リモートワークとかテレビ会議、チャットアプリとか、新しいテクノロジーを使ってより多様な働き方が推奨される社会になってきていることは周知の事実だ。

 

こういった働き方改革には大きく二つの目的があって、一つは言うまでもなく「生産性を高める」こと、そしてもう一つは「より自由に働ける」ことだ。そして、後者が前者の手段となっているという理論から、実際には”より自由な働き方を実現する仕組み”が生産性向上施作として語られていることも多い。

 

確かに、リモートワークやテレビ会議を使えば移動にかかるコストは減るし、チャットアプリを使えば形式張ったメールを使うよりも気軽にコミュニケーションをとることができ、その結果仕事は効率的にはなるだろう。直感的にはみんなそう考えているはずだ。

 

しかし、その削減効果が今の労働時間全体の削減にどれほど寄与しており、どれほど成果の量や質を向上させているのか、を定量的に理解している人たちはいるのだろうか。少なくとも私はその真実を知らないし、たとえ、「リモートワークにより30%削減」みたいな成果を謳っている企業があったとしてもその因果関係が正しさについては懐疑的に考えるだろう。

 

はっきり言って、「フルリモートワーク導入」とか「就業中の移動禁止」ぐらいまでやるならまだしも、一部の組織で限定的に導入したところで、大した定量的な効果は見込めていない。むしろ、これらの施作に潜むデメリットのせいで、逆に生産性が下がっているのではないか、という声もしばしば散見される。結局、何となく効果はありそうだけど、本当に効果出てるのかな?みたいに思っている人が大多数である。

 

ではなぜ、無駄なコストや時間を削減しているはずなのに生産性が上がらないのか。それは先述した、「より自由で働ける」ことと「生産性を高める」ことが全くの別物だからである。

 

例えば、自由に働ければ伸び伸びと仕事ができ、生産的になる人は一定数存在する。しかし、自由に働けるようになると緊張感が解け、仕事をしないという人も一定数存在する。つまり、自由で働けることと生産性を高さにそれほど大きな相関は現れない。

 

本質的には、「より自由に働ける」というのは「仕事中にストレスを感じない」ための手段に近い。こっちの方が相関も高い。しかし、全くストレスのかからない職場が生産性が高い、というわけではないのだ。

 

そもそも、生産性という概念は、費やしたコスト・時間に対して生み出した価値で計算されるものだ。費やすコストや時間を下げれば生産性が上がる、というのはほとんど間違いで、こと日本人は価値のない仕事を多くやっている傾向が多く、生産性を下げているのは明らかだ。

 

しかし、それが社会として当たり前になっていたり、ホワイトカラーの生産性を評価する機能がなかったりでずっと変わらないまま現代まで来ている。私の会社も自分たちが管理するベンダさんの生産性とかは評価することもあるが、自分たちの生産性となると、測るのが難しいこともあって、全くもって意識していない。

 

原点に戻って考えれば、ホワイトカラーの仕事とは考えることである。そして、仕事で「考えること」というのは「決めること」と同義である。何の意思決定も含まれない考えはただ悩んだだけであって、考えたとは言えない。

 

そして、意思決定にも二種類ある。それは「個人としての意思決定」と「会社としての意思決定」である。

 

意思決定のプロセスは基本的に、情報収集、立案、比較、選択、という順序で行われる。いわずもがな、個人としてこれらのサイクルをいかに速く回すことができるのか、が意思決定を速くする上で重要である。

 

やっかいなのが、「会社としての意思決定」である。何を隠そう、冒頭の「意思決定の速さ」とは「会社としての意思決定の速さ」が支配的だ。そして、会社としての意思決定を行う重役たちが意思決定を行うために、社員たちは情報収集を詳細に行ったり、厳密に内容チェックをしたり、資料を作成したり、プレゼンテーションをしているに過ぎない。

 

しかし、実際に会社としての意思決定を担う方々は大抵「意思決定の速さ」よりも「意思決定の正確さ」を重視してしまっていることが多い。「この数字は確かなのか」「ここをもう少し詳細にわかるようにしてほしい」「こういう可能性もあるのでは」と。

 

全ての網羅的に調べ、徹底的にリスクを排除しないと意思決定できない人が上にたつと、結局彼らに意思決定の正しさを必要以上に説明しなければならず、現場の人間たちは「意思決定の正しさ」を優先することになり、結果的に意思決定のスピードが落ちる。

 

つまり、自分が速く意思決定することと、相手に速く意思決定してもらうことを実現するための能力を鍛えなければならないのだ。そして、それらこそ個人レベルではなく、会社レベルで方針転換していかなければならない話なのだ。

 

原点に立ち返ってみると、リモートワークやテレビ会議がいかにスケールの小さい話かがお分かりいただけるだろう。

人はいつエネルギーを失うのか

昔の自分はもっとエネルギーに満ち溢れていた、と感じる大人は多いのではないだろうか。私もいつのまにか気がつけばすっかり活力を失った生活をしている。もっと活動的にならなければ、と思う反面、活動的であることへの意味をイマイチ見つけられずにいる。

 

ここで言う活動的である、とは”楽しむための活動に日々エネルギーを使うこと”を指す。もちろん、平日はほとんど仕事をしているので活動的ではあるのだけれど、仕事以外の時間は全くもって活動的ではない、というのが今の私である。基本的に仕事以外の時間は休息に当てている。

 

それで十分ではないか、という気持ちはある。ただ、昔は果たしてどうだっただろうかと考えてみると、そもそも活動的でない時間などなかったはずなのだ。

 

中学校の頃は、平日は学校へ行き、学校が終われば部活動をする。そもそも学校が始まる前にも朝練がある。休日も部活動で半日は潰れるし、部活動が終われば友達の家でよく遊んでいた。つまり、本当の意味でオフな日などなく、毎日活動していたのだ。そんな会社であればブラックな生活を過ごしていたにも関わらず、休息がほしいなんて思ったことはほとんどないし、むしろ毎日楽しいくらいであった。

 

高校になっても、そんな生活リズムはほとんど変わらなかった。唯一違うことといえば、学校の授業の8割方は寝ていたことだろうか。それでも受験勉強を始めてからは毎日四六時中、それこそ休みなく勉強していた。この頃の私には「休み」という概念がなかったのだ。

 

たぶん少し考え方が変わったのが大学に入ってからだろう。大学は中高までとは違い、授業に出席するかしないかを選択できるようになった。つまりは「何もしない」という選択が社会的に許される状況になったわけだ。

 

もしかしたら「何もしない」ことの価値を初めて知ったのが大学に入ってからなのかもしれない。たぶんそれまでは「何もしていない自分」に対する何かしらの恐怖心を持っていたように思う。

 

例えば、中学や高校でも、部活動に入らない選択はできたはずだし、そもそも友達と遊ばない選択だってできたはずだ。無論、学校をサボるという選択だってできた。でも当時の私にはその選択肢を選ぶことはおそらく非常に怖いことで、無意識のうちに何もやらない選択を避けていた、というのが一番真実に近い気がする。

 

結果的に、何もやらないことが自分にとってどうで、自分の人生にどんな影響を与えるのかをそれまで全く知らないまま大学生になってしまった。そんな私が初めて「何もやらない」を選択した結果、すごく自由ですごく楽になったのを覚えている。全てから解放された清々しい気分だった。

 

しかし、何もしないことがプラスに働くのは一瞬のことで、実はデメリットも多い。一つは何もしない日々がしばらく続くと、退屈すぎて非常に苦痛であるということ。そして、何もしない期間が長くなると、社会に自分の居場所が無くなっていくことだ。孤独と退屈に耐えることは相当にしんどかった。

 

その教訓を学んだあとは、アホみたいにバイトをしてアホみたいに朝まで遊ぶ日々を過ごしていた。勉強とか知るか、大学とか知るか、みたいな。再び活動的な日々を過ごしていたわけだが、結局ノリだけで生きていた自分の留年が決まった時に、ふと我に返った瞬間があった。たぶんこの時に初めてノリだけで生きてきた結果が顕在化した現実と直面し、”自分の行動の意味”を考えざるを得なくなったのだ。

 

恥ずかしい話、それまで私は将来のことなんてこれっぽっちも考えたことはなかった。自分の将来のイメージなんて全く湧かなかったし、将来やりたいこともなかった。未来があることは理解していたけれど、当時の私にとっては輝いているわけでもなければ真っ暗なわけでもない、無色透明であった。だからそこへ向かう道筋も全く見えなかったし、今やっていることに意味があるとかないとかそんな基準さえ持てなかった。

 

そんなわけで「今の自分にとって楽しいこと」と「今の自分が周りからよく見られるためにやるべきこと」を優先してずっと生きてきたのである。後者が良い方へ影響したこともあって、なぜか人生としてはそれなりに上手くいってしまっていたのだけれど、本質的に私はフラフラとノリで生きていただけだったのだ。

 

なので、その後の私は少し打算的になる。バイトの付き合いに明け暮れたりもしなければ、大学をサボり過ぎること頑張り過ぎることもなく、淡々と卒業という目標を達成するために行動するようになった。自分の進路を考えた上で、必要なことだけをするようになった。

 

大学院の時ももちろん、楽しかったけれど、それ以前の楽しさとは別種のものだった。将来に対する光が見えるようになり、そこへ向かうぼんやりとした道筋が見え、光へ近づいて行く感覚を楽しむ、そんな感じであった。一方で、この頃から必要以上に活動的であろうとはしなくなっていたかもしれない。

 

社会人も始めのうちはよかった。とりあえず仕事を覚える、という目標があったからだ。仕事を覚えればまた一歩光に近づく、そんな幻想を抱いていた。少なくとも最初の数年はそう感じられていた。

 

ただ、それがしばらく続くと、自分の進んでいる道の先にあったはずの光に陰りが出てきていることに気づく瞬間がある。今の延長線上にあるのは明るい未来なのか?と。あるいは、全然光に向かって進めていないのではないか?と。こうなると一気に活動力は落ちる。

 

人はいつエネルギーを失うのか。

 

私の経験から要約すれば3つだ。

 

一つ目は、「何もしない選択肢」と出会ったとき。

二つ目は、未来が見えたとき。

三つ目は、未来の光を見失ったとき。

 

もし、今エネルギーを失っている人がいたら、どれに該当するか考えてみてはいかがだろうか。

エリート達の末路

仕事がこの上なく憂鬱だ。サラリーマンになってもう5年ほどたつけれど、全くもって充実とは程遠い生活をしているように思う。少なくとも最近は、日々の仕事に”楽しさ”なんてものを感じることはなくなってきている。

 

サラリーマンになって一体何が身についたのだろう。楽しさを置き去りに仕事を進めていく力、憂鬱さを押し殺して淡々と仕事を進めていく力、端的に言えば忍耐力は学生の頃に比べて身についた気がする。サラリーマンの90%ぐらいがこういった変なスキルを身につけているんじゃないか、とふと思ったりする。大学生の頃の僕ならば鬱病になって現実逃避していたことだろう。

 

にしても、私たちはエリートではなかったのだろうか。そして、エリートはそうでない人たちに比べて幸せになれるはずではなかったのか。たまにそんな疑問が頭を過ぎる。

 

確証を持っているわけではないけれど、同窓会などで昔の友人にあったら、たぶん彼らの方が私よりも幸せな人生を送っている気がする。彼らの生活に収入や安定は少ないのかもしれないけれど、毎日が充実しているように見える。

 

つまり、エリートになれば幸せになれる、というのは幻想だったのだ。別に私はエリートになりたいなんて願望を持っていたわけではないけれど、結果的にはレールの端っこぐらいで何とか振り落とされずに残ってしまった人間だ。だから、我慢を重ねてきたわけではないけれど、「エリートになるために費やした時間」というのは一般的に見ればは多い方である。

 

逆に、もっとエリートの実情に幻滅した人たちはたくさんいると思う。私の会社にいる人間の多くも、人生のどこかのタイミングで幻滅したのだろうか、なんてことを想像いたりする。彼らのほとんどはきっといつかのタイミングで天才だったに違いないのだけれど、会社の中にいるといたって平凡なのだ。

 

もちろん、一般的に見て優秀ではあるだろう。でもその優秀さというのはほとんどのケースで「人にうまく動かされる能力」のことだ。人を動かす立場にいる人は私も含めてたくさんいると思うし、そういった人を「リーダー」などと読んだりするけれど、本質的にはさらに上の人たちに上手く動かされる能力を私たちは鍛えているし、そういう能力が評価される。

 

これはそもそも本能的な欲求と相反するものだ。人間は誰しも自分で物事をコントロールしたいという欲求を持っている。(物事をコントロールできる人とできない人を比べると、物事をコントロールできない人の方が早死にするなんて実験結果だってあるくらいに。)

 

エリートになるのはもっと色んなことを自分でコントロールできるようになるためだったのではないか。人生で選択可能なオプションを増やすことで人生そのものをコントロールするためではなかったのか。

 

結果、何もコントロールできない人生。こんな末路でいいのだろうか。

究極の2択を考えた時に気づいたこと

別プロジェクトの支援に入って早一ヶ月になる。今週は夏休みをいただいたので、実際には3週間程度ではあるが、毎日11時ぐらいまで残業の日々が続いているため、実労働時間に換算すればほぼ一ヶ月と言えるだろう。

 

ちょうど四半期の終わり頃ということもあり、課長と少し面談をした。トピックを端的にいえば、今支援しているプロジェクトを今後も続けたいのか、それとも以前のプロジェクトに戻りたいのか。その答えが聞きたい、ということだった。

 

もちろん、全く考えていなかったわけではないが、予想以上に答えを急かされていることに少し面食らった。その時に答えることができたのは、開発をさせてくれるなら残りたい、という程度の意見であった。維持体制に組み込まれるのであれば、元のプロジェクトに戻る、と。ただ、私の優柔不断そうな態度を汲み取られたのか、また、近いうちに答えを聞かせてくれ、とだけ言われ、その場は一旦打ち切りとなった。

 

果たして、本心はどうだったのだろうか。

 

「どっちも嫌だな」。2択をせまられた時、私が直感的に思った本心は、おそらくそうだったに違いない。はっきり言ってもともとやっていたプロジェクトが面白いと思っていたわけではないし、そこから今のプロジェクトに支援に行くことが決まった時も、嬉しさがあったわけではなかった。案の定こうして一ヶ月間新しい仕事をしているわけだが、別にそこに対する面白さを見出せているわけではない。

 

ただ、どっちも面白くない、などという回答をすることの不毛さをよく理解しているので、どっちも面白くない中でよりマシな選択肢はどちらなのかを選ぶことだけに絞って思考を巡らせただけなのだ。

 

となると、キャリアとか専門性に少しでも繋がる選択をするべきだろう。そして、自分が身につけたい専門性であるべきだ。極端な話、営業スキルを身につけたいわけでもないのに、営業職を選ぶというのはおかしい。そう考えた時に、前のプロジェクトに戻る、という選択はやはり良い選択だとは思えなかった。

 

一方で、維持を続けていく、というのも自分のキャリアを余計に狭める選択になり得る。維持は勉強になるとは言われるが、それはアトランダムに発生する故障起因による一部の要素技術には詳しくなるかもしれないが、開発のスキルとは全く異なる。それならばせめて前のプロジェクトの方が少なくとも開発プロセスには携われるため、より良い選択肢である、ということだ。

 

なので、課長向けの回答としてはやはり間違ってはいなかった。ただ、結局前提についてもう少し考えるべきなのでは?という懸念がもっとも気がかりだった。先週、兄の結婚式でハワイ旅行をしていた最中も、綺麗なビーチを見ながらふと自分の人生について考えていたのであった。

 

つまり、「面白くない選択肢の中から選ぶ」というのがそもそもおかしいのではないか。ということだ。あるいは、なぜ「どちらも面白くないので嫌です」と言えなかったのか。なぜそういった発言をすることを私は「不毛」だと思ったのか。

 

「どちらも面白くないので嫌です」と答えた後に聞かれることは一つしかない。「では、何がやりたいのか?」と。もちろんゼロ回答というわけではない。なるべく新しい技術に触れたいと。今ならAWS、IoT、AI、あるいはブロックチェーンなんかもいいかもしれない。

 

でも、ここで既に私は二つ目の嘘を付いている。なぜなら、仮にどんなに新しい技術を使った開発であっても、それだけで仕事が面白くなるはずがないことを知っているからだ。つまり、「やりたい」と言いつつ、本当はそれをやっても面白くないことを知っている。

 

では、なぜ面白くないのか。それはSIerという構造の中にある。SIerの中で元請けのやる仕事は、ざっくり言えば計画、推進、管理、そして問題解決だけだ。全ての仕事は正しい計画を立てて正しく実行すれば必ずうまく行く。ただし、計画通りに実行されることは絶対にないので、管理する必要がある。また、計画通り行かないのは何かしらの問題・課題があるからでこれらを解決する必要がある、というわけでだ。

 

この4点を押さえていればなんでもうまくいく、という前提に立って仕事を進めるのがSIerだ。逆に計画が立てられないような仕事も、誰もできないような仕事もしない。全体計画を立てて仕事を分解できれば、あとは専門家に任せれば良い、そういう考え方である。

 

計画・推進・管理・問題解決が誰でも簡単にできるとは言わない。また、こういった専門性も意外と外の世界では重宝されるスキルなのかもしれないと、最近では考えるようになった。でもこれだけをやる仕事ははっきり言ってつまらないのだ。そもそもITの仕事とは言えない。

 

つまり、自分の専門性で価値を出す場面があまりに少ない。結果的に専門性もそれほど身につかない。そもそも専門性は外部から調達すれば良い。その叡智を引き出して理解して、わかりやすい形で可視化して伝えられれば十分、そういう考え方なのだ。

 

たぶん、この方が合理的で無駄のない仕事のやり方なのだろう。ビジネスモデルとしてはやはりよくできていると言わざるを得ない。給料だって高い。でも、果たしてこれを一生続けていくってどうなのだろうか。

 

私が会社の人間にキャリアを話をするのが不毛だと思う理由はここにある。つまり、この会社で働くことって果たして正しいのか?という問いをここで働く人に問いかけてもしょうがないし、彼らに言ったところで何かが変わるわけでもないからだ。つまり、自分で動く必要がある、と。そういうことなのだ。

 

2択を突き詰めてみて、第3の選択肢が見えなくなっていたことに気づいた。

あなたが転職できない2つの理由

少し前に「転職の思考法」という本を読んだ。

 

このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法

このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法

 

 

すごく良い本。物語風なので普通に読んでいて楽しめるし、勉強にもなる。たとえ今転職を考えていなくても、読んでおいて損はない。私は同じ本を二回読む、ということはほとんどしないけれど、この本はたぶんもう一度読むことになると思う。

 

さて。転職についてである。私の同期、友人も気づけば何人転職したかわからないくらいになっている。確かに、転職は一昔前に比べればかなり身近なものになってきているはずだ。

 

あなただって一度くらい転職が頭をよぎったことがあるだろう。そもそも今の時代に転職について考えないのは、安定した会社でポジションが確立し、かつ年配の人ぐらいだ。彼らにはもはや成長などは必要なく、ただただ平穏に勤労生活を逃げ切ればいいだけだからだ。

 

逆に、上記のような条件に一つでも当てはまらない人は必ず考えたことがあるはずだ。しかし、転職に踏み切れない人の方がやっぱり多い。それはなんでなのか。

 

本書によれば、その理由は「怖いから」らしい。なぜ怖いかというと、初めての意思決定であり、何かを捨てる選択だから、そう述べられている。

 

この言葉を見た時、自分についても当てはまるのか?を少し考えてみたが、あまりピンと来なかった。例えば、「彼女と別れる」とか「結婚する」というのも何かを失う意思決定ではあるし、確かに怖さはあるけれど、だからできない、ということにはならない。

 

私の場合は新しい大学院に行く、とかバイト先を変える、みたな経験はあるし、その時も別に躊躇はしなかった。そして、これらは別に珍しい経験でもなく、ごくありきたりな誰にでもあるような経験である。

 

では、私がなぜ転職しないのか、と言う大きな理由の一つは、「行動を起こすのが面倒だから」に尽きる。端的にいえば、「転職」が嫌なのではなく、「転職活動」が嫌なのである。ビジネスと同様、イニシャルとランニングのバランスが重要なのである。

 

例えば、毎日普通に生活をするために私たちは常に一定以上のエネルギーを使っている。体力、思考力、あるいはストレスとかそういうものを引っ括めた概念だと思ってもらえれば良い。それを「ランニングエネルギー」と呼ぶとしよう。

 

 

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当然、個人個人にはエネルギーの限界値(キャパ)があって、それを超えない範囲でしか毎日生活していくことはできない。体を壊したり、精神を病んだり、最悪の場合は過労死だってありえる。

 

例えば残業が常態化すれば、ランニングエネルギーも増え、生活に余裕がなくなってくる。

 

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で、毎日こんな状態だと、会社を辞めたい、転職したい、と考え出す。で、転職に対してどういう希望を抱くのかというと、こういうことだ。

 

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転職することによって、ランニングエネルギーを減らしたい。(繰り返しになるが、ランニングエネルギーとは単なる体力的な話ではなく、生活にかかるストレスのようなものも含まれている。)今より良い毎日を作りたい、そう望むのである。

 

しかし、いや待て、と利口な人はすぐに考える。こんなにうまく行くのだろうか?と。

 

まず、「転職が怖い」というのは、こういう可能性についての考慮が浮かんでしまった人だろう。

 

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今よりも状況をよくするはずが、今よりも状況が悪くなる、みたいなリスクを発見してしまうのだ。冷静に考えると、私も確かに恐怖がゼロだといえば嘘になる。

 

でもどっちかっていうと、私は圧倒的にこれが嫌なのね。

 

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今このしんどい時になんでさらに自分をしんどくしないとダメなんだ、みたいな。私は根性ないので、自分のキャパオーバーの行動はできない。ではどうすればいいのか、を考えてみると、やっぱこれしかない、というのがこれ。

 

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つまり、早いうちから軽めの行動は始めた方がいいってことなのだ。

心にコンパスを

「別プロジェクトに支援してほしい。」

 

先週の始め、事業部長からそう任命を受けた。社内標準の新規ソリューション開発に支援という形で参画して早約3ヶ月、ちょうど要件定義が終わりこれから設計、という段階ではあったが会社とは容赦がない。その発令の2日後から既に別プロジェクトに参画している。そう。わかってはいたが、サラリーマンとはそういうものらしい。課長レベルの意思決定であれば抵抗を示すこともできるが、それ以上ともなるとどうにもならない。

 

配属先のプロジェクトは超巨大プロジェクトである。既に総合試験(システム開発の最後のフェーズ)が始まっており、10月にカットオーバーを迎える。ウォータフォールのシステム開発の場合、終わりにかけて要員は減っていくのが通常であるが、それでもなおプロジェクトメンバ300人程度がいる、というこれまでの開発とは桁違いなプロジェクトである。

 

社内的には人気のプロジェクトの一つではあるが、正直モチベーションはあまりない。既に総合試験、すなわち上流工程が終わっていること。携わる業務の質、具体的には維持保守を見据えた泥臭く、作るものに影響しない仕事であること。

 

過去に一度一緒に働いた経験があり、決して一緒に働きたくはなかった先輩のチームに配属されたこと。元々同じ組織で働いていた人がやたら多いこと。(知っている人がいる、という意味ではやりやすい側面もあるが、新人の頃の私を知っている人との上下関係の構造が変わらなくやりづらい側面があるのだ。)そもそも大規模なチームで働くことに対する抵抗があるということ。長時間労働が定常化していること。あげればキリがない。

 

元々プロジェクトにいた人たちは、自分たちの仕事の魅力をたくさん伝えてくれるけれど、タイミングや前提条件が違う私にとっても同じとは限らない。もちろん、本格的なWebシステムで、しかも新規開発、という面白そうな要素もあるけれど、それを超える嫌な要素が多くて、結論としてそもそも私は2年以上前からそのプロジェクトには行きたくないという意志を持っていたのも事実であった。

 

もちろん、結果的に面白いという可能性もあるだろう。最近までやっていた仕事も気づけば面白い仕事に変わろうとしていたのだから。ただ、携わった仕事が結果面白かった面白くなかった、というのは本質的な問題ではなく、自分の人生を全くコントロールできない、ということに少し危機意識を抱いてしまった。

 

最近は、自分のキャリアに対する漠然とした不安を感じることが多い。というのも、私は常に職種やチームの短期的な変更が続いているからだ。私自身の選択が受け入れられたこともあれば、意図せざる結果としての変更も多く、非常に不安的になってきているのだ。

 

オールラウンダー・ユーティリティプレイヤーと言えば聞こえはいいけれど、「で、君は何が得意なの?」に対する回答がない。常にスキルゼロの中から地頭と勉強で目の前の仕事に対応している。決して楽ではない。先輩や上司からは評価されるけれど、果たしてこれは市場で評価されるのだろうか、と疑問に思う。

 

大きい会社に入って理想のキャリアを積み重ねていく、というのは到底無理な話なのかもしれない。会社の仕事に個人の意志を完全に反映させるなど、ほぼ運のみだろう。ただ、少しでも運に頼らずキャリアを切り開いていくには、自分の意志を明確に決めておかなければならない。

 

正直に言うと、私はこの会社の中でのキャリアというものをあまり深く考えたことがない。なぜならば、今の会社の仕事は何をやってもそれなりには面白いし、何をやってもそれほど面白くない、と思っているからだ。営業は絶対に嫌だけど、たぶん提案資料とか作るの好き(だとわかった)ので、やってみればそれなりには楽しめるんじゃないかと思う。

 

そして、サラリーマンをやっている人の99%はそうである。「こんなことやってみたいな」ぐらいの思いはあるけれど、結局やってみたら思っているほど楽しくなかったり、楽しい仕事だけができるわけでもなかったりと、「なんか違うな」、と理由をつけて、「これがやりたいことではない」とか言う。だからといって絶対に嫌なのかと問われればそんなことはなくて、その仕事もちゃんとそれなりに楽しんでいる人がほとんど。

 

だから、ほとんどの人は自分の意志を固めることを諦めてしまうのだ。なぜなら、自分の意志を持っていても、その通りに物事を運ぶことはできないし、何をやっても面白くてつまらない。むしろ、何のために意志が必要なのか?と思っている人さえいるかもしれない。

 

答えは簡単だ。それはいざとなった時に、辞表を出すためだ。多くの人は、意志を持っていないのではなく、「会社の意志に全て従います」という意志を持っているのだ。 会社の99%の人はそういう意志を持っている。会社の中で、「こんなことをやりたい」と語る人間はごまんといるけれど、本当のみんなの最上位の意志は「私は会社の意志に全て従います」なのだ。

 

私もそういう状態であることに気づいた。交渉のカードとしての意思表示はできても、意志を持っているわけではない。だから辞表が出せないのである。そして、会社の意志に従わざるを得ないのだ。それが理不尽なものであっても、みんな同じ、サラリーマンはそういうものだという理由で諦める。

 

新人社員研修の頃の講師を担当していた先輩がこんなことを言っていた。「会社と自分は主従の関係。でも自分が主で、会社が従である」と。「会社の意志に全て従います」は完全んい自分が従の状態である。自分が主であるとは、自分の意志に会社を従わせる、ということであり、従わない場合は切ると言う選択をする、ということだ。

 

心にコンパスを。

 

 

 

 

相対的に高いポジションを獲得せよ

バスケットボールをしていた頃に、何が一番イライラしたかというと、なかなか自分にボールが回ってこないことだった。特に、中学の頃はスリーポイントシューターだったこともあり、「決めてやるから早くおれにパスしろ」、みたいに思っていた。ボールがもらえないとやることがなくてつまらない。

 

スポーツなら上記のような考え方は当然なのかもしれないけれど、仕事も全く同じだと思う。例えば、アルバイトをしていた時も暇なコースに入るのが退屈で嫌いだった。どちらかといえば、めちゃくちゃ忙しいコースに入って仕事をする方が面白いし時間もすぐ過ぎるしやりがいがあって好きだった。

 

今、正社員として働いていてもその考え方は変わらない。あんまり優先度の高くない仕事を割り当てられたり、そもそも仕事が少ない状況というのが私は結構、堪え難いほどに嫌いである。暇つぶしに仕事をしているのに、仕事中に暇になるぐらいなら会社にいく意味などない。

 

ただ、仕事は少ないほどいい、と考える人だっていると思う。いや、もしかしたらそういう人の方が多いのかもしれない。特にスポーツはともかくとして、仕事の場合はお金のために働いているだけであって、働かずに済むならば、別に何かをやる必要はない、という省エネな考え方も納得はできる。

 

でも、そういう考え方は実は環境が作り出しているだけなのではないか。そんな風に私は思っている。

 

例えば、パスが回ってこないのが嫌いだと語ったバスケットボール。今になって私がとあるバスケットチームに混ざってバスケをやるとしたら、たぶん考えることは全く逆になる。「なるべくおれにはボールを回さないでほしい」と考えると思う。だって、周りの方が上手い場合は自分が関わるほど全体の結果が悪くなるから。

 

何もしない状態はもちろんつまらないけれど、自分が足を引っ張っている状態も同じくらいにつまらない。だから今、自分よりはるかに上手い人とのバスケットは基本的につまらないのでやらないようにしている。自分の力が発揮できないのならそのフィールドには立たない。

 

同じバスケットをとっても、昔と今でこれほどまでにマインドセットが異なってしまうのはなぜなのか。それは自信があったかどうかだ。自信があるからこそ、自分が何かをやりたい、という気持ちが大きくなる。より重要な役割に関与したくなるのだ。

 

では、その自信は何に支えられているか。文脈から考えれば、「相対的なスキルの有無」によってだとわかる。要するに、自分の身の周りの人間に比べて自分が優れていると感じるに値するスキルがあるからこそ、何の躊躇もなく「我が我が」と思うのだ。

 

仕事も同じである。よくよく思い出してみると、アルバイトを始めたての頃は忙しいコースになんて入りたくなかったのだ。しんどいし、回せなくてテンパるし、先輩に怒鳴られるし。もちろん、そういう経験があってこそ成長はするのだろうけど。

 

だが、そこで成長を諦めた途端、なるべく暇なコースに入るのが合理的になってしまうのだ。ただお金を稼ぎに来ている人の中にはそういう人もいた。なるべく仕事をしたくない人というのは成長を諦めた人の末路なのだ。もし私なら、成長を諦めたなら別のフィールドを探さないと気がすまないけれど。

 

そういう意味では自分の価値が相対的に上がるようなレベルの環境に身を移す、というのも実は重要だったりするのかな、と思ったりもする。確か、芸人の有吉が書いた本の中に、自分は村の王様がいい、みたいな記述があって。鶏口となるも牛後となるなかれ〜に近いけれど、極端にいえば、自分よりレベルの高い集団に入って落ちぶれるよりは自分が偉そうにできるレベルの集団に属している方がいい、みたいな主旨だ。

 

一般的には自分と同じもしくは上の人とつるんでいる方が成長するものと語られているけれど、実のところ自分が一番上、みたいな環境の方が純粋に挑戦意欲が沸き、結果成長する、というのが個人的な経験的には正しい気もしている。

 

これを踏まえると、大企業というのは、自分が上という状態まで到達するには程遠い環境である。自分よりキャリアの長い人たちが沢山いて、かつポテンシャル自体も同等以上の人たちが集まった集団で形成されているからだ。小さな組織単位でみればそれほど難しくはないが、基本的に雇用が極めて固定的なので、絶対的な能力は向上していても、相対的な能力は上がりにくい。

 

もし、アルバイトをしている時に、過去の先輩たちがずっと残っていれば、私はずっとつまらないアルバイト生活を送っていたと思う。先輩がやめ後輩が入ることで、自分の相対的なポジションが変わることによって、モチベーションは変化するのだ。

 

 ということで、まとめると、

・自分の能力が発揮できない状況はつまらない

・自分より相対的にレベルの高い集団の中では自分の能力を発揮できず、つまらない

よって、

・相対的に秀でられるような努力をする

もしくは、

・自分が上位に食い込める環境へ身を移すことが重要

 

だから「自分の強みを見つけろ」って言われるのか。

「勉強」に逃げるのはもったいない

そういえば、先日、大学院の後輩から飲みに誘われまして。3年ぶり?ぐらいに再会したんですが、会ってみると、平日にも関わらず短パン姿の後輩がそこにはいました。はて、ベンチャー企業にでも転職したのか?と思いきや、会社を辞めたとのことで。何でも医学部の再受験を目指しているらしいのです。

 

私は今の環境から飛び出す、という選択ができる人は素直に凄いな、と思っています。飛び出すことを「逃げ」だと考える人も多いですけど、本当は逃げ出す勇気のない人たちからの嫉妬、負け犬の遠吠えでしかないです。飛び出す方がはるかにリスキーだし苦しいし面倒くさい。だからそういう選択をした人を応援したいな、とも思っています。

 

ただ一方で、本当に「逃げ」と思える選択があるのも事実で、その最たる選択肢が「勉強」だと私は考えているんです。ん?目標に向かって勉強するのはいいことなのでは?と思われる方もいるかもしれませんね。でも、そういう考え方をする人が多いことが、勉強が逃げに思える理由の一つでさえあります。

 

勉強が逃げに思える理由は4つあります。1つ目は、「社会から降りる」あるいは「社会に入るのが遅れる」からです。つまり、価値創出を一時的に断念するという意味で、社会からの逃げを意味するところがあります。

 

別に、一時的に社会から逃げたっていいじゃないか。そう思う人もいるでしょう。私もいいと思います。社会から一定期間距離を置きたいとか、純粋にまた勉強やりたくなったから、という理由で学校に通ったりするのは、人生の選択としてアリですし、それが正しい。

 

しかし、高い目標を設定し、そのために勉強が必要だから勉強する、というスタンスで勉強することを選ぶのであれば、少し考え直しても良いと思うのです。例えば、職業の特性上、絶対に資格が必要で、その資格を取得するためには勉強しなければならないのであれば、その勉強は必要なものです。(上記の後輩の例もそれにあたります。)

 

ただ、そもそもその職業でなければならないのか、は考えるべきだし、もし資格とかが要らないのであれば、そもそも今勉強する必要があるのかは考えた方がいいでしょう。例えば、システムエンジニアになるから応用情報処理の資格が必要とかプログラミングスキルが必要、みたいなことはないですし、仕事をしている中で徐々に身につけていけばいいのです。

 

つまり、勉強に専念する、ではなく、仕事の中で勉強する、という形にできることが最良です。

 

2つ目の理由は、上述の通り、勉強は無条件に良いことだ、みたいな一般的な風潮があって、目標を設定して勉強している様は一般的に立派に映ってしまう、ということですね。こういった風潮は、大義名分を立てやすいこともあり、「勉強していること」自体に慢心してしまいやすい、ということです。もちろん、周りが皆社会人くらいの年齢であれば、劣等感も感じずにはいられないと思いますが、目標を高く設定することによってある程度緩和できてしまうのです。

 

3つ目の理由は、シンプルです。実は、「勉強するのは簡単」、ということ。たぶんほとんどの人は勉強が嫌いで、勉強するって難しいと考えていると思うんです。でも、一部の、それなりに勉強ができる人からすると、「勉強する」ってのはひじょーーに楽な方法なんです。

 

勉強がなぜ簡単なのか。それは、努力するだけで結果が出るから、です。勉強とは訓練みたいなものです。すなわちいかに反復練習するか、が大事なんですね。もちろん、生まれながらの記憶力とか、幼少期の勉強経験などによる伸び方に差はありますよ。しかし、基本的にはたくさんやれば必ず一定以上の効果が出るので、効率的に達成感を感じることができます。

 

ここで問題なのが、勉強で感じる達成感と目的に対する成長の大きさは比例しない、ということです。つまり、勉強で多くの知識や方法論を覚えたからといって、目的に大きく近づけるわけではない、というわけです。

 

なんでそうなるかというと、一つは抽象的な理論と具体的な実学には大きな乖離があるためです。そして、実学と理論を繋ぐためのプロセスを考えたり、そもそも理論をカスタマイズしたりと、ケースバイケースで新しいことを考えなければならないからなんですね。

 

で、それを調べたり、考えたり、人に聞いたりして構築していくのが価値創出に繋がる学びで、だからこそもっとも価値があります。また、実学から入ると、必要な理論というのは比較的絞られてくるので、ちょこっと勉強して習得しやすい上に実学から繋げるところとセットで考えているので、使える理論になっていることが多いものです。

 

少し前に私も初めてマーケティングをやったんですけど、その時に、STP(セグメンテーション・ターゲティング・ポジショニング)とか4P分析とか基本的な知識は一通り勉強できました。ちゃんとマーケティング理論なんて学んだことはないですけど、次にマーケティングをやれと言われれば何となくは進めることができる、ぐらいにはなっています。

 

プログラミングとかも全く同じですね。Androidアプリのプログラミングの構文勉強するぐらいなら、具体的に作りたいものをイメージして、それを作るために必要な構文を順次取得していく方が結果的に効率よく使えるスキルを身につけることができる。で、一回できてしまうと、別にスキルなんてもってなくても作れるな、っていう感覚になる。これが意外と大事。

 

そして、最後の理由。

 

勉強って楽だけどつまんなくないですか?

 

私は割と勉強するの好きでしたけど、社会人になってから、勉強って結構つまんないなーって気づくんですよね。特に遠い目的のための漠然とした勉強がつまんなくて。日々の業務に役に立たない勉強って本当につまらないんですよ。

 

だから勉強だけに専念する、っていうのは今の自分には正直考えられないんですね。それよりはなんかよくわかんないことを考えた方が純粋に面白いな、と思って。

 

なので、社会人は「勉強」に逃げるのはもったいないなって思うんです。それでも、どうしても勉強したいのであれば、具体的な課題・価値創出に繋がるものをちゃんと考えてみて、それを考える過程で勉強しましょう。それが一番おすすめ。

「俺がやる必要なくね?」と思ったら

サラリーマンをしていると、しばしば

 

「俺がやる必要なくね?」

 

と思う瞬間にぶち当たることがある。

 

もっともわかりやすい一例をあげるならば、資料の印刷、とか。これらは誰でもできる仕事の代表例で、特に新人の頃などは課長からぽっと依頼を受けることがあった。プリンタのドライバさえインストールしていれば誰でもできる仕事である。(が、偉い人はわざわざプリンタのドライバのインストールなんて面倒なことはやらないのである。)

 

で、まぁ資料印刷なんてのは本当に誰でもできる仕事、なわけだけれど、例えば、「会議向けの打ち合わせ資料を作る」ぐらいのレベルになったとしても以外と構造は変わらないんだよね。

 

例えば、新人と5年目社員のどっちが作るべきか?と言われれば、それは新人には少し難しいし、5年目社員が作るのが適切だろう、と言う話になる。でも、これがもし5年目社員と6年目社員のどっちが作るべきか?と言われれば、ぶっちゃけどっちでもいいのだ。どっちが作っても多少の差はあれど、大して業務遂行に支障をきたすことはない。

 

つまり、自分が6年目社員だったとしてこういう仕事をしなければならない時にはきっとこう思うことだろう。

 

「俺がやる必要なくね?」

 

自分がやる必要のない仕事をやるのは一見時間の無駄に思える。巷の自己啓発本では、自分の得意なことに集中し、自分がやる必要のない仕事は他の人に任せるべきだという主張もある。

 

ただし、この思考に取り憑かれて、自分がやる必要のない仕事を削ぎ落とす前に考えて欲しいことがある。

 

「俺がやるべき仕事とは何か?」

 

そこに対する答えを持っていない人間に限って、これって俺たちがやる必要あるの?俺がやる必要あるの?と目の前の仕事に文句を垂らす様が散見される。で、そういう人たちには仕事が回ってこなくなり、窓際に追放される。

 

あるいは、楽な仕事、面白そうな仕事こそが自分がやるべきという謎の解釈をして、お粗末なアウトプットを出す人。「やりたい」と「やるべき」を混同してはならないのだ。

 

極論を言ってしまうと、サラリーマンの中に、「自分がやるべき仕事」なんてものはない。幻想である。なぜなら、誰が仕事をしても回るようにできている仕組みの中で働いているのがサラリーマンだからだ。私たちにできるのは、せいぜい自分がやった方が他の人がやるよりも良いアウトプットにできる仕事だ。自分がいなくても仕事は回るが、自分がいた方が少しは良い結果を出せる。この考え方はサラリーマンの生命線だ。

 

敢えて言うならば、その仕事に自分が取り組む必要性を付け加えることが重要である。自分がやりたい仕事に大して、自分がやるべき理由を付加する。これが重要。

マリオメーカーは革命

Youtubeで「明日香チャンネル」というマリオのゲームをひたすらクリアする動画チャンネルがある。ただ遊んでるだけじゃん、って話なんだけど、チャンネル登録ユーザ数がなんと40万人を超えているという驚き。

 

で、見てみるとこれが結構面白くて。40万人の人を魅了するのも頷けるというか。で、その面白さは何から来るものなのだろうか、と少し考えて見た。

 

もちろん、当人のプレイ中の解説とかも面白いんだけれど、やっぱり決定的なのは、「マリオメーカー」というゲーム自体の革命性、というが私の結論。

 

一応知らない人のために補足すると、マリオメーカーとはその名の通り、誰もが一度はやったことのあるであろうマリオのゲームを自分で作ることができるゲームだ。このゲームの何が凄いって、要はみんながゲームプログラマーになれる、ってことであり、つまりは消費者から創造者へ変わったと言う点が革新的なのだ。

 

創造市場というのは、近年は確実にマーケットとして拡大している。おそらく、大量消費の時代に多くの人が飽きを感じ、創造を新しい娯楽として捉え始めているからだ。近年成長するサービスの多くは人の創造性を駆り立てている。

 

LINEスタンプ・Instagramなど、あるいはメルカリとかもそれに該当する。そして創造する人たちに支えられたサービスは、アップデートのスパンが非常に早いため、消費に新しさが生まれる。結果的に利用者にとっても面白いものになる、という好循環が生まれるのである。

 

マリオメーカーの場合も、同じで、①マリオメーカーにて多くの人が娯楽としてゲームを創造する。②新しいステージをクリアする(消費する)人が増える、と言う流れで利用者が増えている。

 

ただ、マリオメーカーが他のサービスと決定的に異なっているのは、「消費の仕方」自体に対する面白さがあることだ。つまり、「人が難しいステージをクリアしている様」も一つの作品になる、ということ。

 

それはゲームのスポーツ性というか競技性によって達成される性質なのだろう。例えば、Lineの非常に作りこまれたスタンプやInstagramに投稿された美しい写真は万人が平等に楽しむことができる。そこに競争原理が存在しないからだ。逆にいうと「消費の仕方」に差異はなく、よって価値もない。

 

しかし、ゲームはプレイする人によってその結果に差異が出る。昔、神動画というサイトでゲームを最速でクリアする動画とかが流行っていたけれども、これらが人気が出るのは、普通の人にはできないことをできる希少性があるからで、それはプロ野球が人気なのと全く同じ理屈である。

 

大げさに言えば、マリオメーカーは、「誰にでも簡単に新しいスポーツを作るためのプラットフォームを作った」のである。スポーツ観戦に踊らされている人口数を鑑みれば、どれほどの影響を起こしているかは計り知れない。

「能力が高いこと」と、「パフォーマンスが高いこと」は完全に別である

今日は課長から夏のボーナスの評価を聞いた。結果は、

 

「期待通りの働き」

 

であった。つまり、普通ってこと。

 

「役職が着いた初年度は全員一律最低の評価をつけられる」という謎の社内規定によって、昨年は全く自分の働きが客観的にどうなのかがわからなかったので、ようやく純粋な評価がもらえると、ほんの少しだけ期待していたのだが・・・。世の中はそれほど甘くはなかった。

 

冷静に考えれば同じ役職内の相対評価で決まるので、年次が最も低い私の評価が低いのは当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、ここ半年くらいは自分の成長を割と実感できていた。若干の手応えがあっただけに残念である。例のごとく、課長からはエラい人へのアピールが足りないのでは、とだけ言われた。

 

私はエラい人に媚び諂ったり、過度なアピールをするのが得意ではない。というか嫌いだ。わざわざ社外で交流することは皆無に等しいし、仕事上で、必要な時だけ伝えたいことを言うだけ。それが私の最大限のアピールだし、そのスタンスで今のところ問題はないと思っていたものの、もしそんなことだけが原因で他の人に比べて本当にパフォーマンスが低いと思われているのは少し癪だなーとは思う。

 

でも、事実ベースでアピール云々ではなく、それほど高いパフォーマンスを出せていない、とも私は考えている。

 

そもそもパフォーマンスとは何なのか?資料を作るのが早い、成果物のクオリティが高い、プレゼンが上手い、そんなことを考えている人ももしかしたらいるかもしれない。確かに現場レベルであれば、そういう人はパフォーマンスが高いと考えられる傾向にあるだろう。

 

しかし、部長、事業部長、などレベルが上がってきた時にそんな話はどうだっていい。全て手段でしかないのだ。その結果チームとして何を成し遂げたのか?が重要で、その結果に対する貢献度が個人のパフォーマンスなのだ。

 

学生の頃は、「能力が高いこと」と「パフォーマンスが高いこと」は同じであった。試験で100点を取れるやつは勉強において能力が高い。そして、100点という結果自体がパフォーマンスである。二つは全く同じなのである。

 

しかし、社会人の場合は、この二つは完全に別物だと考えた方が良い。なぜなら、仕事によってパフォーマンスのレベルが左右されるからだ。たとえるならば、100点満点の試験を実施するのか、1000点満点の試験を実施するのかを仕事によって左右される。そして、ほとんどの仕事は人事によって左右される。

 

もし、仮に同じくらいの能力を持った二人だったとしても、解くテストの上限が10倍違えば、満点の働きをしたとしてもパフォーマンスも10倍の差が開く、ということなのだ。そして、評価というのは基本的に「能力」に対してではなく「結果」に対して下される。

 

良い仕事を自分から取りに行くことがいかに重要であるかがわかる。

生きていくって

ドラマ半沢直樹の最終回で、主人公である半沢が、自分を裏切った近藤に語りかけるシーンがある。

 

生きてくって大変だな。ときどき思うよ。なんで銀行員なんかになっちまったんだろって。・・・

 

社会人になってこのシーンを見ると、妙にじーんとする。この「生きていくって大変だな」って言葉に非常に共感してしまう自分がいるのだ。私も時々思う。なんで今の仕事なのか。なんで今の自分なのか。

 

私は収入も安定してるっちゃ安定してるし、労働時間だって極端に多いわけじゃない。仕事だって別につまらなくはない。警備員みたいに単調な仕事に比べればずっと面白いはずだ。それでも、毎日大変なのだ。そして、これからずっと今ぐらいの大変さは続いていくのだろう、と考えるとやはり憂鬱である。


では、子供の頃は楽だったのだろうか。そうではない。考えてみれば、楽な時なんてのはほとんどなくて、常に切羽詰まっていた。夏休みの宿題は終わらせなければいけない、毎日部活はしんどいし、バイトもしんどいし、学生を全うするためには勉強も必要で、研究しないといけない。決して楽ではなかった。さっさとシンプルに社会人になりたいと思っていた。

 

ただ、学生の頃に比べて暇になった感覚はあるけれど、楽になったという感覚は正直あんまりなくて。一方で学生の頃よりも楽しくなった、という感覚もない。はて。学生の頃に思っていた社会人はもう少し面白いものだと思っていたけれど。

 

慣れてくると結局飽きてくる。業務に飽きるというのはもちろん一つあるとして、人間関係に飽きる、というのもあるし、毎日目にするものに飽きている、というのもあるかもしれない。

 

考えてみれば、大学院で別の大学にいったのも、5年も同じところに所属していると、もうさすがに飽きたな、と思ってしまうのだ。

 

今の私も5年目なので、たぶんそういう頃合いなのだろう。そもそもそんなに気の合わない人たちとずっと一緒にいても楽しいわけもなく。限界が見えていて、ほとんどのことが飽和状態になっているのだ。

 

ただただ飽きない何かを見つけたい。

ホンモノの要件定義

システム開発プロジェクトにおいて、まず最初に行う工程が要件定義である。要件を定義するわけであるが、ざっくり言うと、「何を開発するのか」を決めること、である。対照的に、設計工程では「どうやって実現するのか」を決めることも合わせて覚えておきたい。

 

要件定義は、作るものを決める工程であるが、それはお客さんからの要求を元に作る。だからこそ、システム開発の中では最も重要な工程だと言われている。だって、「作るもの」を間違えたら、どうやって作ろうがどれだけ美しく作ろうが全く価値のないものになるからだ。

 

例えば、テレビが欲しい人に対して、カメラを売ったって何の価値もない。それがいかに精密に作られていたとしても、だ。これから開発プロジェクトを進めるチームメンバ・ステークホルダーの仕事を無駄にしないためにも要件定義は確実に抑えたい。

 

ただ、一方で要件定義というのは非常に難易度の高い仕事でもある。難しい所以の一つが、お客さん自体が何がほしいのかを把握していない、ということである。これはシステム開発に限らずだけれど、いかに潜在的なニーズや課題意識を引き出せるのかがポイントだと言われる。

 

先ほどの例で言えば、テレビが欲しい人に対してテレビを提供しても満足してもらえない場合があるのだ。なぜなら、お客さんは、「何かを達成するための手段としてのテレビ」が欲しいのであって、本当に欲しいものはその「何か」であるからだ。その「何か」を提供するために必ずしもテレビが最適だとは限らない。むしろそうではないことの方が多いかもしれない。

 

もっとも厄介なのは、特に受注型であるSIの場合は、要件定義がミスっていても開発プロジェクトとしては成功、と判断されてしまうところだ。お客さんがすごく満足したわけでもなく、売上増加に貢献できたわけでもないが、お客さんからお金をもらってシステムを納品できればプロジェクトとしては御の字になってしまうという構造的な問題がある。

 

すると、ホンモノの要件定義を理解することもなく、「要件定義とはこういうものだ」みたいな誤った認識がまかり通ることになる。

 

話を戻すけれど、要件定義の難しさはお客さんとのコミュニケーション・ヒアリングによって答えを導き出していくことにあるのでは?と考えた人もいるかもしれないけど、実は企画型案件の場合でも同じ、もしくはそれ以上の難しさがあったりする。

 

企画型案件とは、ある課題に対してこういうことをしたい、そしてそれを実現するためのシステム開発のことである。お客さんの要求を元にシステムを作るのではなく、自分たちの理想を元にシステムを作る。だから、内部だけで進めることができるので一見すると簡単そうに見える。

 

しかし、「自分たちがやりたいことは何なのか?」を本当の意味で突き詰めて考えていくことに難しさがある。

 

一つは、理想を明文化・言語化するプロセスは難しいということ。お客さんが自分たちの欲しいものがわかっていないように、私たちも自分たちが欲しいものが実ははっきりとわかっているわけではない、ということだ。

 

特に、それが組織としての理想である場合、各々が考える理想像は微妙に食い違っていたりしてそれらの方向を合わせるのも一苦労である。また、変に理想を追い求めすぎたりして、青い鳥症候群のような、あるはずのない構想だけを描き、結果絵に書いた餅になる可能性も孕んでいる。

 

二つ目は、先ほどの話と少し逆で、地に足のついた発想をしてしまいがちであるということだ。どういうことかというと、つまり設計や実装のことをわかっているが故に、技術的な制約から理想を逆算して考えてしまうのである。まず、「やりたいこと」を考えてから「できるのかできないのか」を判断・検討すべきなのだが、頭の中で「できない」と判断してしまうと、そもそも「やりたいこと」として挙げられない。

 

目的から考えるべきなのに、まずツールや製品ありきで、あるいにニーズから考えるべきところをシーズありきで考えてしまう、というのはよくある話なのだろう。今の私たちもそんな感じで割と要件定義にハマってしまっている気がする。これらの点にはぜひご注意いただきたい。

Low-code開発とは

最近、「Low-code(ローコード)開発」というキーワードを耳にするようになった。具体的にはプログラミングが必要ない開発のことだ。そして、それはローコード開発用のプラットフォームによって実現される。

 

例えばどういうことか。通常であれば、html, css, javascriptなどの言語を用いてWebページを作成する。このはてなブログのテーマなども、誰かがそういったプログラム言語で記述したものだ。

 

しかし、ローコード開発プラットフォームでは、Webアプリケーション(ホームページ)などをドラッグ&ドロップなどの直感的な操作によって作成できる仕組みが提供されている。つまり、プログラムの知識がなくとも画面のデザインができるということだ。

 

他にもデータベースを簡単に作れたりする。もちろん、設計項目を考える必要はあるけれど、それをsql言語を使って記述したり、Webフォームとデータベースへの挿入を関連づけるのも直感的操作でできるので、プログラミング言語を使う必要がない。

 

ただ、これらの技術は最近になってできるようになった、というわけではなく、結構前からある統合開発環境Android Studioなど)でも提供されてはいた。ただ、なんというか技術者目線で考えれたときに、「コードを書かないのに開発と言えるのか?」といった葛藤や「技術習得を怠り甘えているやつのやること」みたいな風潮があったのだと思う。

 

私もAndroidアプリを作った時は全てコーティングで作った。GUIだと微調整ができない、という機能的な問題もあったが、やはり開発=コーディングという考え方があったからだ。

 

しかし、ローコード開発というキーワードが浮上してきたのは、世間にこのような開発が受け入れられ始めた背景が存在するからだ。考えてみれば、アセンブラに始まり、C言語、htmlなどプログラミングは時代を重ねるごとに簡単になってきている。それらも当初は技術者の甘えなどと揶揄されていたかもしれないが、今では当たり前になっている。それらを踏まえれば、今後も普及していくのは間違いない。

 

言うなれば、英語を必死で勉強して外人と話すよりも、翻訳アプリを使って話すのが当たり前になっていくようなものだ。確かに英語を話せるのはかっこいいかもしれないが、外国人と話すという目的達成のために必ずしも英語を勉強しなくても良いならみんなそうする。英語はただの手段だからだ。

 

プログラミングも全くもって同じで、要するにサービスを提供するための手段でしかない。だからわざわざ複雑で難解なことに時間をかけなくてもいいし、その方がビジネス的には合理的なのだ。プログラマーの時代が終わりを迎えつつあると思うと少し感慨深い。

 

ただ、誰でも使えるほど簡単なのか、というと正直そうではない。今、私も現在の開発案件でこのローコード開発プラットフォームを使って開発をしているが、使っていて思うのは、結局システム設計のスキルは必要だということだ。

 

本当に優秀なプログラマーであれば、何を使うにせよ、良い設計で勝負していくことを目指して欲しい。

ディスカッションバカになってはいけない

会社の中に一人や二人はいるのではないだろうか。ディスカッションになると饒舌に話をし、自分の意見をいけしゃあしゃあと発言する人。「議論で発言しないやつに価値がない」という意識が根付いた人間が陥りがちなパターンだ。

 

無論、会議の場で何も発言をしないよりはマシかもしれない。ただ、発言だけをひたすら繰り返すことにそれほど大きな意味はない。しかし、発言にある程度慣れてくると、自己顕示欲が出てくるのか、自分の思考に陶酔してしまうのか、なんなのか、そういう”ディスカッションバカ”になってしまう人がいる。

 

議論というのは基本的に2パターンしかない。一つは結論を出す場であり、もう一つは気づきを得る場だ。これらが意味することは何だろうか。それは決して「思考を深める場ではない」ということだ。なので、どんなテーマであっても、長時間議論をするべきではない。

 

もちろん、議論によって思考が深まることもあるだろう。だから、議論はどんどんしていくべきだ、と考えている人もいるかもしれない。でもそれははっきりいって生産性の低下を招いている。

 

気づきさえ得れば、各々がそのインプットを元に情報収集を行い、思考を深めることは可能である。次は結論を出す場で、再度話をすればいいのだ。その方がはるかに生産性は高い。

 

一般的な会議であれば、大抵の場合が時間が決まっているので、それほど無駄話に終わることは少ないかもしれない。しかし、休憩程度の小話のような、ちょっとした相談のような、それも割と立場の近い人同士の会話がこのような議論に発展していくケースも多いのではないか。

 

当の本人達は沢山話して頭の中はスッキリしているかもしれないが、それはたぶん一人でやるべきだったし、必要以上の時間を掛けている、場合が多い。たとえ会議の場ではなくとも、「結論を出すために」あるいは「気づきを得るために」という意識を持っておかなければ、ディスカッションバカに認定されることになるのでご注意を。