∑考=人

そして今日も考える。

採用の合否を分けるポイントは○◯だったという話

どうも。

唐突だが、私の会社の同期は数百人ぐらいいる。そして、入社6年目ともなると、色んな組織に散らばって活躍している。

独立したという話はあまり聞かないけれど、イケイケのベンチャーに転職、外資系コンサルに転職する人もいれば、会社の中で地方に転勤、子会社に出向、海外常駐みたいなケースももちろんある。

ちなみに私の嫁と親しい同期の場合は、人事部に異動した。開発が合わず、営業も合わず、最終的に人事になってそこそこ楽しくやっているらしい。

「そんなに合わないなら会社やめれば?」とか個人的には思ったが、諦めずに自分に合った場所を探すという姿勢はどうも大事らしい。

とまぁ私の感想はどうでもいいとして。人事の大きな仕事と言えばやはり採用である。中でも私の会社の場合は新卒採用が大半を占めるので、「いかに優秀な新卒を採用できるか」が重要視されている。

優秀をもう少し平たく言うのであれば、自社の仕事の中で成果を挙げられる人、極論を言うと速く出世していく人、といってもいいかもしれない。そんな人をいかに採用していくかが鍵なのだ。(私自身は出世していく人=成果を出している人とは思わないけれどそう考えた方が単純なためここではそういうことにしておく。)


であれば、どういう人が速く出世するのか?というのをトレースすれば結果は一目瞭然な気はするのだが、現段階ではそういったトレースは難しいそうで。


おそらく数年前は採用活動にデータが活用されていなかったのだろう。どんなファクターが出世スピードに影響を与えているのかが厳密には特定できていないらしいのだ。

これは個人的にも非常に興味があって。思い出しても見てほしい。新卒採用の面接の時は、リーダーシップ、協調性、コミュニケーション能力、プレゼンテーション能力、論理的思考能力、独創性、英語力、などキリがないほどの能力を求められなかっただろうか。そんなスーパーマンがどこにいるんだと。

だから、結局のところ何が本質なのかを掴めないままなぜか就職だけが決まった、というのが正直な感想で。一体どんな資質が大事なのか、は私自身ずっとわかっていないのだ。もっと言えば採用を担当した人事の人ですら私を雇って正解だったのかもわかっていないはず。

とまぁ採用の完全な正解はわかっていないのが現状なのだが、少なくとも採用活動を行う以上は合否を分けるポイントはあって然るべきだろう。と思っていればやはり現時点で採用の際に最も重視しているポイントはある、というのだ。

さて。どんな資質が評価されるのか、想像できるだろうか。

これはたぶん会社によっても異なるとは思う。私の会社の場合はなんと・・・

ストレス耐性

とのこと。つまりストレス耐性が強い人が私の会社に残る傾向が認められ、成果を出す傾向が認められている、ということだ。

この回答には驚きと共感しかなかった。

2020年やらないことを決める

まぁ守れる守れないは別として。

 

普通新年って「これをやろう」みたいな目標を立てるのが一般的だと思うし、個人的にも達成したいことがないわけではないんですが。目標って何となく立ててもだいたい達成できないもので、この理由って時間の有限性に起因すると思ってます。

 

仕事でもそうですよね。こんな反省があるから次はこうしよう!とか言うけど、結局できなかったりする。当たり前。時間を増やさないと新しいことはできないんです。だから今までやっていたことをいかに効率化するか、とか考えるんですけど、効率化するよりもやめた方が断然効果は高いです。

 

一例をあげるならば、例えば私はyoutubeとかで動画を見る時はだいたい2〜2.7倍速ぐらいで見てます。要は倍の生産性が出てるわけです。じゃあ時間が余るかというと余りません。だって別の動画を見ますからね。

 

でもこれが例えば「動画を見るのを止める」という判断をすると、どうなるでしょう。これまで動画を見ていた時間はゼロになりますし、侵食されることもなく、完全に別のことに時間を使えます。

 

だから、まず「やらないこと」を決める。それが正解と思った次第です。ただ、やらないことを決める上で、一体自分が何に時間を使っていたのか?を知っておくことも重要だと思います。そういう情報がApple Watchとかで取れるといいな、と思いますが、ないので、記憶を頼りに。みなさんも去年の予定表とか見ながら考えてみると面白いかも。

 

大前提として、1年間は24時間×365日なので、総パイは8760時間あります。これは全員同じです。

 

おそらく最も多いであろう睡眠時間から。まず私の場合、基本的に1時〜8時まで毎日寝てます。はっきり行って休日は11時ぐらいまで寝てることがほとんど。だいたい年間120日(≒1/3)が休日だと考えると(7時間×2/3+10時間×1/3)×365日=2920時間は寝てる、ということになります。つまり、ちょうど1/3が睡眠ということですね。実質、活動に費やせる時間が5840時間しかないということです。

 

次に労働時間。昨年度の労働時間は推定ですけれども、残業時間が確か年間トータル600時間ぐらいなので、20日×7.5時間×12ヶ月+600時間=2400時間は働いているということになります。36協定に引っかかりそうな数字なので、実際にはもう少し少ないはずですが、お昼休憩の1時間も労働時間内と考えれば、ほぼ同じくらいの数値かな、という感じです。

 

すると余った自由に使える時間は2440時間。意外にも働いている時間と同じくらいの時間が余ってます。これだけの時間を自由に使えるはず、というのは少し気が早いです。例えば、通勤時間とかもこの中に含まれています。

 

私の場合は電車通勤で、だいたい往復1時間ぐらいです。なので、240時間は自由には使えません。残り2200時間になりました。あとは例えば、会社の飲み会などが頻繁に開催される人であればそこも計算に入れる必要がありますね。週1で2時間飲みに行くとすると、52週×2で100時間ぐらいが引かれます。残り2100時間です。

 

労働以外でも、生活に必要な時間もあります。朝起きて髪を整える、歯磨きをする、顔を洗う、用を足す、ご飯を食べる、お風呂に入る、などもあります。毎日トータル1〜2時間ぐらいはかかっているでしょうね。私はお風呂も5分ぐらいなので365×1=約360時間で、これはなかなかインパクトありますね。1740時間まで減ってしまいました。

 

家事に費やす時間もあります。人によっては一番インパクトがあるかもしれません。私は料理は基本的にやらないし、掃除はルンバにお任せで洗濯物ぐらいなので、週1回で20分ぐらいですか。年間20時間ぐらいですね。(嫁に怒られそうな時間感。)残り1720時間。

 

結局、残るのって20%にも満たないってことなんですね。私の場合でそうだから家事をキッチリやって仕事もしている人とか、子育てしている人とかってこんな比ではないはず。

 

で、その余った20%を何に使っているのか。休日の1/4は嫁と外出するから100時間ぐらいは時間使っていて。昨年で言うと、毎日1時間ぐらいはギターを引いていた気がするので360時間。たぶん、読書とブログ書くのは合わせても50時間ぐらいしか使っていない気がする。

 

となると、残りの1720-100-360-50=1210時間はどこに消えているのか。きっとアマゾンプライムYouTubeなわけで。こう考えると、積み重ねってすごく恐ろしいなと。

 

最近はYouTubeのコンテンツは本当に充実していて、それこそ私の好きなお笑いのコンテンツは山ほどあるし、教育系、ビジネス系の動画もある。見ていて勉強にはなるし面白い。面白いからいいかと思っていたけれど、なんとなくで今の自分に必要ではないコンテンツを受動的に選ぶのは良くないという思いが強くなり。

 

だからもう目的のない動画鑑賞は2020年やめることにします。

私たちはいつまで紙で採点を使うのか

どうも。この度秋期のシステムアーキテクト試験に合格しました。

 

私は前回応用情報技術者の資格を取得してからとっくに2年以上経っているため、午前試験の免除が効かず、シンプルに覚えなければならない知識量が多いんですな。おまけに年に1回しかチャンスもなく、タイミングも選べない。そもそも丸一日ペーパーテストで潰れるのがこの歳になると惜しいし、体力的にもきつい。。。

 

と、まぁ色んな嫌な要素があって、ここ数年間は情報処理試験からずっと手を引いていたんですが、出世のために高度資格が必要とのことで、上司からの圧力を受けながら今回受験することにした、という背景です。

 

システムアーキテクトを選んだ理由はまぁいくつかあるんですが、強いて言うならば持っていた時に目立つかな?ぐらいで。ネットワークスペシャリストとかDBスペシャリストってこの世界にいるとよく聞くんですが、システムアーキテクトってあんまり聞かないんですね。

 

たぶん論文問題があるからで(これが後述の通り相当しんどい)、勉強する気が削がれるんでしょうね。私はこれでも割と文章を書くのは多分得意な方なので、今ならいけるんじゃね?ぐらいの感じでチャレンジしたわけです。

 

結局、論文対策なんてやっている時間はほぼなくて、当日にフル活用に無理やり回答した、という感じです。そもそも回答用紙に余白ありまくりだったので、100%落ちたと思っていましたが、まぁラッキーでしたね。

 

と、まぁ私の自慢話はここまでにして、本題なのは、この論文問題についてです。午後2時間半ぐらいで、トータル4000文字ぐらいを書かなければなりません。たぶんシステムアーキテクトに限らず他の高度情報系の資格とか、もしかしたら全然別の資格でもそういうのがあるかもしれませんね。

 

私はぶっちゃけ1時間で2000文字以上ぐらいは書けるんですが、それはタイピングを前提とした話。試験の時は「紙に筆記で書かなければならない」ことが最大の障害になりました。

 

まず、はっきり言って全然時間が足りませんでした。何を書くか考えなければならない難しさももちろんありますが、考えたことを書くスピードが追いつかないんですね。だから一度考えたことが書いている間にどこかへ行ってしまう。

 

また、ブログなどもそうで、書き出すことで初めて頭の中が整理されたりするものなんだけど、気軽に書き直すことができない。例えば、文章の構成を途中で変更しようものなら、最初から全て書き直さなければならなくなったりするので、基本的に最初に決めた通りに書くしかないんです。

 

最後に、漢字が出てこない瞬間とかもありましたね。やっぱり自動変換に慣れすぎるのもよくないです。

 

と、まぁ色んな障害をクリアする必要があるんですが、「この障害って今の時代に必要なのか?」と強く思いました。あくまで、知識や技能を持っていることを評価するための媒体に紙を使っているだけで、書面に自分の考えを時間内に筆記できる力は必要ないはずじゃないですか。

 

漢字がわからなくて落ちたり、途中で文章構成を変更する時間がなくて落ちてしまう人が実務でそのスキルが発揮できていないかというと、たぶんそんなことはなくて。だって、PCを使えば自分の知識やスキルを使って表現できるはずだから。

 

こう考えると、紙で採点を行うというのは機会損失ではないか、と思うんですね。本当に柔軟に自分の考えを表現する人は不合格になり、逆に初めに構成や文章量をかっちり固めている人が評価される。

 

教育の現場は古い慣習に縛られていることで、どれだけ損失を出しているか自覚した方がいいでしょうね。

プログラミング言語を勉強してもサービスが作れない理由

最近は、IT系の人とかSEじゃなくてもプログラミング言語を学習する人が増えてる気がする。私の友人にも何人かいる。「今、Python勉強してるで」みたいな。

 

プログラミング学習サービスが沢山登場して学習のハードルが下がってきたこともあるし、サービスを作りたいと考える人が増えたからなのだと思う。で、はじめの一歩としてプログラミング言語を勉強する、というわけだ。

 

私はプログラミング言語の勉強はまったく否定しないどころか良い事だと思っている。少なくとも何かの言語を一通りやってみることは重要だ。どの言語にも共通する考え方を学ぶことができるからだ。

 

しかし、特定の言語(例えばPython)だけを一通り学習すれば、サービスが作れるようになるか。もちろん答えはNOである。プログラミング言語を知っているだけでは不十分なのだ。

 

かく言う私がそうだった。大学院時代にC言語の教科書を一通り学習した後にWebサービスを作ろうと思ったが、全くわからなかった。サービスを作る上で必要なことを理解していなかったからだ。

 

 

プログラミング言語を理解するよりもずっと大切なこと、それはアーキテクチャの本質を理解することである。ズバリ言ってしまうと、アーキテクチャの本質とは入出力、データ、加工方法、この3つ。これだけ。システム風な言葉としては、それぞれ、インターフェース、データベース、ビジネスロジックなどと言う。

 

簡素なWebシステムでさえ、インターフェースはブラウザなので、htmlやphpが使われるし、データベースを扱うためにはsqlが必要、そしてビジネスロジックでCとかJavaとかPythonとかを使う。

 

Androidアプリも同じ。私が過去に作った簡単なやつでも、アプリの画面はxml、データベースはsqlビジネスロジックJavaと3種類は必要だった。結論から言うと、1つの言語で今風のサービスを作ることなんてできないということ。(もちろん、C言語だけで画面もデータベースの仕組みも作れることは作れるけれど、コード量が膨大になって保守性も悪いのでもはやできないと考えた方が良い。)

 

もっと言えば、それらを動かすために必要なミドルウェアとかフレームワークも理解する必要がある。

 

私の場合は、「Webサービスの作り方」的な本を買って勉強して、始めてこのアーキテクチャを理解した。だから、いきなり言語の本を買うよりも、「チャットサービスの作り方」とか「作って覚えるゲームプログラミング」的な本を目的に応じて選んだ方がサービスを構成する全体像が見えて良い。

バタフライエフェクト

たぶん今が人生の1つのターニングポイントやな。

 

なんとなく、そんな確信はあった。1つはこのまま出世を目指していく道。もう1つは遠回りでも自分の欲求に従う道。その分かれ道がくっきりと見えた気がした。

 

私のこれまでの選択というと、シンプルに組織に必要とされることをやる、だった。組織として結果を出すためにはそれが最も合理的であるし、その中で学べることがあると思っていたから。そのおかげといってはなんだが、絶対に自分には向いていないと思っていた仕事も人並み程度かそれ以上にはできるようになったという感覚はある。

 

良くも悪くも、いろんなプロジェクトにいろんな役割で仕事をさせてもらえたこともあって、ここにこのままいてもマズいな、という不満が爆発することは幸いなかったのだ。

 

あまり望んでいないプロジェクトに飛ばされたとしても、実際のところやってみないとわからない。今振り返ってみると、「あれは楽しかった」と思える仕事も元々別にやりたかったわけではなかったりするし、人気のプロジェクトもタイミングによっては全然面白くないこともある。

 

結局のところ、私は選択をしてこなかっただけなのかもしれない。組織に流されることを甘んじて受け入れていただけだったかもしれない。自ら行動を起こすのが面倒に感じていたのはもちろんのことであるが、何より私に足りなかったのは覚悟なのだと。今回、以前開発したシステムのプロジェクトに戻った時にそんなことに気づいた。

 

「楽だけどつまらない仕事」と「忙しいけど楽しい仕事」のどちらを選ぶか。これなら私は迷わず後者を選ぶ。でも現実はそうはいかない。選べるのは「忙しくてほどほどの仕事」と「めちゃくちゃ忙しくて楽しいかもしれない仕事」のどちらか。あなたなら一体どちらを選ぶだろうか?

 

私は潜在意識の中でいつもこの2つの選択肢を天秤にかけていた。そして、私は前者を選んでいたのだ。

 

ただ前者が良いと思っていても、人事的な都合で意図しない選択を強いられる時ももちろんある。私の場合は、約2年前から意図せず、「めちゃくちゃ忙しくてつまらない仕事」を余儀なくされることになった。そして、今回戻ってきたプロジェクトはその最たるものだったと言える。

 

そんな今のプロジェクトもあと一ヶ月ほどで終了という時期。状況的にはかなり落ち着いている(落ち着かせたと言った方が正しい)。開発プロジェクトが終わると、次アサインするプロジェクトの話になるのがシステム開発の世の常であるが、私はこのまま維持として落ち着くまでは残って欲しいと言われていた。加えて、来年最短で出世できるように組織としてバックアップしてくれる方向で動いていたのだ。

 

しかし、今の私は出世になど興味はない。これは本当にそう思っている。これまで権限があるだけで役に立たない人間をたくさん見てきたせいだと思う。あるいは、そうでない人に出会えば変わるのかもしれないが。

 

それならまだ楽しい可能性にかけた方がマシだ。素直にそんな気持ちが腑に落ちていた。これを覚悟と呼ぶのかもしれない。私は別組織へ異動する決意をした。今所属している組織の意向とは関係なく、別組織の長と面談をして、採用されれば異動できる、というよく考えると素晴らしい仕組み(公募制度)が弊社にはあるのだ。

 

とは言え、面談はまだ実施していないので採用されるのかはわからない。加えて、上手く事が運んだとしても、異動できるのは早くても来年度から。だから私が現時点でやったことは、覚悟を決めて、異動したい希望先をノリで選んで、面倒な自己PR文を書いて応募しただけなのだ。

 

でも、この一歩の影響力は私の想像を遥かに超えていた。

 

まず、昔働いていたプロジェクト全体の飲み会で、異動願いを出した話をすると、今は別組織になっている部課長陣から勧誘を受けた。人事異動の制度で、上を通して自分の組織に引き抜くといってくれる人がいたのだ。

 

そして、どちらが良いかを再び悩み始めていた頃、今度は同じ事業部の部長から個別に呼び出しを受けることになった。端的に言えば、別の事業部に移るのであれば、同じ事業部配下で別の組織に入って欲しいと懇願された。それも来月から、と。

 

私は公募を出しただけだったが、それだけでも選択肢が5つに広がり、異動時期が数ヶ月早まることになったのだ。まったくもって嬉しい誤算である。(実のところ、異動希望を出した部署は大変社内的には評判が悪く、若干の後悔が募り始めていたところでもあり・・・)

 

私がこれまでの同じように、課長に自分の意志をただ伝え続けているだけではこんな変化は絶対に起こせなかった。事実、私は元々7月までの約束が12月までになり、4月になり、最終的には「維持が落ち着くまでは」みたいな無期限契約にすり替わっていた。

 

だから、ただ伝えるだけでは足りない。必要なのは、覚悟を示すこと。一歩踏み出すこと。

 

他のやり方はいくらでもあるだろう。めちゃくちゃキレる。めちゃくちゃ泣く。「会社辞めます」と言う。普段の自分が簡単にやらないことなら何だっていい。私にとっての覚悟は、公募を出し、そしてそれを課長に伝える、ということ。ただそれだけ。そして、それだけでも状況は大きく変わる。そんなことをこの年になって学んだ気がするのである。

真実を見抜く力

若い人と仕事をしていると、「何が真実か?」を見極める力が圧倒的に弱いなと感じることがある。簡単に例えるならば、Aさんは「1+1=2だ」と言っていて、Bさんは「1+1=3だ」と言っている場合、それがどちらが正解なのかを見抜けないのだ。

 

上記の例であれば、誰でも即答できる。なぜなら、1+1=2であることを皆知っているからだ。「でもそれって本当に正しいの?」と聞かれた時にあなたはそれをどうやって証明できるだろうか。あるいは、「なぜそれが正しいと思うのか?」という問いに答えることができるだろうか。

 

おそらく、こんな回答をするのではなかろうか。

 

「学校でそう教わったから。」

 

「教科書にそう書いてあったから。」

 

上記の計算の場合においてこれは限りなく正しい。私もそう答える。

 

しかし、ビジネスの現場でこの類の回答でははっきりいって、甘い。「先輩にそう教えてもらった」、「設計書にそう書いてあった」としても、先輩が正しいことを言っているのか?設計書に書かれていることが正しいのか?の確証が弱ければ正しいとは言えないのだ。

 

学校や教科書がなぜ正しいと言えるのか?1+1=2であるという決め事が複数人によって承認され、年月を重ねているから限りなく正しいと言えるにすぎない。そして、これは100%の正しさを保証するものでもない。聖徳太子が実は存在しなかったのでは?など、教科書自体の記述を否定する説もあるように。

 

仕事をする上で扱う情報も同じである。人がやっている以上、情報間の完璧な整合性を保つことはほぼ不可能に近いし、タイムリーに正しい情報が変わっていくこともざらにある。


もちろんリーダーを勤める人はいかにして正しい教科書を作り、いかにして時の流れに適応させるのかを考えなければならない。


が、どんなに頑張ったところで程度の差はあれ必ず間違った情報は混ざってしまうということに全メンバが留意しなければいけない。

 

なぜならば、間違った情報を正しいと信じて行動すると必ずアウトプットを誤ることになる。そして、それは間違ったインプットを与えた人物の責任ではなく、そのインプットの正しさを見抜けなかったあなたのせいになってしまう可能性すらある。


もちろん会社間で仕事をする際は、契約などで守るはずであるが、社内、同じチームなどではこれらの意識は薄れがちである。注意しなければならない。

ドキドキ、ワクワク的な感情

大人になると緊張することが少なくなっていく、という。緊張の原因はある種の怖さであり、人間は一般的に未知のことに対して恐怖を感じる習性がある。だから、知らないことが多い子供の頃は緊張するけれど、大人になって色んな経験を積むと緊張しなくなる、という論理である。

 

けれども、これは真実とは少し違うと私は思っていて。なぜなら、私自身「まったく緊張しない」という体になりそうにもないからだ。社会人になって随分と慣れたけれども今だにキックオフのプレゼンやお客さん先の説明は緊張するし、他にも初対面の人と話したり、もっと言えば久しぶりに会う友人と会話するのだって少なからず緊張する。

 

一方で、確かに緊張することは減ったともと思う。でもそれは経験値が増えたから、というよりは、「緊張するようなことはやらない」という選択をする癖がついてしまうせいじゃないかと思っている。

 

子供の頃というのは無意識の中で、自分が何か困ったことに直面しても誰かが助けてくれるし何とかなるだろうという感覚があるものだ。それはつまり、「自分でコントロールしきれないこと」に対する恐怖をあまり抱かずに済む、ということでもある。なので、純粋にドキドキワクワクの部分だけを感じることができる。そこに相反するマイナスの感情を意識することは少ない。 

 

しかし、大人になるとそうもいかない。大人とは自立した存在のことであり、それは自分で自分をコントロールしなければならないということだからだ。すると、途端に自分自身をコントロールしきれないことが怖くなる。先のリスクを考える。メリットデメリット、損得を考えるようになる。そして未知性を除外しがちになる。

 

そういった思考がドキドキワクワクをないがしろにしてしまう。ドキドキワクワクを感じたいという大人は沢山いるけれども、ドキドキワクワクとはある種の未知性の中に飛び込むことでしか得られない。が、そういった未知性の中に飛び込む、という勇気を持たねばならない。

無駄を排除するとは

最近、会社がいよいよ転換期を迎えているなという感じが上層部からひしひしと伝わってくるのが現場レベルでも肌で感じる。上層部のお達しは、カッコ良く言うならば「デジタルトランスフォーメーション(以下DX)に対応せよ」とのことらしい。そもそも現場レベルでは、「デジタル」と言う言葉をどういう意味で使ってるのかさえ曖昧なのだが。

 

まぁ簡単に言えば、「自分たちで事業を創出してください」というメッセージ。そう私は解釈している。強いて言えば、「新しいテクノロジーを活用して」という条件が加わるし、「社員一人一人ができるように」というのもあるだろう。

 

数年前からこういった風潮はあるにはあったけども年々本格化(少なくとも表面的には)している印象はある。よくある事業部のキックオフでも、SIビジネスからの脱却を目指そう的なスローガンで持ちきりだ。

 

ただし、そういった事業方針の転換が実態として上手く進んでいない。私がやっているプロジェクト もゴリゴリのSIである。蓋を開けてみると、周辺の組織も同じようなものであり、会社レベルでは一部そういった取り込みをやっている組織もある、ぐらいなものである。

※ちなみにここでの「SI」という言葉は、事業を創出するのはあくまでお客様で我々はあくまでも手段としてのITシステムを作りますよ、といった仕事、あるいはそういった働き方のことを指していると思っていただきたい。

 

そういった停滞を踏まえ、「なぜ、DXうまく進まないか」という議論が上層部で交わされているのである。

 

そこで得られた結論は何か想像できるだろうか。「会社の文化に合わない」「適切なスキルを持った人材が少ない」、色んな理由があるが、結局のところ、一番の原因として定義されたのは実にシンプル。

 

時間、リソースが足りない。

 

「あ、それいっちゃうんだ・・・。笑」という感じである。そして、面白いのが時間がないことへの対策として、「短い時間で仕事を終わらせる工夫をしよう」という結論になったらしい。はて。それは問題のただの裏返しでは・・・?

 

もちろん、上層部がただ何もしたくないわけではない(、と私は信じたい)。過去の経験からなのか、推測なのか、「人や時間を増やしたところで結局やらないでしょ?」と彼らは考えているのだ。

 

私自身もある程度制約があった方が仕事は速く片付くようなイメージはある。例えば、今一人に与えている仕事量を半分にしたとしても半分時間が増えるかという増えない。また、5人で構成されているチームを10人にしてもきっと同じだ。

 

なぜ、人を増やしても時間に余裕ができないのか。答えは「無意識に品質基準をあげてしまうから」である。パーキーソンの法則にもあるように、「仕事の量は完成のために与えられた時間を全て満たすまで膨張する」のだ。

 

例えば、学生の頃。試験が始まる5分前ぐらいまでずっと教科書見てる人が沢山いたし、試験の前日まで何時間も予備校で勉強する人が沢山いた。私はあの光景がずっと信じられないし、バカバカしいと思っているのだけど、そういう考え方ってなんか美徳とされる傾向にある。日本特有な気がするけれど。

 

要はそういう思考回路の人間に時間を与えたら、決して届くことのない成功率100%の状態を目指して時間を使いますよ、という話なのだ。特にプロジェクト型の仕事をしている人は必ずそうなる。システムエンジニアとかコンサルタントの残業時間が長いのはそういった失敗のリスクや仕事そのものの不安定さと常に直面しているからだと予想する。

 

例えば、システム開発の場合、「どれだけの試験を実施するのか」というのももはやシステム開発の中では哲学と呼べるほどに奥が深く、正解がない。人によって全然感覚が違うし、どういったシステムなのか(人命に関わるのか、お金が関わるのか)によっても考え方は異なる。

 

他にもリリースや移行と呼ばれるシステムを新たに導入したり、新システムに切り替える作業などもやはりミスは許されないのが普通である。であれば、入念にリハーサルを行いたいものだ。練習すればするほど、成功率は上がるのだから。

 

結局のところ、悔いを残したくないのだろうな、と思う。「やりきった感」と表現しても良いかもしれない。

 

例えば、商用へシステムをリリースして故障が出たとしても、ギリギリまで働いた上での結果なら「しょうがないか」と納得できるものだが、毎日定時帰りの働き方だったとしたら「もっとやれることがあったんじゃないか」と考えるはずだ。だから私たちは持っている時間の全てを成功率をわずか数%でもあげるために膨大なコストを払うのだろう。

 

時間を減らすのであれば、「いかに妥協するか」を考える必要がある。これは現場ももちろんだが、特に上層部が真摯に向き合わなければならない課題である。

 

 

そもそもミッションクリティカルなシステム開発は請けない、試験は項目数の上限値を先に決めて業務的重要度に応じて網羅性担保の段階を分ける、資料のRvは1回に決めるなど、立場に応じて色々なやり方がある。

 

無駄を排除するとは、基本的には「品質を捨てること」なのだ。それでもどうしても品質を捨てられないのであれば、「いかに時間をかけずに品質を上げるか」を考える続けるしかない。今まで複数の組織を見てきたが、どの組織も品質を上げること方策を考えるだけで「いかに時間をかけずに」という視点が抜けていた。

 

そのため、総じて「時間の限りやれることは全てやる」という対策が打たれ、結果的に時間をかけた割には品質が上がっていない、という状況が散見された。(でも絶対的な品質は少なからず上がるため、その取り組みは効果的だったなどと考察されることが多いのも事実。)

 

いかに時間をかけずに品質を上げるか。個人としても会社としても問い続けてほしい。

社会からの断絶

どうも。皆さんお盆休みはいかがでしたか。ゆっくり体を休めた方も、羽を伸ばして遊び疲れた方もいることでしょう。そして、休暇後の出勤を憂鬱に感じながら徐々に社会復帰している、そんな感じでしょうか。

 

私は、というと、お盆休み継続中です。社会人になってから奇跡の16連休を取得しております。まぁこれまで散々働いたので休め、ということで課長のお言葉に甘えている次第です。

 

ずっと働きづめの時はとにかく休みたい休みたいと思っておりましたが、いざ休んでみると、どうにもやることがない。そして、これがもし仮に何ヶ月、何年も続いた時を想像してみると、社会から断絶された気分になるんですよね。

 

自分がいなくても回る世界、自分を必要としない社会、すごく楽だけど物足りない、退屈でつまらない。そんなことを思っています。こうやって人は自由から逃走するんでしょうね。

 

誰かの言葉にあったような気がするんですが、人間には”帰る”場所だけじゃなくて、”行く”場所が必要なんですね。

 

何か上手くいかないことがあっても帰れる場所、自分を受け入れてくれる場所があれば幸せ、みたいに思われがちです。これは確かに大事で、私も家に帰って嫁がいることで安心できる側面もあるし、地元に帰って旧友に会うことで安らげる。

 

でも、そこにあるのは安らぎだけで、かつそれがずっと続くわけでもない。彼らにもやはり行く場所があるわけで。なので、私にも行く場所、戦場がないとやっぱりダメなんですわ。

 

だから私は仕事へ行く。来週から。

アウトプットの場が必要であるということ

ずっと、無趣味な私ではあるが、ここ最近は色々と新しいことにハマる努力をしていたりする。

 

1つ目はルービックキューブ。実は昨年は日本大会にも出場して、一応記録も認定されたりしている。参加のハードルも低いのでおすすめ。ただ、こう言ってしまうとあれだけど、最近は楽しいというよりはただの暇つぶしの延長でやっている感がすごい。単調だし。

 

2つ目はギター。今年に入ってから練習しているけれど、簡単な曲ならほぼ初見で弾けるぐらいにはなってきた。ギターは予想以上に面白かった。練習して上手くなっていくのは楽しいけれど、ある程度できるようになってくると、成長に物足りなくなっていく。

 

この2つを通じて気づいたことがある。成長曲線が鈍化していった時にどう物事を楽しんでいくのか、が重要だということだ。

 

新しいことに取り組むのは基本的に楽しい。なぜなら、最初はできない。けれど、少し知識を身につけて練習をするとできるようになる。この、”上達”を感じられるのが人間にとっては嬉しいことだからだ。

 

しかし、上達はいつまでたっても続くものではない。すると、どこに楽しみを得るのか、というと、アウトプットを出すところではないか。自分の中に蓄えたものを外部へ放出する。そして、そこに対するフィードバックを得る。

 

一人の趣味だとここに限界がある。

サボタージュ

今日、会社をサボった。

 

リーダーなんだからちゃんとしろ、と思われてるかもしれないけれど、私とて人間、しかも完璧な人間を演じられるタイプではない。とはいえ、私がサボったことによってチームには多少なりとも迷惑はかかる。仕事はきっと回るのだけれど。

 

さて”サボる”の反対とはなんなのか。辞書を見ると、”頑張る”ということらしい。おかしいよなー。常に頑張ることを求められるのに、一度でもサボることが認められない社会って。そんな社会って、そんな組織ってしんどくないか。

 

そもそもサボると何が悪いのだろう?その人がやるはずだったの仕事を誰かがやらなければならないから?迷惑がかかるから?うん。それはその通りだ。でも逆に計画的に休む分には問題ない。となると、サボりの悪さは突発的に休むことであるとわかる。

 

そういう視点で考えると、サボるの反対は突発的に働くことだから、残業とか休日出勤とかが該当するんじゃないか。でもこれって悪いことにはならんよね。むしろ忙しい状況であれば仕方ない、とか突発的なトラブルが発生したらしかたない、当然みたいな感じで突発的に働かされることが多い。

 

別に給料貰えるんだからいいじゃん、みたいな感覚なのだろうけど、サボりもその日の給料はない(もしくは権利としての有休消化)からいいじゃん、という形であっさり了承してもらえるのだろうか。そうはならんよね。

 

組織VS個人の構図になるとどうしても組織が正になってしまう。組織が個人に迷惑をかけるのはいいけど、個人が組織に迷惑をかけるのはNGみたいな。マジで意味わからん。迷惑をかけられた分ぐらいは迷惑をかけてもいい。

 

私は迷惑をかけられ続けて、システム開発をリリースできるほどに貢献してきたから、今別に迷惑をかけることに大きな問題はない。

 

だから今日は会社いかない。

 

右往左往

来週から、私が入社して一番最初に配属されたシステムの開発プロジェクトに戻ることになった。簡単に言うと、問題プロジェクト化してしまったため、有識者として私に助けて欲しいというオファーがあったのだ。これがまた急で、通達を受けてから一週間で異動という。まぁ前回支援に言ったときは二日しかなかったけど。

 

「問題プロジェクトに呼ばれる、というのは誇らしいこと」だと毎回多くの人に言われるし、確かにそれはその通りだとは思うけど、「別におれはお前らの道具じゃないよ?」と思うし、会社側の都合ですぐ自分の置かれている状況を変えなければならない私の身にもなってほしいものだ。

 

もし、会社と個人が労働契約で結ばれただけの対等な関係なのであれば、私も今の会社を辞めるときは「明日から辞めることにしました」と言う言い分が通用しないとおかしい。絶対いつか言ってやろう。

 

そんなこんなでまたプロジェクトが変わってしまう。かつまたインフラからアプリへの逆転換でいよいよ自分のキャリアがわけわからなくなってきた。会社に対してかなり恩を売った状態にはなったけれど、その恩は果たしてどういう形で返してもらえるのだろうか、と思う。

 

ただ、正直なところ、今やっている仕事をやり続けたかったわけでもなかった。グループリーダーという立ち位置はそれなりに自由だったが、結局基盤は下流なので、色んな人の都合に左右される。そして、調整毎がめちゃくちゃ多かった。私がやる必要性を全く感じなかったし、技術力の必要性も感じなかった。

 

次の仕事も正直そういうタイプの仕事なので、モチベーションがあるわけではないけれど、まぁ数年ぶりに同じようなシステムのプロジェクトでどこまで自分が通用するようになっているのかを試すいい機会だと思ってみるか。

なぜ今、禁煙を目指すのか

あけおめ、今年もよろしく、です。

 

新年が始まると、今年の抱負は?みたいなことをふざけたノリでも真面目なノリでも聞いたり聞かれたりすると思うけど、私の今年の抱負は”ライフステージを1つ前へ進めること”かな、と思っています。

 

目標というかやりたいことの候補はいくつかあって、基本的にはこれまでやったことのないことをやってみるシリーズとして、”俳句”とか”株”とかはやってみたいかなーと。あとはアート的な何かをしたいとか漠然とは考えています。

 

けれど、何のアートがいいだろうか、なんて考えているうちに、あるいはあれもやってみたい、これもやってみたいと迷っているうちに多分一年ぐらい過ぎていくんですよね。働きながらだと、何かにエネルギーを集中させないとどれも実現できないままに終わってしまう、ということはここ数年で痛感してまして。

 

で、まぁ小手先のこんな新しいことやってみたいとか、こんな資格が取りたい、とか、仕事でこんな成長がしたい、とか、っていうリズムにすでにマンネリを感じ始めているというか、メタレベルでは同じところをぐるぐる回っている感じがしていて、だから、たぶん”ライフステージを変える”ことが今の私に必要なのだと薄々感じています。

 

あと1つ、これは明確な決意の元にスタートしたわけではないけれど、年が明けてから禁煙を始めてます。気づけばもう5年ぶりぐらいの挑戦になりますかね。正直いつまでもつかわかりませんが、挑戦するだけならタダなので。

 

正直に言うと、禁煙をしたい、という感情はそんなになくて。別に健康に悪いと言われてもそれほど今の自分にはピンと来ないし、一箱500円ぐらいに値上がりしたにしても月15000円ぐらいであれば問題なく払える。何よりあの一服している最中の時間の流れをありのままに感じるのが好き、なんですな。

 

それなのに、なぜ?と問われればそれは多分、今の自分、自分の生活をどうにか別の角度から変えるキッカケにできればなぁ。そんな淡い期待が少しあるんですね。

 

特に私が勿体無さを感じていたのは、”時間”なんですね。タバコを1本5分で吸うとしたら、1日一箱吸う場合、100分もの時間を1日に費やしているということなんですね。100分というとかなり長い時間です。かつその分だけ寿命が縮むわけですから、どれだけの時間を無駄にしているかわかりません。冷静に考えてみるとぞっとします。

 

1日100分が浮けばその時間を埋めるように何かをやらざるを得ないのが人間というもの。そこに変化のきっかけを仕込むために私は禁煙をするのです。

出世するとは孤独になること

こんなにたくさん人がいるのに孤独。最近はよくそんなことを思う。

 

学生の頃は、みんな同じ立場だった。何とか委員、生徒会長、何とか部、肩書きはもちろん様々違うけれど、そんなものは一部の側面に過ぎず、「学生であること」がメインの立場なので、言ってみれば周りにいると自分に大差はなかった。

 

これがまず、社会人になると変わる。はじめの研修期間は言ってみれば、学生みたいなものなので割愛するとしても、現場に配属されると、もう数人の同期しか同じ職場にいない、みたいな状態になる。

 

私のように小さなプロジェクトに配属された場合はその限りではなく、いきなり新人という立場は自分しかいない、という場合もある。まずここに1つ孤独への階段がある。特に新人時代は自分だけが仕事ができないこともあって、より孤独感を感じやすい。

 

それがしばらくして、仕事を覚えて、一般的な若手社員になると少し孤独感は薄れていく。なぜなら、一人のチームメンバとして働くことになるため、大抵チームメンバという役割が共通している人がいるからだ。同じように上司の悪口で盛り上がったり、仕事の目線も一致しているからまだ話が通じやすい。

 

しかし、チームメンバからその先はひたすら孤独が待っている。

 

リーダーは孤独とよく言われる。これはもうその通りだ。指示を出す人と指示を受ける人。仕事を同じ立場で語ることは難しい。逆に上司に対する相談はお伺いになる。上司の目線で語らなければならない。

 

つまり、基本的に意思決定は自分で行わなければならないのだ。これがひたすらに孤独だ。意思決定のために必要な情報を集めたりロジックを構築するために人を活用はできるけれど、決めるのは全て自分。上司には承認を得るだけ。

 

「普通だったらどうするのだろうか?」とか「同じ立場にいる人はどうなのだろうか?」ということを聞ける人がいないのだ。もちろん職場を離れれば沢山いるだろうが、職場を知っている人間の中にはいない。

 

まぁ私は他人からとやかく言われるのが嫌いなのでこの状態は結構楽なんだけれど、ただ客観的に考えると、やっぱり孤独だな、と。そんなことを思った最近であった。

外国人が本当に増えた

先日、新宿のユニクロに行ってきた。感動パンツを買いに。


まず初めに驚いたのが、試着室の案内をしているスタッフが中国人だったこと。

 

ユニクロと言うと、アルバイトの時給が結構高く、その分接客マニュアルは厳しく徹底している、と聞いたことがある。

 

なんとなく私が昔働いていた某パチンコ店のMのスタイルと似ているから記憶に残っているのだが、そんなわけで日本人のおもてなし、みたいなものが重視されていると思っていたのだ。

 

案の定、その中国人スタッフの裾上げの対応はかなり雑で、何を言ってるかも聞き取りづらく、コミュニケーションに一苦労だった。

 

そしてレジへ向かった先の光景にまた驚くことになる。

 

全員外国人なのだ。

 

もちろん、たまたまその時間だけ、という可能性はある。だとしても確実に日本人と外国人の割合は逆転していた。

 

外国で買い物をしている気分だった。

 

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最近、若い日本人のコンビニ店員を見かけなくなった。ほとんどが老人か外国人だ。

 

理由はきっと二つある。

 

一つは人件費の問題。これはわかるだろう。誰でもできるレベルにマニュアル化されているので、安い労働力を使った方が経営の負担にならない。

 

ではもう一つは?

 

接客の価値の化けの皮が剥がれてきたのだ。

 

日本の接客業はたぶん世界的に見ればかなり高いレベルである。そのことは評価に値する。そんなことはみんなわかっている。

 

だが果たしてそれが経済価値に繋がっているか。要するに利益を生み出しているか。こうと問われた時に答えはノーだ。

 

だって我々がコンビニに行くのは気持ちの良い接客を来てもらえるからではない。近くにあって、必要なものが買えるからだ。

 

そしてこれは別にコンビニに限った話ではなく、全ての接客業に言える。最終的に残るのは風俗業ぐらいのはず。