∑考=人 〜プロメテウス〜

そして今日も考える。

「モヤモヤした何か」を形にすること

とりあえず、コンサル工程は一旦成果物しては完成させ、一段落がついた。結構、これまではあんまり使ってこなかったような頭の使い方に少し疲弊はしたものの、良い経験にはなったと思う。感想としては、苦しいが面白い。ただ、今回は実質タダでの仕事だったので、苦しさはマシな方だったと思う。あとは最終結果についての報告会を実施するのみ。説明してボコボコにされてきます。

 

つくづく思ったのは、モヤモヤしたものを形にすることが自分は好きなのだということだ。これまでの仕事はどちらかと言えば、既に仕事の形が決まっていて、作るものも決まっていて、あとは具体的な内容をどう埋めていくか、という作業に尽きていた。こういう作業も初めのうちはそれなりに思考の余地はあるのだれど、経験や知識が増えていくと、ある程度のパターンが見えてきて、単調になっていく。

 

けれど、今回は「何を作るのか」を決めるために考え抜き、モヤモヤとした何かをじゃあ具体的にはどう作るのかという視点で試行錯誤を重ねて進めていけるのは良かった。慣れない作業だから抵抗はあったけれど、やってみれば意外とできるもので、できてみるとこれが意外と面白い、という。

 

システムを作りたいとか、プログラミングが面白い、という私の根底にあるのは、たぶんこの「モヤモヤした何か」を形にすることへの関心だったのだろうと思う。今思い返しても、プログラミングが面白いと初めて思ったのは、大学院の時の研究でまさに自分が作ってきたものが可視化された瞬間だった。空想や構想、理論が感覚として認知できる状態になった瞬間が一番良い。そこに作品性が生まれる点が個人的にはポイントが高い。

 

別にプログラミングだけではない。「モヤモヤした何か」を形にするというのは、ブログも全く同じなのだ。だから、SE以外の仕事だったとしても、作るのがパワポであっても、モヤモヤしているからこそ面白いのだ、という発見はできた。何度やっても難しいんだけど。

 

一方で、既に大方フォーマットの決まっている何かを作るのは、簡単で楽だけれどやっぱり味気なくなってくる。抽象度が低い仕事というのは、自分の裁量を発揮しにくいから、結果的に面白くなくなってしまうのだろう。会社の中で「システム開発に飽きた」という境地にたどり着く人がいるのも最近はなんとなくうなづける。

 

個人的に一番思うのは、仕事の成果の中に”自分”を見出しにくい。これを私は「作品性のない仕事」と呼んでいる。要するに、システム開発に携わったとしても、「これって私が作ったと言えるのか?」という問いに疑問が残る。

 

幸か不幸か、今後はこういった枠組みの中のパーツを埋めていくような仕事は淘汰されていく。単調な仕事やある程度パターン化された仕事はAIなどに置き換えられていき、面白い、けれど難しい仕事が残るようになっていくはずである。モヤモヤした何かを形にする、という作品性のある仕事も今はまだ健在だ。

 

ただ、モヤモヤする何かを超具体的な形に落とし込む必要すら今後は無くなる、あるいは価値の低い仕事になっていく。システム開発で私たちがやっているのも、ある程度設計を具体化するところまでで、実際に動く形にまで仕上げている(プログラミングをしている)のは委託会社の人たちだ。そのうち、こういった作業は自動化が可能になるし、自動で対応できる抽象度も時代とともに必ず上がっていく。

 

となると残るのは、事象からモヤモヤした何かを発見することである。今は課題解決よりも課題発見の方が重要視されているのは、結局そこには人間の意志みたいなものがある程度必要で、AIにはできないだろうとされているからだ。

 

いつまで、作品性のある仕事ができるのか・・・。

シンクライアントスマホ

私の会社のPCは基本的にシンクライアント型である。シンクライアントPCとは、本体には必要最低限の機能しか持たせない思想で作られたPCの事で、例えばハードディスクなどの記憶媒体がついていないし、メモリもほとんど積んでいない。

 

じゃあどうやって使うかというと、リモートデスクトップで遠隔地にあるコンピュータのリソースを使う。だからシンクライアントPCではリモート接続ぐらいしか使わない。かつて、メインフレームがクライアントサーバモデルへと変わったように、個人が使う端末自体は最小構成にし、実際の環境自体は別のデータセンタ内で集約して管理する仕組みである。

 

で、こういうことはたぶん今ではいろんな会社で使われている仕組みだと思うけれど、これが個人用のPCに導入されるのも時間の問題だと思う。ノートPCをわざわざ持ち運んで仕事をすると、情報漏洩のリスクもあるけれど、これがシンクライアント型であれば、ハードを持たないからそんな心配がない。

 

仮に操作している端末が壊れたとしても、PC環境自体は別のクラウド上で管理されているわけで、あくまでそこにアクセスすることができる端末をまた用意すれば、何の変化もなく使い続けることができる。もちろん、どこでもネットワークがつながっている必要はあるけれど、もう今ネットーワークが存在しない場所なんて日本にはそんなにないだろう。

 

で、PCについてはすでにそういう流れにおそらくなっているんだけれど、今後はスマホとかタブレットにも同じような流れは必ずくる。

 

そもそも、スマホとPCのOSが違うことによる無駄が今は非常に多い気がする。PC用のアプリをスマホ用に作り変えるとか、タブレット表示に対応させる、とかそれはそれで、一つのビジネスチャンスなのだろうけれど、もう仮想環境一つで複数の端末からアクセスできるようなアーキテクチャができれば、そういった個別仕様に変更する必要はなくなるからだ。

 

もちろん、そうなった時には、PC、スマホタブレットは単なる大きさの違い、微妙なGUI操作の違いぐらいしか残らなくなるだろう。

社会的な何か

やりたい仕事は何なのか。社会人ならそんなことを考えたことが一度はあるだろう。就職のタイミングあるいはもっと前から考えている人もいるかもしれない。私は今も考えている。「今やっている仕事がやりたいことなのか?」と問われた時に、やっぱり今やっている仕事はなんか違うな、と思う。

 

「じゃあどんな仕事がしたい?」と聞かれ、それに対して即座に解答できるほどの正解は持ち合わせていない。ほとんどの人がそうであるはずだ。今の仕事は嫌だ、別の仕事がいい、と言って、別の担当へ異動した先輩を何人か私は知っている。異動した彼らのほとんどは今の仕事もそんなに面白くはない、らしい。(一方で、異動してよかったとも答えているので、ステージは上に上がってはいると思う。)

 

若者の多くにやりたい仕事がない、仕事に心から満足できない理由、というのを自分なりに考えてみた。たどり着いた答えは一つ。視野が狭いことである。

 

言うなれば、手段を目的化してしまっている。人と話すことが好きだから営業、英語を使いたいからグローバルで働きたい、プログラミングが好きだからIT企業、書くことが好きだからライター、お笑いが好きだからお笑い芸人。いや、もちろんそれは一つの切り口としては正しいし、必要だ。

 

でも、これらは自分軸で、自分中心の考え方だ。仕事をする上では必ず、社会軸での答え、というのが必要になる。ただ、社会軸を持ち合わせている人は驚くほど少ない。自分が就活をしていた時には全く持ち合わせていなかったし、一緒に面接をしている学生のほとんどもそうだったと記憶している。

 

例えば、私のようにシステムを作っている会社だと、かならず聞かれる質問の一つに、「どんな業界をターゲットにしたシステムを作りたいか?」という趣旨のものがある。もちろん、答えを準備しないわけには行かないので、就活用の解答というのは誰しもが準備している。ただその実、本当にその業界に対して何かしたいか、というとそうではない。むしろ、業界は何でもいい、という風に考えている人が多い。

 

特に私たちの世代に顕著だと思うのは、「世の中に何の影響も与えたくない」と考えている人が非常に多い。自分の生活のためにお金が必要なだけで、自分が出した成果が何かの役に立って、世の中を変える、なんてことは一切望んでいないのだ。だから自分の成長とか、目標の達成には関心があるけれど、誰に対して?とかどんな影響を?とかについては深く考えていない。私自身がそうだ。

 

でも、実は仕事の本質はそこにあって。というかそこにしかない。だからそこを考えない限り、やりたい仕事なんてものは見つかりっこないのだ。エントリーシートの添削とかもやっている、山田ズーニーさんというライターは、これを「実現したい世界観」と表現していた。これは言い得て妙、まさにどういう世界を実現したいのか、みたいな私たちの世代からすると、非常に鬱陶しい文言ではあるが、それが必要なのだ。プラス「マイテーマ」、要するに自分が達成したい具体的な何かがあると、良いらしい。

 

就活の時に、塾講師になった大学の友人がいた。彼は大学時代から塾講師のアルバイトをしており、就職のタイミングで別の企業にいくのではなく、塾講師を続けるという選択をしたのだ。たぶん、あんまり一般的な選択ではないように思う。

 

ただ、彼の選択の背景には、ただ教えることが好きとか向いている、だけではなく、もしかすると、まさに「実現したい世界観」みたいなものがあったのかなーなんて思うことがある。塾講師のアルバイトの中で見つけた、というべきか。実現したい世界観まではいかずとも、社会的な何かをアルバイトの中で見つけたはずである。

 

アルバイトは社会経験になる、とはよく言われるけれど、アルバイトの中で経験できる社会というのは限定的なものだと最近感じる。例えば、組織・チームとしてのうまく働く方法とか、最低限の礼儀とか、コミュニケーションとかは学べるが、社会との接点を感じる瞬間とか、自らが作り出した価値を提供することで誰かの役に立つ、みたいな経験はあんまりできないんじゃないだろうか。

 

少なくとも、私はそうだったと思う。パチンコのアルバイトは不特定多数のお客さんに対して接客をするものだったけど、価値の本質はパチンコ台ということもあり、自分の存在意義とかはないに等しい(店員に怒られそうだけれど)。もちろん、たまに起点をきかした対応が必要な場合はあるし、お客さんから感謝されることもあるのだけれど、自分が誰かの役にたった、という実感を感じることは正直あんまりなかった。つまり私はパチンコ店のアルバイト経験の中で「社会的な何か」を見つけることはできなかったのだ。

 

 学校とか教育の現場では社会とつながることはほとんどない。基本的にはただひたすら自分の能力を高めることに主眼が置かれているし、せいぜい、チームで頑張って何かを達成する経験、ぐらいなものだ。達成が誰かへの貢献、役立つという経験が圧倒的に足りない。だから、社会軸を持たずに社会に出る若者がたくさんいる。

 

やりたいことがないなら、社会的な何かを学ぶ、感じるところからスタートするべきだろう。

責任の価値が減少する時代

システム運用の分野でオペレータの価値が下がってきている、という話を前回した。これはもちろん、定型とか定常業務を遂行することの価値が下がってきているという話もあるんだけれど、本質的には責任の価値が減少してきている、ということだと思う。

 

本来、オペレータの価値というのは、正確に確実にやるべきことをやる点にある。なぜかというと、ミスをした場合の影響がデカいから。全ての作業に漏れがあってはならないし、ミスも許されない。だからこそ、絶対にミスをしないことに価値がある。

 

これまではなんというか、システムに対する懐疑心みたいなものを持っている人が多くて、人を完全に無くすことに対する躊躇があったのかもしれないけれど、実はシステムというのはすごく優秀で、人が作業をするよりも圧倒的に品質は良くなる、ということがわかってきたのが昨今なのだと思う。技術的に難しかったというよりも、時代がようやく技術の価値を感じ始めた、ということである。

 

これからAIに奪われていく仕事、というのもほとんどが基本的には、責任は伴うが単純な仕事、である。例えば、オペレータに似たような業務だと、コールセンターや窓口業務というのがそれにあたる。

 

これらの主な業務は質問内容を正確に聞き取って、それに対する回答を期限内に届ける、というものだ。単純作業ではあるが、いくつかパターンが存在すること、そして何よりフロント業務というところで、どうしても人を配置することが望ましかった。顧客対応には大きな責任が伴うのだ。

 

これまでは人が対応した方が良いという理由から、人件費の安い海外へアウトソーシングする企業も多かったと思うが、実際には要員の対応などがマイナスの影響を与えることもあり、それに対しての教育コストまでかかるのが普通だ。

 

だから、そう遠くない将来に必ずAIに切り替わることになる。まだ今ぐらいでは、いきなりAIを導入しても、うまく対応できない場合があるのではないか、という懸念があるかもしれないが、色んな企業の実績が積み重なっていけば、人よりもAI、という流れに必ずなる。既にコールセンターをAI化している企業は存在する。

 

自動運転車というのも全く同じだ。自動運転車に対する一番の懸念は事故が起きた時の責任が誰にあるのか、という点である。責任の所在はともかく、システム的に運転をした方がマクロ視点でみれば事故率は低いのが現実だろう。今は確実に事故なく荷物を届けることを価値として運送業車という仕事は存在しているが、人よりもミスが起こらないとなれば、確実に自動運転車に置き換えられる。

 

オペレータにしろ、コールセンターにしろ、運送業車にしろ、ミスがあった場合は必ず発注者側の責任になるのだから、AIの方がミスが少ないと判断された時点で、これらの仕事は不要になるのだ。

 

さらに時代が進めば、「管理」という仕事のほとんどがAIに置き換えられていくんじゃないかと個人的には思っている。正確には管理のできないマネージャーよりもAIの方がきっと良い管理をしてくれる、という話だ。進捗の実績を入れさせて遅れているか遅れていないのかを判断し、人の配置を検討する、ぐらいであれば、別に高度な思考力は必要としない。

 

マネージャーの給料が高いのは、管理することの責任が大きいからである。チームメンバの成果が仕事の成果であれば、それらがちゃんと機能するように管理することの責任は当然大きい。とは言え、管理という仕事全ての難易度がすごく高いかというと、そういうわけではない。最終的にコミュニケーションを使って部下を動かす権限としての力やポジションは残るのだろうけど、管理業務自体はほとんどが不要になるんじゃないだろうか。

システム運用費の下げ方

システム運用の現場にはたいてい、オペレータと呼ばれる人たちが存在する。オペレータとはまさに作業者のことで、端的に言えば、決まり切った手順を決まり切ったルールのもと実施する人たちだ。特に24/365で稼働しているシステムの場合、シフト制などで夜間帯まで仕事をしているケースが多い。

 

近年、この「決まり切ったことをただやる人」の価値は確実に減少してきている。真っ先にシステムやAIに置き換えられる存在である。事実、私の担当システムでも、既にオペレータは0名にしたが、それでもちゃんと回っている。

 

実はオペレータが無くならないことの原因は技術的なことにはあらず、人間の心理的な問題によるところが多い。システムで既に障害監視は自動化されているにもかかわらず、人がいないとなんか不安、とかマシン室の巡回してハードウェアをチェックするのには人の目が必要、など。

 

過剰なセキュリティ、過剰な確認作業。そもそもそれやる意味あんのか?みたいな仕事が足かせになっていることが多い。中でも一番難しいのは、「あなたたちはもう要りません」ということをこれまでのパートナーに告げることである。確かにシステム運用を専用に扱っている会社からすれば、オペレータを減らされるということは売上が減るということである。しかし、そう長くはもたない仕事をいつまでもやっていくことにクエスチョンマークを抱く必要はあるだろう。

 

さて。私どもは結局システムの運用費を下げるために、オペレータ要因をごっそりシステムに入れ替えたわけであるが、わずかに残ってしまう仕事についてはSEへ移管した。運用費は下がったが、維持費(SEの費用)は微増ということになる。もちろん、トータルで考えれば劇的にコストは落ちる。(オペレータというのは決して作業量が多いわけではなく、何かあった場合に検知するための待機時間がそのほとんどを占めているからだ。)

 

ただ、別のシステムではそれとは真逆の方針を立てているところもあったりする。つまり、SEがやっている仕事の一部をルール化・手順化することによって、オペレータでも実施可能な状態として引き継ぐことにより、維持費を下げる取り組みだ。先に述べたようにオペレータというのはほとんどが監視のための待機時間なので、オペレータができる形に作業化できれば、運用コストを効率的に使うことができる。

 

この取り組みは確かに面白いように思う。SEにしかできないことをオペレータでもできるようにする。その考え方は大切である。しかし、「オペレータにできるようにする」のと「システム化」するの乖離はそれほど大きくはない。だから、まず上記の取り組みステップを踏んだ上で、最終的にはオペレータの無人運用を目指していくべきである。そういったサイクルを回していくことが望ましい。

 

今は人がいないとできない仕事というのは限られている。つまりただの作業者は要らないのである。

自分への憤りを抱きやすい社会になったのかもしれない

働き方改革推進のきっかけとなったのは、私の記憶する限り、電通社員の自殺だ。東大卒の女性だったということ、大企業だったということ、それらの要素がより今の時代の働き方がこれで良いのか?という問いかけを社会に対して与えることになったのだろう。

 

なぜ自殺にまで至ってしまったのか、という原因分析の中で、長時間労働が常態化していることが判明したのだろう。確かに長時間労働というのは問題である。しかし、敢えていうならば、彼女が自殺したことの原因は少しそれとは違うのではないかと個人的には思っている。

 

別に同じくらい残業しているけれど、自分は問題ではない、と感じている人だって山ほどいるはずだ。昔はそのぐらい働くのが当たり前だった、という話を聞くのも日常茶飯事だ。つまり、反例などはいくらでもある。

 

また、働き過ぎやブラック企業が問題になると、他人から見ると、辞めれば良いのでは?という話にもなる。実際、逃げてもいいんだ、という趣旨の本を書店でもよく見かける。責任感が強い人が自殺しやすい、みたいな結論に落ち着きやすい。でも就活では責任感ある人求めるという矛盾もあったり。

 

私は、責任感というよりも、「自分への憤り」という言葉の方が正確なのではないかと思う。すなわち、長時間働くことによる疲弊、ではなく、長時間働いても結果を出せないという自己の拒絶が原因ではなかろうかと。

 

今の仕事は昔に比べるとずっと高度化・専門化している。定型的な仕事は逐次システムに置き換えられ、海外にアウトソースされ、より創造的な仕事の割合が増えているのだ。これはホワイトカラーの仕事に顕著である。

 

昔、経済成長時期であれば、たくさん働けば、努力量にある程度比例して成果が出やすかったのではないだろうか。結果的に評価もされたし、多くの人が年功序列で昇進できた。既存のものをベースに改善を重ねるスタイルが通用した時代だ。

 

しかい、昨今の正解のない仕事というのはなかなか努力が報われにくい。学校のお勉強的な教科書はないし、時と場合によって正解不正解も変化する。こういったことを理解するにはどうしても経験が必要になる。また、どれだけ頑張っても報われない、自分の進化を感じられない時期が必ずある。最悪の場合、いつまでたっても芽が開かない場合だってある。昔に比べればはるかに自分に対する憤りを感じやすいはずだ。

 

私も自分に対して憤ることはよくある。ただ、私の場合、「何事も努力をすればうまくいく」とは一切思っていない。また、社会に対する成果とかはどうでもいいと思っている。なので、頑張ってダメだったり、これ以上頑張りたくなくなってもう限界だと判断したら、別のことをやると思う。こんな風に考えていると、なぜかほとんどのことは耐えれてしまうのだが。

 

逆に「何事も努力をすればうまくいく」という考えがあると、努力してうまくいかないと心が折れてしまう。逃げてもいいと言われたって、逃げた先で努力をしてもうまくいかないことへの不安や恐怖がつきまとう。「社会貢献」を義務として考えてしまうと、逃げ出したって、自分が成果を出せるフィールドがないと思えば、社会への逃げ場はないも同然だと考えてしまう。

 

自分への憤りを抱きやすい社会ではあるけれど、そんな社会だからこそ、柔軟に気楽に考えて生きていけば少し楽になるんではないか。

何でもできる人

またチームが変わった。端的に言うと、もともとやっている事業が縮小の一途を辿り、これからの売上が見込めないため、部署の存続を懸けて、新規事業の柱を作るためのチームに入った。まだ社内での活動がメインではあるが、ちょっとした営業活動およびコンサルティングを実施し始めている。もちろん、最終的にはシステム開発として支援することで利益を得ることも目論んではいる。

 

こういった企画・提案などの上流工程はある種、花形のように感じる人もいるかとは思うが、やっていること自体は本当に泥臭い。人の話を聞いて、その結果について議論して、提案書を作って、それを修正して、説明する。正直何が面白いのか自分にはまだよくわからない。抽象度が高く、正解のない難しい仕事であるからこそのやりがいみたいなものは多少あるけれど、困惑する場面も多々ある。プログラム書いたりサーバイジってる方がよっぽど楽しいと思ってしまう。技術者の性なのかもしれない。

 

うちの会社は、皆総合職として入社しているので、実際のところ、技術系だの営業だという風に職種がはっきりと分離されているわけではない。日本の会社はほとんどがそうだろう。いつ異動になるかもわからなければ、異動した先でどんな仕事をすることになるのかもわからないのだ。なぜかはよくわからないけれど、色んな職種を経験することが最強、みたいな風潮がある。

 

もちろん、中には、「営業しかやりたくないです!」みたいな意思を通すことでそういった専門的なキャリアを築いていく人もいるみたいだけれど、私はそうできなかった。正直なところ、まだまだ今の段階では技術を伸ばしていく方向で仕事をしていきたいのだけれど、そもそも開発案件がなければ大した仕事はできないといった自担当の状況も察してしまうほどには大人になっている。

 

何よりも、ずっと私の頭の中にあるのは、今後確実に技術だけでは食っていけない時代になっていく懸念であった。極端な言い方をすると、専門的な技術力は不要になる、ということだ。どれだけ技術で食っていきたいと考えていたって、技術だけでは太刀打ちできない時代がすぐそこまで来ている。そんな中で闇雲に技術のスペシャリストで食っていく、なんてただの意志的目標にしかない。残念ではあるが。

 

どこの分野でも今求められているのは、ざっくり全部できる人、である。色んなことができるからこそできることがある人、というか。スーパージェネラリストなんて呼ばれ方をすることもあるし、ITの世界だとフルスタックエンジニアなどという存在が注目を集めているが、概念としては、ざっくり全部できる人のことを指しているのだ。課される使命の大きい時代になってしまったものだと思う。

 

だとしても、まずは専門性、だと考えてはいるが。まぁ若いうちから上流を経験しておくのも悪くないと思い、今は踏ん張ることにしている。

障害対応は苦しいけど楽しい

最近、自分達が維持しているシステムで障害が発生した。俗にITの世界ではインシデントというのだけれど、まぁお客さんがシステムを使えなくなってしまう、という状況のこと。

 

もちろん、インシデントにもレベルがあって、システム的な問題が発生しても業務には影響が出ていないことが見きれれば、ある程度は自分たちのペースで対応を進めていくことができる。しかし、緊急性の高いトラブル、既にある機能が使えなくなっているとか、性能が著しく劣化するとか、そういった問題の場合は力の限りをインシデント対応にそそぐことになる。

 

と、今回は後者のパターンであったため、連日夜遅くまで働くことになった。もともと予定していた仕事は進めなければならず、そこに対して緊急の仕事が入れば当然そうなる。また、普段踏襲している安全なプロセスを通さずにスピーディな対応を求められることも多く、プレッシャーもかかる。だから、インシデント対応は苦しい。

 

一方で、不謹慎な話ではあるが、維持をやっている中で障害発生は面白いイベントだったりする。維持の仕事は基本的には短いスパンで同じようなことをひたすらぐるぐる回していくことが多く、飽きてくる。だから、障害が発生すると、新鮮なのだろう。また、否が応でも知らないことを勉強して、理解して、解決せざるを得ないため、成長に繋がったりする面白さもある。ただ、本来維持業務はインシデントを発生させないためにやっていたりもするので、そこには矛盾があるのだが。

 

私が障害対応が良いと感じるのは、やっぱりスピード感を持って仕事ができる点である。普段であれば、一ヶ月とかかけて失敗を防ぐために実に無駄とも思える複数のプロセスを経由した上で本番環境へリリース、となるのだが、障害対応時は緊急だから、という理由だけで、色んなプロセスをすっ飛ばすことができる。

 

ただ、そんな中でもデカい失敗はできないし、明らかに無茶なスピード感を求められると、苦しい。そんな分岐点の中にちょうど良い働き方があるのかなぁと思う。

テレワーク推進に足りないのは働き方のフォーマット

昨日はテレワークデーということで、うちの会社でもテレワークデーのポスターおよびテレワークの推奨が告知されていた。これでめでたくテレワーク、と思いきや、いきなり会社のサーバに接続できない事態が発生。結局仕事をしだしたのは夕方になってからであった。

 

制度を作って改革を促す、というのは典型的な日本人の短絡的発想だと常々思う。6万人もの社会人が実際にテレワークを実施したらしいが、割合として多いとも言いがたく、差し詰め、既にテレワークという働き方が部分的に導入されていた企業が実施しただけでは?という印象である。

 

そもそも、テレワークが導入されない背景を無視したところで、テレワークの導入が進むはずもない。仕事の形態を変えるということは、仕事のやり方を見直す必要がある、ということである。その理解が足りていないから、テレワークを導入しない理由として、「テレワークに適した仕事がないから」が70%もの割合をしめているのだ。

 

mainichi.jp

 

ちなみに未だにIT化が進まない業務というのも実は全く同じ構造であることが多い。システム化されない理由として、「業務が複雑化してシステム化できないから」などと言われる。これでは当然システム化はできない。まず、業務をシンプルにそぎ落とすという最も根幹的かつ、困難な部分の検討をすっ飛ばして単純にシステム化しようとするからできないのだ。(これがアメリカなどであれば、システムに対して業務を合わせていくマインドが主流のため対応されたりするが日本だとそうもいかない。)

 

例えば、私が最近考えているのは、会社に電話は必要なのか、というものである。私はプライベートでも仕事上でも電話をかけられるのが実に嫌いである。全てメールで文字に起こしてくれれば記録にもなるし、時間を取られないし、非同期に仕事を進めることができる。電話に対応しなければならないのもリモートワークができない一つの原因なのでは?と思っている。

 

しかし、電話機無くしませんか?などといったところで到底受け入れられない考え方だろう。なぜなら会社には当たり前のように存在しているし、実際に毎日それらを使って連絡のやり取りが行われているからだ。新人研修で習うほどに社会人として基本的なスキルの一つにもなっている。今、不要かと問われれば、当然必要である。

 

ただし、電話はあくまで連絡するという目的を達成するための手段でしかない。つまり別の手段があれば代替は可能だろう。あるいはもっともいいやり方さえ考えることができれば、電話がある必要はない、という状態にできるはずである。

 

例えば、ソフトウェアのベンダなどは基本的な問合せは電話NGとしているケースも決して珍しくない。考えてみれば当然で、電話でやり取りをしても記録は残らないし、話も整理されないし、時間もかかる。多数のユーザーに対して問合せに対してそんなに時間を取られていては仕事にならないからだろう。

 

変わりに問合せ専用のWebポータルやメールでの問合せが受付できる。もちろん、例外的に電話応対をすることもあるのだろうが、こういった地盤の築き方を変えるだけで、仕事のやり方というのは変えられるのだ。問題なのは、今の地盤こそはいつになっても絶対的に正しいという大いなる勘違いにある。

 

「打ち合わせは対面でやるべきだ。」「いつでも連絡がつくように電話が必要。」「LINEで連絡を取るなんてマナーがなってない。」

 

これらは全て、自分が教わったことがいつまでも正しいと思い続けているめでたい中高年の勘違いでしかない。ちゃんと今の時代にできることとやるべきことを考えた上で、考え方・働き方をフォーマットしてみることだ。

ルーティング追加時のgwとviaの違い

LPICレベル2取得に向けて勉強中。内容としては基本的にはレベル1の詳細版、といった感じである。今ネットワークの分野を勉強している。

 

そんな中に謎の問題が現れた。

 

新規にルーティングエントリを追加するipコマンドは次のうちどれか。二つ選択せよ。

 

A.ip route add 10.0.1.0/24 gw 172.16.255.254

B.ip route add 10.0.1.0/24 via 172.16.255.254

C.ip route add gw 172.16.255.254 10.0.1.0/24

D.ip route add via 172.16.255.254 10.0.1.0/24

 

 

正解はB,D。ポイントとなっているのは、gwを指定するのか、viaを指定するのか。ただ、なぜviaが選択されるのかがわからない。

 

解説を見ると、「ルータの指定はgwではなくviaでするので~」と記載されていたがますます不明である。なぜルータの指定であることが問題文から判断できるのか。ネット文献をそれなりにあさってみたが、ピンとくる解答は得られなかった。

 

 

結論から言うと、ipコマンドの時はviaで指定、routeコマンドの時はgwで指定するべき、と思われる。ip route add~と、route add~ってできることも構文もよく似ているので全く同じものだと考えがちだが、こういう微妙な違いがあるのだ。

 

備忘がてら残しておく。

 

 

ベストエフォートの危うさ

職場でよく見かけるやり取り。

 

「この仕事空いた時間でやってもらえますか?」

「わかりました。いつまでにやればいいですか?」

「いつまでにできますか?」

「優先度によりますね。」

「じゃあどのくらい工数(時間)がかかるか教えてもらえますか。」

「・・・」

 

いかに期限を決めるのが下手なのかが露呈されるやり取りである。が、むしろこれが正しい姿であるかのようにまかり通っているのが社会(もしかしてうちの会社だけ?)である。

 

優先度の高い仕事であれば、本当に守らなければならない期限が定まっているため、こういった事態にはならないことが多い。例えばお客さんに報告する日が決まっていれば、明らかに無茶な要望ではない限り、どのくらいの時間がかかるかなんてことは構わず、その日までに間に合わせるように仕事のやり方を変えることになるからだ。

 

しかし、優先度の低い仕事の場合は期限を決めかねるケースが多い。今すぐやらなくてもいいけど、このまま放っておくと問題になるとか、現状を改善する仕事など、やらなくても別に今より悪い状況にはならない仕事というのは大抵ちゃんとした期限が定まらず、ずるずると対応されないままとなることが多い。

 

 

「決める」ことが難しいと感じるのは、全ての物事に対して「決める」ためには論理的、合理的なプロセスを経て決める必要があると考えているからにすぎないと私は思う。合理的に決めるのであれば、確かにそこに面倒さが伴うし、特に優先度の低い仕事に対してそれを検討するのは面倒である。だからそこを横着して期限を決めない、というまま放置されることが多いのだ。

 

でも期限を決めないくらいだったら、適当でもいいから決めてやった方がいい。というか決めないと進まない。日本の会社は決めないから進まない、というケースが非常に多いのだ。

 

すごく似た話で、「全員で検討しましょう」、というのも全く同じである。こういう進め方でやると全く進まない。一人に責任を与え、裁量を与えないと、物事は決まらない。全員がアドバイザーになって、物事を推し進める人がいなくなるのだ。これ以上アドバイザーは要らないっす。

 

つまらない仕事

リーダーという立場で仕事をするようになってから、一気に自分の作業がなくなった。今の自分の仕事って何だろうか。計画立てる。タスクをメンバに割り振る。進捗状況を確認する。報告資料にまとめる。たまに課題を吸い上げる。またスケジュールに落とし込む。あとはひたすらそれのループ。

 

これがもし開発だったら納期の制約があるから難しさがあって面白いのかもしれない。が、維持の場合、しかも比較的安定稼働しているシステムともなると優先度の高い仕事というのがない。しかも、維持はいってみれば定額制で売上が上がるから、ぶっちゃけた話仕事したって仕事しなくたってお金は入ってくる。だから、こっちとしては早くやり遂げてしまいたい仕事だったとしても、「そんなに無理してやることないんじゃない?」みたいな空気感がマネジメント層から出される。

 

非常に退屈だ。いや、単に楽をしたいだけならいいのかもしれないけど、何ていうか仕事の面白さみたいなものはあんまりないし、エンジニアとして成長している実感が全くもって持てないのはいかがなものだろう。もちろん、サラリーマンとしての能力は鍛えられている気はするが。

 

組織としての判断はおそらく、合理的には正しい。例えば、既存のコードをリファクタリングしよう、みたいな話になったとしても、その作業が生み出す価値とその作業が生み出すリスクを天秤にかければ、やらない方が合理的だ。もう不要になったルーティングの定義を消したりする作業も、同じ。やらない方がいいこと、やる必要がないことはやらない。

 

新しい事業をやる、というのもそうだろう。市場規模の大きいマーケットを選ぶ、それが合理的だ。最も効果的なところを攻める。それも合理的だ。私も費用対効果を考えて仕事はしたい。けれど、全てが費用対効果だとしたらそれはきっとつまらないのではないだろうか。

 

面接官になった場合を考えてみてほしい。「あなたはなぜこの会社を選んだのですか?」に対する回答が「もっとも給料が高いからです。」であったとして、その人を採用したいと思うだろうか。きっと思わないはずだ。

 

では、なぜそのように合理的な選択をした人を採用したいとは思わないのか。それはお金だけを目的に仕事をしていても、仕事に対する意欲がなければ成長しないことが予想されるからではないだろうか。

 

これを組織の目線で考えてみてもきっと同じだ。いかに合理的で、いかに割のいいビジネスであったとしても、それが仕事として面白いもの、実際に現場で働く人が面白いと思うような仕事であることも、利益と同じ、もしくはそれ以上に重要なはずだ。

 

だとすれば、多少非効率でも面白そうなら仕事化してみる、とか、すごく売上にはなるけどつまらない案件は取らない、とか、そういうちょっとした遊びがいるんじゃないだろうか。

 

リーダーとして、人にタスクを割り振る時、こんなつまらない仕事ばかりさせてごめんなさい、といつも思う。

一人暮らしを振り返る

同棲をすることにした。別に同棲がしたいとか、何か決定打があったわけではないけれど、強いて言えば、経済的にも時間的にも同棲した方がいいような気がしたことと、あと一人暮らしの自由さに飽きてしてしまったことが理由だろうか。あと、昔は他人と生活をするなんて考えられなかったが、今の私と、今の彼女ならなんとなく大丈夫な気がしたのもある。

 

本当のところ、このままトントン拍子で話が進んで、もう一生一人暮らしをすることはないかもしれないと思うと、少し寂しい気はする。しかし、手放すのは惜しいけど今持っていても幸せになれないものは捨てた方がいい場合が多いことを話は知っている。それは物であっても、人間関係であっても、生活であっても同じだ。人生のステージが変わるのは、新しいことを始める時ではなく、過去を捨てた時だからだ。ステージが変わらない人生は、やっぱりつまらない。

 

ただまぁ一人暮らしをして良かったと心から思う。実家暮らしの方がお金もたまるし楽だから、と社会人になっても実家暮らしを続ける人は最近多いらしいけど、それははっきりいって人生損している。

 

なら、一人暮らしの何がいいのか。少し振り返ってみたいと思う。

 

・好きなテレビが見れる

家族に見ている内容についてイチャモンをつけられたり、同じ時間に見たいチャンネルが競合したりすることがない。親に見られたくないような内容のドラマも映画も見放題。今でこそテレビはほとんど見なくなったけど、一人暮らしを始めた時は感動したものだ。

・好きなだけ夜更かしできる

遅くまで起きていても家族に迷惑をかけることがないので、好きなだけ夜更かしできる。夜遅くまで動画を見たり、何をやってもいい。

・好きなだけ寝れる

逆もまた然り。夜更かしをした次の日に家族に起こされることもない。物音もないので、深く眠ることができる。昼寝も自由。こたつの中でも寝ても注意されない。

・好きなものだけ食べれる

一人暮らしをしたら是非とも料理をした方がいい。自分が食べたい食材を使って、食べたい料理を作って、自分の好きな味付けで食べられる。うっかり母親が自分の嫌いな料理を作ったりすることもないし、「今日は家でご飯食べるの?」とか聞かれることもない。自分で外食するのかしないのか、選択できる点も非常に魅力だ。

・友達を呼んで馬鹿騒ぎできる

家に友達を呼んでお酒を飲んで馬鹿騒ぎができるのは一人暮らしの一つの特権だ。もちろん、今は片付けが非常に面倒くさいことを知っているので、極力断っているが、それでもやってみると楽しいことの方が多い。酔っぱらったまますぐ寝れるのがまた格別である。

・大声で歌える

風呂で大声で歌っても何も気にしなくていい。大音量で音楽を聞くこともできる。この開放感は実家の中では味わえないだろう。

 

さて、どうだろう。まさに好き放題で、何もかもが自由なのだ。一人暮らしを始めたばかりの私にとっては天国だった。ただ、これらを魅力的に感じない人もいるかもしれない。実は今の私自身がそうである。別に好きなテレビを見れたり、好きなものばかり食べれたり、好きなだけ夜更かしができたりすることに感動しなくなってきた、つまり飽きたのだ。上記の自由は本質ではないと悟ったというべきか。

 

でも未だに一人暮らしっていいなと思う理由がたった一つだけ残っている。

・静かに一人を噛みしめられる

社会人になると尚更だが、他者を完全に排除し、自分が一人でいられる時間というのは人生の中では本当にごくわずかしかない。一人なんて寂しいから嫌だ、という人もいるかもしれないが、一人の時間・空間でしかできないこと、考えられないことはたくさんある。(私は一人モードでなければブログなんて書くことはできない。)そして、その中にこそ自分の本質は眠っているんじゃないかと思う。

 

最後に、私が一人暮らしの中で学んだことを一つ。

 

・自由には限界がある

一人暮らしの一番いいところは、自由とセットで責任がちゃんと付いてくることである。例えば、自分の好きな番組ばかり見ていると世の中のニュースについていけなくなったり、自分の好きな料理ばっかり食べていると健康が悪化したり。好きなだけタバコ吸ったら家から出る時に80000円ぐらい請求されたり。二日起きて二日寝てを繰り返すと体調崩したり、とあげれば本当にキリがない。

 

また、好きなことを好きなだけできる代わりに、生活を維持するための家事という重いタスク・責任がのし掛かってくる。自由の代わりに発生する責任と真っ向から直面した時初めて、「この自由は責任の代わりに手に入れるほどのものなのか」という問いが自分の中に生まれるのだ。これに答えることで自分の価値観が浮き彫りになっていくのはなかなか面白い。

 

子供の頃、世の中にルールがなぜ存在するのか、について誰でも教わったことがあると思う。自由が最高なのになぜ制約を設けるのか。この問いに対する回答はこうだったはずである。制約があることによって自由は最大化される、と。逆に言えば、過度に自由であることは逆に不自由な状況を導いてしまうのだ。

 

これはあくまで集団行動に限った話、と私などは考えていたがあながちそうでもないらしい。だから自分ルールを作ったり、自分で自分に制限を課すことで、自分の自由を最大化しようとする人がいるのだ。

 

ここで述べたようなことはきっと月並みだ。私も一人暮らしをするまで想定していなかったか、というと嘘になる。でも、一人暮らしをする前の私は知っていただけで、今の私は体験した。体験にこそ意味があったし、面白さがあった、そして自分自身に変化もあった。「一人暮らしなんて大変でしょ?」とか言わずに一人暮らしはやっといた方がいい。

アイデンティティクライシス

しばらく会社という組織の中にいると、自分が何者でもないことに気づく。自分にしか出せないアイデアがあるわけでもなく、カリスマ的なリーダーシップがあるわけでもない。自分ができる仕事の大半は他の人だってできる。学生時代の私を私たらしめていたはずの優秀さを自分自身で特に感じることもない。

 

周りにいる人が凄くてみんな特殊、というのも違う。もちろんそういう人もいるけれど、別に、彼らが自分と比べて圧倒的に優秀だと思う事もなければ、特に目立つ側面があると感じるわけでもない。でも、自分の方が上だ、と思う事もやっぱりない。

 

自分が勝負できるフィールドがない。

 

私は誰かに勝てない競技が好きではない。バスケットボールに興味を失ったのも、努力だけでは超えられない壁を感じたからだし、そこに自分を投影することができなかったからだ。私にとってバスケットボールはやっていて楽しいという感情はもちろんあったが、私を私たらしめるものであってほしかった。たぶんそういうことなんだと思う。

 

私が大学院まで進学したのも、学業が自分にとって勝ちやすいフィールドだったから、なのだと思う。別に大して勉強したわけでもないし、それほど苦痛でもなかった。なのに結果は人の何倍も出る。私にとってはこれが普通だったが、それが一般的に見て特殊であることは理解していた。だからこそ、私のアイデンティティは学業の中に投影していた。

 

昔、一番になれないことを嘆くようなツイートをしたら、中学の同級生から「何でも一番がいいと思うなよ!」とツッコミをいただいたことがある。彼は当時の私から見ると、何の取り柄もない友人だった。そもそもほとんどの人は、勉強も部活も平均ぐらい、のはずだ。

 

彼のように昔から平凡だった人は自分という人間をどのように捉えているのか、私はずっと疑問だった。平凡である事が当たり前すぎて、平凡であることに大して何の疑問も感じていないのかもしれない。あるいは、すでにこのアイデンティティの崩壊を乗り越えた上での人生をずっと昔から歩んでいるのかもしれない。

 

自分の趣味を楽しめる人、というのはある意味すでに負けの人生を悟ったことのある人なのかもしれない、と最近は思う。私が今になってもこれといった趣味を持てないのは、結局のところ、のめり込んだ先の結果を求めてしまうからだ。

 

自分にすごく向いている分野があって、それをやればすぐに成果が出て、楽しいと感じられるはず。でも、ほとんどのことはすぐに結果は出ないし、他の人たちよりも抜きん出ることさえ難しい。そういうことを考え出すと今やっていることの楽しさも薄れてしまう。

 

でも、なんというか、もう自分は何者でもないし、何者になる必要もないのかもなーと考えると、少し気が楽になる。

 

やりたいことを自由に。

 

面倒を取るか退屈を取るか

新しい物事を始める。新しい仕事を始める。新しい環境へ移る。新しい人間関係を構築する。これらは基本的に面倒であり、苦労を伴うことである。そして、人間というのは元来面倒くさいことが嫌いな生き物だ。だから、慣れ親しんだ習慣、慣れ親しんだ仕事、慣れ親しんだ人間関係の中でルーティンを送ることになる。

 

ただ、こういった生活には実は大きな欠点がある。人生がすごく退屈なものになってしまう、ということだ。

 

大人になって自分のことを理解し始めると、自分が何が好きで何が嫌いなのかがなんとなくわかるようになる。そうなると、自分の行動パターンを固定化しがちである。そして、自分に合った生活や習慣を続けていくことこそが幸せな人生だと考える。実に理にかなった考え方だと私も思う。

 

しかし、実際はそうではない、人間の気持ちや考えは絶えず変化していくからだ。例えば、私は漫才の動画を見るのが好きである。しかし、今では好きな漫才師のネタを見ても笑うことはない。一種の心地良さはあるけれど、初めて見た時のインパクトや面白みを今感じることは全くないと言ってもいい。慣れたが故に面白くなくなってきているのだ。

 

一人暮らし、というのもそうだ。実家暮らしが嫌で仕方がなかった大学生の私が初めて一人暮らしを始めた時はまさにそこが天国のように感じた。自分の好きなことを好きな時間にやることができる上、誰にも邪魔されない静かな空間がそこにはあったからだ。翻って、今はどうかというと、退屈でしかない。逆にそういった自由が自制心を妨げて、自分をより一層怠惰にしていることを心配するほどだ。

 

仕事というのもきっとそうだ。新人の頃は毎日が覚えることだらけで、大変ではあったが、正直なところ面白かった。設計や試験もそうだし、ツールを作ったりするのもそうだ。だから、そういうことが好きだと錯覚したこともあった。でも本質はそうではなく、できなかったことができるようになったのが面白かったのだ。

 

つくづく、人間とは飽きる生き物だと思う。

 

ただし、こういった生活を打破するのは結構少し難しい。というのも、慣れ親しんだ物事というのは退屈ではあるが、非常に楽だからだ。楽な人生を選ぶ人たちを今まで何度も見てきたし、楽であることを推奨してくる人も多い。かくいう私も若い頃に比べると、はるかに楽であることの重要性を感じるようにはなってきていると思う。

 

しかし、やはり限度というものはある。変化を嫌うのが人間であっても、退屈も同じくらい、もしくはそれ以上に嫌いなのが人間なのだ。私の友人にも仕事が嫌で仕方なく退職したのに、退職したら暇になったから復帰した、という人もいる。「自由からの逃走」で述べられているように、人は退屈に絶えられなくなると自由を放棄することさえあるのだ。

 

私はこの、「退屈」という感情はセンサーとしてすごく重要だと考えている。というのも、私が今までの人生で自分の環境を変える原動力になっていた大元の感情が退屈だからである。現実逃避っぽくて、あまり、聞こえのいい話ではないかもしれない。確かに、夢や希望を追いかけて一歩を踏み出す方がはるかにかっこいいだろう。しかし、どういう理屈で行動を変えたかよりも、実際に行動を変えたかどうかの方が人生に影響を与えることは多い。

 

一般的な話として、これからはますます、変化を強いられる時代になっていく。これまでの人生は学生として勉強した後、社会人になり終身雇用で一つの会社に尽くし、引退後の余暇を楽しみ人生を終える、というのが標準的なスタイルだった。

 

しかしながら、高齢化社会が進み、我々ぐらいの世代は平均寿命が100歳に差し掛かるとも言われている。当然日本を取り巻く年金不払のリスクはある(というかもらえない可能性が圧倒的に高い)ため、何歳まで労働生活を強いられるかもわからない。つまり、労働人としての人生が長くなることを意味する。

 

それに加え、近年はテクノロジーの変化がこれまでにないほど著しい。特に、AI、人工知能の出現は、これまでの雇用のあり方をがらっと変えるだろう。将来的に49%の仕事が人工知能に代替されるとも言われている。割合以上に危機意識を持つべきなのは、これまで高い専門性を発揮することで成立していた仕事(医者や弁護士など)が代替されうる、ということだ。

 

エンジニアも同じである。ただコーディングが得意です、なんてプログラマーはすぐに淘汰されるだろう。これまでのプログラムの歴史を考えてみてもわかる。扱いにくいアセンブラ言語はC言語にとって変わられ、よりわかりやすいスクリプト言語Java言語などに置き換えられた。さらに、いくつものフレームワークやライブラリが登場したことで高い専門性がある部分はラッピング、簡略化されていく流れが続いている。

 

インフラ系についても同様だ。クラウドコンピューティングの登場で、サーバを構築するスキルも、ネットワークを構築するスキルもかなり簡略化されてきている。要するに、専門性は必要だが、ある程度パターン化されているスキルや知識というのはどんどん簡略化されていくのが世の流れであったし、人工知能はそれらを完全に奪ってしまう可能性があるということだ。

 

よって、時間をかけて何らかの専門家になれば、人生安泰という時代は終わったと考えた方がいいだろう。昔であれば、学生時代に頑張っていい大学に入って、いい会社に入れば、その後は会社の中で学ぶだけで十分だった。しかし、今は大人になってからも新しいことを学び、新しい知識やスキルを身に付けなければならない、ということだ。今の会社でやっている仕事が将来的に必要とされる可能性も低いし、そもそも会社が残り続けるかさえわからない。

 

以上を考慮するのであれば、面倒を取ることを厭わないことが大切であることが論理的にはわかるだろう。しかし、冒頭で述べたように面倒事をなるべく避けたいのが人間だ。だからこそ、退屈と天秤にかけるべきである。これまでの時代は退屈を無難で手軽なコンテンツで暇つぶしをすれば、将来は保証されていた。しかし、今は違う。退屈に絶えられないと感じたら即刻で動くべきだ。

 

面倒を取るか退屈を取るか。私は常に自問している。